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数年前、秋の大原を訪ねました。紅葉の参道を抜けて、三千院の参道の奥にある宝泉院へ向かいました。宝泉院も、実光院とともに大原寺勝林院の僧坊の一つです。山号は魚山、本尊を阿弥陀如来。声明の大家・宗快法印によって嘉禎年間(1235年頃)に創建され、当初は了性坊と呼ばれていました。正徳6年5月に宝泉院と改められ、現在に至ぃています。宝泉院には、盤桓園(ばんかんえん)、鶴亀庭園、宝楽園(ほうらくえん)という3つの...
京都市東山区の養源院は、三十三間堂の東向かいにあります。以前行った春の養源院の特別公開では、俵屋宗達筆の襖絵「松図」、杉戸絵「白象図」「唐獅子図」、狩野山楽筆の襖絵、豊臣秀吉公木像、伏見城遺構「血天井」、淀殿・江・豊臣秀頼の肖像画などの寺宝が公開されました。養源院は、豊臣秀吉の側室となった淀殿が、父・浅井長政の追善供養のため、21回忌法要の文禄三年(1594年)に創建した寺。一度は落雷により焼失しました...
慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝の征伐のため出兵(会津征伐)、6月16日、家康は伏見城に宿泊して鳥居元忠と酒を酌み交わし、伏見城を預けました。家康の出陣中に五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵。伏見城で、鳥居元忠らが1,800人の兵力で立て籠もる伏見城の戦いが勃発しました。元忠は、三成が派遣した降伏勧告を拒否して戦い続け、13日間の攻防戦の末、討ち死。享年62。元忠の首級は京橋口に晒されましたが、...
伏見城の戦いに関係する遺構として「 血天井 」が残されているお寺はいくつかあるのですが、中でも北区鷹峯の「 源光庵 」と大原の「 宝泉院 」に、ここ東山の「 養源院 」が有名です。 「 養源院 」は、三十三間堂の東側、ハイアット リージェンシー 京都の南側。 三十三間堂(蓮華王院)の 南大門 です。 三十三間堂の南側は人通りも少なく、いつもこんな感じですね。 東側から撮ったので、遠くに 京都タワー が見えます。 この門を入ると、左側に三十三間堂、右側に2つのお寺さんがあります。 1つ目が「 法住寺 」 後白河法皇 の御所「 法住寺殿 」の名残ですね。 北隣に「 後白河天皇法住寺陵 」への入口が…
新緑の鷹峯 源光庵から光悦寺 そして常照寺へ 癒しの散策ルート
ゴールデンウイークの喧騒も一息ついた5月の心地よい晴れの日。新緑が美しい鷹峯エリアへ行ってきました。紅葉シーズンは、結構人出が多い鷹峯エリアですが、この季節は案外穴場になっています。ゆったりと心行くまで楽しめた、そんな鷹峯散策。青もみじと清
勝林院の奥に「 宝泉院 」があります。 宝泉院 は、勝林院のお坊さんが住む僧坊として平安末期より歴史を刻んできたそうです。 山門から玄関にかけて、鮮やかな新緑が出迎えてくれます。 誰も映り込まない写真が撮れるほど観光客少なくて、おだやかな時が流れます。 もうこれだけで、来て良かったと思いました。 見どころ① 額縁庭園 樹齢700年を超える 五葉松 が見事な「 盤桓園 」という庭園があります。 「ばんかんえん」と読んで、「立ち去りがたい」という意味だそうです。 この「 盤桓園 」は、客殿から柱を額縁に見立てて鑑賞する 額縁庭園 の典型として名高いとされているのだとか。それが、下の写真。 下の写真…
今回訪れたのはこちら源光庵です。【所在】京都府京都市北区鷹峯北鷹峯町47【山号】鷹峰山(林号・寶樹林)【宗派】曹洞宗【開山】徹翁義亨【本尊】釈迦如来【源光庵】鷹峰山と号する曹洞宗の寺である。貞和二年(1346)に大徳寺の第二世・徹翁義亨によって創建され、当初は臨済宗に属していたが、元禄七年(1694)、加賀国(現在の石川県)大乗院の卍山道白禅師により再興され、曹洞宗に改められた。本堂には、釈迦釈迦牟尼仏及び...
岐阜市にある崇福寺(そうふくじ)です 本堂には「血天井」関ヶ原の戦いで岐阜城は落城、この時戦死した将兵の菩提を弔うため、岐阜城の床板を本堂の天井に張られた・・・今でも鎖かたびらや血痕が付着している・・・月日が経つのは早いもの撮影 21年11月中旬寺内には「織田信長父子廟」ここの庭が良いきれいに手入れされた庭にドウダンツツジです写真の中央にあるのが金華山、そしててっぺんに岐阜城が(写りが非常に悪いが...
■養源院俵屋宗達の杉戸絵・襖絵に血天井~三英傑とも所縁の深い京都寺院~(京都府京都市)
目次浅井長政の菩提を弔う三英傑とも所縁の深い寺院「養源院」アクセス・三十三間堂の隣に位置します豊臣が建立したお寺に三葉葵俵屋宗達の作品がいつでも手の届く距離で観られる貴重な場所生き生きとした「動き」が感じられる杉戸絵 浅井長政の菩提を弔う三英傑とも所縁の
今日は京都の 養源院【浄土真宗遣迎院派】の紹介です。 場所は京都の東山区にあり昨年末の京都の旅で立ち寄ったものでした。 この寺院はかの豊臣秀吉公の側室であった淀殿が、その父であった浅井