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あくまでも、当時の一側面を見るに過ぎないのだが、ちょっと気になったので、採り上げてみたい。問ふ戒法と申しますと種々なる戒めの事でせうが、その様な面倒な戒めは私共には守れないと思ひます。それでも御授戒を受けるのが好いでせうか。答ふ戒法を守るとか守らぬとか謂ふは、末の問題で、授戒の根本を会得するが第一です。忽滑谷快天先生『正信問答』光融館・大正15年、160頁まずはこちらからである。駒澤大学で学長を務められた忽滑谷快天先生(1867~1934)による御著書である。著作名に「正信」という字句が入っているけれども、いわゆる「正信論争」よりも前の話である。それで、この問答は想定問答だったのかもしれない。しかし、おそらくは当時の人達の意見や言葉を受けて説かれたものだと思う。何をいいたいかというと、本来、宗門の御授戒と...大正期に於ける戒法の説き方
まだ、試論的・雑考的な記事でしかない。今後、先行研究を含めて何らかの形で経緯が分かれば、それを明らかにしておきたい。ここでいう「授戒会」というのは、在家の仏教信者を相手に複数人から大多数に対して、同時に戒を授けるような法会を想定している。そう考えると、単純に在家信者を相手に「授戒」したというような記事だけではよく分からないことを意味している。それで、中国の様々な故事を見てみると、各宗派の僧侶が王宮に呼ばれて、皇帝(王)や皇后、或いは大臣などに授戒する場合はあったようだが、庶民も含めて広く授戒した場面というのは、中々見られなかった。宋景造暦、求めて短を捨つ。大儒、徐遵明・李宝頂等、一対して言前に信べて、菩薩戒法を以て授く。五衆、これに帰すること市の如し。『続高僧伝』巻8「釈僧範」項「五衆」というのが、具体的...「授戒会」はいつ頃始まったのか?
現行の授戒会では、「登壇」という語について、「正授道場」に於いて正授戒が終わった後に、戒師が坐す蓮華台に、戒師と入れ替わりで戒弟が登り、その周囲を三師が巡って「衆生受仏戒」偈を唱える儀式とされている。たいがい、蓮華台は寺院須弥壇とされる場合が多いから、要は戒弟が須弥壇に登ることを「登壇」と呼んでいることになる。ところで、以下のような指摘がある。次に正授戒〈和尚三問、受者三答〉、受け訖りて受者、礼三拝して具上に立つ。次に和尚、起ちて卓前に到り、北に向かいて問訊焼香す。此の時、教授、受者の処に到り、示して曰く、「須く趺坐すべし」と。此の時、受者南面して具上に趺坐し、合掌黙然す。次に和尚、唱えて云く、「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る。位、大覚に同じうし已る、真に是れ諸仏の子なり」と。曲身問訊して受者を遶...登らない「登壇」について
拙僧の手元に、江戸時代末期に書写された、室内作法書がある。その中で、『在家血脈授与式』と題された一節があるのだが、同作法は【逆水洞流禅師『在家血脈授与式』について】で既に紹介したことがある。そこで、拙僧の手元の作法書写本から、戒本について考えてみたい。在家血脈授与式堂頭、先づ本尊前に焼香三拝して、登坐す。侍者等、手磬に随て、受者と同く三拝して著坐。堂頭、先づ洒水して、道場を浄む。垂誡して、受者をして心開意解せしむ。次に焼香合掌して、黙請して云く、南無仏陀耶、南無達磨耶、南無僧伽耶、南無祖師菩薩〈三返〉次に尺を鳴すこと二下、善男子・善女人、夫れ帰戒を求んと欲せば、先づ当に懺悔すべし、二儀両懺有りと雖も、先仏の成就したまふ所の懺悔の文有り、罪障尽く消滅す、我が語に随て之を唱ふべし、我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋...『在家血脈授与式』の戒本について
江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?(2)
【江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?】の続きの記事である。問題意識などは、リンク先を見ていただければ良いのだが、要するに江戸幕府は一つの寺院に男女が一緒にいることを問題視したけれども、授戒会などは四衆といって、男女が一緒に修行するものだったから、そういう場合にはどうしていたのか?という話だったわけである。前回は、或る作法書の一節を紹介したけれども、今回は拙僧自身が持っていた作法書写本に、或る記述を見付けたので紹介しておきたい。黄昏に至て戒弟之婦人と尼僧は下宿に下山致さすべし。此時下宿にても開静迄は加行致すべしと申渡すべし。『直壇寮指南記戒会用心』、カナをかなにするなど読み易くしているこのように、黄昏(夕方)になると、戒弟の内、在家の女性と尼僧さんは、下宿に下ろしたと書かれているのである...江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?(2)
現在の長野県のお話し。とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。(※元禄)同八年乙亥師十四歳の冬、坂木(※原文ママ)大英寺戒梵孝和尚の結制、師、受業師の命を受て、往て会にあづかる、彼師は始行脚の時に宇治俵(※原文ママ、一般的には「田原」)禅定寺に往て月舟和尚に参随す、帰て住職の後も平日行業純一にして、諸人のために帰仰せらる、此故に遠近多く菩薩戒の弟子あり、ほとんど信州菩薩戒の中興とも謂べきなり、『宝寿大梅老和尚年譜』、『曹洞宗全書』「史伝(下)」巻こちらの年譜は、大梅法撰禅師(1682~1757)のもので、この方の法系としては了庵派となり、その語録や年譜が残っていることで知られる。また、各種仮名法語集に収録される『大梅和尚法語』はこの人のものだとされている。それで、『宝寿大梅老和尚年譜』自体、非常に多くの...信州菩薩戒中興の祖について
江戸時代に幕府から出されていた法度の関係で、男性住職の寺院に女性が、女性住職の寺院に男性が宿泊することは出来なかった。以下の通りである。一他人は勿論、親類の好これ有ると雖も、寺院坊舎に女人これを抱置すべからず、但し有来妻帯は各別なるべき事。『諸宗寺院法度』「条」段、分かりやすく訓読したこの『諸宗寺院法度』は寛文5年7月11日に徳川家綱による署名でもって「定」が、また老中の連署によって「条」が定められている。今回取り上げたのは後半部分に当たるものだが、上記の通り、寺院においては(どうしても男性住職が多いので)女性を置いてはならず、それは親戚などにも規制が及んでいた。さて、そうなると気になるのは、授戒会の加行で約7日間寺院に滞在するのだが、その場合、女性はどうしていたのだろうか?その辺が気になったので、ちょっ...江戸時代の授戒会で随喜していた女性はどうしていたのか?
拙僧つらつら鑑みるに、「受戒」の意義について、単純な入信の儀式とでも捉えられる状況があると思われ、それはややもすると受戒本来が持つ意義を局限している恐れがあると思われたので、以下にちょっとした記事を書いておきたい。今即ち、是の如く勧誘するは、古今一揆なり。故に仏言く、「是れ諸仏の本原、行者菩薩道の根本なり。是れ、大衆・諸仏子の根本なり」〈已上、梵網〉。又、言く、「仏家に住在するは、戒を以て本と為す。〈中略〉初めて発心・出家して、菩薩位を紹がんと欲する者は、当に先ず正法戒を受けるべし。戒は是、一切行の功徳蔵の根本なり。正に、仏道の果に向かって、一切行の本なり」〈已上、瓔珞〉。是の故に、一切の仏子、先ず戒に依りて入る。戒に依りて住す。戒に依りて成弁す。『禅苑清規』曰く、「参禅問道は、必ず受戒を先とす。三世諸仏...指月慧印禅師『禅戒篇』「勧戒」を学ぶ
今日は5回目である。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」を参究する連載記事である。昨日は、熊本県人吉市周辺では、未だ授戒会が行われていなかったと、面山禅師が認識していたことを示したが、今日はどのような内容であろうか。又、血脈を授くるとは、釈書栄西章に謂く、迦文従りの譜図を受く。五十三世、系連明覈なり。是れ今の血脈なり。古を按ずるに、六祖壇経に謂く、五祖、堂前に血脈図を画く。亦、日本叡山伝教大師、血脈譜一巻を作し、中に謂く、達磨大師相承血脈一首、是れ伝教は、法を馬祖法嗣の王姥山倐然に受くるの由来なり。我が相承する所は、天童浄祖、永平祖に授くる所の図なり。法灯国師の年譜に、いわゆる天童浄和尚従り相伝の血脈とは是れなり。今、仏祖正伝大戒血脈と題するものなり、知るべし。是の故に此の血脈、龍に授け...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(5)
今日は3回目である。江戸時代の学僧・面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」を参究する連載記事である。昨日は、戒を受けない場合には仏道修行が継続できないことを示された。それでは、今日はどのような教えになっているだろうか。是の故に縦い是の男女、此の戒を受けざれば、彼と異ならず。者回の真俗の男女、二百三十五人、等しく仏位に入るは、無上の大功徳なり。豈に並ぶもの有りや。是を以てか、讃戒の偈に言わく、戒を妙法の蔵と為し、亦た出世の財と為す。戒を大なる舟船と為し、能く生死の海を渡る。戒を清涼の地と為し、諸熱悩を澡浴す。戒を無畏の術と為し、邪毒の害を消伏す。戒を究竟の伴と為し、能く険悪の道を過ぐ。戒を甘露の門と為し、衆聖の遊ぶ所なり。『永福面山和尚広録』巻10「肥後求麻永國寺満戒普説」既に【(1)】で述べたように、永国...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」参究(3)
江戸時代の学僧・面山瑞方禅師には、いくつかのまとめられた説戒録が残されているけれども、最晩年の説戒録として知られているのが、「肥後求麻永國寺満戒普説」である。これは、現在の熊本県人吉市内にある永国寺さまにて行われた授戒会に随喜された面山禅師の説戒録になる。同寺にて説戒を行った経緯は、『年譜』の以下の文章から知られる。明和4年(1767)師85歳十一月肥後球麻永国寺円髄力生至りて、師を来夏の結制に請う。師、諾す。明和5年(1768)師86歳二月二十三日京より発して、肥後永国寺結制の請に赴く。三月二十三日を以て到る。制中に、『金剛経纂要』及び『参同契吹唱』を開示し、且つ戒会を開く。得戒者、二百三十五人。事畢りて、五月二十八日を以て求麻を発し、六月二十五日を以て京に入り、直ちに建仁西来院に寓す。このようにあって...面山瑞方禅師「肥後求麻永國寺満戒普説」(1)
個人的な備忘録として記した。先日、江戸時代の学僧・面山瑞方禅師の文献を読んでいたところ、このような一節を見出した。下巻の歎仏の差定は、近年の添加のゆへに誤なり。歎仏は檗派の東渡より始て日本に行ふ。瑩規にあるべき道理なし。面山瑞方禅師『洞上僧堂清規考訂別録』巻3「観音懺法附差定考訂」これは、面山禅師が「差定」という言葉自体を考訂する際に指摘された一文である。これをそのまま受け取ると、日本には江戸時代に黄檗宗が来るまで「歎仏」が無かった、という話になってしまうように思う。それはそうなのだろうか?例えば、「歎仏」という用語だけであれば、ここで面山禅師が否定した『瑩規(瑩山清規)』にも見える。正月一日。粥時は必ず五味粥なり。歎仏は如常。禅林寺本『瑩山清規』「年中行事」、訓読は拙僧この通りである。他にもいわゆる年中...宗門の歎仏に関する一考
おゆずりというのは、経帷子などとも呼び、我々の記憶の中では、お遍路さんが身に着けているイメージがあると思う。そこで、現在の授戒会では、正授道場に於いてこれを身に着け、その上で登壇するという。しかし、このような授戒の際におゆずりを身に着けるというのは、何を根拠にしている威儀なのだろうか?この辺を簡単に調べてみたい。まず、現今の作法の基準となる『昭和修訂曹洞宗行持軌範』(昭和63年)では、この件についての指摘が無い。併せて、近現代の授戒会作法の多大なる影響をもたらした、石川素童禅師御提唱『戒会指南記』(昭和7年)を拝読したが、おゆずりなどは出てこない。もう一つ参照したのが、江戸時代末期の戒会作法を伝える『尸羅会中内口伝』だが、こちらについても、特に出てこない。ただし、記戒会作法書の中で、戒弟の服装などについて...授戒会・正授道場時の「おゆずり」について
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。同、本師心地戒、初祖一心戒、六祖無相戒、咸く戒に非ざるを戒と名づく、畢竟如何端的の処、偈に云く、三帰三聚浄、箇々自家完うす、一体真心地、頭頭に許般没す。仏洲仙英禅師『円成始祖老人語録』巻中「授戒会法語」仏洲仙英禅師は、江戸時代末期に瑩山紹瑾禅師『伝光録』を開版したことで知られ、同書が明治期以降に参究されるようになったきっかけを作った洞門の学僧であり、また、あの井伊直弼の参禅の師としても知られている。一方で語録を見ると、授戒会法語がかなりの数収録されていることから分かるように、自坊は勿論、各地の授戒会などに戒師として招かれたものと思われる。今回紹介したのは、その1つである。何故採り上げたかといえば、この言葉の通りだからである。つまり、仏洲禅師は歴代の仏祖がことごとく...或る禅僧の授戒会法語について
曹洞宗の授戒会は、生前に戒名を頂戴出来る修行として知られている。無論、この場合の「戒名」というのは、仏道修行者としての名前であって、一般的な観念として戒名を「死者の名前」などと扱う人もいるようだが、それは大分省略された物言いだといえる。それで、我々は「●●○○居士」の全体を戒名だと通称しているが、本当のことをいえば、「○○」の二字を「戒名」というのであって、「●●」の部分は道号(禅宗などで用いるようになった、仏道修行者としての通称)であり、「居士」の部分は「位階」である。熱心な方は、宗門の授戒会に繰り返し参加されるという。これは、現代的な事象かと思いきや、昔からそうだった、という話を今日はしておきたい。在家戒弟の列は、著帳の前後によるといへども、或は貴賤によりて列を定るも可なり。もし前度受戒したるか、或は...授戒会を繰り返し修行した際の戒名の扱いについて
授戒会とは、曹洞宗最大の教化行持であり、多くの人々に対して曹洞宗の僧侶が保持している仏祖正伝菩薩戒を授ける儀式である。それで、三師というのは、戒師・教授師・引請師のことである。この三師が、儀式の中でどういう位置付けになるのかは、勿論授戒会に随喜された宗侶の方であればよくご存じのことだと思うが、最近読んでいる水野道秀老師『授戒の心得』(其中堂書店・明治28年)に解説されるところであったので、確認してみたい。本宗授戒の戒師は、現前師と称して、本宗の僧侶伝法相続以上の人にして、仏祖正伝の大戒を面授面稟せるものは、戒師として其の戒法を転伝弘通して衆生済度の任あるものなり。而して戒師は昔時霊山会上にありて、斯の大戒を授けられたる釈迦仏の位置にして、則はち今の戒師に釈迦牟尼仏として、其の相伝したる仏戒を授け玉ふものな...宗門授戒会の三師について