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名古屋の北に位置するのが小牧市です。 小牧市の中央にこんもりとした小牧山があり、その頂上に小牧山城が鎮座しています。 小牧山城まで登ってみることにしました。 小牧山は戦国時代の小牧・長久手の戦いの舞台です。 小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれた。 また、この合戦に連動した戦いが北陸・四国・関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手…
#396 小牧・長久手の戦いその1~『松平家忠日記を読む』から見る
8月20日の大河ドラマ『どうする家康』では描かれていた家康と秀吉の最初で最後の直接対決のを『家康家臣の戦と日常 松平家忠日記をよむ (角川ソフィア文庫)』で見…
#398 小牧・長久手の戦いその2~『松平家忠日記を読む』から見る
8月20・27日の大河ドラマ『どうする家康』では描かれていた家康と秀吉の最初で最後の直接対決の”小牧・長久手の戦い”とその終わりを『家康家臣の戦と日常 松平家…
#410 難航する秀吉と家康の和議~『松平家忠日記を読む』から見る
8月20・27日の大河ドラマ『どうする家康』では描かれていた家康と秀吉の最初で最後の直接対決の”小牧・長久手の戦い”後の和議の流れを『家康家臣の戦と日常 松平…
蟹江城合戦の舞台となった蟹江城址は、JR関西本線蟹江駅下車徒歩15分ほどのところにあります。蟹江城は、永享年間(1429~1440)に北条時任により築城されました。戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭(さんかく)があり、大野、下市場、前田の三つの支城がありましたが、天正12年(1584)の蟹江合戦において、織田・徳川連合軍により落城、翌年の大地震で壊滅し、今は石碑と井戸を残すのみです。蟹江城合戦(蟹江合戦)とは、...
久岳山安昌寺は、小牧・長久手の戦いの後、雲山和尚が戦死者を手厚く供養したことから、後に尾張藩主をはじめ多くの藩士が当寺を訪れ、合戦にまつわる各種の書付を残しました。また丹羽氏次の田畑寄進状などの文書やうわばみという大蛇の説話絵馬など美術工芸品も伝わります。8月10日、観音堂の九万九千日の祭りには多くの人で賑います。天正12年(1584)小牧・長久手合戦がこの地で終戦となったので、首塚・耳塚が残っています。...
【清和源氏】編『新田一族』章「徳川氏」節 47.徳川家康・三十五
森長可の討ち死によって、池田・森軍の左翼が、崩れ始めると、徳川軍の優勢となった。 池田恒興は、自軍の立て直しを図ったが、永井直勝の槍を受けて、討死にした。…
現在、血の池公園となっているところは、小牧・長久手の戦いの時、徳川家康方の家臣・渡辺守綱らが血のついた槍や刀を洗った池がありました。この池には「毎年、合戦のあった4月9日に池の水が赤くなる。」という伝説が残り、「血の池」と呼ばれていました。この池を埋め立て、整備されたのが、「血の池公園」で、住民の憩いの場になっています。現在は池はありませんが、公園の中の低くなっているのが、池の名残りです。公園の奥に...
天正12(1584)年に徳川家康と羽柴秀吉が激烈な戦いを繰り広げた小牧・長久手の戦いの長久手の主戦場跡地は、現在、「古戦場公園」として整備され、国の史跡に指定されています。園内には小牧・長久手の戦いで戦死した池田恒興、元助親子の塚や郷土資料室があります。古戦場公園郷土資料室で、レンタサイクルを借りて、長久手古戦場の史跡巡りをしてきました。勝入塚勝入塚は、池田恒興(勝入)が戦死した場所と伝えられています。尖っ...
愛知県春日井市にある太清寺(たいせいじ)。かつては醍醐山龍源寺と呼ばれ、徳川家康の逸話が伝えられていることで知られます。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、徳川家康が小牧山から長久手に向かう折、当地の阿弥陀堂で休憩しました。家康が「ここは何という所か」と尋ねたため、庄屋の長谷川甚助が「勝川村にございます」と申し上げたところ、「勝川とな、これは吉祥、縁起のいい名だ」と喜びました。また、そこで牡丹餅を...
岩崎城の築城年代ははっきりしていませんが、織田信長の父である織田信秀により築城され、属将・荒川頼宗が守備していたとされます。この地「岩崎」は、尾張、三河間を往来する街道の要衝地でした。享禄2年(1529)徳川家康の祖父・松平清康が攻め落としましたが、天文4年(1535)に清康が陣中で家臣に暗殺される事件(森山崩れ)が起こると、代わって、本郷城(日進市)の丹羽氏清が同城に移り住み、以後、丹羽氏が4代にわたって岩崎城主...
小幡城(おばたじょう)は、名古屋市守山区西城付近にあった城です。小牧・長久手の戦いでは、徳川家康が、小幡城を修築し、池田恒興・森長可率いる豊臣方の別働隊を破った後、小幡城に入城しました。現在は宅地となっていて、明瞭な遺構は残っていませんが、駐車場に「小幡城跡」の案内板が設置されています。 小幡城跡大永2年(1522)岡田重篤が築城したといわれ、東西約200メートル、南北約70メートルであった。重篤は織田敏信、...
どうする家康 第32話「小牧長久手の激闘」 ~小牧・長久手の戦い(後編)~
天正12年(1584年)3月17日に起きた羽黒の戦いで徳川家康・織田信雄連合軍が大勝利を収めたあと、徳川軍は小牧山城に、羽柴秀吉軍が楽田にそれぞれ陣を布...
山頂の小牧市歴史館を目指してさらに登っていきます。史跡小牧山主郭地区~織田信長が築いた小牧山城~ 永禄期大手道の石積 大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16~19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。 大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によっ...
~基礎情報学習帳:小牧・長久手の激闘~ NHKの大河ドラマのエースとも言える徳川家康が主役ですが、「どうする家康」31回も大河ドラマ「どうする家康」、関連本などの中から情報を整理します。
小牧市の玉林寺は、元々は小牧山の麗にありましたが、元和9年(1623年)に現在地に移転しました。本尊として祀られている如意輪観世音菩薩像は、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いで小牧山に陣を張った徳川家康が、山の周囲に堀を造らせたところ、地中から見つかったとされています。本堂観音像毘沙門堂庫裏にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログラ...
どうする家康 第31回「史上最大の決戦」 ~小牧・長久手の戦い(前編)~
越前北ノ庄城にて柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、織田信長の後継者として日増しに勢力を強めはじめます。勝家とともに秀吉と対抗していた信長の三男・織田(神戸)...
羽黒の戦いは、八幡林の戦いとも呼ばれています。天正12(1584)3月16日、小牧・長久手の合戦に際して、羽柴秀吉側の森長可と徳川家康側の酒井忠次らの軍勢が戦った八幡林古戦場は、犬山市羽黒八幡にある羽黒八幡宮周辺といわれています。野呂塚野呂助左衛門宗長と息子の野呂助三郎は、森長可を逃がすために奮戦しましたが、徳川軍に討ち取られてしまいました。二人をを顕彰するために建てられたのが、野呂塚です。この野呂塚は、八...
小牧・長久手の戦いは、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦いで、尾張北部の小牧山城・犬山城・楽田城を中心に、尾張南部・美濃西部・美濃東部・伊勢北・紀伊・和泉・摂津の各地で合戦が行なわれました。楽田城(がくでんじょう)は、尾張国丹羽郡楽田(現在の愛知県犬山市楽田)にあった城で、永正年間に尾張守護代であった織田久長が築城したと伝わっています。小高...
ひょんなことから戦国合戦にまつわるエピソードを一つ思い出しました。 ただ全体として、非常に面白おかしいお話になっているので、どこまでが史実 なのかについては筆者には判断が付きません。 「本能寺の変」(1582年)によって織田信長(1534-1582年)が倒れたその後の出来事...
UnsplashのOlena Sergienkoが撮影した写真テレビ東京系で毎週土曜日21時から放送している出没!アド街ック天国でジブリパークがある街として「愛知 長久手」が紹介されました!(2023年4月8日(土))めいじは元々この番組が