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毎年、京都に点在する公立・市立の美術館や博物館をめぐる「京都ミュージアムロード」という催しがある。気付いたのが遅かったんやけど、何軒か回ってきた。というても、何度も行ったとこばっかりであるが(^_^; まずは丸太町七本松の平安京創生館。中央図書館と京都アスニー
平安神宮の社殿を囲むようにして広がる日本庭園。国の名勝に指定されており、苑内にある京都市交通局二号電車は国指定重要文化財に指定されている。 明治の有名な作庭家、庭師で近代日本庭園の先駆者とも言
平安京遷都の1100年を記念して創建された神社。大極殿、東西歩廊2棟、蒼龍楼、白虎楼、應天門は国指定重要文化財に指定されており、大鳥居、神楽殿、額殿など14棟の建造物が国の登録有形文化財に登録されている。
皆さま 古代日本において、都の造営は単なる都市計画ではありませんでした。それは、陰陽五行説を中心とする宇宙観や霊的信仰を取り入れた壮大なプロジェクトでした。 …
#4444 時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉々
令和6年12月4日(水) 【旧 一一月四日 友引】 小雪・「橘始黄(たちばなはじめてきばむ)」時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉々 ~能因法師(988-1050)『新古今和歌集』 巻6-0577 冬歌しぐれの雨も木々を染めるのは難しいようだ。山城の常盤の森の葉は。P
藤原式家の種継の長男、藤原仲成は、785年(延暦四年)、父の藤原種継が、暗殺される。 藤原仲成は、父の功績によって、22歳で、従五位下に叙され、翌年、衛門佐…
805年(延暦二十四年)12月7日、桓武天皇は、藤原緒嗣と同僚の参議・菅野真道に、天下の徳政について、論争させた。 徳政論争である。 藤原緒嗣は、「現在、天…
平安京はどこにあった?京都創生館にあるジオラマとマップで確認!
平安京が京都に出来たのは794年。桓武天皇によって遷都されました。それから約1200年。今の京都でいうと平安京はどの辺にあったのでしょうか。それが良く分かるのが京都創生館にあるマップです。また、京都創生館には1/1000の平安京のジオラマがあり、平安京がどこにあったのか、どのように街が構築されていたのかを視覚的に確認することができます。
京都で御朱印を授与している寺社はいろいろありますが、やっぱり少しでもレアな御朱印を集めたいと思っているも多いと思います。今回は京都市考古資料館が発行を始めた、今すでに無くなった廃寺の御朱印「廃寺印」ついてご紹介しましょう。
平安時代、清少納言が書いた「春はあけぼの」はどこで見た? ~平安宮内裏跡「光る君へ」の舞台散策コースご紹介~
今回は、もう跡形もなくなってしまったけれど、約1000年前天皇の住まい(内裏)がたしかにあったと実証されている場所、清少納言や中宮定子がいた場所をご紹介します。佐々木酒造や山中油店からも近く、帰り道に寄れるコースとなっています。
古い京町家の油商・山中油店はすごいところが多すぎる♪ 京都人も知らない魅力6選をご紹介!
京都の街中では、老舗でもビルになってて雰囲気を味わえないところが多くなりました。京都に来たからには、昔からある京町家のお店に行ってみたいと思いますよね。そこで今回は、雰囲気ある京町家のお店・山中油店をご紹介したいと思います。
上京区葭屋町に、平安宮 検非違使庁址の碑があります。検非違使は、京都の治安維持を担当した役職で、犯罪者の取締りから疫病などによる遺体処理まで、さまざまな仕事を任せられていました。当時、検非違使庁の別当であった藤原実資は、花山院に矢を射かけた事件(長徳の変)で、藤原伊周の屋敷を捜索したことを自身の日記『小右記』に記しています。平安京 検非違使庁址 東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、...
平安遷都に始まる200年は激変の時代だった。律令国家は大きな政府から小さな政府へと変わったが、国家は豊かになった。その富はどこへ行ったのか。奈良時代の宮廷を支えた女官たちはどこへ行ったのか。新しく生まれた摂関家とは何か。 ...
オーバーツーリズムに悩む京都観光ですが、みなさんも人の多さに疲れてしまうのではないでしょうか。そしてどの場所の展示も似たり寄ったりな感じがしませんか?そこで今回は、とても見る値打ちのあるところなのに空いている、そんなレアな資料館「京都市考古資料館」をご紹介します。
紫式部・藤原道長が生きた平安時代のリアルな姿がわかるのはどこ?!~「光る君へ」での生活を静かに見る資料館とは?~(2024年5月現在)
今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」にちなんだところに行って学びたいと思っても、人が多くて大変ですよね。京都市上京区にある、京都市考古資料館では「紫式部の平安京-地中からのものがたり-」という、「光る君へ」を見ている方にはぴったりな展示をやっていますよ!
「光る君へ」の舞台・平安京が大内裏跡の近くで学べる施設♪ ~京都市平安京創生館~
平安時代をしっかり学べる「京都市平安京創生館」という展示コーナーがあります。展示範囲は狭いけれど、平安京の大きな模型があるのでも知られており、この模型目当てに来られる方が多いですね。京都の千年前の暮らしや風景を知るには欠かせない場所となっています♪
ここで、一旦京都御苑を出て、寺町通を南に進み、荒神口通に入ると、鴨折高校グランド前に「法成寺跡」の碑があります。法成寺(ほうじょうじ)は、平安時代中期に藤原道長によって創建された寺院です。京極御堂とも称され、道長の異称「御堂殿」「御堂関白」やその子孫御堂流の由来ともなりました。 法成寺跡 寛仁3(1019)年、出家した藤原道長は自邸、土御門殿と東京極大路をはさんだ東で、鴨川の西に九体阿弥陀堂の建立を発願...
Mikiki冬野ユミによる大河ドラマ「光る君へ」劇半制作秘話 平安絵巻を彩る斬新なアイデアはど
にほんブログ村にほんブログ村吉田羊、『光る君へ』『不適切にも』で好演 “ボーダレス”にあらゆる境界性を行き来NHK大河ドラマ『光る君へ』(総合 毎週日曜20:…
京都御苑の北東、迎賓館の東側に「染殿井」があります。この付近は、藤原良房の邸があった場所といわれています。藤原 良房(ふじわら の よしふさ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。染殿、白河殿と称される。諡は忠仁公 、国封は美濃公。皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就いた。また、藤原北家全盛の礎を築いた存在であり、良房の子孫た...
京都駅前に羅城門の復元模型が設置されています。何度となく、京都駅の前をうろうろしているのに、この辺りはスルーしていました(^^ゞ今回初めて知った次第です。平安京羅城門(十分の一 復元模型) 羅城門は朱雀大路の南端に建てられた正門で、外国から の使節を迎え入れるなど平安京のシ ンボルとしてその威容を誇っていました。しかし、暴風により二度倒壊し、980年以降、再建されることはありませんでした。 その復元は、千...
東寺の西側に残る羅城門跡です。現在は、小さな公園となっており、その中に石碑が立っています。 794年(延暦13)に建設した平安京の正門に当たります。 当時は、東西4.5キロ、南北5.3キロの京域中央部の南端に羅城門がそびえ、北端の朱雀門と相対していたそうです。門は正面33メートル、奥行8メートル。以前、ここを訪れた時は、 「この地は平安京の昔、都の中央を貫通する朱雀大路(今の千本通にあたる)と九条通の交差点にあた...
二条駅から徒歩5分ほどのところに、平安宮の朱雀門跡の碑と案内板があります。平安宮 朱雀門跡朱雀門(すざくもん)は、平安宮(大内裏)の南面大垣中央に設けられた宮城門である。柱間は7間(梁間2間)、中央5間に扉が付く二階門で、宮城12門の中でも最も規模が大きい。朱雀大路に面する平安宮の正門であり、南は平安京の朱雀大路南端にあった羅城門、北は宮城内の応天門や大極殿と一直線上に並んでいる。平安時代の終わりころ頃に描...
ORICON NEWS『今夜の光る君へ』道兼がまひろの家に突然現れる
にほんブログ村にほんブログ村 “朝ドラ成分”多めの大河ドラマ「光る君へ」 視聴率は苦戦も「女子わかるわかる成分」で応援したくなる理由 AERA dot…
美福通リの朱雀高校の塀に平安宮式部省跡の案内板があります。式部省は平安宮(大内裏)の正門である朱雀門を入ったすぐ東側にあって、西側の対象位置には、武官の人事を担当する兵部省がある。国家の重要な省庁である八省(中務・式部・治部・大蔵・刑部・宮内・兵部・民部の各省)の1つで、政務や事務を担当する文官の人事を担当する重要な役所であった。文官の養成、勤務評価、賞罰のほか、朝廷内での儀式を監督することから、長官...
JR二条駅から徒歩5分、中京区西ノ京北聖町にある大学寮跡。大学寮(だいがくりょう)は、式部省に所属した官僚育成のために設けられた高等教育機関です。官僚の候補生である学生に対する教育と試験及び儒教における重要儀式である釋奠を行いました。日本古代の令制官司の一つ。天智朝にその起源があり,大宝令によって確立した。大学とは律令制の最高の学校であり,また官人の養成機関であった。式部省の管轄下にあり,その事務官...
一条通沿いの民家の前に、平安京一条大路跡の案内板があります。一条通(いちじょうどおり)は京都市の主要な東西の通りの一つ。平安京の一条大路(いちじょうおおじ)にあたる。東端は烏丸通。西は右京区花園付近までだが、さらに西に延長して嵯峨野の清凉寺(嵯峨釈迦堂)までを一条通と呼ぶこともある。また宇多野で分岐して周山街道にも通じている。(Wikipediaより) 平安京北端の一条大路は、北極大路の名もあり、道幅は10丈...
上京区大黒町の猪熊通に平安創始待賢門跡の碑があります。待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。平城宮跡 建部門大内裏の東面、郁芳門の北、陽明門の南。大宮大路に面し、中御門大路に向かう。大きさは5間、戸3間だった。延暦13年(794年)、宮城経営のとき播磨国が造営し、建部氏がこれを監したことがその名称の由来(たけるべ → たいけん)。当初は「建部門」といった...
平安京の内裏跡(20)平安宮内裏凝華舎(梅壺)跡・飛香舎(藤壺)跡
土屋町通に平安宮内裏凝華舎(ぎょうかしゃ)(梅壺)跡・飛香舎(ひぎょうしゃ)(藤壺)跡の案内板があります。内裏の後宮七殿五舎の一つ。南庭(壺)に紅白の梅を植えていたので梅壺と呼ばれた。東宮(皇太子)の居所に使われたこともある。 母屋は東西五間、南北二間で四方に庇、東西は孫庇を持ち、周囲は簀子(すのこ)がめぐっていた。 梅壺女御としては円融天皇妃で一条天皇生母の藤原詮子(東三条院、藤原道長の姉)が有名。『源氏...
桜宮神社の鳥居の横に平安宮采女町跡(うねめまちあと)の案内板があります。 平安宮采女町跡 天皇の居所である内裏の西北にあった采女町は、主に天皇の食膳の給仕を職掌とした女官が伺候する所で、西隣には天皇の食膳を調理をする内膳司がった。采女の制度は、古墳時代後期頃、地方豪族が朝廷への服属の証として自らの子女を出仕させたことに始まり、7世紀の律令制の確立によって采女の身分や法的な整備がなされた。 平安時代に...
平安京の内裏跡(18)平安宮内裏蘭林坊跡・聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡
平安京大内裏の蘭林坊(らんりんぼう)があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。蘭林坊とは、平安京内裏の北西部、朔平門と式乾門との間にある建物です。宮中の御物、御書などを納める所で、内に御書所・絵所が置かれていました。聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだ...
出水通の「体験工房 雄彩」の前に、平安宮内裏淑景舎(桐壺)跡の案内板があります。淑景舎(しげいしゃ・しげいさ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。庭に桐が植えてあることから桐壺(きりつぼ)の別名がある。内裏の北東に位置し、南北二棟がある。(北は淑景北舎) 宣耀殿の東、昭陽舎の北。天皇の住まう清涼殿から最も遠い位置にあり、また、清涼殿に向かう際もほかの殿舎の前を通る渡り廊下を通らねばならないなど...
京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城 加藤清正邸の案内板があります。当地は平安京の左京北辺二坊五町にあたり、「蜻蛉日記」の著者・藤原道綱母が住まいした平安時代の一条邸跡とされています。藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)平安中期の歌人。父は正四位下藤原倫寧(ともやす)、母は『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』などに刑部大輔(ぎょうぶのだいぶ)源認(みとむ)の女(むすめ)とするが、通説は主殿頭(との...
清涼殿跡の向かい側に、平安宮内裏弘徽殿跡の碑があります。弘徽殿(こきでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つであり、弘徽殿を賜った后妃の称としても使われます。清涼殿北側に位置する七間四面の建物で後宮で最も格の高い殿舎であった。皇后・中宮・女御などが居住した。天徳4年(960年)の火災で焼失し、河内国司によって再建された。しかし正暦5年(994年)と長保元年(999年)にも焼失している[1]。再建後、弘徽...
承香殿跡から30mほど西に行くと、平安宮内裏清涼殿跡の案内板があります。平安京の内裏のうち,天皇の日常の居所。南東に紫宸殿,南に校書 (きょうしょ) 殿,東に仁寿殿 (じじゅうでん) がある。東面して建てられ,天皇の日中の御座所である昼御座 (ひのおまし) や寝所の夜御殿 (よるのおとど) ,朝餉 (あさがれい) の間などがある。天皇は清涼殿で,四方拝,小朝拝,叙位,除目 (じもく) などの公事を行なった。(コトバンクより)...
上京区田中町の新出水通沿いに平安宮内裏承香殿跡があります。承香殿(じょうきょうでん/しょうきょうでん)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。七殿の中では弘徽殿についで格式の高い殿舎とされ、女御などが居住し、また醍醐天皇の時代に古今集が編纂された。内裏の南辺に位置し、仁寿殿の北、清涼殿の北東。中央を馬道が通り、身舎を東西に二分していた。承香殿を賜っていたのが知られるのは、以下の后妃である。村上...
平安宮内裏承明門跡をさらに東に進むと、山中油店の敷地内に平安宮一本御書所跡の碑と平安宮内裏跡の案内板があります。一本御書所とは、 平安時代、世上に流布している書籍を、別に一本を書写して所蔵しておく役所のことで、禁中侍従所の南にありました。※以前撮影した時より、駒札がかなり劣化して読みにくくなっていますので、過去の画像を掲載します。平安宮一本御書所跡平安時代、この附近は天皇の住まいである内裏の東側に当...
智恵光院下立売を北に行った東側のデイサービスセンターの敷地内に「平安宮内酒殿跡」の案内板があります。平安宮は平安時代に政治や儀式などが行われた所で、東西378丈(約1128m)、南北460丈(約1373m)の広大な地域に宮殿や役所が建ち並び、中央部には大極殿(現千本丸太町付近)が、北東部には天皇の居住した内裏がありました。現在地点は内裏の東側にあたります。1996年5月、この場所で平安宮跡初の井戸...
平安京の内裏跡(11)平安宮内裏東限と建春門跡~聚楽第南外濠跡
新出水通の松林寺の山門の前に平安宮内裏東限と建春門跡の案内板と聚楽第南外濠跡の碑があります。松林寺開基清印が重病の母の回復を祈願すると薬師如来が現われ、婦人病や安産に効験あらたかな秘薬の処方を伝授されたという話に由来する。戦前、寺で薬が売られた。寺は聚楽第の外堀跡と推定される。(京都観光Naviより)松林寺境内の西域は、『源氏物語』の舞台ともなった内裏の東限に当たり、内裏にある四つの門のうち東側の外郭築...
綾綺殿跡から北に浄福寺通を進んで新出水通に向かい、右折すると、平安宮内裏昭陽舎跡があります。昭陽舎(しょうようしゃ)とは、平安御所の後宮の七殿五舎のうちの一つ。女御などが居住した。また、円融天皇が東宮時代に居住したとの記録が残り(『日本紀略』)、その後東宮敦良親王(のちの後朱雀天皇)の頃東宮御所として定着した。庭に梨が植えられていたところから、梨壺(なしつぼ)ともいう。内裏の北東に位置し、南北二棟...
宜陽殿跡からさらに北上すると、平安宮内裏綾綺殿跡の碑があります。綾綺殿は、南北9間、東西2間からなり、内宴や妓女の舞などが行われました。平安宮内裏(だいり)の殿舎の名。仁寿(じじゅう)殿の東、温明(うんめい)殿の西にある。檜皮葺(ひわだぶ)きで、南北九間、東西二間の母屋(もや)の四面に庇(ひさし)がある西向きの建物。天皇・院の一時的な居所となることがあった。正月の内宴(ないえん)のときには仁寿殿との間の西庭に舞台...
承明門跡から浄福寺通を少し上ると、右手に平安宮内裏宜陽殿跡の碑があります。宜陽殿(ぎようでん)は、納殿(おさめどの)とも言われ、累代の重宝を納めたところです。 宜陽殿(ぎようでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。内裏の南東にあり、紫宸殿の東南、綾綺殿の南、日華門を挟んで春興殿の北に位置する。南庭西側の校書殿とは東西に相対する。母屋は天皇累代の御物・宝物を保管しておく納殿として用いられた。西庇に...
上京区田中町下立売通浄福寺西に平安宮内裏紫宸殿跡の案内板があります。 内裏の正殿で公的な行事の場、中央の御帳台に天皇が出御して国家の重要な儀式が執り行われた。 御帳台の背面、北庇との間仕切りには賢聖障子(中国古代の名臣32名の肖像画)があった。 母屋は東西9間、南北3間で四方に庇があって周囲を簀子(すのこ)がめぐり、正面中央部の階段の左右には桜と橘が植えてあった。北の仁寿殿を北殿・後殿と呼ぶのに対して、...
平安宮内裏承明門跡から下立売通をさら西へ進むと、銭湯の向かい側に平安宮内裏内郭回廊跡の石碑があります。平安宮 内裏内郭回廊跡桓武天皇延暦13年(794)に遷都された平安京の中心をなす宮殿の一画は現在の千本丸太町一帯の地に置かれていた。そのうち天皇の住居であった内裏は、大極殿のあった千本丸太町東北方のこの地域に東西57丈(約173m)、南北72丈(約218m)の広さで造られていた。この内裏は厳重な築地回廊で囲まれて...
京都市上京区下立売通浄福寺に、平安宮内裏承明門跡の石碑があります。承明門は、平安宮内裏の内郭の南の正門に当たります。平安宮内裏の内郭の南の正門。《三代実録》《貞観儀式》などでは閤門(こうもん)としている。5間3戸の門とされ,平安宮のなかでももっとも重要な門の一つで近衛府が守ることになっていた。門籍がおかれ,門籍に登録されたものだけが門内に入ることを得た。また門には石階があり,門の内側には溝が東西に流...
千本丸太町交差点の南西には、平安宮跡の案内板があり、朝堂院、豊楽院の説明が書かれています。ここから千本通を東に向かい、浄福寺通に入ると、二条城北小学校前に、 平安宮内裏南限と建礼門跡の碑があります。 内裏外郭に設けられた正門で、規模は正面五間あって、内裏外郭門としては最大である。衛門府が警護し、門を入ると内裏内郭の正門である承明門があり、これを入ると南庭を隔てて紫宸殿に至る。 門前で白馬節会を行った...
豊楽院(ぶらくいん)は、平安京大内裏(平安宮)の院の1つで、朝廷の饗宴に用いられた施設で中京区聚楽廻西町には「史跡平安宮豊楽殿跡」の碑が建てられています。豊楽(ぶらく)とは和訓「とよのあかり」であり宴会を意味する。豊楽院はその名の通り、饗宴施設として平安京遷都直後、大内裏の正庁である朝堂院の西側に隣接して造営された。四方を築地で囲まれ、南に正門である豊楽門を構えていた。新嘗祭、大嘗祭の宴のほか、正...
平安宮造酒司(みきのつかさ)は、朝廷が使用する酒や酢を醸造していた役所で、大内裏の中にありました。京都市指定史跡 平安宮造酒司跡 平安時代、国家政治の中枢である平安宮にあった造酒司は、ミキノツカサ・ゾウシュシあるいはサケノツカサとも呼ばれる宮内省所属の官司で、天皇や中宮などに出す供御及び朝廷の諸節会・神事に用いられる酒・醴<あまざけ>・酢などを醸造していました。 造酒司のあった場所は、『宮城図』(...
平安京創生館の展示の紹介を続けます。国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」陶板壁画レプリカ 国宝「洛中洛外図屏風(上杉本)」は、狩野永徳が描き、織田信長から上杉謙信に贈られたと伝えられています。応仁・文明の乱や戦火に見舞われた京都の町が、戦乱より100年を経て復興した様子が描かれています。 一隻は鴨川と東山方面を西側から俯瞰し、御所を左端に描き、東山の名所と祇園会の山鉾が主題になっています。一隻は北山・西山...
京都市平安京創生館は、京都市中京区にある博物館施設で、京都市生涯学習総合センター(京都アスニー)1階にあります。平安京の概要コーナーでは、平安京遷都、条坊制、大内裏などの復元図と解説パネルを設置、平安京に関連した事柄や平安京年表のパネルもなどが展示されています。平安京再現コーナーでは、平安京復元模型、豊楽殿復元模型、法勝寺復元模型、鳥羽離宮復元模型が展示されています。平安京遷都784年(延暦3)桓武天...