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明王院(みょうおういん)国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹 広島
807年弘法大師の開基と伝えられ、本堂は全体に和様で、細部には唐様を用いた折衷様式、この様式としては現存する最古の建物だそうです。 愛宕山中腹近くにあり、眼下に草戸千軒町遺跡を見渡す明王院は、中道山円光寺明王院と称し、国宝の「本堂」「五重塔」が建つ真言宗大覚寺派の古刹として知られています。 地蔵堂 焔魔堂(十王堂) 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 撮影:2017.11.20 草戸千軒町(くさどせんげんちょう) 広島県福山市草戸町福山駅からバス <Youtubeライブラリ>WiHi接続の方は再生画質を調整してお楽しみください。 思い出の写真をフォトムービーにして Ⅰ思い出の写真をフォトムービーにして Ⅱ百寺巡礼 4Kバージョンアクションカメラ映像(OSMO ACTION 4)
日時:令和5年5月12日 14時00分ごろ 住所:滋賀県大津市葛川坊村町 状況:ツキノワグマの目撃情報 現場:林道明王谷線沿い ※比良山荘から三ノ滝方面に約280m ※周辺に明王谷、明王院、地主神社、比良御殿山ルート登山口、国道367号、坊村バス停、安曇川などがある ...
青木山 東福寺(→東京都多摩市落合2丁目)は、江戸時代前期の元和年間(→1615年~1624年)にもと永福寺の住職で白山社(→現在の落合白山神社)の創建にも名を連ねる僧の円能が創建したという真言宗智山派寺院です。創建当初は上落合村の「堀合堰」という場所にあったと記されますので、遅くとも文政年間(→1818年~1831年)までに、現在地に移されたことが分かります。江戸時代には、本山・末寺の制により高幡山 明王院 金剛寺(いわゆる高...
諏訪山 明王院 円能寺(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は創建の詳細は不詳ですが、中世の頃に龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の門徒が創建したと伝わる真言宗智山派寺院です。戦国時代には住職不在で、堂宇が大破していたようですが、慶長年間(→1596年~1615年)に良識という僧が定住し、中興したと記されます。本山・末寺の制により江戸時代前期の1668(寛文8)年に西明寺の末寺となり、隣接する諏訪神...
高津諏訪神社(→神奈川県川崎市高津区諏訪3丁目)は、徳川氏の旗本となった諏訪頼久(すわよりひさ→中世諏訪は「諏方」と書いた)が慶長年間(→1596年~1615年)に諏訪大社(→長野県諏訪市中洲宮・茅野市宮川・諏方郡下諏訪町)を勧請して創建したと伝わります。ただし、諏訪頼久は信濃諏訪藩の2代藩主諏訪忠恒(すわただつね)の三男として1644(寛永21)年生まれなので慶長年間には生まれていないことになります。頼久は1654(承応3)年11月に4...
平安時代の神社仏閣と、川底に眠る遺跡が伝える中世のまち「国宝 明王院(みょうおういん)・草戸稲荷神社」(広島県福山市)
福山市の中心部を流れる芦田川の近くには、多くの神社仏閣が建立されている。「明王院」は、平安時代に弘法大師空海によって創建され、国宝の「本堂」は鎌倉時代、同じく国宝の「五重塔」は南北朝時代の建立である。当地は、鎌倉時代から室町時代に存在した河口の港町「草戸
鎌倉市十二所にある明王院明王院は、寛喜3年(1231年)鎌倉幕府4代将軍藤原頼経によって発願された寺です。1218‐56(建保6‐康元1)鎌倉幕府の第4代将軍。摂政九条道家の子。母は太政大臣西園寺公経の娘綸子。公経の妻全子,すなわち頼経の外祖母は源頼朝の姪。幼名三寅。1219年(承久1)3代将軍源実朝が殺され,源氏の正統が絶えたため,頼朝の遠縁にあたる頼経が鎌倉に迎えられた。25年(嘉禄1)元服,翌年征夷大将軍に任ぜられ(摂家(...
愛宕山中腹近くにあり、眼下に草戸千軒町遺跡を見渡す明王院は、中道山円光寺明王院と称し、国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。もとは西光山理智院常福寺といい、807年弘法大師の開基と伝えられ、その後、鎌倉時代末期に本堂再建、室町時代前期に五重塔を建立など、"中世・西国屈指の寺院"になります。 五重塔は南北朝時代1348年に建立された、初層内部の四天柱、板壁などには極彩色の仏画や文様が描かれ、相輪の刻銘には、この塔が当時の繁栄した草戸千軒の経済力を背景に、ささやかな民衆の浄財を募って建立されたことが明記されているそうです。 画像はフォトムービーでもお楽しみください・・・・ 撮影:2017.11.20 広島県福山市草戸町JR山陽本線、福山駅 百寺巡礼(五木寛之)の本を元に全国を巡って写した、お寺の写真を4Kフォトムー..
11月13日の紀行で、大江稲荷と明王院が紹介されたので、再度アップします。鎌倉市十二所の大江稲荷は、鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元を祀る社です。急な階段を上り、赤い鳥居をくぐると、参道の奥に小さな社があります。大江広元は、かつて十二所(明石橋付近)に屋敷を構え、この稲荷社は大江家の館を見守る場所に鎮座していた屋敷神であったといいます。大江広元館跡鎌倉幕府政所別当。式部少輔維光の子。中原広季の養子。...
鎌倉市十二所の大江稲荷は、鎌倉幕府で政所別当を務めた大江広元を祀る社です。急な階段を上り、赤い鳥居をくぐると、参道の奥に小さな社があります。大江広元は、かつて十二所(明石橋付近)に屋敷を構えていたといわれています。鎌倉幕府政所別当。式部少輔維光の子。中原広季の養子。寿永3=元暦1 (1184) 年,源頼朝に招かれて鎌倉に下向し,同年 10月6日公文所別当となり,頼朝の家政を統括し,能吏として彼の信任を得た。文治...