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京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!秀吉迷走…悲運の関白・豊臣秀次切腹事件
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!
今日の京都検定:豊臣秀吉が平安京の大内裏跡に造営した壮大な邸宅は?
ペッチー 今日の京都検定の問題について解説するよ! 京都検定3級合格を目指して、京都について勉強をしています。
平安京の内裏跡(18)平安宮内裏蘭林坊跡・聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡
平安京大内裏の蘭林坊(らんりんぼう)があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。蘭林坊とは、平安京内裏の北西部、朔平門と式乾門との間にある建物です。宮中の御物、御書などを納める所で、内に御書所・絵所が置かれていました。聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地このあたり一帯は、古代において、平安京大内裏(平安宮)のうち、天皇の住まいだ...
すっかり我が家の常備酒となっている京都 佐々木酒造さんの「聚楽第(じゅらくだい)」ですが、とある日、主人が仕事で京都に行った時にこちらのアイテムを買ってきてく…
平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。豊臣秀勝没年:天正13.12.10(1586.1.29)生年:生年不詳安土桃山時代の武将。織田信長の4男で,羽柴(豊臣)秀吉の養子。通称於次。生年は定かではないが,天正10(1582)年の秀吉書状に於次は「十五六」とあることから永禄11(1568)年ごろの誕生と思われる。養子となったのは天正5,6年であろう。当初は長浜城の留守にあったが,同10年3月以降は秀吉と共に中国地方を転戦し,山崎の戦にも従軍。秀吉が大徳寺で行った信長の葬礼では秀吉と共に喪主を務めた。同年10月丹波亀山城主となり従五位下丹波守に叙任,次いで正四位侍従。同11年の賤ケ岳の戦,翌12年の小牧・長...聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)
京都が生んだロックな壁画絵師 キーヤンさんと佐々木酒造さんとのコラボ酒「古都」
すっかり我が家の常備酒となっている京都 佐々木酒造さんの「聚楽第(じゅらくだい)」ですが、とある日、主人が仕事で京都に行った時にこちらのお酒を買ってきてくれま…
京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城加藤清正邸の案内板があります。Googleマップで、偶然見つけました。豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正13(1585)年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる(→聚楽行幸記)。同19年12月関白を養子秀次(→豊臣秀次)に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4(95)年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された...聚楽城加藤清正邸跡
京都市中京区木屋町三条の瑞泉寺1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺です。文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、聚楽第の秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛らが訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促します。秀次は釈明の為に、秀吉のいる伏見城へ向かいますが、福島正則らに遮られ、秀吉に会うことは叶わず、同日高野山へ入ります。それから1週間後、秀次のもとへ...
京都を訪れました。二条城北側のコインパーキングに車を停め上京区の京都らしい街並に入りました。佐々木酒造、俳優の佐々木蔵之介の実家として有名で、弟が社長を継いでいます。平安神宮周辺は観光客が多いので、直ぐ北にあるくろ谷 金戒光明寺を訪れました。人も