メインカテゴリーを選択しなおす
戦国時代に存在感を示した真田氏と難攻不落の上田城を訪ねる「上田城跡」(長野県上田市)
「上田城」は真田昌幸にによって戦国時代に築城された平城である。真田氏はNHK大河ドラマでも登場した武家で、信州の小国にあって甲斐の武田信玄の家臣となり、武田家滅亡後は自立、織田信長、徳川家康や北条氏、上杉氏、豊臣氏とも関係性を持ちながら戦国時代を生きた一
「わが武田信玄公の家臣、 真田昌幸殿が築城した・・・ 上田城を視察に来たでござる。」 「どれどれ・・・」 (ここはまだ城外でござる💦。) …
#538 2023年末から2024年年始にかけて読む予定の本 7冊ほど
2023年年末から2024年年始にかけて読みたい本を一気に7冊借りてきました。ちょうど図書館のシステム変更でいつもよりも貸出期間が延長されたのを利用して読もう…
B073【真田信繁(幸村)公との歓談】家康公を直接撃った!?本名は真田信繁※真田幸村は江戸時代の劇で使われたそうです。本人は名前を一度も変えていないそうです。巫女>人望もあった人ですね。重鎮的な感じのイメージであんまり多くを語らないイメージの人ですね赤い鎧を着てわりと体格的にはそんな大きな人ではないですね。真田信繁(幸村)公>何かご用か?巫女>鎧甲をとって話を始めてくれようとしています。信繁公>我が家臣に何か用か?阿山>家康公を直接撃たれたのは信繁公ですよね?信繁公>さよう(剣を横にして持って)阿山>馬に乗って短銃で撃っていますよね?信繁公>さよう。阿山>家康公も認められていますから(※家康公との対談をご覧ください)※解説徳川家康公証拠の物品(カゴの穴、血のついた服、墓跡、短銃など)が揃っている籠にある鉄...【真田信繁(幸村)公との歓談】家康公を直接撃った!?
「その1」のつづきです。 徳川家康がこの世を去ったのは、大坂夏の陣から1年足らずの元和2年(1616年)4月17日。同年1月、鷹狩に出た先で倒れ、その後...
#524 第48回「神の君へ」感想~大河ドラマ『どうする家康』
乱世(穢土)をついに戦無き世(浄土)にした大河ドラマ『どうする家康』の最終回の第48回「神の君へ」(12月17日放映) 戦無き世(浄土)を実現した家康の家族と…
大坂夏の陣の戦いの火蓋が切られたのは、慶長20年(1615年)4月26日。豊臣方の大和郡山城攻めからでした。その後、4月29日には紀州路方面での樫井の戦...
<歴史新説>伊達政宗 大坂夏の陣での謀略 ~真田信繁と気脈を通じ家康を討ち天下を取る計略を持っていた~
CG : Masamune Horse riding picture 戦国末期の英雄「伊達政宗」は当時の世界の覇権国スペインのフェリペ三世に外交使節団を派遣している。このローマ法王にも拝した『慶長遣欧使節』はスペインと連携した幕府転覆計画であったともされている。 「伊達政宗」は大阪の陣
<歴史探偵>大坂の陣をバーチャル再現 ~真田信繁の“日の本一の兵”の戦いぶりを堪能~
CG : GREAT COMMANDER YUKIMURA NHK『歴史探偵』で「大坂の陣 真田信繁VS徳川家康」と題し、バーチャル再現で真田信繁の戦いぶりを堪能。大坂冬の陣は『真田丸』を、大坂夏の陣は『道明寺の戦い』を最新の歴史資料を元にCGでバーチャル再現した。 『歴史探偵』は毎回見
大坂冬・夏の陣ゆかりの地 どんどろ大師~堀越神社~四天王寺庚申堂~徳川家康本陣跡
心眼寺の近くにある天王寺区の善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てられたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ大師」の語源については、土井利位(どいとしつら)(生没年:1789年~1848年)(下総国・古河(茨城県)藩主)が大坂城代に在任中の期間(1834年~1837年)の屋敷が鏡如庵大師堂の近くにあり、土井利位が鏡如庵大師堂に祀られている弘法大師に深く帰依し、参...
松平忠直は、徳川家康の次男・結城秀康の嫡男で、慶長12年(1607年)、父親の遺領を継いで越前北庄(福井)68万石の当主となりました。慶長16年(1611年)には徳川秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎えます。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、二万以上の兵を率いて、真田丸の攻撃を行いましたが、進撃命令が出ないのに、無理な突撃を敢行して、真田信繁の罠に嵌り、真田勢の攻撃により大敗。軍令違反の攻撃のうえに大敗という...
大阪の平野区にある志紀長吉神社は、古事記・日本書紀に載せられている延喜式内社で、真田信繁(幸村)ゆかりの神社です。大坂夏の陣の時、信繁は道明寺の戦いから退却の途中で当社に立ち寄り、軍刀や軍旗を奉納して戦勝を祈願しました。志紀長吉神社の境内ではなく、南側の鳥居のある交差点より少し南に入ったところに、真田幸村休憩所跡があります。門を開けると石碑があります。信繁が、大坂夏の陣の時、南河内誉田において東軍伊...
大坂夏の陣、いよいよ最終決戦・天王寺・岡山の戦いです。慶長20年(1615年)5月7日未明、豊臣方は大坂城を出発し、現在の大阪市阿倍野区から平野区にかけて迎撃体制を布き、幕府方は、夜明け頃天王寺口と岡山口から大坂城へ向け進軍を開始。豊臣軍は、天王寺口には真田信繁、毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長・七手組の部隊計15,000が布陣。幕府方の配置は、大...
道明寺合戦は、真田信繁(幸村)軍と伊達政宗軍が激突。片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人が激突しました。2014年11月、道明寺駅前に建立された道明寺合戦記念碑当時の道明寺は、現在の道明寺天満宮の階段下南側にあり、この辺りに西軍が陣を布き、真田信繁は、後藤又兵衛、毛利勝永と打倒徳川の誓いの盃を交わしたと伝えられ、道明寺の戦いの舞台になったといいます。道明寺天満宮道明寺天満宮は、土師氏の氏神として創建され、の...
どうする家康 第46話「大坂の陣」 その2 ~真田丸の戦い~
「その1」のつづきです。 方広寺鐘銘事件で徳川との関係が急速に悪化した豊臣方は、旧豊臣恩顧の大名たちを味方に引き入れようと試みますが、そのすべてに拒否さ...
大阪天王寺のJR玉造駅から約5分、真田山丘陵に鎮座している三光神社反正天皇時代の創建と伝えられ、天照大神、月読尊、素戔嗚尊を祀り、日本全国で唯一の中風除の神として広く知られています。 「真田丸」が放送された年に行ったので、真田信繁を演じた堺雅人さんのポスターが飾られていました。境内には「真田の抜け穴」といわれる石室状の横穴が残されています。当社は、大坂城の出城(真田丸)のあったところで、慶長19年(1614)...
慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。豊臣家は、浪人を集める策を採り、九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈り、信繁に九度山を出るように説得します。信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の大助幸昌と共に大坂城に入場しました。大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたといいます。信繁は、大坂城の最弱部であ...
大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。(碑文)現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。旧黒田藩屋敷長屋門 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂...
B058【徳川家康公との歓談】【徳川家康公との歓談】大坂夏の陣で戦死?家康公>そなたは何者じや?巫女>あなたのことを慕っております。メッセージをください家康公>ワシに何の用じゃあ?そなたは私の子孫か巫女>それに近いものです家康公>ほうほうよーまいったござれ巫女>何か新しい時代に対して殿の御言葉をいただけませんでしょうか?家康公>ふん、何から話そうの寝耳に水で訳のわからんことかも知れぬが世は平和じゃあのう良いことだただ戦を収めたのはワシじゃ戦を好んでせんワシはそれだけはやめたからのうもうしたくないのだワシのような思いはせんでいいみんなもう安気(あんき)に暮らせもう寝れんなどと言う事は無いみんな笑って暮らせば良いワシの夢じゃったみなのう百姓は百姓をやる町民は町民をやりみんなのうそれぞれやれば食っ...【徳川家康公との歓談】大坂夏の陣で戦死していた!?
まだ帰宅途中だよ。家には何時頃に着くかな? 久しぶりの長野は楽しかったけど、眠い。あくびが止まらない。 ↑上田城跡公園内の上田市民会館(の外)に展示されていた博多祇園山笠「真紅兵貫義〜シンクツワモノギヲツラヌク〜」の真田幸村人形。 ずっとスマホを弄っていると車酔いしそうなので、ここまでにしておこう。
かつての上田城二ノ丸の堀跡は、昭和になってから上田電鉄が走っていましたが、現在はけやき並木遊歩道として整備されています。現在も電車跡の名残が見られます。上田城は、上田盆地の北部に位置し、千曲川の分流である尼ヶ淵に面していたので、築城当初は「尼ヶ淵城」とも呼ばれていました。この辺りはもろく崩れやすいのがわかりますね。南・西櫓の下段には、享保の洪水後に設置された大規模な石垣があります。南櫓ここから、西...
真田神社は、上田城跡公園内にある神社で、創建は明治13年(1880年)。真田・仙石・松平の歴代の上田藩主を祀っており、主神は真田昌幸と長男の真田信之父子、仙石氏・松平氏を祭神として奉られています。徳川の軍勢を二度も撃退し、大阪の陣で大活躍した真田氏の神霊は「知恵の神様」として崇敬され、真田氏の知略や勝運にあやかろうという人達が多く訪れる人気パワースポットにもなっています。境内には、真田軍のシンボル・赤備...
上田城の3つの櫓の見学を終え、お城の周りをぐるっと散策。花木園では、ツツジ、ハナミズキをはじめ、春の花が満開でした。上田招魂社当招魂社は、戊辰戦役従軍の戦死者をはじめ、日清・日露戦争から大東亜戦争に至る間国家のために亡くなった人々の英霊を祀っています。お濠に沿って歩いていると、隅欠(すみおとし)という看板が見えてきます。隅欠は、上田城の特徴のひとつで、鬼門の方角である北東の隅の土塁を切り込んで、鬼...
天正11年(1583)真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られています。東虎口櫓門から城内に入ります。櫓門の手前から見た空堀。櫓門をくぐる前、右側の石垣の中に真田石があります。高さ2.5m、幅3mの城内最大の石です。真田信之が上田城から松代に移る際、父の形見として持ち去ろうとしたが動かなかったという伝説が残されています。この楼門は、北櫓と...
寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...
【大阪市平野区長吉長原】真田信繁が軍旗と刀剣を奉納したことで知られる『志紀長吉神社』
前回の続きで大阪市平野区長原地区の神社をご紹介します。今回紹介するのは長吉長原に鎮座する『志紀長吉神社』です。最寄りは大阪メトロ谷町線の長原駅で、徒歩5分程のところにあります。写真は撮っていないんですが、神社の手前に阿弥陀寺というお寺がありました。このお寺
幻坂 (まぼろしざか) 有栖川有栖 (ありすがわありす) - Book
前回 (2014年)帰国時に、四天王寺近くの真田信繁 (幸村)終焉の地である安井神社を訪れました。当日は生憎の雨模様だったのですが、その側に在る石畳の坂道 (天神坂) の雨に濡れた佇まいにいたく,感動しました。「天神坂」は、「天王寺七坂」と呼ばれる七つの坂の一つで
天輪山 無量院 安養寺(→神奈川県川崎市中原区上新城1丁目)は、戦国時代中期の1567(永禄10)年に僧の宥和が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。1567(永禄10)年は武田勝頼公の嫡子信勝、真田昌幸の次男信繁(→いわゆる幸村)、伊達輝宗の嫡子政宗らが生まれた年でもあります。江戸時代には、本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺となり幕藩体制の一翼を担い、天満宮(→新城神社の...
楽しい日本史 -偉人編- 19 真田幸村 家康を追いつめた戦国最後のヒーロー
人質時代をすごし、強大な敵・家康に立ち向かった戦国最後のヒーローとして知られる真田幸村について以下のような疑問
今日は【紀伊国】真田庵(※善名称院)の紹介です。 ここはかの真田親子(※昌幸・信繁)が、関ヶ原の合戦にて負けた西軍側であったことからこの地に流され蟄居生活を送った際の建物があったと言われる場所で
弟を活かせる兄であれば、歴史は変わったか まるでここまで主役のように物語を引っ張ってきた大泉洋演じる源頼朝が、先週25回「鎌倉殿の13人」の最後で落馬して意識を失った。「佐殿!」と長きにわたって従者として仕えてきた藤九郎が、古い呼び名で叫ぶのが涙を誘った。 アサシン善児が、馬を驚かせたり足を取るようなことをして頼朝をワザと落馬させるようなことは・・・無かった。義経の亡霊を見ることも無かった。誰の指金でもなく、淡々と、死に近づいていく頼朝の様子が描かれた。 前週24回で描かれた範頼の殺害から数年で頼朝は斃れるのだから、皮肉なものだ。 範頼は、頼朝が考えたような人間ではなく、「真田丸」で三谷幸喜が…
昨日、浜寺公園近くのハンバーガーショップでハンバーガー食べましたが、そこからまだまだ自転車の旅は続きますwww(↓前回ブログ)昨日の走行距離は約57kmまぁま…