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ごはん塚(→神奈川県横浜市緑区鴨居7丁目)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠の郎党に関する史跡です。二俣川合戦で畠山重忠が幕府軍(北条軍)の愛甲季隆の放った矢によって討死すると、畠山氏の郎党や下人の何人かは戦場を離脱しましたが、幕府軍による残党狩りにより鴨居(→神奈川県横浜市緑区)で討ち取られた者がいたようで...
東隆山 薬王寺(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町2丁目)は1205(元久元)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の御家人で「板東武士の鑑」と評された畠山重忠とその郎党130名余を埋葬したと伝わる「六ツ塚」が境内に残る曹洞宗寺院です。僧の北潭が開基し、創建時は東光山と称していたようです。毎年6月22日には境内の「重忠公霊堂」で滅亡した畠山重忠主従の供養が行われます。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「...
畠山重忠公首塚・畠山重忠公遺烈碑(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
畠山重忠公首塚(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰1丁目)は1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉時代前期の御家人畠山重忠(はたけやましげただ)の首が葬られたと伝わる史跡です。以前は南を向いていたようですが、現在は極楽浄土の方角とされる西向きに建っています。畠山重忠公遺烈碑及び畠山地蔵尊(→神奈川県横浜市旭区万騎が原)は明治時代中期の1892(明治25)年に有志57人によって建立された畠山重忠の供養碑...
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(神奈川県横浜市旭区)を訪問しました
首洗い井戸・鎧の渡し・さかさ矢竹(→神奈川県横浜市旭区)は」、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の忠臣で「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠にまつわる史跡です。畠山重忠の乱(NHK大河ドラマ「鎌倉殿と13人」/画像提供:NHK)「さかさ矢竹」は畠山重忠が地面に矢を2本刺したところ後日そこから竹が生えたという伝説が残る場所で、「首洗い井戸」は討ち...
畠山重忠古戦場跡(→神奈川県横浜市旭区鶴ヶ峰本町)は、鎌倉時代前期の1205(元久2)年6月22日の畠山重忠の乱(二俣川合戦)で討死した鎌倉幕府草創期の功臣・畠山重忠(はたけやましげただ)にまつわる史跡で、周辺には畠山重忠(二俣川合戦)にまつわる史跡が点在します。中には「さかさ矢竹」や「すずり石水跡」のような後世の創作と思われる史跡もありますが、「板東(ばんどう)武士の鑑(かがみ)」と評された畠山重忠を偲ぶ先人達の想い...