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「家康と一向一揆」展 こんにちは!愛知お散歩ナビゲーターのほとんどうどんです。本日は安城市歴史博物館の特別展「家康と一向一揆」を見に行ってきました。 館内は平日にも関わらず、大河ドラマの影響でしょうか、多くの人で賑わっていました。入場料は500円です。 rekihaku-exhibition.ansyobunka.jp 展示物は書状や古文書などの二次元が中心でかなり玄人向け。甲冑や武器といった物は無いです。 当時の一向宗、親鸞が開いた浄土真宗ですが、ムチャクチャ影響力が強かったんですね。 三河一向一揆は家康三大危機のひとつ。 安城市には三河一向一揆の一揆側の拠点であった本證寺があります。 家康…
西尾市吉良町の華蔵寺(けぞうじ)に向かいました。「吉良の里にようこそ」の看板が見えてきます。山号を片岡山(へんこうざん)といい、吉良上野介義央の曾祖父である吉良義定が旗本として吉良家を再興した際に、父・義安の菩提を弔うために慶長五年(1600)に創建した臨済宗寺院です。 本堂吉良義央寄進の梵鐘にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラン...
安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院・本證寺岡崎の上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となりました。1563年(永禄6)の9月から翌年3月にかけて、徳川家康の本拠、三河国岡崎周辺に勃発(ぼっぱつ)した一向一揆。15世紀後半、矢作(やはぎ)川周辺には浄土真宗本願寺派が、土呂本宗寺(とろほんしゆうじ)や三河三(さん)ヶ寺(じ)とよばれる佐々木上宮寺(じょうぐうじ)・針崎勝鬘寺(はり...
神明社西尾城本丸表門跡 姫丸から本丸に至る位置に築かれた二階建ての楼門ろうもん式の門で、規模が、東西2間2尺(4.2メートル)、南北4間2尺(7.9メートル)で、高さ2丈4尺5寸(7.4メートル)でした。 現在、南側の土塁と石垣は失われましたが、北側の丑寅櫓から伸びる土塁を断ち切る面に積まれた野面積みの石垣と、石垣に接して2つの礎石のみが残されています。 本丸は土塁が巡り、四隅に櫓が築かれていまし...
旧近衛邸京から移築された旧近衛邸は、摂家筆頭として左大臣を務めた近衛忠房に嫁いだ夫人の縁で、島津家によって江戸後期に建てられたもので、書院と茶室からなっています。お抹茶のサービス(季節の和菓子付きで一服450円)が行われています。西尾神社第二次世界大戦後の昭和20年代後半に創建された神社です。御剱八幡宮西尾城本丸跡に鎮座する御剱八幡宮(みつるぎはちまんぐう)は、西尾城本丸跡に鎮座する神社です。 城内鎮護...
徳川家康の生誕地に隣接する西尾市を訪ねました。西尾市は、愛知県中央部を北から南へ流れる矢作川流域の南端にあり、抹茶の産地(西尾茶)として、また「三河の小京都」として知られています。西尾城周辺には大きな河川があり、下流の湿地帯には野鳥が多く生息し、この地で織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の三英傑が、吉良荘(きらのしょう)で鷹狩りを楽しんだという記録が残っています。(西尾歴史散策MAPより)特に家康は、その生涯...
蒲郡市上本町にある長存寺は、法華宗陣門流の寺院で、安楽寺、長泉寺、天桂院とともに西郡の四大寺のひとつに数えられています。鵜殿氏は熱心な法華信者で、長存寺は、下ノ郷鵜殿家の菩提寺でした。1445年(文安5年)新潟県三条市の本成寺3世である日存により創建されたとされています。もとは天台宗寺院で実相坊といいましたが、後に法華宗に改宗。1518年(永正15年)に下ノ郷鵜殿氏の鵜殿長存が帰依し、死後長存寺と改称されまし...
蒲郡市清田町門前にある安楽寺は、徳川家康の生母・於大の方の後添えの夫で、上ノ郷城攻めの功績によって西ノ郡(現蒲郡)領主となった久松俊勝の菩提寺です。応永15年(1408年)昭邦上人が堂宇を建立し、本宿の法蔵寺から龍芸上人を招いて創建されました。天正15年(1587年)に久松俊勝が死去した後、住職から伝通院号を受けた於大の方が、2年間当寺に居住しました。寛永7年(1630年)、俊勝の次男で徳川家康の弟にもあたる松平康...
上之郷城、西部公民館を見学した次は、上之郷城の西側にある鵜殿長照の墓碑に向かいました。民家の間の細い道を抜けていくと、墓所があり、その一画に「上之郷城主鵜殿藤太郎長照墓碑」と書かれたお墓があります。鵜殿藤太郎長照墓碑鵜殿長照は、三河国の上ノ郷城主・鵜殿長持の子として生まれ、弘治2年(1556年)今川氏に従っていた父が死去したため、城主を継ぎました。通称は藤太郎。今川義元の妹が生母ということで義元の甥に...
岡崎市法性寺町上屋敷にある法性寺は、平安時代の中頃に建立され、徳川家康の父・松平広忠が深く帰依していたお寺です。広忠の命で、この寺の住僧・永玖が、鳳来寺の薬師如来に男子出生を祈願し、誕生したのが家康といわれています。山門をくぐると、一休さんの像が出迎えてくれます。また、法性寺が名の由来の法性寺ねぎは、法性寺の僧侶が比叡山延暦寺へ修業にいった際、ネギを持ち帰って植えたのが始まりといわれています。甘く...
蒲郡駅駅構内の観光案内所でレンタサイクルを借り、上ノ郷城跡を目指しました。上ノ郷城跡を見学する際、城跡近くにある赤日子(あかひこ)神社の西側駐車場を利用できます。この神社は、鵜殿氏の祈願所だったそうです。一の鳥居二の鳥居創立された年代は不明。祭神は、綿積豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)。三河地方は養蚕の伝統が古くからあり、...
岡崎市門前町にある随念寺は、永禄5年(1562)徳川家康が祖父・松平清康と清康の妹・久姫(家康を3~6歳頃まで養育)の菩提を弔うため創建した浄土宗の寺院です。鐘楼門1535年(天文4年)12月5日、尾張を攻略しようと守山に陣を構えていた松平清康は1535年(天文4年)12月5日、家臣阿部正豊に斬られ即死。久姫が1561年(永禄4年)岡崎城中で亡くなり、その墓が遺言によって清康の墓とならんで建てられました。随念寺の名は久姫...
JR「岡崎駅」下車徒歩15分ところに鎮座する糟目犬頭神社(かすめけんとうじんじゃ)は、大宝元年(701)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を祀って建立されたもので、以前は隣接する上和田町の糟目にあったので糟目神社といわれていましたが、度々の洪水により今の場所に移されました。永延元年(987年)、熊野三所大権現を合祀。観応元年(1350年)に足利尊氏が熊野権現領100貫文を寄進したと伝えられています。岡崎藩主・本多...
岡崎市梅園町虎石にある誓願寺は、永禄9年(1566)、徳川家康が自らの官位勅許のな仲立ちをした泰翁のために建立した寺です。本堂の前に車が止められていたので、上手く写せませんでした(; ;)境内にある虎石と呼ばれる石は、家康(幼いころ虎童子といわれていた)がここで弓の稽古をした際、この石に腰をおろして休んだといわれていわれ、虎石は誓願寺のある地名にもなっています。誓願寺の一角にある諏訪神社は、大永3年(1523)...
法蔵寺の墓所には、松平家霊廟と三方ヶ原の合戦忠死者の墓があります。松平家霊廟松平広忠墓(家康の父)松平信光の母と亀姫(家康の長女)の墓松平信光の子の墓松平忠政(家康の異母兄)、広忠の先妻、忠政の弟の墓矢田姫墓(徳川清康の異母妹)と薄井姫の墓三方ヶ原の合戦忠死者の墓夏目次郎左衛門吉信と鳥井左衛門左衛門の墓夏目吉信は、夏目漱石の先祖で、三方ヶ原の合戦の際、家康の身代わりとなり討たれました。その向かいに...
さらに法蔵寺の境内を巡ります。六角堂本堂の西側には、六角堂があります。行基がこの地を訪れた時、輝く杉の大木を見つけ、突然現れた童子にその霊木で観音像をつくるように言われ、聖観世音像を彫り、山上に六角堂を建てて安置したといいます。その山頂にあった六角堂は強風により倒壊してしまったため、本堂の横に移築再建されました。東照権現宮ここでも東照宮が見られるとは!葵の御紋が入った色鮮やかな社殿です。法蔵寺山内...
岡崎市本宿町にある法蔵寺は、徳川家康(幼名・竹千代)が幼少期に、伯父である教翁上人に就いて、読書きや漢籍などの学問を習ったといい、硯箱・硯石・手本・机・墨付小袖・破魔弓などが残されています。飛鳥時代、行基が観音菩薩像を安置し、出生寺を創建。南北朝時代、二村山法蔵寺と改称。その後、松平親氏が伽藍を建立して、松平家の菩提寺としました。桶狭間の合戦後、家康は当寺に守護不入の特権を与えるなどして優遇しまし...
2013年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画 第一話で取り上げられるであろう桶狭間の戦いが繰り広げられた桶狭間古戦場と周辺の城と砦を一足お先にめぐってきました。 地図上のマッピングではなく、自分の足で歩いてみると立地や地形、距離感
『どうする家康』聖地巡礼 ②「お米を運ぶだけじゃ」の大高城へ
2013年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画! 桶狭間の合戦にまつわる城と砦をまわったのですが、松平元康(徳川家康)が今川義元から命じられて、丸根砦から兵糧を運び入れた大高城です。 目次 1 大高城とは1.1 立地について1.2
2013年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画! 桶狭間の合戦にまつわる城と砦をまわるこの企画。そもそもの発端となった織田信長方の城だった鳴海城が今川の手に落ちたことにより、鳴海城を囲む付け城として築かれた丹下砦。信長は清州城から出
『どうする家康』の聖地巡礼!桶狭間の戦いで舞台になる鳴海城ですが、直接に松平元康(のちの徳川家康)が関わっている城ではないものの、桶狭間の戦いを語る上では重要な城。2022年12月に桶狭間古戦場伝説地とともに城めぐりしてきました! 目次 1
『どうする家康』の聖地巡礼!直接に松平元康(のちの徳川家康)が関わっている城ではないものの、桶狭間の戦いを語る上では重要な鳴海城の付け城である善照寺砦。織田信長が最初に着陣した丹下砦から移動して入った砦です。 目次 1 善照寺砦とは1.1
『どうする家康』の聖地巡礼!直接に松平元康(のちの徳川家康)が関わっている城ではないものの、桶狭間の戦いを語る上では重要な鳴海城の付け城である善照寺砦。織田信長が最初に着陣した丹下砦から移動して入った砦です。 目次 1 善照寺砦とは1.1
『どうする家康』聖地巡礼 ⑥桶狭間の戦いで信長が向かった中島砦
『どうする家康』の聖地巡礼!直接に松平元康(のちの徳川家康)が関わっている城ではないものの、桶狭間の戦いを語る上では重要な鳴海城の付け城である中島砦。織田信長が最初に本陣を置いた善照寺砦から今川義元を討つべく出陣するために入った砦です。 目
大河ドラマ『どうする家康』特集 スタート! 大河ドラマ『どうする家康』の特集ページを公開! 聖地巡礼におすすめな城跡や巡り方、おすすめの本を紹介しています。 今回の大河は家康をとりまく三河家臣団がキーポイント。たくさんいる関連人物を把握しや
2013年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画! 桶狭間の合戦にまつわる城と砦めぐり。松平元康(徳川家康)が今川義元から命じられて、大高城へ兵糧入れをする前に攻め込んだ丸根城です。 目次 1 丸根城とは1.1 立地について1.2 丸
『どうする家康』聖地巡礼 ⑧鷲津砦 横堀や遺構らしきものはあるが謎が多い砦
2013年の大河ドラマ『どうする家康』を勝手に応援企画! 桶狭間の合戦にまつわる城と砦めぐり。最後は鷲津砦。桶狭間古戦場伝説地から城と砦を合計7カ所を歩いてまわった旅。歩いた距離は合計10km!最後の最後まで急坂に苦しめられたけど、桶狭間の
岡崎市明大寺町にある六所神社は、松平氏発祥の地である松平郷の六所神社より祭神の勧請を受けて、徳川家康の祖父・松平清康が創建しました。一之鳥居松平家の産土神として松平家・徳川家の崇敬が篤く、江戸幕府の厚い保護を受けました。二之鳥居家康誕生の際には、松平氏の産土神としての拝礼があったといわれ、現在も「安産の神様」として信仰されている神社です。5万石以上の大名だけが上ることを許されたという石段極彩色の楼...
名鉄東岡崎駅と商業施設を繋ぐペデストリアンデッキ上に徳川家康の像があります。2019年11月に設置された日本最大級の騎馬像で、家康が松平から徳川に改姓した25歳当時の姿をしているそうです。どうですか?なかなかカッコイイでしょう(o‘∀‘o)*:◦♪岡崎の家康ゆかりの地を巡るスタート地点ととして、ふさわしい銅像となっています。銅像の裏側には、厭離穢土欣求浄土の文字が入っています。※ホテル「グランドイン東岡崎」と商業施設...
JR岡崎駅東側に徳川家康の若き日の「松平元康像」。銅像の両脇には、家康が旗印に使っていた言葉「厭離穢土 欣求浄土」の石柱が建っています。家康が松平元康という名前だった頃、桶狭間の戦いで主の今川義元が討たれ、大樹寺の松平家の先祖の墓の前で自害しようとした時、登誉上人が元康に言った言葉です。現実の世は、穢れた世界であるから、この世界を厭い離れ、次生において清浄な仏の国土に生まれることを願う気持ちが籠めら...
浜松城に隣接した浜松城公園の日本庭園。徳川家康の時代に造られたものではありませんが、自然豊かな公園は、四季折々の表情を見せてくれます。 紅梅 桜新緑竹林の小径タイワンリスたちにも出会えますよ。木の実を美味しそうに食べていました。 ※2023年1月22日~2024年1月14日の土日祝は大河ドラマ館開館時期のため浜松城公園駐車場が使用できません(公園利用者含む)。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応...
タイトルに誘われて「どうする家康」を見る ☆お弁当・晩ご飯☆
珍しく、晴れマークが見える予報です。 雪から晴れへ、気温は5° どうかな? 少しでも、雪が溶けたらいいけど・・・・・ 今日のお弁当 豚肉白菜の煮物、ネギ入り卵焼き、ウインナー、ミニトマト、梅干し、シソ昆布 晩御飯 酢豚 厚揚げと小松菜の炒め煮 日曜日に、「どうする家康」の4...
清洲の総見院は、織田信雄が清洲城主の頃、父・信長の菩提寺として建立した寺でしたが、清洲越により大須(名古屋市中区)に移りました。現在の寺は、1644年、徳川義直の開基で、総見寺第3代住職・みん山和尚の隠居所として始まったと伝わっています。境内には、信長・義直・みん山の墓碑3基があり、寺には織田信雄が本能寺の変の後、本能寺の焼跡から探し出したといわれる信長着用の兜が保管されているそうです。にほんブログ村...
大手橋を通って清洲城へ。清洲古城跡の五条川対岸に、平成元年(1989年)に天守閣が建てられ、ふれあい郷土館として郷土文化・文化・歴史・産業展示室を設け、芸能文化館・黒木書院、日本庭園・土蔵・大手門等が作られました。 室町時代、尾張の守護職であった斯波義重が下津城(稲沢市)の別郭として建てたのが清洲城の始まりといわれています。戦乱により、下津城が焼失後、文明10年(1478年)守護所が清洲に移転することにより、清...
大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」が放送された2011年、信長ゆかりの地・清洲を歩いてみました。名鉄新清洲駅から清洲公園方面に向かって10分ほど歩くと、五条川に架かる五条橋に出ます。 五条橋は、室町期、斯波氏の時代から架かり、1610年の清洲越で城と共に名古屋堀川に移されるまで、まさに「御城橋」の役を果たしてきた。 信長が愛馬に跨って渡り、豊臣秀吉がほぼ、全国統一を成し遂げた小田原征伐の帰路、この橋の上で上畠神...
葵広場の外周に沿って、浜松城に関する案内板や復元されたものが設置されています。瓦集積現在の浜松城で使用されている瓦葵の御紋が見えます。元城町東照宮浜松城、大河ドラマ館の帰りには、ぜひ元城町東照宮をご参拝ください。浜松城の概要大河ドラマ館の後ろにそびえる浜松城浜松城の構造二の丸御殿と御殿の庭園浜松城二の丸御殿の間取りを木材により平面状に復元。XR技術で、発掘現場や御殿が建てられていた当時の様子を再現。...
出世の街 家康SHOPでは、浜松の特産品やお土産、「どうする家康」関連グッズが販売されています。「どうする家康」関連グッズ 手ぬぐい浜松市限定デザインのポチ袋Tシャツどうする家康ロゴ入りマスクうなぎパイうなぎいもフロランタンうなぎアイス浜松餃子浜松の地酒家康公食べて出世の小豆餅源氏パイ浜松手ぬぐい出世街道出世葵骨まで愛してうなぎボーンらっか 家康限定パッケージまた、家康ゆかりの地や浜松の観光地を紹介す...
こんにちは、lemonです大河ドラマ「どうする家康」3話まで見ました!知ってる地名がたくさん出てきて楽しいです愛知の皆さんはきっとそうですよねまず、大高城は現…
③ シアター「歴代家康スペシャルダイジェスト」アーカイブ映像で、歴代の徳川家康たちを振り返ります。④「どうする家康」番組紹介人物相関図フォトスポット「どうする家康」の紹介コーナーでは、松潤殿からのスペシャルメッセージの動画も見られます。入場券売り場の横には、発掘現場で見つかった浜松城本丸を形成する石垣の現物が展示されています。建物の外側には、天竜地域の森林をモチーフに、杉材を使った装飾が施されていま...
浜松城公園に誕生した「どうする家康」浜松大河ドラマ館 が1月21日からプレオープンとなりました!(~2月28日まで)浜松城大河ドラマ館入り口グランドオープン3月18日までの期間限定展示「歴代大河ドラマが描いた徳川家康展」がメインとなっています。楽器と言えば浜松🎹光沢のある黒い外壁は、ピアノをモチーフにしてあるそう。ここから館内へ建物の出入り口は、浜松城の本丸裏門があったとされる位置に配置されているそう。館内に...
どこに行く?家康ゆかりの地「岡崎・浜松・静岡」で大河ドラマ館が開催。
NHK大河「どうする家康」の放送合わせて、徳川家康ゆかりの地 岡崎・浜松・静岡で「どうする家康大河ドラマ館」がオープンします。それぞれの開催場所、日時、入館料について紹介しています。
愛知県豊田市にある六所山に登ってみました!こんにちは、てくとらです。愛知県豊田市にある六所山へ初めてのトレッキングをしに行ってきました。松平東照宮のお参りから六所山への道のりを紹介します。六所山の見所 6選 (行ったルート順)松平東照宮国指
こんにちは、てくとらです!2023年1月21日からオープンの「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」へ行ってきました!オープン初日ということでとても多くの方がいらっしゃっていました!どうする家康 岡崎 大河ドラマ館 ~見所 12選~正面入口正
静岡市の駿府城は、今川館の跡地に徳川家康が建てた城です。巽櫓と東御門東御門は、は二ノ丸堀(中堀)に架かる東御門橋と高麗門、櫓門、南および西の多聞櫓で構成される桝形門で、要所に石落し、鉄砲狭間、矢狭間等を持っています。東御門の前が安藤帯刀の屋敷であったことから「帯刀前御門」、また、台所奉行であった松下浄慶にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。慶長年間に築かれた東...
「おせんげんさん」の名で親しまれている静岡浅間神社は、神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の3社と4つの境内社の総称で、賎機山(しずはたやま)の麓に鎮座しています。古来より時の権力者からの保護を受けてきましたが、竹千代(徳川家康)は幼少の頃今川氏の人質として、ここから約1kmのところにある臨済寺に預けられていた頃から、生涯に渡って当社を篤く崇敬したそうです。竹千代は、14歳の時、今川義元が烏帽子親となって、...
椎の木屋敷跡から刈谷城跡を目指します。刈谷城は、天文2年(1533年)水野忠政により築城されました。別名「亀城」。城絵図によると、本丸、二の丸、三の丸、御殿等が整備され、その間を堀が取り巻き、大手門から町口門を経て城下町へ通じていました。江戸時代前期の城絵図によると、天守はなく、本丸の北西と南東の隅に櫓がありました。町口門から本丸に向かうと冠門(かぶきもん)があり、冠門をくぐり右に折れたところに大手門が...
徳川家康の母・於大の方ゆかりの刈谷を訪ねました。「どうする家康」では、松嶋菜々子さんが於大の方を演じています。刈谷駅から椎の木屋敷跡へ向かう途中、於大通りという道を通っていきます。於大通りこの通りは於大の方由緒の地である椎の木屋敷跡へ通じる道であることから於大通りと命名されました。於大の方は、享禄元年(1528年)、刈谷城主・水野忠政とその妻・華陽院(於富)の間に、忠政の居城・緒川城(愛知県知多郡東浦...
熊野神社は戦国時代に牛久保城を築いた牧野氏が深く尊崇した神社で、亨禄元年(1528年)に牧野成勝が社殿を改築した記録があります。 古記録によれば、神社に伝わる木造狛犬は、天文7年(1538年)、 牛久保村、下長山村の氏子が造って奉納したものとされ、 県文化財に指定されています。(豊川市観光協会HPより)牛久保のナギ 熊野神社の森にそびえるこのナギの木は、高さ約20m、目通り3.5mの巨木で樹齢300年以上と推定されます...
千歳通に残る小さな廟は、第2代牛久保城主・牧野成定の墓所です。牧野成定は、牛久保城主・牧野 保成の後をうけて牛久保城主となり、早くから徳川方に属していました。永禄8年(1565年)家康が吉田城を攻めた際、成定は酒井忠次とともに今川方の説得につとめ、無血開城させるという武功をたて、家康の信任を得ました。墓碑は貞享元年(1684年)に曾孫により建てられ、鞘堂は昭和50年、牧野公奉賛会の手によって建立されたものです...
続いて、牛久保八幡社を参拝しました。奈良時代の天平神護年間(765)に三河国が飢饉に見舞われた時、朝廷は倉庫を開いて救済につとめ、国司は住民に神を祀らさせるため大雀命を勧請しました。天正3年(1575)織田信長・徳川家康が長篠合戦に出陣したさいには、この社に武運を祈願しています。江戸時代は旗本米津氏の知行所となり、代々の領主は初穂米を献じ崇敬しています。明治5年、郷社に列しました。天下の奇祭として、「若葉祭(う...