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拙僧つらつら鑑みるに、曹洞宗に於ける「出家性」と「比丘性」について、どのように担保されているのかが気になった。無論、1つのことで決まるわけではない。例えば、現代の曹洞宗侶の多くは、結婚をし、子供もいる。このような状態で「出家性」や「比丘性」を論じることに意味があるのか?と問う声もあるだろう。だが、転じて、在家者で孤独に生き、性的な欲求が無い人がいたとして、この人を出家者や比丘と呼ぶことも出来ない。このようなことは幾らでも挙げることは可能だが、つまり、現段階で、我々は自らの「出家性」や「比丘性」がどのように担保されているか、分かっていないのではないか?と思えるのである。いや、これは、現代に限った問題ではない。この辺が明確にクリアになっているのは、いわゆる「声聞戒」の受戒及びその実践が生きている地域(僧伽)の...曹洞宗に於ける出家性と比丘性について
拙僧つらつら鑑みるに、日本仏教に於ける「出家性」と「比丘性」について、どのように担保されているのかが気になった。無論、1つのことで決まるわけではない。あくまでも、複数のことを検討していく中で、個人的に納得したいということがある。そこで、問題意識の一つとして、現段階で、自分自身の「出家性」や「比丘性」がどのように担保されているか、分かっていないのではないか?と思えるのである。いや、これは、現代に限った問題ではない。この辺が明確にクリアになっているのは、いわゆる「声聞戒」の受戒及びその実践が生きている地域(僧伽)のみであって、日本のように、伝統的に「僧伽」が機能しなかった地域では、常にこの問題を問わねばならなかったはずである。それで、まず問題点の方を先に挙げておきたい。現状、曹洞宗侶が受ける戒(出家得度式・伝...日本仏教における出家性と比丘性について