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さらに田んぼに囲まれた道を走り、陣田へ。陣田は、姉川の合戦の際、浅井長政の本陣があった場所と伝えられています。 浅井長政と陣田当地は姉川合戦の際、浅井軍8000人(陸軍参謀本部編纂『日本戦史』による兵数)を率いる長政本陣があった場所と伝えられます。合戦当日の元亀元年(1570)6月28日の前日まで、浅井長政は北方に見える大依山に布陣して、姉川対岸の織田・徳川29,000人(同前書による)に及ぶ軍勢の動向をうかがっ...
続いて、三田村氏館跡へ。高い土塁が確認できます。京極・浅井氏の家臣の三田村左衛門の館跡である三田村氏館跡は、現在の伝正寺周辺が館跡で、寺の周囲三方に土塁が残っており、下坂氏館跡(長浜市下坂中町)とともに国史跡の北近江城館跡群に指定されています。国指定史跡 三田村氏館跡(三田町)京極・浅井氏の家臣で、姉川北岸で大きな勢力をほこった三田村氏の屋敷跡です。ほぼ60メートル四方の土塁に囲まれた平地城館で、土塁の高...
続いて、姉川の合戦の戦死者を葬った七十士の墓へ。姉川合戦での戦死者を葬った場所に建てられたと伝える石塔群です。もとは、この西北の「西三昧(にしざんまい)」と呼ばれる場所にあった地蔵堂付近の墓石を、昭和55年に完成した三田町の圃場整備に際して当地にまとめたものです。「西三昧」は三田村氏館跡に移転した伝正寺の旧地とされ、その移転の時期は、正徳5年(1715)頃と考えられています。石塔は五輪塔と宝篋印塔からな...
続いて血原塚へ 姉川古戦場 お市の方との結婚で結ばれた浅井長政と織田信長の仲は、越前の朝倉氏の反乱によって破れた。朝倉氏との盟約を重んじ同氏についた長政に湖西で挟撃された信長は岐阜へ戻るや戦備を整え、元亀元年(1570年)6月3万の兵を率いて竜ヶ鼻に陣し横山城を包囲した。徳川家康は、この時、5千騎を率いてこれを援軍している。 一方、浅井、朝倉合わせて一万八千は姉川北岸に陣し、戦機は熟していった。 ついに2...
4月18日 以前、スーパーカブで九州を旅した事がある。その時に、鹿児島県の開聞岳を望む岬の先っちょで出会ったライダーが、フォローしているブログの『北近江@旅人…
兵士の血で真っ赤に染まった血川も姉川沿いに流れていましたが、平成以降の造成改修工事で無くなりました。最も激戦地であったという姉川にかかる旧「野村橋」が老朽化し、車両の通行が禁止されています。(歩行者や自転車、バイクは通行可)年月が過ぎるにつれ、合戦場の様子も徐々に様変わりしていますが、合戦場付近の「血原」や「血川」という地名は往時の激戦振りを窺わせています。この場所は、元亀元年(1570)6月28日に起き...
さらに自転車を走らせると、「姉川の合戦場」の碑が見えてきました。姉川の野村橋付近一帯は、壮絶な戦い浅井・織田軍の激戦が繰り広げられた所です。 姉川古戦場 元亀元年(1570)6月28日、浅井長政・朝倉景健の連合軍と、織田信長・徳川家康の連合軍が、長浜市を流れる姉川の両岸に布陣し合戦を展開しました。 旧陸軍参謀本部編纂(へんさん)の「日本戦史」によれば、浅井軍八千人・朝倉軍一万人で、対する織田軍二万三千...
続いて向かったのが、姉川の合戦の時に徳川家康が陣を敷いた岡山(勝山)です。上坂神社の前に案内板があります。 徳川家康と岡山(勝山、東上坂町) この背後の山は、元来「岡山」といいましたが、姉川合戦の時に徳川家康が陣を敷き、戦いに勝ったことに因んで「勝山」と呼ばれるようになったとされます。徳川家康軍は激戦の末に朝倉軍を敗走させ、それにより劣勢の織田軍も盛り返し、勝利を得たと伝えられています。 江戸時代...
次に向かったのは、龍ヶ鼻砦から移した織田信長の本陣跡の陣杭の柳(じんごのやなぎ)です。 織田信長と陣杭の柳(東上坂町) 姉川合戦における織田信長の本陣跡と言われる場所です。合戦当日の朝、信長はこの東方の龍ヶ鼻砦にいましたが、姉川北岸への浅井・朝倉軍の展開を知って、この場所に本陣を構えたとされます。ここに立つ柳は、信長が陣太鼓をかけて指揮をしたという伝承があり、「陣杭」本来「陣鼓」と書かれたとも言...
龍ヶ鼻陣所からほど近い田んぼの真ん中に、遠藤直経の墓があります。ここは、姉川の合戦の際、浅井長政の重臣である遠藤直経が討ち死にした場所と伝えられています。自軍の敗色が濃くなると、直経は味方の武将三田村左衛門の首級を携え敵軍に偽装、織田信長の陣中に忍び込み、暗殺を謀りましたが、本陣の信長まで手前数十メートルのところで竹中半兵衛(重治)の弟・竹中久作(重矩)に見破られ、捕らえられて斬首されたといいます。永...
先月、滋賀県在住の友人の案内で、姉川の合戦の史跡を自転車でまわってきました。長浜駅前でレンタサイクルを借り、県道37号線を7.6kmをひたすら走り、東上坂町にある茶臼山古墳(龍ヶ鼻砦)を目指しました。姉川合戦前の横山城攻めの際、織田信長・徳川家康が陣としてこの古墳を利用し、龍ヶ鼻砦とも呼ばれます。合戦が始まると陣を取り払い、それぞれ別のところへ陣を構えました。この古墳のある丘には柵があって中には入れません...