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江戸時代の慈雲尊者飲光(1718~1804)は真言宗の僧侶だが、戒律復興に努め「正法律」を唱え、また梵語研究をまとめて『梵学津粱』1000巻を著している。そして、「十善戒」を分かりやすく説いた『人となる道』は、広く読まれたとされる。今日は、その一節を見ていきたい。男子なる者女人の装をなす、女人なる者男子の儀をなす、此の国に在って外夷の風にならふ、出家人にして在家の威儀にまねぶ、皆身綺に摂すべし。非類の衣服、非儀の形相、みななすまじきなり。『人となる道』「第五不綺語」「不綺語」とは、「飾り立てのない、衒いのない言葉」を使う、という戒であり、慈雲尊者は「能、此戒をまもる者、世に処して他のあなどりすくなし」(同上)とされ、また、内心が安定するので、楽しみを「外見」に求めることが少なく、例えば海に行けばその海の様...慈雲尊者の服制について
とりあえず、以下の一節をご覧いただければと思う。経「罪・不罪、得べからざるが故に、応に尸羅波羅蜜を具足すべし」。論「尸羅〈秦に言わく、性善〉、好く善道を行じ、自ら放逸せざる、是れを尸羅と名づく。或いは戒を受け善を行じ、或いは戒を受けずして善を行ず、皆な尸羅と名づく」。『大智度論』巻13「釈初品中尸羅波羅蜜義第二十一」少なくとも、本書では「尸羅」という語を、「性善」として捉えている。よって、ひたすらに「善」にあることをもって、「尸羅」としている。そこには、「自ら放逸せざる」とはあるので、意識的に「善」であろうとする努力を要する。また、「善」とは、具体的な戒本の有無を要しないので、受戒していても、していなくても、善を行うことを「尸羅」としている。そもそも、戒本があるからこそ、罪も生ずるので、罪の有無も、善には...『大智度論』で説く「尸羅」の意味
以前にアップした【「十善戒」の内容の「戒と守護」について】の記事で、「十善戒」の「意業」3条については、「貪瞋痴の三毒」に対応していることを確認したが、この件について、以下の説示も見ておきたい。経中に貪瞋痴を三根と名づけ、又三毒と名づく。又貪瞋邪見の三道と名づく。十善戒の中、後三戒、此によりて制するじや。慈雲尊者飲光『十善法語』第八「不貪欲戒」以上の通り、慈雲尊者はしっかりと、「十善戒」の「後三戒」について、貪瞋痴の三根、或いは三毒、或いは三道だとしている。よって、先の記事の通り理解して良いと言える。ところで、この「三根」であるが、以下のような説示が見られる。三根と言うは、謂わく貪瞋痴なり。染境を貪と名づけ、忿怒を瞋と曰い、闇惑を痴と名づく。『大乗義章』巻5「三根三道三毒煩悩義四門分別」経中とはあるが、調...「十善戒」と「三毒」との話
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。是の如き等の種種の因縁の故に、但だ十善業道を説く。亦た自ら行い、亦た他人に教う。名づけて尸羅波羅蜜と為す。十善道、七事は是れ戒、三を守護と為すが故に、通名として尸羅波羅蜜と為す。『大智度論』巻46「釈摩訶衍品第十八」『大智度論』が、「十善道(十善戒)」をこそ、「尸羅波羅蜜」にするというのは、その通りなので、そこはまぁ良い。問題は、「十善道、七事は是れ戒、三を守護と為す」の箇所である。これをそのまま受ければ、「十善道」について、戒の部分と守護の部分とに分けて理解されていることになる。それで気になったので、他にも同様の表現をしている仏典があれば、と思ったが容易には散見されないようなので、本書独自の立場と仮定して、見ていきたい。それにしても、「十善道」を「七事の戒」と「...「十善戒」の内容の「戒と守護」について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。問うて曰わく、尸羅波羅蜜は則ち一切の戒法を総す。譬えば大海の衆流を総摂するが如し。いわゆる不飲酒、不過中食、不杖加衆生等、是の事、十善中に摂せず、何を以てか但だ十善を説くや。答えて曰わく、仏、総相して六波羅蜜を説く。十善を総相戒と為し、別相に無量戒有り。不飲酒、不過中食は不貪中に入る。杖不加衆生等は、不瞋中に入る。余道は義相に随う。戒を身業、口業と名づけ、七善道、摂する所、十善道、及び初後に発心するが如し。殺さんと欲すれば、是の時、方便を作して、悪口、鞭打、繋縛、斫刺、乃至、垂死なり。皆、初に属す。死後、皮を剥ぎ、食噉、割截、歓喜す。皆、後と名づく。命を奪う、是れ本体なり。此の三事和合して、総じて殺不善道と名づく。是を以ての故に知る、十善道、則ち一切戒を摂すると説...「総相戒」の話