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後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました...
井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居館に加え、最終的な詰め城である三岳城で構成されていました。現在は城山公園として整備されており、土塁などの遺構が見学できます。井伊谷城跡(城山公園)井伊氏は、平安時代の在庁官人からはじまり、中世には国人領主として、浜松市北区一帯(引佐、細江、都田)などを治めました。南北朝の動乱期(1336~1392)には、...
大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台にもなった奥浜名湖の北にある浜松市北区引佐町井伊谷。 井伊谷は、かつて井伊家が治めた土地です。 井伊といえば、家康幕下の名将・直政や幕末の大老・井伊直弼を輩出した家として知られています。 遠州の名刹・龍潭寺門前の田んぼの一角にあるのが「井伊共保出生の井戸」です。 広い通りから、一本入りますが、白壁の塀を目印にすれば、見つかります。共保公とは、平安時代から戦国時代までの...
永禄11年(1568)12月、徳川家康の遠江侵攻により、徳川家の支配下に置かれた井伊谷。元亀3年(1572)大軍勢を率いた武田信玄が、遠江国に侵攻を開始。次々と支城を落とし、浜松城へと迫っていました。徳川方についた井伊家も標的になり、山県昌景率いる武田別働隊は、井平城を陥落させた後、井伊谷に入り、井伊谷城を占拠。井伊谷城は、標高約115m、丘陵に築かれた井伊氏の城館です。井伊氏の本拠地は、井伊谷城とその山麓にあった居...
米原市の日撫神社(ひなでじんじゃ)は、旧近江町エリアの日撫山に鎮座する延喜式内坂田五社のひとつです。日撫神社のある地は、仲哀天皇の皇后である神功皇后の祖先が代々住まわれた地であるという事から、神功皇后はこの地を深く慕われていました。現米原市に祠を建立し、少彦名命と父である息長宿禰王を祀られたのが始まりとされ、後鳥羽上皇が度々参詣され、応神天皇を合わせて祀られました。承久の乱直前に後鳥羽上皇が訪れ、...
2022年11月20日、東京ガーデンテラス紀尾井町で開催されたイベント「しが体感フェスタin紀尾井」において、小和田哲男先生のセミナー「彦根井伊家の歴史とその謎に迫る」を聴講した感想を書いています。
奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期、安永12年再建の不動院書院跡です。鶴の間床の間に富士山と鶴が描かれています。彦根藩井伊家の参内の時の休憩所ともなり、勅使の間ともいわれています。狩野派の絵師による襖絵は、元々多賀大社の別当寺(神宮寺)であった天台宗不動院の大書院にあったもので、安永2年(1773年)の大火で大書院が焼失した際にも持ち出されて無事だったそうです。庭園(国名勝指定)奥書院から見下ろすように築かれた安土桃山時代の池泉観賞式の庭園で、広さは約二百坪。正面に守護石を据え、左右に鶴と亀の岩島を配し、大きな自然石を渡して橋としています。天正16年(1588)豊臣秀吉が、母・大政所の病気平癒を祈願して奉納した米一万石をもとに築造されたと伝えられています。ブログランキングの応援よろしくお願いしま...多賀町を巡る(14)多賀大社「奥書院・名勝庭園」