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今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。復た次に、人有りて言く、「一切の物、一切の種、内外の物、尽く以て布施して、果報を求めず。是の如き布施を、檀波羅蜜と名づく」。これは、前回の記事の続きであり、菩薩にとっての布施、つまりは檀波羅蜜の意義を説いたものである。理解のカギは、「一切の」という言葉と、「尽く」ということと、「果報を求めず」という三点である。まず、...『大智度論』と「彼岸」について(6)
今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。問うて曰く、「阿羅漢・辟支仏、亦た能く彼岸に到る。何を以てか波羅蜜と名づけざる」。答えて曰く、「阿羅漢・辟支仏、彼岸に渡ると、仏の彼岸に渡るとは、名同じくして、実は異なれり。彼は生死を以て此岸と為し、涅槃を彼岸と為す。而も檀の彼岸に渡ること能わず。所以は、何ぞ。一切の物、一切の時、一切の種を以て布施すること能わず。設...『大智度論』と「彼岸」について(5)
今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。仏、『毒蛇喩経』の中に説くに、「人あり、罪を王に得る。王は、一の篋を掌護せしむ。篋の中に四の毒蛇あり。王、罪人に勅して、看視し養育せしむ。此の人思惟するに、『四の蛇、近づき難し。近づけば則ち人を害す。一つすら猶お養い叵し。而も況んや四に於いてをや』。便ち篋を棄てて走る。王、五人をして拔刀して之を追わしむ。復た一人有り...『大智度論』と「彼岸」について(4)
今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。復た次に、事を成弁するに於いて、亦た彼岸に到ると名づく(天竺の俗法、凡そ事を造りて成弁するを、皆な彼岸に到ると言う)。このように、「彼岸」の意味については、「完成」の意味で用いていることが分かる。つまり、布施の完成が、彼岸に到ることなのである。では、どのようにすれば、彼岸へ到るのだろうか。復た次に、此の岸を慳貪と名づ...『大智度論』と「彼岸」について(3)
今は今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、全て、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。問うて曰く、「云何が彼岸に到らずと名づくるや」。答えて曰く、「譬えば河を渡るに未だ到らずに、而も還るを名づけて、彼岸に到らずと為すが如し」。さて、昨日の記事は、「檀波羅蜜によって彼岸に到る」ことを提示したのだが、今日は「彼岸に到らない」ことの提示である。分かりやすくいえば、「河を渡り始めたものの、途中で帰ってきてしま...『大智度論』と「彼岸」について(2)
今日から、今年度の春の彼岸会である。「彼岸会」の起源や展開の一端については、【彼岸会―つらつら日暮らしWiki】をご覧いただければ幸いである。さて、この期間に関連して、今回は上記タイトルの通り、龍樹菩薩造『大智度論』から、「彼岸」に関する語句を学んでいきたいと思っている。なお、龍樹菩薩と「彼岸会」と言えば、『龍樹菩薩天正験記』という謎の文書が存在しており、『和漢三才図会』(1712年成立)で参照されるなどして大いに広まってしまったのだが、偽書である。今回は同書では無く、『大智度論』巻12「釈初品中檀波羅蜜法施之余」を見ていくため、いわゆる布施行と彼岸の関係について学ぶことになると思う。問うて曰く、「云何が檀波羅蜜の満と名づくや」。答えて曰く、「檀の義、上に説くが如し。波羅(秦に彼岸と言う)蜜(秦に到と言う...『大智度論』と「彼岸」について(1)
昨日から、『正法眼蔵』勉強会は、「仏教」巻に入った。そこで、最初から読んでいくと、こういった一節が見られる。このゆえに、朝に成道して夕に涅槃する諸仏、いまだ功徳かけたり、といはず。「仏教」巻この一節について、江戸時代の学僧・瞎道本光禅師が以下のように註釈している。須扇多仏、朝に成道して夕べに涅槃し、化仏の住世甚大に長りき。大智度論に証するが如し、後に当に附録すべし。『正法眼蔵却退一字参』「仏教」篇つまり、瞎道禅師は『大智度論』に見られる「須扇多仏」に因む話だと断定されたのである。典拠は、以下の通りである。亦た須扇多仏の如し、弟子本行未熟なり、便ち捨てて涅槃に入り、化仏として一劫留まりて以て衆生を度す。『大智度論』巻7つまり、須扇多仏は弟子が未熟だったため、涅槃に入った後で「化仏」という存在となって長く衆生...朝に成道して夕に涅槃する話
これは、以前にアップした【「総相戒」の話】と対をなす記事である。『大智度論』では、「尸羅波羅蜜」を「十善道(十善戒)」だと位置付けているが、その理由を考えると、「総相戒」と「旧戒」が該当するように考えられるためである。そこで、今回は「旧戒」を学んでみたい。十善道、旧戒と為し、余の律儀を客と為す。復た次に、若し仏、好世に出れば、則ち此の戒律無し。釈迦文仏の如きは、悪世に在ると雖も、十二年中、亦た此の戒無し、是を以ての故に、是れ客なるを知る。復た次に、二種戒有り。有仏の時、或いは有、或いは無なり。十善、有仏・無仏、常に有り。復た次に、戒律中の戒、復た細微なりと雖も、懺すれば則ち清浄なり。十善戒を犯せば、復た懺悔すると雖も、三悪道の罪、除かず。比丘の畜生を殺すが如きは、復た悔を得ると雖も、罪報、猶お除かず。『大...「旧戒」の話
ネットによる情報の共有が一般的になってから、仏教を学ぶ方が一定量居られることは良く分かるのだが、その動機について、どうも“自分のために”学ぶ方が多いように見えて、拙僧的には非常に残念。例えば、大乗仏教とは、明確に誓願によって宗教性を発揮するものであり、それこそ阿弥陀如来の「本願」としても、それは前身となる法蔵菩薩の「誓願」に由来する。ここで、誓願とは、菩薩が最初に菩提心を起こし、それが実現するまでは成仏しないと誓い願うことであり、菩提心を起こした菩薩は必ず何かしらの誓願を持つことになる。では、まさに自らの修行という点では、もっとも厳しいのではないか?と思われている道元禅師はどのような誓願をお持ちになられたのか?まず知られているのは『正法眼蔵随聞記』に出る以下のような言葉である。一日示云、我在宋の時、禅院に...道元禅師の誓願と未来成仏論
以前、拙ブログで紹介した箇所だけれども、栄西禅師の『興禅護国論』には、常に自戒の範とすべき一文がある。『大智度論』に云く「自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の行人と雖も、地獄の苦を脱せず」と。「世人決疑門第三」これは、『大智度論』から引用されたものであり、該当箇所は「初品第二」になる。いわば、『大般若経』の「如是」という語への註釈が示された箇所に該当している。そして、栄西禅師は偈を引用しただけだが、その前後の文脈をも引用すると以下のようになる。復た次に、一切の諸の外道の出家は、心に「我が法は微妙にして、第一清浄なり」と念えり。是の如くの人、自ら所行の法を歎じ、他人の法を毀す。是の故に現世には相打ち闘諍し、後世には地獄に堕ちて、種々無量の苦を受く。偈に説くが如し。自法愛染の故に、他人の法を呰毀す。持戒の...『大智度論』の「自法供養」批判について
『釈氏要覧』とは、中国の北宋代の道誠によって編集され、天禧3年(1019)に全3巻として成立した。初学者向けの、仏教用語事典のような位置付けであり、日本でもかなり参照されたことが知られる。その中に、「戒法」という一章があるが、当ブログではしばしば採り上げている。今回は、その名も「戒」という項目を見ておきたいと思う。戒智度論に云わく、梵語に尸羅、秦に性善と言う。○古師云わく尸羅、此に戒と云う、止過防非を以て義と為す○増輝記に云わく、戒とは警なり。三業を警策し、縁非を遠離するなり。○優婆塞戒経に云わく、戒とは制と名づく。能く一切の不善の法を制するが故に。○菩薩資糧論に云わく、尸羅とは、清涼の義なり。心の熱悩を離れるが故に。安穏の義、能く他の世楽の因と為すが故に。安静の義、能く止観を建立するが故に。寂滅の義、涅...『釈氏要覧』の「戒」という項目
本文には無いことでも、補って読むと分かる文脈もある。以下の一節などはどうか。復た次に、是の菩薩、慈悲心を生じ、阿耨多羅三藐三菩提を発し、布施し衆生を利益せんとし、其の須いる所に随いて、皆、之を給与す。持戒して衆生を悩まさず、諸苦を加えず、常に無畏を施し、十善業道を根本と為し、余は是れ衆生を悩まさざる遠因縁なり。戒律、今世に涅槃を取ると為す故に、婬欲、衆生を悩まさざると雖も、心、繋縛する故に大罪と為す。是を以ての故に、戒律中、婬欲を初と為す。白衣、不殺戒、前に在り、福徳を求むると為すが故に。菩薩、今世に涅槃を求めず、無量世中に於いて生死を往返し、諸もろの功徳を修す。『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」まず、上記の文献は、鳩摩羅什訳『大品般若経』に対する注釈であるから、大乗仏教だし、菩薩の戒律としても「十善...『大智度論』に見る出家と在家の戒の違い
以前、「持戒の上中下」について考えたのだが、その時に、取り残した問題があったので、今日はそれを採り上げてみたい。元になっている一節は以下の通りである。若し護らず、放捨すれば、是れを破戒と名づく。此の戒を破れば、三悪道中に堕つ。若し下持戒ならば人中に生じ、中持戒ならば六欲天中に生じ、上持戒又たは四禅・四空定を行ずれば、色無色界の清浄天中に生ず。上持戒に三種有り、下清浄持戒ならば阿羅漢を得、中清浄持戒ならば辟支仏を得、上清浄持戒ならば仏道を得。『大智度論』巻13「初品中尸羅波羅蜜義第二十一」それで、冒頭のリンク先の記事では、この持戒のあり方にも様々な状態があることを紹介したのだが、更なる課題としては、上記の一節に於ける「上持戒の上中下」である。そもそも、持戒のあり方に区別があるというのは、この場合、十善戒で守...「上持戒の上中下」について
以前、【『大智度論』における出家律儀の種類について】を書いたときに、まだ採り上げないままの文章があったので、この記事で見ておきたい。問うて曰く、沙弥十戒、便ち具足戒を受く。比丘尼法中、何を以てか式叉摩那有りて、然る後に具足戒を受け得るや。答えて曰く、仏の在世時、一りの長者婦有り、懐妊を覚えずして、出家して具足戒を受く。其の後、身、大いに転現し、諸もろの長者、比丘を譏嫌す。因みに此に二歳学戒有りて制し、六法を受けて、然る後に具足戒を受く。問うて曰く、若し譏嫌と為るは、式叉摩那、豈に譏に到らざるや。答えて曰く、式叉摩那、未だ具足戒を受けざるは、譬えば小児の如し、亦た給使の如し。罪穢有ると雖も、人、譏嫌せず。是れを式叉摩那、六法を受けると名づく。是の式叉摩那に二種有り。一つには、十八歳の童女、六法を受く。二つに...『大智度論』における具足戒の受け方について
以前、【「居家」という表現】という記事を書いたときに、いわゆる仏教の在家信者を示す表現として「居家」があることを示した。ところで、そうなると、例えば「居家戒」という表現があるのかどうかが気になったので、ちょっとだけ調べてみた。問うて曰く、若し居家戒ならば天上に生ずることを得て、菩薩道を得る。亦た涅槃に至ることを得るは、復た何ぞ出家戒を用いんや。答えて曰く、倶に度を得ると雖も、然し難易有り。居家、業に種種の事務生ず、若し道法に専心せんと欲すれば、家業、則ち廃すべし。若し家業に專修せんと欲すれば、道事、則ち廃る。取らず捨てず、乃ち応に法を行ずるは、是れを名づけて難と為すべし。若し出家して俗を離れれば、諸もろの紛乱を絶して、一向に專心して、行道、易きと為す。『大智度論』巻13「釈初品中讃尸羅波羅蜜義第二十三」す...「居家戒」という表現について
以前アップした【「三蔵」概念の成立について】の続きのような記事なのだが、その記事を書いた時には調べなかった一節があるので、紹介しつつ、リンク先の記事を補完しておきたい。なお、リンク先の記事では、『大智度論』を引用しつつ、「修多羅」について、『阿含経』と「大乗経典」に加えて、「二百五十戒、是の如き等を、名づけて修多羅と為す」としており、何故か、本来は「律蔵」に係る文献も含めていたことに、違和感を感じていたのである。そうしたら、その辺のことが同じ『大智度論』に書いてあったので、確認しておきたい。先説す、「尽く十方諸仏の説く所の法を聞かんと欲する者は、当に般若波羅蜜を学すべし」と。説く所の法とは、即ち此れ十二部経なり。諸経中、直に説くものは、修多羅と名づく。いわゆる四阿含、諸摩訶衍経、及び二百五十戒経なり。三蔵...『二百五十戒経』の話
とりあえず、以下の一節をご覧いただければと思う。経「罪・不罪、得べからざるが故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし」。論「尸羅〈秦に言わく、性善〉、好く善道を行じ、自ら放逸せざる、是れを尸羅と名づく。或いは戒を受け善を行じ、或いは戒を受けずして善を行ず、皆な尸羅と名づく」。『大智度論』巻13「釈初品中尸羅波羅蜜義第二十一」少なくとも、本書では「尸羅」という語を、「性善」として捉えている。よって、ひたすらに「善」にあることをもって、「尸羅」としている。そこには、「自ら放逸せざる」とはあるので、意識的に「善」であろうとする努力を要する。また、「善」とは、具体的な戒本の有無を要しないので、受戒していても、していなくても、善を行うことを「尸羅」としている。そもそも、戒本があるからこそ、罪も生ずるので、罪の有無も、善には...『大智度論』で説く「尸羅」の意味
昨日は、日本各地で月食(と天王星食)が観測できたということで、結構な盛り上がりを見せたようである。ところで、仏典の中には月食を説話として扱う事例が見られる。よって、今回は、その一例を紹介しておきたい。一時、羅睺羅阿修羅王、月を噉まんと欲す、月天子、怖じて疾く仏所に到り、偈を説いて言わく、大智成就仏世尊、我今帰命し稽首し礼す、是れ羅睺羅、我を悩乱す、願くは仏、憐愍して見て救護したまえ。仏、羅睺羅と偈を説いて言わく、月能く闇を照らし清涼なり、是れ虚空中の大灯明なり、其の色白浄にして千光有り、汝、月を噉むこと莫く疾く放ち去れ。是の時、羅睺羅怖懅し汗を流して、即ち疾く月を放つ。婆梨阿修羅王、羅睺羅の惶怖して月を放つを見て、偈を説き問うて曰わく、汝、羅睺羅何を以ての故に、惶怖戦慄して疾く月を放つや汝、身より汗を流す...仏典に於ける月食の話
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。是の如き等の種種の因縁の故に、但だ十善業道を説く。亦た自ら行い、亦た他人に教う。名づけて尸羅波羅蜜と為す。十善道、七事は是れ戒、三を守護と為すが故に、通名として尸羅波羅蜜と為す。『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」『大智度論』が、「十善道(十善戒)」をこそ、「尸羅波羅蜜」にするというのは、その通りなので、そこはまぁ良い。問題は、「十善道、七事は是れ戒、三を守護と為す」の箇所である。これをそのまま受ければ、「十善道」について、戒の部分と守護の部分とに分けて理解されていることになる。それで気になったので、他にも同様の表現をしている仏典があれば、と思ったが容易には散見されないようなので、本書独自の立場と仮定して、見ていきたい。それにしても、「十善道」を「七事の戒」と「...「十善戒」の内容の「戒と守護」について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。問うて曰わく、尸羅波羅蜜は則ち一切の戒法を総す。譬えば大海の衆流を総摂するが如し。いわゆる不飲酒、不過中食、不杖加衆生等、是の事、十善中に摂せず、何を以てか但だ十善を説くや。答えて曰わく、仏、総相して六波羅蜜を説く。十善を総相戒と為し、別相に無量戒有り。不飲酒、不過中食は不貪中に入る。杖不加衆生等は、不瞋中に入る。余道は義相に随う。戒を身業、口業と名づけ、七善道、摂する所、十善道、及び初後に発心するが如し。殺さんと欲すれば、是の時、方便を作して、悪口、鞭打、繋縛、斫刺、乃至、垂死なり。皆、初に属す。死後、皮を剥ぎ、食噉、割截、歓喜す。皆、後と名づく。命を奪う、是れ本体なり。此の三事和合して、総じて殺不善道と名づく。是を以ての故に知る、十善道、則ち一切戒を摂すると説...「総相戒」の話