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「みちひろば」の徳川四天王の像(1)酒井忠次像&本多忠勝像
岡崎の籠田公園と桜城橋を結ぶ全長約320mの”みちひろば”中央緑道に、徳川四天王の像が設置されています。酒井忠次像徳川家康の覇業に功績のあった重臣。本多(ほんだ)、井伊(いい)、榊原(さかきばら)とともに徳川四天王の一人。徳川氏と同祖だという名門左衛門尉(さえもんのじょう)酒井氏の嫡流に生まれる。家康より15歳年長の忠次は早くから家康に仕え、家康の駿府(すんぷ)人質時代にも供奉(ぐぶ)して奏者役(そうじゃやく)などを...
「どうする家康」の登場人物の衣装や小道具が展示されています。突如現れ、茶を差し出した僧。徐々にその男が信玄だと気付く家康(^0^;)服部半蔵役の山田孝之さんのパネル徳川家康の衣装瀬名の衣装武田信玄役の阿部寛さんの衣装信玄のパネル家康&瀬名のパネル「どうする家康」の映像世界を楽しむことができるデジタル体験4Kシアターでは、出演者インタビューやメイキング映像、浜松でしか見られないオリジナル映像が流れていました...
浜松城の桜が開花し始め、賑わいを増した日に浜松大河ドラマ館へ出かけてきました。エントランスでは、松本潤さんの大判ビジュアルやwelcomeメッセージでお出迎え。「どうする家康」の番組概要ドラマに登場する浜松城城門を再現されています。体感!「どうする家康」の世界では、登場人物のご紹介や衣装・小道具のほか、実際の撮影で使用されたセットを展示されています。出演者の紹介パネルこちらは、椿姫ことお田鶴の方を演じた...
小谷城登城の代わりに、小谷城戦国歴史資料館を見学することにしました。小谷城戦国歴史資料館は、史跡小谷城跡内にある「戦国大名浅井氏と小谷城」をテーマに資料館です。浅井長政やお市の方、織田信長の画像(複製)や小谷城跡絵図、小谷城から出土した遺物など浅井氏と小谷城の資料が展示されています。小谷城の模型館内の資料を見たり、資料館の方の説明を聞いているうちに、小谷城に登った気分になれました(^_^;にほんブログ...
浅井長政、お市の方、浅井三姉妹(茶々、初、江)の悲劇の舞台として語られる小谷城は、長浜市の小谷山(495.1m)にあり、浅井家が3代にわたって居城としていました。堅固な山城として知られ、日本五大山城のひとつとして数えられています。小谷城址の石碑浅井長政は織田信長の妹・お市の方を妻に迎えて織田氏と同盟して全盛を築きましたが、信長と越前国の朝倉義景の対立が深まると、朝倉氏に与したことから、織田勢との武力対立...
4月2日の放送から、浅井長政が登場するらしいので、それに合わせて、浅井長政と家族の像をアップします。長浜市浅井支所の向かいに「家族(長政とお市)」の像があります。浅井長政と妻のお市の方、そして彼らの子どもたちの浅井三姉妹(茶々、初、江)と嫡男の万福丸お市の方が指差している方向は、以前は小谷山だったそうですが、来場者に背を向けることを避けるため、今は琵琶湖の方を向いているそうです。家族(長政とお市)町名...
現在、京都の二条城といえば、慶長8年(1603)に徳川家康が上洛の際の宿舎として造営したもので、織田信長が将軍・足利義昭のために建てた旧二条城は、現在の平安女学院周辺にありました。平安女学院大学と平安女学院中・高等学校の間の通りを行くと、平安女学院の前に石碑が建っています。 旧二条城永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390メートル...
岡崎城公園には、さまざまな徳川家康の銅像があります。威厳たっぷりの像騎馬像出生ベンチの像家康の子供の頃の竹千代の像こちらは愛らしい竹千代像そしてあの有名なしかみ像あなたの家康公のイメージは、どの銅像に近いですか?にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
岡崎城の清海堀は、本丸北防衛のために設けられました。内側にカーブしているのが特徴です。創築者の西郷頼嗣(清海入道)の名から清海堀と呼ばれています。 清海堀(せいかいぼり) 本丸北側に位置し、本丸と持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)を隔てる堀です。岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣の法名「清海入道」にちなみ付けられました。 城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。本丸側は急斜面の土...
「どうする家康」の出演者のパネル徳川家康瀬名魔王もいました(^0^;)織田信長本多忠勝の衣装竹千代の衣装瀬名の衣装信長の衣装岡田信長によく似ていますね!私は平日に行ったので、すぐに入れましたが、週末は混み合っているようです。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記ランキング...
先日、岡崎の大河ドラマ館に出かけてきました。入り口では、グレート家康公「葵」武将隊の井伊直政殿と本多忠勝殿がお出迎えしてくれました!エントランス「どうする家康」の出演者の衣装や小道具の展示、史実展示、フォトスポット、4Kシアターなどの10のエリアが設けられていて、家康の人生やドラマの世界観を体験できます。徳川家康の衣装本多忠勝のパネル顔が照明で光ってしまって残念(..;)このコーナーで、撮影可能なものは、...
1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真と徳川家康との戦において、家康が本陣を置いたのが、掛川の龍尾神社の境内です。半年に渡る激しい攻防戦の結果、氏真が掛川城を家康に明け渡す形になりました。掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として、山内一豊を初めとする歴代城主から崇敬を受けました。また、一豊が高知城に移転した際、高知城下にも龍尾神社を勧請し、掛川に因んで掛川神社と命名しまし...
ファミキャン初心者★春を探して〜静岡、浜松で美味しいもの食べる無計画な旅③
ご訪問ありがとうございます。 子育てがもう少しで終わりそうな Bonnです。(⑅•ᴗ•⑅) ⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛༝⊛ キャンプ初心者の目線から 気がついたことを発信しています。 自己紹介は⇨こちら 冬キャンプにお
掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。掛川城御殿 は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿しては、京都 二条城など全国で4箇所しかない貴重な建築物です。 書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋 は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化...
お立ち寄り下さり、ありがとうございます。 墓参で訪ねた静岡は、今年の大河ドラマ「どうする家康」の縁の地として大賑わい。 町のあちらこちらでこの機会にあやかろう…
掛川城天守閣は、地震による倒壊で、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみでしたが、平成6年(1994)、市民や地元企業などから10億円の募金を集めて戦後初となる木造による天守が再建され、掛川のシンボルとなっています。山内一豊と千代の顔出し看板こんな方に出会いました!軍配軍扇功名が辻で使われた幟天守閣から見た御殿にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブロ...
永禄11年(1568年)今川氏真は、甲斐の武田氏に駿河を追われ、朝比奈泰朝のいる掛川城に立てこもりました。翌年、徳川家康は掛川城を攻めますが、泰朝の守りはかたく、なかなか落城しませんでした。しかし、ついに和睦により氏真の身の無事を家康に認めさせる条件で、泰朝は開城を決意しました。氏真と泰朝は1569年2月8日(永禄12年1月23日)に掛川城を開城し、小田原城へ退去。掛川城には城代として家康の重臣・石川家成・康通親子...
掛川城より東に500mほどのところにあった掛川古城は、山内一豐が現在の位置に掛川城を築城する以前、戦国時代の明応6年から文亀元年の間に、今川氏が遠江支配の拠点として重臣・朝比奈泰煕に築かせたと言われています。その後、遠江における今川氏の勢力拡大に伴い、掛川古城では手狭となり、永正9年から10年頃に現在の地に掛川城が築かれました。龍華院は、掛川古城があったところで、東側には空堀が残っています。1568年、掛川城...
井伊谷三人衆(いいのやさんにんしゅう)は、永禄11年(1568年)末に徳川家康が遠州攻めを行った際に今川氏真から徳川方へ離反した近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時の3人のことをいいます。永禄11年(1568年)徳川家康は遠江侵攻の際、今川氏への忠誠心が強い遠州浜名湖の沿岸部を有する領主たちが障害となることを恐れ、東三河の菅沼定盈を使って懐柔。定盈は同族の菅沼忠久に接触、忠久が縁戚の鈴木重時を抱き込み、近藤康用まで取...
静岡の龍雲寺は、今川氏親の正室で、今川氏輝、今川義元の母である寿桂尼の菩提寺です。今川氏真が当主になっていた頃、終の棲家といたのが龍雲寺です。JR静岡駅からバス北街道線・瀬名新田行き他15分、沓谷3丁目下車、歩くこと数分です。龍雲寺本堂の前には、没後四百年記念に建立された寿桂尼が使用した「歸」(とつぐ)の印判を刻んだ石碑が建っています。「歸」は、寿桂尼が氏親に嫁いできた時、父親の中御門宣胤が印判に彫...
浜松まつりは、子どもの誕生を祝い、健やかな子の成長を願う祭りです。この祭りは、引間城主であった飯尾連龍とお田鶴方の嫡男の誕生を祝って大凧を揚げたことが起源との説があります。※3月19日の紀行で、元城町東照宮と椿姫観音が紹介されましたので、再編集してあります。お田鶴の方がおんな城主直虎として守り戦った引間城跡には、徳川家康を祀る元城町東照宮があります。浜松城公園駐車場の向かいにあるペットと一緒に楽しめる...
浜松城周辺の史跡より、椿姫観音を紹介します。お田鶴の方(おたづのかた)は、浜松城の前身の引馬城城主・飯尾連竜(つらたつ)の妻で、父は鵜殿長持、母は今川義元の義妹。築山殿とは今川氏の同族で、母同士が義理の姉妹にあたります。井伊家と飯尾氏は、ともに国人領主であり、今川氏の家臣でした。連竜の父・乗連(のりつら)は、井伊直虎の父・井伊直盛と同様、桶狭間の戦いで、今川軍の先鋒を務め、信長軍に討たれて戦死。飯...
1568(永禄11)年頃から徳川家康の遠江進攻が始まり、家康は菅沼定盈と、菅沼忠久・近藤康用・鈴木重時ら井伊谷三人衆に道案内をさせ、引佐奥山から奥山方広寺に立ち寄りました。なぜ、方広寺だったかというと、そこの僧が家康に通じていたそうです。家康軍8千は方広寺に二晩滞在。方広寺の僧徒は家康軍の滞在を喜び、人質まで出して恭順を示し、また住民たちは、食べ物や飲み物を用意して徳川軍をもてなしました。家康は、方広寺...
牛久保城は三河国宝飯郡牛久保にあった平城です。享禄2年(1529年)に宝飯郡の牧野城主であった牧野成時(古白)の子、成勝が築城したと伝えられています。以来、成勝、貞成、成定、康成の牧野氏4代にわたる居城となりました。牧野成定の時代の1561年(永禄4)に、前年の桶狭間の戦いで今川氏から自立して三河の平定に乗り出した松平元康(徳川家康)の奇襲攻撃を受けますが、この奇襲は失敗し、牛久保城はしばらくの間、今橋城(...
浜松市北区引佐町川名にある渓雲寺は、永禄6年(1563)、今川氏真の命令で天野氏の犬居城攻めに行く途中に急死した井伊直虎の曽祖父・井伊直平を祀る菩提寺です。直平は、1489年(諸説あり)に井伊谷城主、直氏の嫡男として生まれました。『井伊家伝記』では今川氏真が織田信長への弔い合戦をしかけ、直平は氏真と共に出陣するも白須賀で陣を敷いていた直平の軍勢から南からの強風が原因で出火し白須賀のあちこちの集落が焼き払われ...
永禄5年(1562)、家老の小野但馬守が、「井伊直親が松平元康(のちの徳川家康)と内通して謀反を起こそうとしていると、今川氏真に讒言をしたため、直親は、弁明に駿河へ向かう道中、掛川城主・朝比奈備中守によって謀殺されました。享年27。直親の首は、南谿和尚が蜂前神社の宮司を使いに出して掛川城からもたい受け、首と体を一緒にして、棺に入れ、都田川の河畔で火葬にされました。直親の墓は都田川と堤防の中間になった平場に...
ファミキャン初心者★春を探して〜掛川桜、そして美味しいもの食べる無計画な旅①
ご訪問ありがとうございます。 子育てがもう少しで終わりそうな Bonnです。(⑅•ᴗ•⑅) ⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛⊛༝⊛ キャンプ初心者の目線から 気がついたことを発信しています。 自己紹介は⇨こちら 冬キャン
1562年(永禄5)井伊家の当主となった井伊直親は、遠江を手中にしょうとしていた三河の松平元康(徳川家康)から、今川を見限り徳川に付くよう誘いを受けたとされています。直親が家康と通じているという嫌疑を、小野但馬守が今川氏真に伝えたことから、氏真は激怒。直親を駿府館に呼び出し、真意を聞くことになりました。直親は、申し開きのため、19人の従者を連れて、駿府館に向かいますが、その途中の掛川の十九首で、今川氏真の命...
遠州忩劇(えんしゅうそうげき)とは、永禄5年(1562年)から同9年(1566年)にかけての主に天竜川流域における国衆による今川氏への大規模な叛乱のことをいいます。桶狭間の戦いで、敗北した今川家の勢力が弱体化すると、今まで今川家に臣従してきた松平元康(徳川家康)が独立。織田家と同盟を結び、今川家との対決姿勢を見せ、今川家に反旗を翻す在地領主も出てきました。浜松市中区成子町の東漸寺東漸寺は、引間城主飯尾豊前守連...
引間城本丸跡に建つ元城町東照宮(2)若き日の家康・秀吉二公像
元城町東照宮の境内には、徳川家康と若き日の豊臣秀吉(木下藤吉郎)の像があります。秀吉(木下藤吉郎)は織田信長に仕える前、16歳前後の3年間、曳馬城主の配下の松下加兵衛に仕え、浜松で暮らしたことあるので、家康像の隣りに秀吉像もあります。二人の像の間に立って、写真を撮れるように作られています。 若き日の家康・秀吉二公と引間城 元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。戦国時代のこの城...
浜松城の前身は15世紀頃に築城された引間城(曳馬城)でした。築城者については諸説あり。室町時代中期には三河国の吉良氏が支配していたことが判明しています。遠江の斯波氏と駿河の今川氏の抗争中、吉良氏の家臣団の中で斯波氏方の大河内貞綱と今川氏に味方をする飯尾乗連(またはその父飯尾賢連)が争い、大河内貞綱が破れると、吉良氏も浜松の支配権を失い、今川氏親配下の飯尾氏がこの地に入部し、飯尾乗連(あるいは父の飯尾...
永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠江侵攻により、徳川家の支配下に置かれた井伊谷。元亀3年(1572)大軍勢を率いた武田信玄が、遠江国に侵攻を開始。次々と支城を落とし、浜松城へと迫っていました。徳川方についた井伊家も標的になり、山県昌景率いる武田別働隊は、井平城を陥落させた後、井伊谷に入り、井伊谷城を占拠。井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居...
数年前、青春18切符を利用して、三河田原へ行ってきました。豊橋で、豊橋鉄道に乗り換え、三河田原へ。徒歩15分という案内でしたが、この日はとても暑い日でしたので、駅で自転車を借りて田原城へ向かいました。田原城は、三河国渥美郡田原(愛知県田原市田原町巴江)にあった戦国期から江戸期の城で、江戸時代には田原藩1万2千石の藩庁でした。文明12年(1480年)ころに戸田宗光(全久)によって築城され、周りを海に囲まれた堅固...
吉田城は、永正2年(1505)長山一色城主・牧野古白が、今川氏親の命により、渥美郡馬見塚村に今橋城を築いたことに始まります。永正3年(1506年)松平氏と今川氏の戦いの後、牧野古白・野瀬丹波が討死。二連木城や田原城に拠点を持つ戸田氏と、牧野氏が争奪戦を繰り返すため城主が次々と入れ替わり、大永2年(1522年)城主であった牧野信成(古白の子)によって吉田城と改められました。天文15年(1546年)牛窪城主(長山一色城主)の牧野...
西尾市立西尾中学校の南の辺りは、中世の今川荘の中心地であったと推定され、今川氏発祥の地の碑が建っています。吉良荘西条城主であった吉良長氏が次男の国氏に扶持として今川荘を与え、国氏が地名にちなんで今川氏を名乗ったことが今川氏の発祥と伝えられています。 今川 承久の乱後, 足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。義氏の嫡子長氏は, 義氏が足利へ帰った跡式を継ぎ, 吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家 は二代...
西尾の実相寺は、文永8年(1271年)、吉良満氏が吉良氏の菩提寺として創建されました。開山には、京都の東福寺から円爾(聖一国師)を迎え、中国・経山寺の絵図に倣って壮大な伽藍が造営されました。天文15年(1546)に今川義元の軍師・太原崇孚が入ると妙心寺派に改めました。永禄3年(1560)、織田信長の兵火によって堂の多くを焼失しましたが、鳥居元忠が再建に尽力しました。。毎年4月第2日曜日の「お釈迦さん」(花祭り)では、堂...
JR岡崎駅下車徒歩10分のところにある浄珠院天台宗の慈覚大使円仁が承和年間(834年~848年)に創建した清光院大海寺を起源とする。応永年間(1394年~1427年)に松平泰親の長子である教然良頓により浄土宗に改宗され再興された[1]。山号は清光山。本尊は阿弥陀如来。松平氏の外護を受け、永禄6年(1563年)の一向一揆の際は本寺で和議が成立した。田中吉政の寺社領取り上げで寺領を失ったが、慶長8年(1603年)8月26日付家康朱印状...
慶取門拝殿慶長8年(1603年)8月26日の家康朱印状で180石を寄進されました。本殿寛永11年(1634年)8月23日に3代将軍徳川家光が上洛の際に参拝しています。御開運竹永禄6年(1563)一向一揆の折、徳川家康公 鳩ヶ窟において難を逃れ、神前に開運を祈り矢をこのところに挿し退化せり。この矢根芽を生じ生育せりと伝う この竹四時たけのこを生ず。ヒメハルゼミ生息地毎年正月3日に開催される御田植神事「デンデンガッサリ」室町時代か...
岡崎市舞木町宮下にある山中八幡宮は、徳川家康の父・松平広忠が再興したといわれ、家康初陣の際に必勝祈願した神社です。田園地帯の先に鳥居が見えてきます。当地の山中光重という人が、朱鳥14年(699年)9月9日、宇佐八幡大神の夢のお告げで神霊を迎え、社を建てたのがはじめといわれています。大クス樹齢650年といわれる根回り14メートルの当社の御神木。松平広忠が寄進した乱舞面(室町時代作)が市の文化財に指定されています。...
岡崎市美合町にある本宗寺は、浄土真宗本願寺派の寺院です。名鉄「美合駅」下車徒歩7分ほどのところにあります。蓮如上人が西三河教化の中心とするため、応仁2年(1468)に創建しました。創立当時は土呂(現在の福岡町)にあったそうです。三河一向一揆の際、徳川家康は本願寺門派の寺院道場をことごとく破壊し、本宗寺も永禄7年(1564年)2月28日に焼失。家康は「国内宗門御停止」を命じたため、一時やむなく他の地に移りました...
西岡崎にある妙源寺は、三河の浄土真宗で最も古いといわれる、高田派の寺院です。文暦2年(1235年)、親鸞が当地に立ち寄ったことが始まりとされ、在地領主安藤薩摩守信平は、上人の教えに感化されて仏門に入り念信と改名、正嘉2年(1258年)に寺を建て、これを明眼寺と名付けました。三河一向一揆の際、徳川家康は本寺に身を寄せ難を逃れたことにより家康から「源」の一字を与えられ、妙源寺と改称しました。本尊は源義経の持仏で...
岡崎の妙国寺は、徳川家康、秀忠、家光の三代に仕え、「三河物語」を綴ったことで有名な大久保彦左衛門など、幕末まで続いた大久保一族ゆかりのお寺です。大久保家の祖・宇都宮歴代の墓塔や大久保家の遠祖供養塔があります。大久保彦左衛門江戸時代初期の旗本。忠員の8男に生れ,初め忠雄,のち忠教 (ただたか) ,字は平助。天正4 (1576) 年 16歳の初陣に戦功をあげ旗本に列せられ,以来徳川家康に仕えて功績があった。大名になる...
西尾市上町浜屋敷の紅樹院(こうじゅいん)は、天台宗の寺院として創建されましたが、大永年間(1521年-1528年)、徳川家康の乳母である大叔母にあたる隨念院殿桂室泰栄大姉・於久の方を弔うために、浄土宗に転宗したと伝わっています。また、西尾に茶産業を広めた「茶祖の寺」として知られ、西尾茶の原樹があります。1872年(明治5年)、34世住職の足立順道(あだちじゅんどう)は京都の宇治から茶の種を持ち帰り、境内を自ら開墾...
岡崎市針崎町にある勝鬘寺(しょうまんじ)は、三河における最初の真宗道場として鎌倉時代の正嘉2年(1258)、信願房了海により創建されました。(本寺の起源は2説あり、もう一つは1256年(康元元年)、顕智(親鸞の弟子真仏に師事した僧)に帰依した権守法名円善の嫡子袈裟太郎法名信願が碧海荘赤渋(現・岡崎市赤渋町)に建立した道場を始まりとするものがあります。)三河三ヶ寺のひとつに数えられ、1563年に起こった三河一向一...
三河一帯にわたる永禄6年(1563)の三河一向一揆は、徳川家康の家来・菅沼定顕が上宮寺から糧米を強制的に徴収しようとしたことがきっかけで起こりました。西岡崎の上宮寺は当時、本願寺教団に於ける三河三ヵ寺の一つで、三河一向一揆の拠点となり、家康に対抗、その際、境内地には、倉地平左衛門はじめ100余騎がたてこもったといわれています。 本堂(ほんどう)三河一の伽藍を誇った木造の本堂は1988(昭和63)年に焼失し、1996...
偶然Google マップで見つけて、吉良陣屋跡から向かった椿屋敷跡こちらも吉良氏ゆかりの史跡でした。 椿屋敷跡 戦国時代、東条・西条両城主を兼務していた吉良義安は、今川氏真に疑われ、駒河藪田(静岡県藤枝市)に幽閉されたままでその地で亡くなった。 義安の妻俊継尼(家康の伯母)は遺児・義定を連れて吉良に帰り、ここに居を構え、椿屋敷と呼ばれた。椿屋敷は、吉良家再興の足がかりとなった地である。 平成15年3月 西尾...
西尾市吉良町にある岡山陣屋は、高家吉良家の陣屋で、別名を吉良陣屋跡、椿陣屋とも言います。天正年間に吉良義定が居館を築いたのが始まりとされています。義定の母は松平広忠(徳川家康の父)の妹であり、家康にとっては従兄弟にあたります。嫡男・義弥は、関ヶ原の戦いで東軍に属して領地を安堵され、その跡は義冬が継ぎました。義冬の嫡男が吉良義央。吉良義定吉良義安の子。母は松平清康(家康の祖父)の娘であり、徳川家康と...
吉良氏は、足利義氏の長子長氏を祖とし、所領の三河国幡豆郡吉良荘(愛知県西尾市吉良町地区)から吉良を名乗りました。室町時代には、足利氏一門諸氏の中でも家格が高く、足利将軍家に次ぐ待遇を受ける足利御三家の筆頭に位置付けられ、幕府要職を歴任。「御所(将軍)が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と俗に言われ、同じく足利一門である三管領家(斯波氏・細川氏・畠山氏)より家格・格式は上位であったといい...
慶長5年(1600)に吉良義定によって父・義安の遺徳をしのぶため建立された華蔵寺は、吉良家の菩提寺と定められました。吉良家墓所吉良家墓所には義安から義央の継嗣・義周までの吉良家6代の墓があります。高家に任ぜられた義弥が、本堂西側に父・義定の供養のための石塔を建てて以降、歴代吉良家当主の石塔と子供たちの石塔をその周囲に建て、このような墓所となったそうです。毎年、吉良の命日である12月14日には毎歳忌(まいさ...