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9月18日放送の「武士の鑑」において、中川大志さん演じる畠山重忠殿が退場されましたので、改めて横浜市旭区の畠山重忠ゆかりの二俣川・鶴ヶ峰古戦場の史跡をまとめてみました。源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦い...
1205年(元久2年)畠山重忠の内室・菊の前は、合戦の連絡を受け、二俣川の戦場に急ぎ駆けつけましたが、この地で重忠の戦死を聞いて悲しみ、自害してしまいました。その場所に駕籠ごと埋葬されたことから駕籠塚といわれています。菊の前は、足立遠元の娘とも伝えられています。以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうですが、昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。武州鶴ヶ峰駕籠...
鶴ケ峰本町2丁目の薬王寺には、畠山重忠をはじめ、一族郎党134騎を埋めたと伝えられている「六ッ塚」があります。六ツ塚おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公はおおよそ乱世に学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼ね備えた武将で今なお親み慕われている。その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現・埼玉県比企郡)を6月19日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ...
次は、矢畑と呼ばれる場所に向かいました。北条勢の放った矢が一面につきささり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。この辺りで、重忠が敵陣に取り囲まれたという説と、矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があるそうです。 現在は、住宅地の間に「矢畑・越し巻き」の細い柱が建っているのみで、古戦場の面影は全くありません。せめて、石碑でもあったら良いのですが・・・次は、「すずり石水...
元久2年(1205)畠山重忠は、この地で戦死しました。「畠山重忠公碑」の碑は、畠山重忠没後750年を迎えた昭和30年に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。畠山重忠没後750年を記念し、昭和30年(1955)6月、鶴ケ峰と埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の有志により建立されました。碑は、水道道が厚木街道を横断する交差点の、見晴らしのよい場所に建っています。また、「さかさ矢竹」という重忠ゆ...
鎧の渡し緑道から旭区役所に向かって歩いて行くと、区役所の裏手の住宅地の間に、首塚があります。 首塚 畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。 ここは、畠山重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を...
源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対しましたが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、奥州征伐などに戦功を立てました。建久1年(1190)、建久6年(1195)、頼朝再度の上洛に先陣を勤め、忠...
【鎌倉殿の13人】中川大志さん熱演!畠山重忠ゆかりの地「二俣川の戦」横浜市旭区鶴ヶ峰レポ
【鎌倉殿の13人】で中川大志さんが演じる畠山重忠は「坂東武者の鑑」。横浜市旭区鶴ヶ峰は重忠が潔く戦い散った終焉の地です。重忠の首洗い井戸、首塚、さかさ矢竹、六つ塚、妻・菊の前が駕籠ごと埋葬された駕籠塚を「重忠ゆかりの地マップ」をもとに散策しました。
今日は連休の狭間。 大河ドラマの鎌倉殿の13人で中川大志さん演ずる畠山重忠さんにゆかりのある史跡が通勤途中にあるのを知ったのでちょっと寄ってみました。 こんな感じで看板もありました。 が、まずは万騎