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拙僧的に、いつも疑問に思うことがあって、それが『正法眼蔵』「渓声山色」巻の以下の説示である。居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、仏印にたてまつるに無価の玉帯をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。「渓声山色」巻ここで、蘇東坡居士は、仏印禅師から「法衣・仏戒」などを授けられたという。この時授けられた「戒」とは、一体何だったのであろうか?しかあればすなはち、たとひ帝位なりとも、たとひ臣下なりとも、いそぎ袈裟を受持し、菩薩戒をうくべし。人身の慶幸、これよりもすぐれたるあるべからず。「袈裟功徳」巻12巻本『正法眼蔵』に分類される同巻に於いては、同じような文脈で、やはり「袈裟の受持」と「受菩薩戒」を説いている。気になるのは...この仏戒・菩薩戒は何だったのか?
万仭道坦禅師『禅戒本義』所収「嵩嶽元圭禅師戒文」について(1)
まず、万仭道坦禅師の『仏祖正伝禅戒本義(以下、『禅戒本義』)』は『曹洞宗全書』「禅戒」巻に翻刻収録されているが、安永3年(1774)序・跋の版本があって、拙僧の手元には明治期の貝葉書院後刷本がある。それを見ても、「嵩嶽元圭禅師」と書いてあるので仕方ないのだが、「嵩嶽元珪禅師」と表記されるのが一般的である。その表記だと、『景徳伝灯録』巻4の表記から、五祖弘忍―嵩嶽慧安―嵩嶽元珪と続く法系の人で、要するに五祖からの傍出(例えば慧能禅師や神秀禅師ではない)の法系の人、ということになるだろうか。それで、万仭禅師は『禅戒本義』に「嵩嶽元圭禅師戒文」を収録したのだが、これは先に挙げた『景徳伝灯録』を初め、『聯灯会要』巻3・『五灯会元』巻2などの「嵩嶽元珪禅師章」にも見え、見ることは全く難しくない。おそらく、中国禅宗で...万仭道坦禅師『禅戒本義』所収「嵩嶽元圭禅師戒文」について(1)
仏と菩薩、仏教に於ける宗教的価値は当然異なっていて、その名を冠する戒の「仏戒」と「菩薩戒」についても、意味合いが違うのか?と思うのは、当然であると思うが、小生が習ってきた限りでは、同じ意味なのだという。それを前提に幾つか考えてみると、例えば道元禅師には『正法眼蔵』に於いて、両語について以下のような用例がある。【仏戒】・居士、あるとき仏印禅師了元和尚と相見するに、仏印さづくるに法衣・仏戒等をもてす。「渓声山色」巻・在家の男女、なほ仏戒を受持せんは、五条・七条・九条の袈裟を著すべし。「伝衣」巻・もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。「出家」巻・正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。・いま仏仏祖祖...仏戒と菩薩戒について