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京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!秀吉迷走…悲運の関白・豊臣秀次切腹事件
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、京都に残る悲劇のあと「聚楽第」「瑞泉寺」!
2020年 (137-2) スイーツ&ワイン/瑞泉寺/スペインバル24Jan24
*** ワイン&ショコラ/マカロン *** 【木屋町御池】Salon de Royal Kyoto(サロンドロワイヤル 京都)|鴨川納涼床を楽しめる老舗のショ…
大雲院は、織田信長・信忠親子の菩提を弔うため、1587年、烏丸二条に建立され、その後に寺町四条、1973年に現在地に移ったとされています。祇園閣があることで知られています。通常は非公開。ねねの道から円山公園に行く途中にあります。境内墓地には、織田信長・信忠父子の他、石川五右衛門の墓があります。五右衛門については、処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、大雲院を創建した貞安が引導を渡した縁...
京都市中京区木屋町三条の瑞泉寺1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺です。文禄4年(1595年)、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、聚楽第の秀次のもとへ石田三成、前田玄以、増田長盛らが訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促します。秀次は釈明の為に、秀吉のいる伏見城へ向かいますが、福島正則らに遮られ、秀吉に会うことは叶わず、同日高野山へ入ります。それから1週間後、秀次のもとへ...
青巌寺(せいがんじ)は、現在の金剛峯寺境内の東部にあった寺院で、明治2年(1869年)まで高野山上に存在した寺院です。学侶方の寺務をつとめた中心寺院でしたが、行人方の役寺であった興山寺(廃寺)と合体して金剛峯寺となっています。青巌寺は、天正20年(1592)、豊臣秀吉が大願主となり、母・大政所の追善のために木食応其(もくじきおうご)に命じて造営され、初めは「剃髪寺」と号していました。文禄3年(1594)3月、秀吉は高野山に登...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 60.徳川家康・四十八
豊臣秀吉の直轄領は、太閤蔵入地と呼ばれたが、畿内及び、九州に二百二十万石である。 即ち、徳川家康は、天下人であり、主君の豊臣秀吉を超える、大大名になったと言…
今回は滋賀県の 八幡山城【近江国】の紹介です。 場所は琵琶湖の最大内湖である西の湖の東側にある八幡山山頂に築かれた山城でした。 またその城主であったのは、悲運の武将と言われた豊臣秀次公(※秀
辞世の句(その12)戦国時代 豊臣秀次・駒姫・黒田如水・武田信玄
団塊世代の私も73歳を過ぎると、同期入社した人や自分より若い人の訃報にたびたび接するようになりました。そのためもあってか、最近は人生の最期である「死」を身近に感じるようになりました。「あと何度桜を見ることができるのだろうか」などと感傷に耽っ
3連休の土曜日、久し振りに京都を歩いてきました。 今回は、珍しく京都の繁華街、三条・四条界隈 です。 まずは 三条大橋 と 三条河原 へ 地図のNo.①が「 三条大橋 」です。下流側(南手)から撮影。 室町時代に初めて橋が架けられたそうですが、東海道五十三次 の西の起点として有名ですね。 それで、三条大橋の西詰めに、十返舎一九の「 東海道中膝栗毛 」の主人公、弥次さん喜多さん の像(No.②)があります。平成の初め頃に近隣の商店街さんが建てられたそうです。 また、三条大橋の下流側欄干の擬宝珠に 刀傷 があって、それは「 池田屋事件 」の時の物だとされています。 「 池田屋事件 」は、幕末、新撰…