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江戸時代の洞門学僧・一丈玄長禅師『禅戒問答』に、以下のような文脈があることを紹介しておきたい。当代諸道ともに、其廃を起すといへども、戒学のみ未だ競わず。ねがはくは国家、令を下して、諸宗の僧徒をして、三所の戒壇に登らしめ、一へに毘尼を厳浄にして、先受戒・後受戒、専ら戒臘に依て、仏制の次第に負かずんば、庶幾は仏日の新なるを看むことを。若ししかあることを得ずんば、唯吾洞門のみなりとも、衆議を一同にして、永平・大乗・總持の祖山に於て、戒壇を建立し、年年受戒の期を定め、一門の僧徒をして、剃染の日、各各其の師の許にして、沙弥戒を受けしめ、其後に、祖山の戒壇に上りて、比丘戒と、菩薩戒とを得て、すなはちこれを江湖乍入の初年とし、二十の臘を歴て、一会の首版を領し、有縁の知識の許にして、受法伝戒し、勅に応じて出世して、各所に...洞門禅戒復古への願いについて
江戸時代中期の学僧・一丈玄長禅師(1693~1753)の戒論は、宗派内に於ける独自性などから注目されるべきであるが、『律』の基本を学んだ人という評価は間違っていないように思う。行脚の僧、路費を帯、夜禅の僧、薬石を用るが如きは、律制に背に似たりといへども、元と法の為に開するが故に、全く破戒なるべからず。只だ宜しく慚愧を知るべきなり。『禅戒問答』、『曹洞宗全書』「禅戒」巻・303頁下段これは何を意味しているかといえば、江戸時代の曹洞宗侶は、夏冬二安居の間は一寺院に留まるが、それ以外の時には基本行脚をして、全国各地を旅していた。そして、僧侶といえど、旅費を要するためそれを持ち歩いているわけだが、それは個人的な財産を持つことを禁止した律制に背くというのである。また、薬石とは中世の日本禅宗でも採用された、夜の軽い食...一丈玄長禅師『禅戒問答』に見る随方毘尼
とりあえず、以下の一節をご覧いただきたい。同、本師心地戒、初祖一心戒、六祖無相戒、咸く戒に非ざるを戒と名づく、畢竟如何端的の処、偈に云く、三帰三聚浄、箇々自家完うす、一体真心地、頭頭に許般没す。仏洲仙英禅師『円成始祖老人語録』巻中「授戒会法語」仏洲仙英禅師は、江戸時代末期に瑩山紹瑾禅師『伝光録』を開版したことで知られ、同書が明治期以降に参究されるようになったきっかけを作った洞門の学僧であり、また、あの井伊直弼の参禅の師としても知られている。一方で語録を見ると、授戒会法語がかなりの数収録されていることから分かるように、自坊は勿論、各地の授戒会などに戒師として招かれたものと思われる。今回紹介したのは、その1つである。何故採り上げたかといえば、この言葉の通りだからである。つまり、仏洲禅師は歴代の仏祖がことごとく...或る禅僧の授戒会法語について