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大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。西郷頼嗣の墓初代岡崎城主次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。(Wikipediaより)西郷信貞の墓4代・岡崎城主大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂...岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓
岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。それら...岡崎の大林寺(1)松平廟
寒松山 大林寺(だいりんじ→長野県長野市松代町)は、江戸時代初期の1622(元和8)年に上田藩主真田信之(9万5000石)が松代藩(13万石)に加増の形で移封された際に、信之・信繁兄弟の生母山手殿(寒松院)の菩提寺として創建した曹洞宗寺院です。1613(慶長18)年6月に上田で死去した山手殿は上田の大輪寺(だいりんじ→長野県上田市中央北1丁目)に埋葬されましたが、松代移封にともない信之は改めて大林寺を菩提寺として墓所を作り直しました...
八幡山 宝袋寺(→神奈川県横浜市緑区十日市場町)は廃寺となった慈性寺の跡地にあり、江戸幕府開府前後の慶長年間(→1596年~1615年)に慈雲寺 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の住職顕堂長察によって創建されたと伝わる曹洞宗寺院です。寺号は、この地で古い巾着袋が堀り出されたことに由来すると記されます。真偽の程は定かでありませんが、本尊の聖観音坐像は運慶(→東大寺南大門の金剛力士像などを彫った鎌倉時代を代表する...
放光山 宗泉寺(→神奈川県横浜市緑区北八朔町)は、江戸時代前期の元和年間(→1615年~1624年)に慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の住職顕堂長察によって開山されたと伝わる曹洞宗寺院です。江戸時代には本山・末寺の制により大林寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。八朔(はっさく)の地は、平安時代の承平年間(→931年~938年)に編纂された『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)の郷名にある「針折」が、戦国...
家康の父・松平広忠ゆかりの史跡めぐり「小豆坂古戦場跡」「大林寺」「松應寺」
こんにちは。夢中図書館へようこそ!館長のふゆきです。全国の城や史跡をぶらり旅する「夢中図書館 いざ城ぶら!」。現在、家康を辿る城旅を展開中…。今日の夢中は、家康の父・松平広忠ゆかりの史跡めぐり「小豆坂古戦場跡」「大林寺」「松應寺」です。
慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)は、安土桃山時代末期に東福山 清源院(→神奈川県厚木市三田)の5代住職麟哲が開山、徳川家臣の岡野房恒(ふさつね)が開基した曹洞宗寺院です。詳しい創建年月日は不明ですが、麟哲は1608(慶長13)年に死去しており、寛政年間(江戸時代中期→1789年~1801年)に開山二百年と鐘楼に彫られたと記されているため、創建は1591(天正19)年~1601(慶長6)年であることが分かります。大林寺を開基し...
大龍山 福昌寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、僧の国抽太山が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。国抽太山は江戸時代前期の1651(慶安4)年4月15日に死去しているので創建はそれ以前のことと分かります。3代将軍徳川家光が死去するのは国抽太山が死去した5日後の4月20日のことです。 福昌寺は、江戸時代には本山・末寺の制により幕府より15石の寺領を拝領した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の末寺として幕藩体制の...