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長篠城跡の北端に接した大通寺のあたりは武田信豊、馬場信房、小山田昌行らの陣地があった所です。盃井戸武田の宿将馬場信房、山県昌景、内藤昌豊、土屋正次らは、武田軍が設楽原へ進撃する前夜、寺の裏山から湧き出る清水で別れの水盃を交わしたといわれています。城藪稲荷平成18年(2006)、本丸から大通寺に移転。長篠の合戦の後に長篠城は廃城となり、この稲荷だけが残され、祀る人がいなくなった。このことを知ったおとら狐は怒...
京都市南区西九条の大通寺(遍照心院)は清和天皇の第六皇子・貞純親王の御子、六孫王経基(つねもと)の子・満仲が父の墓所に堂宇を建立したのが始まりとされています。その後、源実朝が鎌倉八幡宮で甥の公暁に暗殺され、妻が出家して西八条禅尼(本覚尼)と名を改め、夫を弔って創建しました。西八条禅尼坊門信清の娘。元久1(1204)年,将軍源実朝の御台所として鎌倉に下向。この婚姻は,鎌倉幕府と朝廷の融和策として最上の手段で...