メインカテゴリーを選択しなおす
徳川幕府歴代15人の将軍には、正室の他にもそれなりの人数の側室がいました。 その歴代分の全部を合算すると一体何人になるのかは知りませんが、その中に たった一人だけ、極めて異例で「例外」的な扱いを受けた女性がいます。 二代将軍・秀忠(1579-1632年)の正室・お江サン(1...
こんな謎がある。~江戸幕府第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)が身に着けて いたのお守りには、なぜ「二世将軍」と書かれていたのか~三代将軍・家光がなぜ「二世将軍」との思いを持っているかについては色々な見解もあるようだが、その中には家光は二代・秀忠の子ではな
<駿府城>の”城門”を巡る-家康が大御所として居住後”天下普請”で更なる大改修を行い東御門を建造
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単…
では、薬王寺の境内を散策してみましょう。鐘楼祈珠之塚と叶水(かのうすい)さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)さしのべさん(本名毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさ...鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂
鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔
「おせんげんさん」の名で親しまれている静岡浅間神社は、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の3社と4つの境内社の総称で、賎機山(しずはたやま)の麓に鎮座しています。古来より時の権力者からの保護を受けてきましたが、竹千代(徳川家康)は幼少の頃今川氏の人質として、ここから約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬したそうです。竹千代は、14歳の時、今川義元が烏帽子親となって、...
今回は【駿河国】にある 駿府城 の紹介であります。 場所は静岡市葵区あり、近隣にはこの駿府城を築城した徳川家康自身が葬むられた久能山東照宮もあります。 またこの地に最初に館を建てたと伝わるのは