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井伊家の菩提寺で「招き猫」発祥の地:東急世田谷線ぶらり途中下車の旅③
山下では「旬菜魚いなだ」に行列ができていたので、ランチ客が一巡するまで豪徳寺を先にまわることにしました。 山下駅と小田急線の豪徳寺駅は隣接していますが、世田谷線でもう一駅先の宮の坂駅からの方が若干近くにあります。この日は乗り放題きっぷを持っていたので、世田谷線で宮の坂ま...
今年の初詣は、地元浜松のお寺を選びました。浜松駅から西へ約1.2kmほどのところに、遠州高野山 鴨江寺があります。地元では、鴨江観音という愛称で親しまれ、お彼岸には多くの参拝客で賑わいます。鴨江寺は、奈良時代に遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと行基菩薩に依頼し創建されたといわれ、今でも鴨江町一帯は、地元の人たちから長者平(ちょうじゃびら)と呼ばれています。そして、鴨江寺の大伽藍を利用し...
<与板(よいた)陣屋>の”城門”を巡る-”直江兼続”のお城から井伊家の陣屋となり多くの遺構を遺す
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単…
豪徳寺は大老を輩出した井伊家の菩提寺、大名墓所が当時を偲ばせる【東京・世田谷区】
世田谷にある古刹、豪徳寺は彦根藩主・井伊家の菩提寺でした。井伊家が整備した建築物が残り、歴代藩主の墓所では当時の大名墓所の様子がうかがえる。招き猫の発祥地ともいわれ、境内で多くの招き猫に出会える。
後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました...
井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居館に加え、最終的な詰め城である三岳城で構成されていました。現在は城山公園として整備されており、土塁などの遺構が見学できます。井伊谷城跡(城山公園)井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。南北朝の動乱期(1336~1392)には、...
大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台にもなった奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。 井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。 井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・井伊直弼を輩出した家として知られています。 遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「井伊共保出生の井戸」です。 広い通りから、一本入りますが、白壁の塀を目印にすれば、見つかります。共保公とは、平安時代から戦国時代までの...
永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠江侵攻により、徳川家の支配下に置かれた井伊谷。元亀3年(1572)大軍勢を率いた武田信玄が、遠江国に侵攻を開始。次々と支城を落とし、浜松城へと迫っていました。徳川方についた井伊家も標的になり、山県昌景率いる武田別働隊は、井平城を陥落させた後、井伊谷に入り、井伊谷城を占拠。井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居...
米原市の日撫神社(ひなでじんじゃ)は、旧近江町エリアの日撫山に鎮座する延喜式内坂田五社のひとつです。日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が代々住まわれた地であるという事から、神功皇后はこの地を深く慕われていました。現米原市に祠を建立し、少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりとされ、後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られました。承久の乱直前に後鳥羽上皇が訪れ、...
2022年11月20日、東京ガーデンテラス紀尾井町で開催されたイベント「しが体感フェスタin紀尾井」において、小和田哲男先生のセミナー「彦根井伊家の歴史とその謎に迫る」を聴講した感想を書いています。