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こんばんは!メグおばちゃんです。本日の横浜は小春日和になりました。鎌倉でも歩きたいようなお天気でした。鎌倉つながりですが・・・現在、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみにしている私ですが、今から約30年前からその後10年、横浜市旭区鶴ヶ峰という町に住んでいました。まあ、現在もそう遠くない近くの町に住んでいます。大河ドラマと鶴ヶ峰がどう関係あるのかって?鎌倉幕府の有力御家人で、武芸・教養・容姿・・・す...
鎌倉幕府御家人・畠山重忠ゆかり地巡り!「重忠公史跡公園」ほか【埼玉・深谷市】
大河ドラマ・鎌倉殿の13人でも取り上げられた鎌倉幕府の有力御家人の一人、畠山重忠。その重忠が生誕した埼玉県深谷
9月18日放送の「武士の鑑」において、中川大志さん演じる畠山重忠殿が退場されましたので、改めて横浜市旭区の畠山重忠ゆかりの二俣川・鶴ヶ峰古戦場の史跡をまとめてみました。源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦い...
鎌倉市由比ガ浜2丁目の鶴岡八幡宮の一の鳥居の横に、畠山重忠の息子・畠山重保の墓塔とされる石造宝篋印塔が、畠山重保邸阯碑や庚申塚とともに建っています。鎌倉市指定有形文化財 石造宝篋印塔 明徳四年銘高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保墓塔と伝えられます。塔の基礎には『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393年)造立と見られます。同...
鬼が主役! 嵐山町「鬼鎮神社」、武将・畠山重忠館の鬼門除け!?【埼玉】
埼玉県嵐山町に、「鬼鎮神社」という鬼を大事にする珍しい神社があります。境内には奉納された本格的な鬼グッズもあります!異色の神社の見どころや歴史について紹介します。
佐助稲荷神社は、平治の乱後に蛭ヶ小島に配流された源頼朝の夢に、稲荷の神霊が老翁の姿で現れ、平家討伐の挙兵を勧めたという神社。そのため、平家討伐後、「佐介ガ谷隠れ里」の霊地を選び、畠山重忠に命じて社殿を造らせたといいます。 参道沿いに100本以上の赤い鳥居が並んでいます。佐助という名は、頼朝の幼少の名前「佐殿」を「助けた」という意味で「佐助」と名付けたとも、上総介・千葉介・三浦介という3人の介の屋敷があ...
1205年(元久2年)畠山重忠の内室・菊の前は、合戦の連絡を受け、二俣川の戦場に急ぎ駆けつけましたが、この地で重忠の戦死を聞いて悲しみ、自害してしまいました。その場所に駕籠ごと埋葬されたことから駕籠塚といわれています。菊の前は、足立遠元の娘とも伝えられています。以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうですが、昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。武州鶴ヶ峰駕籠...
日本最大級!「千年の苑ラベンダー園」、2万2千株が咲き誇る【埼玉・嵐山町】
自然豊かな埼玉県嵐山町には、日本最大級のラベンダー園があります。ラベンダーまつりの様子や園内見どころを、豊富なラベンダーの写真とともに紹介します。爽やかなラベンダーの花に癒されて下さい!
鶴ケ峰本町2丁目の薬王寺には、畠山重忠をはじめ、一族郎党134騎を埋めたと伝えられている「六ッ塚」があります。六ツ塚おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公はおおよそ乱世に学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼ね備えた武将で今なお親み慕われている。その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現・埼玉県比企郡)を6月19日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ...
次は、矢畑と呼ばれる場所に向かいました。北条勢の放った矢が一面につきささり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。この辺りで、重忠が敵陣に取り囲まれたという説と、矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があるそうです。 現在は、住宅地の間に「矢畑・越し巻き」の細い柱が建っているのみで、古戦場の面影は全くありません。せめて、石碑でもあったら良いのですが・・・次は、「すずり石水...
一ノ谷の戦いは、摂津国福原および須磨で行われた戦いです。寿永3年2月、源範頼、源義経軍は、二手に分かれ、平家軍に攻撃を仕掛けました。福原に拠点をおいていた平家軍に対し、範頼軍は、生田口を襲い、一方義経軍は、平家の背後に回り、一の谷城裏手の断崖絶壁から、一気に駆け下る「逆落とし」を決行したといいます。鵯越の逆落とし『源平合戦図屏風』「一ノ谷」一ノ谷の戦いといえば、畠山重忠の「鵯越えで馬を背負う」場面が...
鶴岡八幡宮の東の鳥居を出ると、住宅地の一角に「畠山重忠邸跡」の碑があります。ここは、鎌倉幕府成立後、畠山重忠が公務で鎌倉務めの際に居住した邸宅跡です。畠山重忠邸址正治元年五月頼朝ノ女三幡疾ミ之ヲ治センガ為当世ノ名医丹波時長京都ヨリ来レル事アリ 東鑑ニ曰ク七日時長掃部頭親能ガ亀ヶ谷ノ家ヨリ畠山次郎重忠ガ南御門ノ宅ニ移住ス 是近々ニ候ゼシメ姫君ノ御病悩ヲ療治シ奉ランガ為ナリト此ノ地即チ其ノ南御門ノ宅ノ...
源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対しましたが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、奥州征伐などに戦功を立てました。建久1年(1190)、建久6年(1195)、頼朝再度の上洛に先陣を勤め、忠...
鎧の渡し緑道から旭区役所に向かって歩いて行くと、区役所の裏手の住宅地の間に、首塚があります。 首塚 畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。 ここは、畠山重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を...
元久2年(1205)畠山重忠は、この地で戦死しました。「畠山重忠公碑」の碑は、畠山重忠没後750年を迎えた昭和30年に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。畠山重忠没後750年を記念し、昭和30年(1955)6月、鶴ケ峰と埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の有志により建立されました。碑は、水道道が厚木街道を横断する交差点の、見晴らしのよい場所に建っています。また、「さかさ矢竹」という重忠ゆ...
【鎌倉殿の13人】中川大志さん熱演!畠山重忠ゆかりの地「二俣川の戦」横浜市旭区鶴ヶ峰レポ
【鎌倉殿の13人】で中川大志さんが演じる畠山重忠は「坂東武者の鑑」。横浜市旭区鶴ヶ峰は重忠が潔く戦い散った終焉の地です。重忠の首洗い井戸、首塚、さかさ矢竹、六つ塚、妻・菊の前が駕籠ごと埋葬された駕籠塚を「重忠ゆかりの地マップ」をもとに散策しました。