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この坤櫓は伏見城からの移築とのこと。上杉の不穏な動きに合わせ、家康は東方征伐を決意し、留守中での三成の反乱を予期しながら伏見城に鳥居元忠を残しての出征でした。結局、約2000名の守備兵に対して40000の西軍。奮戦するも、結局、戦いは敗れ討ち取られます。そんな歴史ロマンを観ていた櫓です。戦国ロマン溢れる櫓です。宜しければポチお願いします🙇⤵️にほんブログ村過去の投稿記事です。郡上八幡城天守閣への道-リタイアじーじの徒然絵日記郡上八幡城は山城です。天守閣への道は中々大変な道です。武士は毎日こんな階段を登っていたのでしょうか?足腰が鍛えられたことでしょう‼️階段の上の天守閣、立派に見えま...gooblog小田原城日本100名城-リタイアじーじの徒然絵日記小田原駅に到着して、まずビックリです。ここは、日本の駅...日本100名城明石城坤櫓
#359 北条との和睦 from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
家康が甲斐と信濃をゲットした”天正壬午の乱”の収束について8月6日の大河ドラマ『どうする家康』ではあっさり終わる家康家臣の奮戦ぶりを大久保彦左衛門忠教(忠世の…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜関ヶ原にどんどん近づいてドキドキするねってことで第42話の感想ぉ〜!挙兵した石田三成。三成に「家康を討て」…
【どうする家康】#42 関が原前夜。これが見たかった!の鳥居元忠&千代の伏見籠城戦
「彦」鳥居元忠の幸せな最期 NHK大河ドラマ「どうする家康」は第42回「天下分け目」が11/5に放送された。 関が原前哨戦と言えば、待ってましたの伏見籠城戦。2万5千の三成方に囲まれた2千の徳川方は、元武田忍者の千代が加わって鳥居元忠(彦)と夫婦で戦うという「どう家」ならではの変調バージョンで描かれた。 「逃げることは許されぬ。必ず守り通せ」と家康に言われた元忠の最期は既に見えていたが、お涙頂戴のコレが見たかった。あらすじを公式サイトから引用する。 上杉征伐に向かう家康(松本潤)のもとに、三成(中村七之助)挙兵の知らせが届いた。小山で軍議が開かれ、西国大名の多くが三成に付く中、家康は天下分け目…
#471 関ヶ原の戦い直前まで from『三河物語』~『どうする家康』を楽しむため
10月22・29日・11月5日の大河ドラマ『どうする家康』では秀吉が死に、三成失脚、家康が政治を担当し、会津征伐から三成挙兵、両軍とも美濃終結までが描かれてい…
阿茶サンを保護した寧々サン,貫禄♪ そーして,調略に入る正信サンがまぁた楽しそうで。一体,何人に声かけしたの?(笑) 秀忠チンはちょい凡庸って描き方ですのね。その分,秀康チンが際立つのぉ。 じいじの孫別れ,稲チャンの凛々しい成長ぶり,よき。おっと,トメがじいじになってた。確かに,本軍足止めのキーマンだもんね。次回は,また寧々サンに戻るのかしら? あ,やっぱり妻子のことを言い出した。そこで,誰かさんに「妻子のことな...
どうする家康 第43話「天下分け目」 ~小山評定、伏見城の戦い~
徳川家康とともに会津の上杉景勝討伐に向かった諸将に、上方で石田三成が挙兵したとの報せが入ったのは、慶長5年(1600年)7月20日過ぎのことでした。この...
数年前、秋の大原を訪ねました。紅葉の参道を抜けて、三千院の参道の奥にある宝泉院へ向かいました。宝泉院も、実光院とともに大原寺勝林院の僧坊の一つです。山号は魚山、本尊を阿弥陀如来。声明の大家・宗快法印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建され、当初は了性坊と呼ばれていました。正徳6年5月に宝泉院と改められ、現在に至ぃています。宝泉院には、盤桓園(ばんかんえん)、鶴亀庭園、宝楽園(ほうらくえん)という3つの...
【どうする家康】#41 逆襲のシャアならぬ三成、家康との最後の戦い前夜
最後に向けて盛りだくさん NHK大河ドラマ「どうする家康」第41回「逆襲の三成」が先週10/29に放送された。石田三成は、秀吉死後の五大老五奉行の政を進めたが、朝鮮戦役から戻った加藤清正らの処遇に失敗して混乱を抑えられず、失脚した。 この「逆襲の三成」というサブタイトルを聞いた時、世代的にどうしても機動戦士ガンダムの映画「逆襲のシャア」を思い浮かべてしまったが(それにしてはすっかり中身を忘れている)、確かあの映画もアムロとシャアの「最後の戦い」を描いたんじゃなかったっけ・・・(気になる人は調べて)。「どう家」の三成と家康も、いよいよ決着が付く「関が原」前夜と言ったところに物語は差し掛かっている…
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「どうする家康」見てますかぁ〜家康さんが狸って言われているのは演技なんかなぁ?ってことで第41話の感想ぉ!石田三成を政(まつりごと)から…
もう10年以上前のことになりますが、京都市北区鷹峯を訪ねました。北大路バスターミナルからバスで源光庵へ。源光庵は、貞和2年(1346年)に臨済宗の大徳寺2世・徹翁義亨国師により隠居所として創建され、元禄7年(1694年)臨済宗から曹洞宗に改められました。夕方近くでしたが、女性同士の参拝客が多かったです。障子の向こう側に見える庭園が美しい源光庵といえば「窓「が有名ですね。一つは四角い方の迷いの窓円迷いの窓の⾓型...
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝の征伐のため出兵(会津征伐)、6月16日、家康は伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし、伏見城を預けました。家康の出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵。伏見城で、鳥居元忠らが1,800人の兵力で立て籠もる伏見城の戦いが勃発しました。元忠は、三成が派遣した降伏勧告を拒否して戦い続け、13日間の攻防戦の末、討ち死。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されましたが、...
#457 第41回「逆襲の三成」感想~大河ドラマ『どうする家康』
石田三成が失脚し、狸を演じる徳川家康が豊臣政権の政務を担うようになった中で、チャンスをうかがっていた三成ついに打倒家康に立つを描いた大河ドラマ『どうする家康』…
徳川家康在城期の徳川家臣団居住区は、浜松城を取り囲むように設定されていました。鴨江観音堂の北築地跡、現在の浜松西小学校付近には、鵜殿兵庫頭の屋敷跡の標柱が立っています。鵜殿兵庫頭鵜殿氏長(うどの うじなが)天文18年生まれ。鵜殿長照の子。今川氏真の家臣。父とともに三河(愛知県)上之郷(かみのごう)城をまもる。永禄5年徳川家康の家臣,松平清善に攻められ捕虜となる。今川方と徳川方の人質交換で氏真のもとにもどり,...
どうする家康 第36話「於愛日記」 ~西郷局の死と鳥居元忠の側室~
徳川家康の側室のひとりである於愛の方は、天文21年(1552年)に遠江国西郷村に生まれたと伝わります。家康より9歳下となりますね(永禄4年(1561年)...
【どうする家康】#36 家康の心を救った笑顔の於愛、偽りが誠になった夫婦
殿不在時、家中に指図をする於愛の方 NHK大河ドラマ「どうする家康」第36回「於愛日記」が9/24に放送された。徳川幕府二代将軍の母としてその名を遺した於愛を中心に、真田信幸に嫁ぐ嫁がないのすったもんだを演じた本多忠勝の娘・稲姫、お久しぶりの武田の間者・千代、そして初登場のはずだけれど見覚えのある茶々(やっぱりの北川景子がお市の方と二役)の話が主に描かれた。 まずは公式サイトからあらすじを引用する。 家康(松本潤)は真田昌幸(佐藤浩市)から、北条に領地を渡す代わりに徳川の姫が欲しいと頼まれる。忠勝(山田裕貴)の娘・稲(鳴海唯)を養女にして嫁がせようとするが、父娘ともに猛反対。そんな中、家康が探…
今年(2023年)のNHK大河ドラマ「どうする家康」に登場する人物の中には、一般にはあまり知られていない人物もいます。私は、音尾琢真さん(冒頭の画像)が演じることになった鳥居元忠がどういう人物だったのか大変興味があります。そこで今回は、鳥居
=== メッセージ PB === 12月7日(水):トークばらでコスプレします。 ===== ===== *** 源光庵 *** 初めは(5月に訪ねた)光悦寺…