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#295 三河一向一揆を『三河物語』から見るその1 ~『どうする家康』を楽しむため
大河ドラマ『どうする家康』でも徳川家臣団大分裂のピンチを招いた「三河一向一揆」を家臣の大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫)…
#299 三河一向一揆を『三河物語』から見るその2 ~『どうする家康』を楽しむため
大河ドラマ『どうする家康』の「三河一向一揆」の戦いと終了の流れを家臣の大久保彦左衛門忠教(忠世の弟)の『現代語訳 三河物語 (ちくま学芸文庫) 』から見たいと…
豊田市の隣松寺もまた徳川家ゆかりの寺として知られています。仁王門仁王像山門稲荷社境内にある稲荷社は、松平広忠が竹千代(徳川家康)誕生にあたり、成長の無事を祈願したと伝わります。家康は三河一向一揆の際、一向一揆の際に、酒井忠尚の居城・上野城めの本陣とし、稲荷社に戦勝祈願しました。勝利した後、寺の山号を「玉松山」から「稲荷山」に改め、自身の甲冑姿の木像と念持仏を奉納するとともに朱印地30石を寄進したといい...
岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。槍立松、血洗い池などから当時を偲ぶことができます。史跡小豆坂古戦場跡355平方メートル徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小...小豆坂古戦場跡(岡崎市)
若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河三ヶ寺"本證寺・上宮寺・勝鬘寺をめぐる
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、若き家康を苦しめた「三河一向一揆」!"三河
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 18.徳川家康・六
三河一向一揆に味方した、松平氏家臣の中には、主君の松平家康への忠誠心と信仰心の板挟みに合い、苦しんでいる者がいた。 松平家臣の中には、一度は、一揆に加わった…
徳川家康(4)葦かびの巻!家康を震撼せた三河一向一揆…信長との再会も!
こんにちは。夢中図書館へようこそ! 館長のふゆきです。 今日の夢中は、徳川家康(4)葦かびの巻!家康を震撼せた三河一向一揆…信長との再会も!です。 「夢中図書館 読書館」は、小説や雑誌などの感想や読み
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜三河一向一揆の続きだねってことで第9話の感想ぉ〜!なんと一向一揆を主導している軍師が、平清盛…じゃなく本多…
3/11震災の日に、考えたこと NHK大河ドラマ「どうする家康」の第9回「守るべきもの」について、今週も毎度のごとくダラダラと遅くなってしまい、3/11土曜の午後から書き始めた。もうどうしようもない。 3/11は言わずと知れた東日本大震災が発生した、忘れられない日だ。天災が起きる=天に見放された君主であるとして、科学的知識も無い時代の為政者たちは、かなり恐怖心を抱いたらしい。 そうだろう、現代だって大震災は十分恐ろしい。次に起こるとされる南海トラフ地震のことを想像すると、日本にいればどうしたって逃げられないような気になる。運任せの部分はどうしたってある。昔も今も、為政者たちは気持ち的に追い詰め…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜相変わらず1週遅れで見てるけどね…ってことで第8話の感想ぉ〜!一向宗の寺から無理矢理、年貢を取ったことが原…
どうする家康 第9話「守るべきもの」 ~三河一向一揆の戦後処理~
三河一向一揆の実際の戦闘の経緯については、史料によって情報が錯綜していて、月日などは明確ではありませんが、通説では、永禄6年(1563年)秋にはじまり、...
【どうする家康】第9話あらすじ・感想考察~「守るべきもの」|家康の心を動かす忠吉と正信の言葉
この記事は2023年大河ドラマ【どうする家康】のあらすじ、感想、考察記事です。2023年3月5日放送第9話「守るべきもの」の内容になります。
訪問日:2023年2月25日ブログに何度か書いているとおり、私はお城めぐりと同時にお寺めぐりも好きですので、家康(戦国武将)と一向一揆(宗教)を扱った本展示は見逃せないものです。
皆が気遣う瀬名、やり方はどうあれ NHK大河ドラマ「どうする家康」の第7回「わしの家」が2/19に放送された。まずは公式サイト「あらすじ」から引用する。 元康(松本潤)は、家康と名を改める。国をまとめたいと願う家康だが、三河内の争いも絶えず、三河統一は遥か先の話。そんな中、民衆の間で一向宗が人気と瀬名(有村架純)から教えられる。家康は宗徒が集まる本證寺に潜入すると、そこには寺内町という巨大な町がつくられ、住職の空誓(市川右團次)は「民が苦しむのは武士のせいだ」と説いていた。家康は一向宗への対抗を命じるが・・・。(これまでのあらすじ 大河ドラマ「どうする家康」 - NHK) 公式サイトの「略…
【どうする家康】#8 まだ「どうすればええんじゃ」家康、情けない
一向一揆は次回も続く・・・まだ数え22歳の家康 NHK大河ドラマ「どうする家康」の第8回「三河一揆でどうする!」が2/26に放送された。もう1週間も経ってしまったのだなあ。土曜お昼の再放送を見てからようやく書きたくなる癖は何とかならないものか。 さて、公式サイトの「あらすじ」を引用させていただくと、このようになっていた。 本證寺から年貢を取り立てようとする家康(松本潤)に対し、一向宗徒が三河各地で一揆をおこした。武力で抑え込もうとするが、有能が軍師がいるらしく、全ての作戦が裏目に出る。松平昌久(角田晃広)など周囲の領主も寝返る中、家康は半蔵(山田孝之)を寺へ潜入させる。そこで半蔵が目にした空誓…
JR岡崎駅下車徒歩10分のところにある浄珠院天台宗の慈覚大使円仁が承和年間(834年~848年)に創建した清光院大海寺を起源とする。応永年間(1394年~1427年)に松平泰親の長子である教然良頓により浄土宗に改宗され再興された[1]。山号は清光山。本尊は阿弥陀如来。松平氏の外護を受け、永禄6年(1563年)の一向一揆の際は本寺で和議が成立した。田中吉政の寺社領取り上げで寺領を失ったが、慶長8年(1603年)8月26日付家康朱印状...
慶取門拝殿慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進されました。本殿寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝しています。御開運竹永禄6年(1563)一向一揆の折、徳川家康公 鳩ヶ窟において難を逃れ、神前に開運を祈り矢をこのところに挿し退化せり。この矢根芽を生じ生育せりと伝う この竹四時たけのこを生ず。ヒメハルゼミ生息地毎年正月3日に開催される御田植神事「デンデンガッサリ」室町時代か...
岡崎市舞木町宮下にある山中八幡宮は、徳川家康の父・松平広忠が再興したといわれ、家康初陣の際に必勝祈願した神社です。田園地帯の先に鳥居が見えてきます。当地の山中光重という人が、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのがはじめといわれています。大クス樹齢650年といわれる根回り14メートルの当社の御神木。松平広忠が寄進した乱舞面(室町時代作)が市の文化財に指定されています。...
岡崎市美合町にある本宗寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。名鉄「美合駅」下車徒歩7分ほどのところにあります。蓮如上人が西三河教化の中心とするため、応仁2年(1468)に創建しました。創立当時は土呂(現在の福岡町)にあったそうです。三河一向一揆の際、徳川家康は本願寺門派の寺院道場をことごとく破壊し、本宗寺も永禄7年(1564年)2月28日に焼失。家康は「国内宗門御停止」を命じたため、一時やむなく他の地に移りました...
ブログにお越しくださりありがとうございます最近のグルメ番組ほんとつまらんですなぁ~。「うめぇ!」「サイコー !」「濃厚!」「やわらか~!」ひたすら褒めまくって、これ以外の言葉を聞いた事がない。以前、鹿賀丈史が司会をしていた「料理の鉄人」って
次々と一揆側に寝返る家康(松本潤)家臣たち・渡辺守綱(木村昴)・夏目広次(甲本雅裕)一揆を機に動き出す三河の豪族たち。・吉良義昭(矢島健一)・松平昌久(角田晃広)そして、一揆側の軍師に本多正信(松山ケンイチ)が…当時三河では一向宗の進行が盛んだったのだろ
岡崎の妙国寺は、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、「三河物語」を綴ったことで有名な大久保彦左衛門など、幕末まで続いた大久保一族ゆかりのお寺です。大久保家の祖・宇都宮歴代の墓塔や大久保家の遠祖供養塔があります。大久保彦左衛門江戸時代初期の旗本。忠員の8男に生れ,初め忠雄,のち忠教 (ただたか) ,字は平助。天正4 (1576) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になる...
どうする家康 第8話「三河一揆でどうする!」 ~家臣団の分裂~
永禄6年(1563年)に起きた三河一向一揆は、徳川家康の長い人生のなかで、三方ヶ原の戦い、伊賀越えと並んで家康の三大危機とされる出来事です。その理由は、...
岡崎市針崎町にある勝鬘寺(しょうまんじ)は、三河における最初の真宗道場として鎌倉時代の正嘉2年(1258)、信願房了海により創建されました。(本寺の起源は2説あり、もう一つは1256年(康元元年)、顕智(親鸞の弟子真仏に師事した僧)に帰依した権守法名円善の嫡子袈裟太郎法名信願が碧海荘赤渋(現・岡崎市赤渋町)に建立した道場を始まりとするものがあります。)三河三ヶ寺のひとつに数えられ、1563年に起こった三河一向一...
三河一帯にわたる永禄6年(1563)の三河一向一揆は、徳川家康の家来・菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたことがきっかけで起こりました。西岡崎の上宮寺は当時、本願寺教団に於ける三河三ヵ寺の一つで、三河一向一揆の拠点となり、家康に対抗、その際、境内地には、倉地平左衛門はじめ100余騎がたてこもったといわれています。 本堂(ほんどう)三河一の伽藍を誇った木造の本堂は1988(昭和63)年に焼失し、1996...
吉良氏は、足利義氏の長子長氏を祖とし、所領の三河国幡豆郡吉良荘(愛知県西尾市吉良町地区)から吉良を名乗りました。室町時代には、足利氏一門諸氏の中でも家格が高く、足利将軍家に次ぐ待遇を受ける足利御三家の筆頭に位置付けられ、幕府要職を歴任。「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ、同じく足利一門である三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)より家格・格式は上位であったといい...
どうする家康 第7話「わしの家」 ~家康改名と三河一向一揆勃発~
駿府で人質状態となっていた妻子を奪還した松平元康(のちの徳川家康)は、翌年の永禄6年(1563年)7月6日、名を「家康」に改めました。「元」の字は言うま...
「家康と一向一揆」展 こんにちは!愛知お散歩ナビゲーターのほとんどうどんです。本日は安城市歴史博物館の特別展「家康と一向一揆」を見に行ってきました。 館内は平日にも関わらず、大河ドラマの影響でしょうか、多くの人で賑わっていました。入場料は500円です。 rekihaku-exhibition.ansyobunka.jp 展示物は書状や古文書などの二次元が中心でかなり玄人向け。甲冑や武器といった物は無いです。 当時の一向宗、親鸞が開いた浄土真宗ですが、ムチャクチャ影響力が強かったんですね。 三河一向一揆は家康三大危機のひとつ。 安城市には三河一向一揆の一揆側の拠点であった本證寺があります。 家康…
『村上海賊の娘』(和田竜著、上下巻)は、久しぶりに面白くて夢中になって読んだ。 織田方から包囲されている石山本願寺に毛利方が兵糧入れをするというのがストーリーの大筋だ。 入口の木津川河口は泉州海賊を中
安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院・本證寺岡崎の上宮寺、勝鬘寺と並んで三河触頭三ヶ寺として知られ、戦国時代には三河一向一揆の拠点となりました。1563年(永禄6)の9月から翌年3月にかけて、徳川家康の本拠、三河国岡崎周辺に勃発(ぼっぱつ)した一向一揆。15世紀後半、矢作(やはぎ)川周辺には浄土真宗本願寺派が、土呂本宗寺(とろほんしゆうじ)や三河三(さん)ヶ寺(じ)とよばれる佐々木上宮寺(じょうぐうじ)・針崎勝鬘寺(はり...
#129 TVメモ『家臣団分裂!若き家康 最大の試練 ~三河一向一揆の衝撃~』
大河ドラマ『どうする家康』を楽しむ上で、そのヤング家康最大の危機といってもいい三河一向一揆について、NHKのBSプレミアムの「英雄たちの選択」でその特集があっ…
英雄たちの選択「家臣団分裂!若き家康・最大の試練 〜三河一向一揆の衝撃〜」の感想
徳川家康の生涯における三大危機のひとつに数えられている三河一向一揆ですが、他の2つ「三方ヶ原の戦い」、「神君伊賀越え」に比べて、それほど関心がありませんでした。
専福寺は、三河一向一揆のときに、家康側と一揆側の調停に当たったお寺です。真宗大谷派 専福寺 浄土真宗の寺で鼓楼がある。今川家から独立を果たし、家康と名乗るようになり、岡崎城を拠点に平定しようとしていた