メインカテゴリーを選択しなおす
こんな話が伝わっている。宝治元年、寛元五年〈丁未〉正月十五日之布薩の時、開山和尚説戒し給ゑば、五色の雲、方丈の正面の障子に立ち移りて、半時斗あり。聴聞の道俗あまた之を見奉る。其中に河南庄の中の卿より参詣す人達、此の子細を起証文を以て申し上げる。其の文に云く、志比庄方丈不思議の日記の事。寛元五年〈丁未〉正月十五日、説戒。然る日、未の始自り、申の半分に至って、正面障子に五色の光有り。聴聞の貴賤、之を拝す。其の中、吉田河南庄中の郷自り、参詣を企み、之を見奉るの輩、廿余人、但だ説戒の日、多く相当すと雖も、斯の日参詣の條、然らしむ故なり。此の條、虚言ならば、永く三途に堕在せしむ、仍って自今以後、伝聞随喜として記し置くの状、件の如し。二代和尚、御自筆を以て書して云く、当山の開闢堂頭大和尚、方丈に就いて布薩説戒の時、五...或る年の1月15日永平寺で何が?
ここ数回『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、本書は冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。その中でも、大科の第四を紹介してみたい。大科第四焼香焼香竟て唱て云ふべし、願くは我身浄じて香炉の如く、願くは我心智慧の火の如く、念念に戒定香を焚焼して、十方三世の仏を供養したてまつる。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方そもそも、本式は広略両本があったとされる『浄土布薩式』の略本であるから、本文としては短い。だが、それでも、次の科からは、口訣や願文等が入ってくるため、かなり長くなってくる。上記の「焼香」の項目だが、香炉に香を焚く意義について、偈頌で述べられている。そして、調べたのだが、この偈頌には典拠があった。善導和尚の『法事讃』巻上である。これは、流石に適した典拠があったの...『浄土布薩式』「大科第四焼香」(『浄土布薩式』参究5)
この連載では、『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。今回は、全十六章でなっている「布薩式」の「大科第三」を見ていきたい。大科第三灑水灑水し已て偈を説いて唱えて云ふべし、今法水を浴して諸根を浄む、八功徳水当に知るべし是なり、実相一味清浄の水、皆一切煩悩の垢を除く。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方今度は灑水(洒水)である。灑水は他の宗派の布薩作法でも、行われることが多い。ただし、順番は別の場面でのこともある。なお、ここの「灑水」の意義は、偈を見れば分かる通り、諸根(我々の感覚器官)を浄め、一切の煩悩の垢を除くことを意味している。その意味では、清浄にすることである。なお、この「灑水偈」だが、典拠は不明である。概念として類似した文...『浄土布薩式』「大科第三灑水」(『浄土布薩式』参究4)
『浄土布薩式』「大科第二 諸衆生可住和合念」(『浄土布薩式』参究3)
毎月の連載として『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。今回は、全十六章でなっている「布薩式」の「大科第二」を見ていきたい。大科第二諸もろの衆生、和合の念に住すべし、唱えて云うべし、諸衆同じく和合海に入り、同一法性にして分別無し、若し和合実相海に入れば、同く頓教一乗の味を嘗む。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方これが、「大科第二」であるので、2つ目の項目となる。そこで、タイトルにもしてみたが、「諸もろの衆生、和合の念に住すべし」とあるので、布薩に随喜した四衆に対し、「和合衆」になることを促したといえる。しかし、今回は「布薩」であるが、何故そこに「和合衆」であることが求められているのか。すると律蔵を見てみると、以下の一節を見出し...『浄土布薩式』「大科第二諸衆生可住和合念」(『浄土布薩式』参究3)
『浄土布薩式』「大科第一 鳴鐘集衆」(『浄土布薩式』参究2)
それでは、前回から『浄土布薩式』の本文を学んでいるが、冒頭で布薩の日程を出した後で、いきなり実際の作法に入っていく。大科第一鳴鐘集衆即衆に冥有り顕有り、其の冥衆とは、天衆地類及び八部等の雑類、是れなり。其の顕衆とは、在家の二衆・出家の五衆、合して七種の類、是れなり。諸衆同声に唱て云うべし、戒力は金剛の如く、一切の魔を降伏す、諸魔受戒を見ては、怖畏して皆な退散す。『続浄土宗全書』巻15・74頁、訓読は原典に従いつつ当方さて、上記の内容だが、「鳴鐘集衆」とあるため、鐘を鳴らして布薩に随喜する大衆を集めることを意味している。そして、この場合の大衆として、冥衆・顕衆としているが、冥衆とは目に見えない衆生であるので、天衆地類や八部衆〈龍族〉などを挙げている。一方で、顕衆は目に見える衆生であるが、僧俗七衆を挙げている...『浄土布薩式』「大科第一鳴鐘集衆」(『浄土布薩式』参究2)