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なんでも、最近読んだ、或る在家信者の方の文章によると、説法に於いては、確固たる“信念”を述べてくれるような禅僧がありがたいそうだ。確かに、そういう評価も必要かもしれない。なお、拙僧は、その方に何ら含むところはないので、以下の記事はあくまでも拙僧自身の問題意識に於いて考えていくのだが、正直、信念を述べることについては不可解な思いがしている。もちろん、全く歯も立たないような禅語録や、『正法眼蔵』といった著作を読むために、師から読み方を習うことがあるのは良いだろう。しかしながら、師が確定的に述べてくれることというのは、そんなにありがたいことなのか???また、拙僧は以前から、確定的言説を特定の師に求める態度に、「教条主義」を感じている。今回は、その想いというか、疑問を元に記事を書こうと思う。何だって人は、こういう...決定法はそれほどに大切か?