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現在、2講座承っている『正法眼蔵』勉強会の内、1つでは「行持(上)」巻を読んでいる。その中で、以下のような一節が見られた。光陰なにとしてかわが功夫をぬすむ。一日をぬすむのみにあらず、多劫の功徳をぬすむ。『正法眼蔵』「行持(上)」巻そもそも、この一節は、古聖・先賢と称される古来の優れた者達が、自らの時間を惜しんでなすべきことをなしていたと評した文章に続くものとなっている。そして、道元禅師は光陰(時間)が、我々から功夫(修行)を盗むとしている。更に、ただ1日のみでは無く、無限の時間に得たはずの功徳までも盗まれるという。そう考えると、この盗むとは、仏道の成就に直結しない、無駄な人生を過ごしていることを批判した教えだといえる。ただし、本当に時間が我々から修行や功徳を盗むのだろうか?むしろ、仏道の成就を目指していな...何が自分の修行の功徳を奪うのか?