~沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船~舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を修理して、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した、とされる紀伊国屋文左衛門の様子はこう唄われた。なんでまたそんな「命懸けの
日本史について思いつきの探検を繰り返しています。 姫隊長・史乃/古参隊員・歴三
探検結果のご報告もお楽しみに! 研修隊員
あまり有名な出来事ではないかもしれないが、つまりヒメ隊員は御存知ないと思うのだが、1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が、幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っているものも少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、 中世と近世では意味合いが異なる~とされている。ちょっとば
屈強な「三河武士団」を率いた徳川家康(1543-1616年)とその同盟者である尾張・織田信長(1534-1582年)との「連合軍」。そこへ真正面の戦いを挑んだのが甲斐・武田信玄(1521-1573年)であり、その両軍の激突を「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)と呼んでいる
たとえば、病死・自然死・事故死・戦死・その他諸々あるが、その死因が何であったにせよ、主君が亡くなった場合に家臣・従者や近親者などがその死を悼んで「追い腹を切る」、いわゆる「殉死」なんてことは「戦国時代」にはなかったようだ。この時代に戦さ以外の理由で死んで
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~沖の暗いのに白帆が見ゆる、あれは紀ノ国ミカン船~舅の高松河内から大金を借りてミカンを買い集め、家に残ったぼろい大船を修理して、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋に船出した、とされる紀伊国屋文左衛門の様子はこう唄われた。なんでまたそんな「命懸けの
~一人の人間の生命は全地球よりも重い~現代日本人はこの理念を常識として刷り込まれている。しかし、昔の日本にはそうでもなかったと感じさせる言葉もあった。~武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり~がそれだ。佐賀藩士・山本常朝(1659-1719年)の口述を同藩士が筆録した『
Wikipediaにはこんな説明がある。~七福神(しちふくじん)とは、インド伝来の仁王経の中にある 「七難即滅 七福即生」という仏教語に由来する、福徳の神として日本で 信仰される七柱の神である~ということは、「ナントカ ノ ミコト」と名乗るような純粋系の「日本の神様
昨今の風潮には「美人」という言葉が出ただけで、「そんなのセクハラだ!」と指弾されそうな雰囲気もある。が、ここで言う「美人」とは、いわゆる「平安美人」を指しているのだが、さて、こうした「美人」の方々が、果たして現代の感覚でも「美人」の範疇に入るものなのかど
徳川家康は晩年に誕生した三人の男子に将軍家に次ぐ地位を与えた。それが、九男・義直(尾張藩)、十男・頼宣(紀州藩)、十一男・頼房(水戸藩)で、いわゆる「御三家」だ。万が一、将軍家に後継となるべき人材がないという事態に陥った場合の備えとして、その際には、この
たまたま「能楽」の話に接する機会があって、その謎めいた雰囲気がなんとも面白く感じたので、ヒメ隊員への迷惑は度外視することにして、さっそく「受け売り」してみよう。「能楽」には、下記のようないくつかの特徴がある。1・基本的に「怨霊劇」である2・能面は怨霊憑依
「戦乱の世」から「太平の世」へと大きくカジを切り始めた江戸幕府に不満を持つ旗本は少なくなかったようだ。旗本には、神君・家康とともに戦ってこの天下を作った、という自負心があったからだろう。太平を良しとする世の中は、この武勇を遠ざけることにもつながり、そうし
天下を取った秀吉に一番欠けていたもの、それは「資格」平たく言えば「箔」だった。 つい最近まで下層出身者の「出世物語」を売りにしてきたのだから、それが無いのも無理はない。この時代、強いというだけではダメで、やはりそれにふさわしい「資格」を備えていなければ、
平泉・中尊寺に遺された奥州藤原氏三代、清衡・基衡・秀衡のミイラ(他に四代目にあたる泰衡の首級も)については、あまり詳しいことは分かっていないようだ。その中でも三代・秀衡のケースを見てみると、実は大変に忙しい最中だったにも関わらず、彼もきちんとミイラになっ
こんな謎がある。~江戸幕府第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)が身に着けて いたのお守りには、なぜ「二世将軍」と書かれていたのか~三代将軍・家光がなぜ「二世将軍」との思いを持っているかについては色々な見解もあるようだが、その中には家光は二代・秀忠の子ではな
「天孫降臨」の神話は、持統女帝(祖母)から文武天皇(孫)への皇位継承の経緯をモデルにしているという指摘もある。史実にヒントを得てお話(フィクション)を創作している、と言っているわけだ。もしこれが本当だとしたなら、この他にも同様のスタイルで「お話」を作った
七つの海を跨く大帝国を構想し、世界に植民地を拡大し続けていたのが19世紀のイギリスだ。アジアにおいても、清国(中国)に「アヘン戦争」(1840-1842年)を仕掛けたことも、まさにその行動の一つだった。そもそもこの戦争は、清国に対するイギリス側の「輸入超過」の分を自
あまり有名な出来事ではないかもしれないが、つまりヒメ隊員は御存知ないと思うのだが、1864年のこと、備中国(現:岡山県)井原領主・池田長発(ながおき/当時28歳/1837-1879年)をリーダーとした34名からなる「遣欧使節団」が、幕末の日本を離れ、遠くフランスへ渡航した
同じ言葉でありながら、時代によってはその意味するところが違っているものも少なくない。たとえば「御家人」という言葉もその一つで、~武家の棟梁(将軍)の家人(家臣・郎党・従者)の身分を指す語であるが、 中世と近世では意味合いが異なる~とされている。ちょっとば
屈強な「三河武士団」を率いた徳川家康(1543-1616年)とその同盟者である尾張・織田信長(1534-1582年)との「連合軍」。そこへ真正面の戦いを挑んだのが甲斐・武田信玄(1521-1573年)であり、その両軍の激突を「三方ヶ原の戦い」(1573年/現:静岡県浜松市)と呼んでいる
たとえば、病死・自然死・事故死・戦死・その他諸々あるが、その死因が何であったにせよ、主君が亡くなった場合に家臣・従者や近親者などがその死を悼んで「追い腹を切る」、いわゆる「殉死」なんてことは「戦国時代」にはなかったようだ。この時代に戦さ以外の理由で死んで
歴代の天皇は各天皇がそれぞれ別の「陵」に葬られた。こうだとばかり思い込んでいる人も少なくないようだが、実は複数の天皇が一つの陵に「合葬」された例もある。と言えば、まあかなりの確率でヒメ隊員からこんな質問が出そうだ。 「では、どなたが?」で、先回りしてそこ
江戸後期のこと、不老不死の神人・仙人が住む海上の異界や山中の異境の実在を信じる、いわゆる「神仙思想」に大きな関心を向けた人物がいた。とある少年の特異な体験談(1820年頃)が世間の注目を集めると、すかさずその人物はすかさず行動を起こした。その人物とは、当時45
現在では、工場作業や現場作業はたまたバイクに乗るときなどは、多くの場合、頭を守るヘルメットの着用が義務付けられている。「頭部」は人体で最も大切で、しかも脆弱な部分でもあるからだ。しかし、丈夫さを優先させるあまりそれがデカすぎたり重すぎたりしたのでは動作な
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少しマニアックなクイズになるが、ヒメ隊長は以下の有名人?四人の共通点を述べることができるかな? 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年)〇後醍醐天皇側近・日野資朝(
戦国時代(室町時代末期)は、文字通り全国各地で活発に“戦さ”が展開された時代だ。しかし“戦さ”である限りは、少なからずそこで命を落とす者が出ることは避けられない。時代劇などでは、華々しい合戦場面やその直後の戦死した兵士・馬の姿を映すことはあっても、そのさ
「橘氏」出身で唯一皇后に立てられ女性。それが第52代・嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子(かちこ/786-850年/享年65)だ。仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院・檀林寺を創建した事績から、「檀林皇后」と諡号された。世に類なき美貌を備えた女性だったとされているが、千年
~とんでもないことを思いつき、また、後先を考えないでそれを実行する~ 時としてそんなこともしてしまうのが人間というものかもしれん。これはなにも庶民に限らず、殿上人とか天下人とか呼ばれる身分の高い人物でも同様に言える気がする。そう思ったのは、実は第96代・後
日本列島をいくつかの地方に分ける基準は、古来あれこれあるようだが、その代表的なひとつとして以下の「八つ」に分類する方法が挙げられる。北から順に並べると、北海道/東北/関東/中部/近畿/中国/四国/九州、この「八つ」の地方ということだ。その名称も大体におい
1890年(明治23年)に浅草公園に建築された、当時日本一の高さ(高さ52M/12階建て/10階まで煉瓦造、それ以上は木造)を誇る八角形の建物は、「雲を凌ぐほど高い」という形容から、「凌雲閣」(りょううんかく)と命名された。 中ほどの各階には物品販売店が並び、上階は展
古事記では木花之佐久夜毘売、日本書紀では木花開耶姫、一般的には「木花咲耶姫」と表記する「コノハナノサクヤヒメ(ビメ)」という名が神話に登場している。咲く花をイメージさせるまことに美しい名だが、この女性は、いわゆる天孫降臨を果たしたニニギノミコト(天照大神
織田信長(1534-1582年)についての一代記「信長記」の主だったものは二つある。〇太田牛一(1527-1613年)の手によるものと、もうひとつ、〇小瀬甫庵(1564-1640年)が著したものだ。両者を区別するために、一般的には牛一版を「信長公記」(1600年頃?)、甫庵版を単に「信
~嵐で江戸への航路が閉ざされていた年、紀州のミカンを家に残った ボロい大船にドッチャリ積み込んで、猛烈な嵐の中を江戸へ運んだ~この命懸けの行動が史実か伝説なのかについては、幾分あいまいなところがあるが、ともかくこれが紀伊國屋文左衛門(1669?-1734年)にまつ
江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849年)には、ユニークな逸話が数多く残されている。 たとえばだが、〇改号すること30回?(異見もあり/「北斎」はその内の一つ)。〇生涯に93回?の「引っ越し」を繰り返した。〇どの住まいも掃除をすることなく「ゴミ屋敷」化が
さて「旗本八万騎」という言葉は、一般的にはこのように説明されている。~徳川将軍家の旗本の数を称したもの。 旗本は、実際には五千を少し 上回る程度でであったが、御家人と陪臣を含めれば、約八万騎であった~ (三省堂・大辞林)この程度の説明なら、まあ大概の人に
その藩の籍から離れ主従関係を解消する「脱藩」・・・こうした経験を持つ人物は、幕末に限っただけでもすぐさま何人かの名を挙げることができそうだ。たとえばダ、長州藩士・吉田松陰(1830-1859年)は我が目で東北の状況を確かめるべく旅行を計画したものの、藩の許可発行が
現在の地理では、「東西南北」でその位置を示すことが一般的だ。例えば、本州の「北」端部には青森県があり、山口県なら同じく「西」端部に位置するといった具合だ。これが昔の場合には、「遠・近/上・下/前・中・後」などの表現を用いた。遠い湖(浜名湖)がある国を「遠
それなりの歴史知識を持った人でないと解けそうもない少し意地悪なクイズになるが、姫隊員は答えられるかな?~以下の四人の有名人?の共通点はなに?~ 〇第84代・順徳天皇(1197-1242年) 〇日蓮宗宗祖・日蓮(1222-1282年) 〇後醍醐天皇側近・日野資
東洲斎写楽(生没年不詳)と名乗る謎の?絵師が突如出現(1794年)したのも、また伊能忠敬(1745-1818年)が初めて蝦夷地の測量(1800年)をしたのも、元号では「寛政年間」(元年~13年)、つまり、西暦でいえば1789年から1801年にまたがる期間の出来事だ。そして、実はその
随昔々の映画の中にこんなセリフがあったことを思い出した。 正義の人VS悪漢の対決が見せ場という、お約束通りに展開する西部劇の中で、正義の人が悪漢に向かってこんな言葉を吐いた。~世の中には二種類の人間がいる。 (建物に)ドアから入るヤツと(お前のように)窓
~勢力・権力のある者には逆らわないほうが身のためであるゾ~こうした助言・忠告うぃ意味した格言が~長い物には巻かれよ~なかなかに説得力のある言葉で、長い歴史の中には、この言葉を彷彿させる恰好の出来事を見つけることもできる。戦国乱世でその例を取り上げるなら、
幕末に活躍した人物については、その評価が分かれることも珍しくない。その行動を肯定的に捉えれば、間違いなく一種の「先駆者/功労者」の評価になるものの、一面ではちょっとばかり首を傾げたくもなる行動もある場合などがそうだ。たとえば、幕末尊王攘夷の志士として一般
平安京を開いたことでも有名な第50代・桓武天皇(737-806年)の同母弟に、一回りほど齢の違う早良親王(さわら/750-785年)という方がいた。共に父は、第49代・光仁天皇(709-782年)だ。天皇家は特別の存在だと思っている人でも、長幼の順の扱いは庶民階級とそんなに違わな
現在では「日本」と言っているこの国を、アマテラスの代々子孫が治めることの正当性は、神話の「天壌無窮の神勅」にあるとされている。その「天壌無窮」とは、日常生活ではあまり使わない言葉だが、平たく言えば「天地を永遠に」ほどの意味になり、これに続く「神勅」は「神