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【今日は達磨忌(令和6年度版)】の記事の通り、昨日は達磨忌だったのだが、道元禅師御自身は実は、達磨忌を実施しておられない。しかし、達磨尊者への尊崇の念を持っていないことはない。そこで、達磨忌を実施していなかった理由として、作法として一般化していなかった可能性を指摘しておきたい。確かに、道元禅師と時代的に近い虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂和尚語録』には、「施主捨田建達磨忌」と「達磨初忌拈香」とがある。ただし、道元禅師の時代に編まれていた『禅苑清規』と『入衆日用』には達磨忌を載せていない。だが、1263年に編まれた『入衆須知』には「祖忌」項が入り、「達磨忌十月初五、伝灯に出づ」とある。・・・あれ?達磨尊者の忌日について、『伝灯(景徳伝灯録)』にあるとしている。化縁を以て已に畢り、伝法して人を得る。...道元禅師と達磨忌
今日は震旦初祖円覚大師菩提達磨大和尚の忌日である。本日は、達磨尊者への法語を学んで、忌日のご供養としたい。梁武殿中敗闕を容る、少林山上懡攞を得る、看んと要す我が祖慚顔の色、欄外の残秋紅葉多し。風外本高禅師「少林忌」、『風外和尚語録(仮題)』写本、翻刻・訓読は拙僧こちらは、拙僧の手元にある風外本高禅師(1779~1847)の語録写本から引用したが、従来の研究との関係についてはまだ抑えていない。機会を得て、学んでみたいのだが、とりあえず上記内容を簡単に読み解いてみたい。梁武とは梁の武帝のことで、その王宮殿中でいわゆる「廓然無聖話」などの問答を行ったことを指す。しかも、その問答は敗闕を容れるとあるので、敢えて負けてみせたと評したか。そして、その後は北魏の嵩山少林寺に行ったが、懡攞(恥じ入ること)を得るばかりであ...今日は達磨忌(令和6年度版)
今日、10月5日は中国に禅宗を伝えた菩提達磨大和尚が御遷化された日だとされる。曹洞宗も世間的な分類では「禅宗」に入るため、達磨大師のことを重んじているが、色々と調べると高祖道元禅師(1200~1253)は「達磨忌」に応じて、上堂や法要をした記録は無いようである。一方で、道元禅師より数えて4代目の祖師となる太祖・瑩山紹瑾禅師(1264~1325)の時代には、叢林での修行の軌範となる清規の整備も進み、「達磨忌」が法要として行われたことが記録されている。十月五日、達磨忌。公界は力に随って供を弁ず。伝供、焼香、礼拜し、主人跪炉す。維那、宣疏して云く・・・『瑩山清規』「年中行事」達磨忌の執行に先立ち、修行僧達は力の及ぶ限りで供物を揃え、そして主人(導師)を中心に伝供して、焼香礼拝するなどして、お供えする。更に、導師...今日は達磨忌(令和5年度版)
今日、10月5日は禅宗系で達磨忌とされる。いわゆる震旦初祖円覚大師菩提達磨大和尚の忌日である。中国では、宋朝禅以降に「祖忌」として法要を営むようになり、やがて、いわゆる「達磨忌」として一般化した。例えば、以下の記述などはどうか?祖忌〈達磨忌、十月初五なり。伝灯に出づ〉堂司、疏を具し、先づ方丈に覆す。首座、香花等の供養を安排す。或いは昏鐘鳴、念誦諷経す。或いは斎前には、如しくは念誦せず。只だ出班焼香するのみ。挙経拈香して、回身せず。『入衆須知』おそらくは、清規の記述としてはこの辺が古いと思う。本書に先行する『禅苑清規』ではまだ立項されていないが、宋代の禅僧達の語録に「祖忌」が見られるようになる。そして、日付は「十月初五(五日)」であり、『景徳伝灯録』を典拠としている。以て化縁已に畢るも、伝法して人を得る。遂...今日は達磨忌(令和4年度版)