メインカテゴリーを選択しなおす
家康を辿る城旅「小川城」!家康決死の"伊賀越え"を援けた甲賀信楽の山城
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。 全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康を辿る城旅「小川城」!家康決死の"伊賀
#334 本能寺の変と神君伊賀越えを『三河物語』から見る ~『どうする家康』を楽しむため
7月23日の大河ドラマ『どうする家康』でついに最期を迎えた織田信長、その本能寺の変とその後の家康の伊賀越え”神君伊賀越え”を大久保彦左衛門忠教の(忠世の弟)の…
#339 第29回「伊賀を越えろ!」感想~大河ドラマ『どうする家康』
後年、天下人になっても語ろうとしなかった思い出といわれる伊賀越えを7月30日大河ドラマ『どうする家康』の第29回「伊賀を越えろ!」について真面目にやらかす天然…
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変で織田信長(1534~82)が明智光秀(?~1582)の謀反で命を落とす。信長の招きで安土、京、堺を訪れていた徳川家康(1542~1616)は、命をかけた逃避行で領国の三河(愛知県)へと逃げ帰る。三河一向一揆、三方ヶ原の合戦とともに家康の3大危機のひとつとされる「神君伊賀越え」である。 だが、有名な事件なのにもかかわらず、伊賀越えのルートには諸説あり、謎が多い。富山市郷土博物館主査学芸員の萩原はぎはら大輔さんは、家康は通説とは異なるルートを通ったと推測している。 萩原さんといえば、加賀藩の兵学者だった関屋政春(1615~85)が戦国時代の逸話を書き残…
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 39.徳川家康・二十七
服部半蔵の家臣の芝山小兵衛は、徳川家康に対し、「正成は、討ち死にした」と伝えたが、遺体を回収しようと戻ると、生きていたため、介抱しながら、共に帰ったと言われ…
碧南市浅間町に鎮座する浅間神社は、寛文9年(1669)吉左衛門家次が創建されました。天正10年(1582)6月2日の朝に「本能寺の変」の報を聞きつけた徳川家康。命からがら伊賀越えをして大浜経由で岡崎へ逃れる道中、家康一行は、碧南北部にある浅間神社近くに上陸しました。農民が「麦えまし」という食事を差し出されたところ、空腹に耐えかねた徳川家康は、浅間神社で食べたと伝えられています。浅間神社では、現在でも夏越祭で「麦...
どうする家康 第29回「伊賀を越えろ!」 ~神君伊賀越えと山崎の戦い~
本能寺の変の報せを受けた徳川家康一行は、たちまち大ピンチとなります。というのも、織田と同盟関係である徳川は、明智光秀からみれば敵といえました。もし、明智軍...
加太越から白子に出て、船で三河の大浜へ。船を手配したのは、角屋七郎次郎秀持でした。角屋 七郎次郎(かどや しちろうじろう)は、伊勢商人・角屋家当主が代々名乗った名前。角屋は屋号。本姓は松本。寛永年中には「角谷」とも号する。なお、代数は、角屋七郎次郎秀持を初代とする場合と2代目とする場合がある初代 角屋七郎次郎 秀持 朝熊山の柴を集め、廻船で各地に販路を広げた。1575年(天正3年)4月、北条氏政が徳川家康に...
甲賀市信楽町多羅尾の伊賀越えの道4日目は小川城から神山に向かい、桜峠を越えて伊賀に入り、柘植の徳永寺に寄りました。当寺で一泊した家康はその時のお礼に、田畑や山林を与え、葵紋の使用も許したといわれています。徳永寺葵の御紋入った瓦伊賀越えの新説ルート甲賀伊賀越え通過点の一か所とみている天台宗明王寺(甲南町磯尾)には徳川家康より四代の位牌があり、神君甲賀伊賀越えの新たなルートの拠点として近年注目を集めて...
滋賀県在住の歴女の友人が、伊賀越えの画像を送ってくれたので、「伊賀越え」についてまとめてみました。天正10年6月2日(1582年6月21日)未明、織田信長が明智光秀軍に殺害されるという本能寺の変が勃発。信長の同盟者であった徳川家康は、その時堺に投宿していましたが、茶屋四郎次郎から変の報を聞いて、明智軍の支配下にある京都に上り、松平氏にゆかりのある知恩院に駆け込んで「追腹」を切ると言い出しました。しかし本多忠...