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隣松寺は、鴛鴨松平家(寺から北に約1㎞に居城・鴛鴨城跡)の菩提寺であり、隣松寺の墓地には、鴛鴨松平家の墓、家康の四男・松平忠吉の墓、内藤家の祖先・内藤清長の墓、室町時代の細川家三代の墓などが並んでいます。細川家三代墓所細川家三代とは、初代の細川義季とその弟の戸賀崎義宗、2代細川俊氏、3代の細川公頼のことをいいます。内藤清長の墓内藤清長は、家康の祖父・松平清康、家康の父・松平広忠に仕えた上野上村城主です...
どうする家康 第36話「於愛日記」 ~西郷局の死と鳥居元忠の側室~
徳川家康の側室のひとりである於愛の方は、天文21年(1552年)に遠江国西郷村に生まれたと伝わります。家康より9歳下となりますね(永禄4年(1561年)...
先週末、初めて静岡県の菊川を訪ねました。菊川駅前で、レンタサイクルを借り、応声教院へ。駅かから約4.8キロ、20分ほどで到着。参道の彼岸花が見頃を迎えていました。応声教院(おうしょうきょういん)は、斉衡2年(855)勅願により円仁が創建したとされています。承安5年(1175)法然が浄土宗に改め、法然の師である皇円の菩提をこの寺で弔ったと伝えられています。今回、ここを訪ねたのは、こちらの山門を見るのが目的です。この山門...
また、宝台院は、江戸開城後に、徳川慶喜が1年間近くを謹慎した場所としても知られます。江戸城は、慶応4年(1868)4月11日に新政府軍に明け渡され、彰義隊や旧幕臣の暴発を恐れた慶喜は、11日午前3時に寛永寺大慈院を出て水戸へ向かいました。水戸では弘道館の至善堂にて引き続き謹慎した後、7月に徳川家が駿府に移封されると、7月23日、慶喜も駿河の宝台院に移って、明治2年9月28日までの約1年間を宝台院で謹慎されました。これに...
※今日の「どうする家康」の紀行で、浜松の五社神社が紹介されましたので、再掲します。浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されてい...
JR静岡駅北口から国道1号線沿いに徒歩10分、葵区常磐町二丁目に宝台院という浄土宗のお寺があります。山号は金米山。寺号は龍泉寺。宝台院は、1509年(永正6年)祐崇によって開かれた寺で、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠の生母於愛の方(西郷局)の菩提寺です。西郷の局は、天正14年(1586)家康とともに駿府城に入りましたが、天正17年(1589)38歳で亡くなり、龍泉寺(宝台院)に葬られました。寛永5年(1628)、秀忠は母...
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局(於愛の方)。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称は於愛の方。徳川家康の側室であ...
静岡県掛川市上西郷は、於愛の方(西郷局)の生誕地とされています。西郷局といえば、徳川家康の側室で、二代将軍・徳川秀忠を生んだ女性です。上西郷の構江公民館は、西郷十八士の一人・戸塚五郎太夫忠春の居館跡で、案内板と標柱が立っています。戸塚忠春の娘が、お愛、後の西郷局です。(西郷局の出生については諸説あり)西郷ノ局の生誕地 二代将軍、徳川秀忠公の生母、西郷ノ局は、幼名をお愛といい、父・戸塚五郎太夫忠春、...
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の於愛(西郷局)。於愛は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正1...
玉縄山 珠光院 貞宗寺(ていそうじ→神奈川県鎌倉市植木)は、徳川家康の側室貞宗院(→西郷局、2代将軍徳川秀忠生母)が晩年を過ごした屋敷跡に建てられた浄土宗寺院です。1609(慶長14)年に死去した貞宗院の遺言により、亀鏡山 護国院 大長寺(→神奈川県鎌倉市岩瀬)の住職暁誉源栄を開山に迎えて創建されました。暁誉源栄は、1590(天正18)年の小田原合戦の際、玉縄城主北条氏勝を説得して開城につなげた僧侶として知られています。創建の...
徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(1590年)には上洛し、秀吉の養女で、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げましたが、秀吉と信雄が仲違いして、信雄が除封されたことにより離縁となります。そして、文禄4年(1595年)9月、秀吉養女のお江と再婚することになります。その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡の徳川秀忠誕生の井戸が浜松市常盤町にあり...徳川秀忠誕生の井(浜松市)
浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。1758(宝暦8)年に完成した七間四面の本堂は1771(明和8)年に全焼、1775(安永4)年に同じ七間四面の本堂が再建されました。しかし、1945(昭和20)年6月の太平洋戦争中に空襲を受け焼失してしまい、現在の建物は1951(昭和26...心造寺(浜松市)
大河ドラマ「どうする家康」に登場する於愛の方とは?苦悩の日々を送った家康の側室。
今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。私は、広瀬アリスさん(冒頭の画像)が演じることになった於愛の方がどういう人物だったのか大変興味があります。そこで今回は、於