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14.【畠山重忠】 評価:75点/作者:貫達人/ジャンル:歴史/出版:1962年 『畠山重忠』は、吉川弘文館より刊行されている、日本史上の人物の学術伝記書…
小沢城(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、鎌倉時代初期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が築城し、嫡男の小沢小太郎重政がこの地の支配のために居城していました。鎌倉時代の武士は、所領(→本貫地)となる荘園を名字にしたため、親子兄弟で名字が異なることは珍しいことではありません。稲毛重成の弟は榛谷重朝(はんがやしげとも)・森行重・田奈有朝・小山田重親と全員異なる名字を名...
こんばんは!メグおばちゃんです。本日の横浜は小春日和になりました。鎌倉でも歩きたいようなお天気でした。鎌倉つながりですが・・・現在、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみにしている私ですが、今から約30年前からその後10年、横浜市旭区鶴ヶ峰という町に住んでいました。まあ、現在もそう遠くない近くの町に住んでいます。大河ドラマと鶴ヶ峰がどう関係あるのかって?鎌倉幕府の有力御家人で、武芸・教養・容姿・・・す...
畠山重忠に謀反の疑いありとの讒訴を平賀朝雅より受けた北条時政は、畠山重忠・重保父子の誅殺を決意するも、息子の北条義時、時房からその軽挙を諫められ、いった...
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜今回のサブタイトルが『武士の鑑』だけど、まさに畠山重忠さんはそうだったねってことで第36話の感想ぉ!義時…
ごはん塚(→神奈川県横浜市緑区鴨居7丁目)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠の郎党に関する史跡です。二俣川合戦で畠山重忠が幕府軍(北条軍)の愛甲季隆の放った矢によって討死すると、畠山氏の郎党や下人の何人かは戦場を離脱しましたが、幕府軍による残党狩りにより鴨居(→神奈川県横浜市緑区)で討ち取られた者がいたようで...
駕籠塚(かごづか→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は、1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠の内室・菊の前(→足立遠元の娘)の墓所と伝わる史跡です。二俣川合戦の報を聞いた菊の前は駕籠(かご)に乗り二俣川の陣に駆けつけますが、すでに合戦は終わっており、幕府軍(北条軍)の愛甲季隆が放った矢により重忠が討死したことを知った菊の前は自害したといいます。「駕籠塚」の...
東隆山 薬王寺(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は1205(元久元)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠とその郎党130名余を埋葬したと伝わる「六ツ塚」が境内に残る曹洞宗寺院です。僧の北潭が開基し、創建時は東光山と称していたようです。毎年6月22日には境内の「重忠公霊堂」で滅亡した畠山重忠主従の供養が行われます。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「...
畠山重忠公首塚・畠山重忠公遺烈碑(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
畠山重忠公首塚(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰1丁目)は1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉時代前期の御家人畠山重忠(はたけやましげただ)の首が葬られたと伝わる史跡です。以前は南を向いていたようですが、現在は極楽浄土の方角とされる西向きに建っています。畠山重忠公遺烈碑及び畠山地蔵尊(→神奈川県横浜市旭区万騎が原)は明治時代中期の1892(明治25)年に有志57人によって建立された畠山重忠の供養碑...
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(→神奈川県横浜市旭区)は」、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の忠臣で「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠にまつわる史跡です。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」/画像提供:NHK)「さかさ矢竹」は畠山重忠が地面に矢を2本刺したところ後日そこから竹が生えたという伝説が残る場所で、「首洗い井戸」は討ち...
9月18日放送の「武士の鑑」において、中川大志さん演じる畠山重忠殿が退場されましたので、改めて横浜市旭区の畠山重忠ゆかりの二俣川・鶴ヶ峰古戦場の史跡をまとめてみました。源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦い...
畠山重忠古戦場跡(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠(はたけやましげただ)にまつわる史跡で、周辺には畠山重忠(二俣川合戦)にまつわる史跡が点在します。中には「さかさ矢竹」や「すずり石水跡」のような後世の創作と思われる史跡もありますが、「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠を偲ぶ先人達の想い...
【鎌倉殿の13人】第36話あらすじ感想~武士の鑑|畠山重忠の乱
なぜこんなことに―謀反人畠山次郎重忠。時政:畠山一族を滅ぼす義時:どうしてそういうことになる!りく:畠山は謀反人ですよ政子:本当に謀反をたくらんでいたのですか義盛:もうちょっと生きようぜ。楽しいこともあるぞ重忠:戦など誰がしたいと思うかー!
皆さぁ〜ん、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」見てますかぁ〜陰謀、ドロドロ、策略…鎌倉は真っ黒だよね…ってことで第35話の感想ぉ!畠山討伐を企む北条時政とりく。りく…
鎌倉市由比ガ浜2丁目の鶴岡八幡宮の一の鳥居の横に、畠山重忠の息子・畠山重保の墓塔とされる石造宝篋印塔が、畠山重保邸阯碑や庚申塚とともに建っています。鎌倉市指定有形文化財 石造宝篋印塔 明徳四年銘高さ3.4mを超える、市内でも大型の宝篋印塔で、鎌倉幕府御家人、畠山六郎重保墓塔と伝えられます。塔の基礎には『明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友』と刻銘があり、作風からも明徳四年(1393年)造立と見られます。同...
1205年(元久2年)畠山重忠の内室・菊の前は、合戦の連絡を受け、二俣川の戦場に急ぎ駆けつけましたが、この地で重忠の戦死を聞いて悲しみ、自害してしまいました。その場所に駕籠ごと埋葬されたことから駕籠塚といわれています。菊の前は、足立遠元の娘とも伝えられています。以前は、浄水場の中に周りを囲まれた大きな塚があったそうですが、昭和30年に場外に移され、その後、昭和49年に現在の姿に整備されました。武州鶴ヶ峰駕籠...
【鎌倉殿の13人】中川大志さん熱演!畠山重忠ゆかりの地「二俣川の戦」横浜市旭区鶴ヶ峰レポ
【鎌倉殿の13人】で中川大志さんが演じる畠山重忠は「坂東武者の鑑」。横浜市旭区鶴ヶ峰は重忠が潔く戦い散った終焉の地です。重忠の首洗い井戸、首塚、さかさ矢竹、六つ塚、妻・菊の前が駕籠ごと埋葬された駕籠塚を「重忠ゆかりの地マップ」をもとに散策しました。
鶴ケ峰本町2丁目の薬王寺には、畠山重忠をはじめ、一族郎党134騎を埋めたと伝えられている「六ッ塚」があります。六ツ塚おおよそ乱世には学問道義は衰えるが畠山重忠公はおおよそ乱世に学問道義は衰えるが畠山重忠公は智仁勇の三徳を兼ね備えた武将で今なお親み慕われている。その時鎌倉北条時政から急ぎ鎌倉に出頭せよの命に接した公は菅谷の館(現・埼玉県比企郡)を6月19日発し、鶴ヶ峰にさしかかるや雲霞の如き数万騎は、ここ...
次は、矢畑と呼ばれる場所に向かいました。北条勢の放った矢が一面につきささり、矢の畑のようになったということから「矢畑」と呼ばれています。この辺りで、重忠が敵陣に取り囲まれたという説と、矢が腰巻のようにぐるりと取り巻いたという説があるそうです。 現在は、住宅地の間に「矢畑・越し巻き」の細い柱が建っているのみで、古戦場の面影は全くありません。せめて、石碑でもあったら良いのですが・・・次は、「すずり石水...
源頼朝の死後、幕府内部の権力闘争が続き、正治2年(1200年)の梶原景時の変、建仁3年(1203年)の比企能員の変によって有力者が滅ぼされ、幕府の実権は、14歳の3源実朝を擁する北条時政が掌握していました。畠山重忠は、治承4年(1180年)、石橋山の戦いでは初め頼朝に敵対しましたが、やがて頼朝に帰服し、木曽義仲や平氏の追討、奥州征伐などに戦功を立てました。建久1年(1190)、建久6年(1195)、頼朝再度の上洛に先陣を勤め、忠...
鎧の渡し緑道から旭区役所に向かって歩いて行くと、区役所の裏手の住宅地の間に、首塚があります。 首塚 畠山重忠公は鎌倉時代の武将で、源頼朝の忠臣として幕府の創設にも力を尽くし、智・仁・勇を兼ね備えた武将として名声をはせていました。しかし幕府の実権を巡る争いに巻き込まれ、旭区の二俣川付近で戦死しました。 ここは、畠山重忠公の首が祭られたところといわれています。現在は西向きに建っていますが、以前は南を...
元久2年(1205)畠山重忠は、この地で戦死しました。「畠山重忠公碑」の碑は、畠山重忠没後750年を迎えた昭和30年に、地元・鶴ヶ峰と埼玉県川本村(現・深谷市)の有志により建立されたものです。畠山重忠没後750年を記念し、昭和30年(1955)6月、鶴ケ峰と埼玉県深谷市畠山(旧川本町)の有志により建立されました。碑は、水道道が厚木街道を横断する交差点の、見晴らしのよい場所に建っています。また、「さかさ矢竹」という重忠ゆ...
坂東武士の鑑と称された畠山重忠の嫡男、畠山六郎重保(しげやす)の館跡と伝わる「畠山重保邸阯」を訪問しました。↑写真は、畠山重保の墓塔と伝わる宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。まず、畠山重保のWikipediaの情報の一部を以下に引用させて頂いて復習しました。畠山 重保(はたけやま しげやす、生年不詳〜元久2年6月22日(1205年7月10日))は、鎌倉時代初期の武将。父は畠山重忠、母は北条時政の娘。通称は六郎。 ...