searchカテゴリー選択
chevron_left

カテゴリーを選択しなおす

cancel
プロフィール
PROFILE

しずかさんのプロフィール

住所
未設定
出身
未設定

自由文未設定

ブログタイトル
日々史跡めぐり
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/shizuyashizu
ブログ紹介文
日本あちこちの史跡・寺社仏閣・城・地名の由来などを紹介しています。
更新頻度(1年)

40回 / 365日(平均0.8回/週)

ブログ村参加:2013/09/04

本日のランキング(IN)
読者になる

新機能の「ブログリーダー」を活用して、しずかさんの読者になりませんか?

ハンドル名
しずかさん
ブログタイトル
日々史跡めぐり
更新頻度
40回 / 365日(平均0.8回/週)
読者になる
日々史跡めぐり

しずかさんの新着記事

1件〜30件

  • 小國神社(3)森山焼の橋~事待池

    森山焼の橋森山焼の橋森町の銘陶森山焼四家(静邨、中村、晴山、田米)の陶房に協力を願い、それぞれの特色ある陶器片を、貝のように鏤め、比売神様への掛け橋として新装しました。平成二十五年四月宗像社御祭神田心姫命(たごりひめのみこと)田霧姫命(たぎりひめのみこと)市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)弁天社ともいい、女性の守護神と敬われ、また、水徳の神とも敬われています。この赤い橋を渡ると八王子社です。御祭神国狭槌命(くにさづちのみこと)五男神三女神の八柱の神1月17日の例祭には奉射神事があります。事待池小國神社は「願い事が意のままに叶う神社」事任神社(ことのままのかみやしろ)として広く知られ、本社に詣で願掛けをして「事のままに待ち」心願成就すれば池に鯉を放ち神恩感謝の意を表わす慣わしから「ことまち池」といわれています。...小國神社(3)森山焼の橋~事待池

  • 小國神社(2)飯王子社~鉾執社

    小國神社は、静岡県周智郡森町に鎮座する神社で、大己貴命を祭神としています。欽明天皇の16年(555)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたとされています。皇族や武将の信仰が篤く、遠江国一宮として崇敬を受けました。境内には、今も勅使参道が往時のまま残っており、その両側には、樹齢数百年といわれるスギの大樹がそびえ立っています。飯王子社昔、遠州横須賀の地方に毎年旱天長雨の為、五穀稔らず住民こぞって一宮様に詣で祈り、豆を捧げしところ、村長の霊夢に「端殿を横須賀の方に向け、保食神を飯王子社と称へ奉らば五穀みのらむ」との神託により社殿を横須賀の方に向け祭り、以来此の地に不作絶へたと言はれ、また、2月15日の祭りに上げた大豆を馬や牛に与えれば災なく無病に育つと伝えら...小國神社(2)飯王子社~鉾執社

  • 小國神社(1)ことまち横丁

    静岡県周智郡森町は「遠州の小京都」とも呼ばれ、長い歴史を持つ神社・仏閣が点在しています。今年の春、遠江国一宮「小國神社」を参拝してきました。駐車場に立つ見事な桜の木小國神社の鳥居の横には、食べ物屋、お土産屋が集まっていることまち横丁があります。コロナ感染予防のため、マスク姿の参拝者がほとんどでしたが、こちらは相変わらず賑わっていました。私は三密を恐れて、店内には入りませんでした。外観のみの撮影です。小國ことまち横丁の由来ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ小國神社(1)ことまち横丁

  • 鷲津の本興寺(7) 三十番神堂~鐘楼

    三十番神堂三十番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります。前舎、後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により、瓦葺き型銅板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした。 鐘楼宝永2年(1674)17世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造りの袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます。...鷲津の本興寺(7)三十番神堂~鐘楼

  • 鷲津の本興寺(6)本堂

    開山杉と呼ばれる杉の間を抜けて本堂へ。開山杉樹叫六百年余と推定きれるこの老杉は、永徳3年(1383)門祖日陳聖人の東海巡科の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陳聖人は、応永13年(1406)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛を喜ばれ、開山記念として杉樹を御手植えされたと伝えられています。樹齢約630年樹高約16メートル(落雷により樹高止まる)胴廻右4.4m左3.7m科目スギ科スギ 本堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳3年(1383)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文21年(1552))九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺で、大仏様・禅宗様の二様式と、伝銃株式で...鷲津の本興寺(6)本堂

  • 鷲津の本興寺(5) 客殿

    回廊を通って、客殿に向かいます。客殿寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より)句碑星野立子花の寺静かな人出中に歩す中門大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門(あかもん)とも呼ばれています。貞享3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用...鷲津の本興寺(5)客殿

  • 鷲津の本興寺(4) 遠州流庭園

    国指定重要文化財絹本著色法華経曼荼羅図四幅鎌倉時代の作、法華経を四幅にして絵解きに資する絵図。奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より)庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれ...鷲津の本興寺(4)遠州流庭園

  • 鷲津の本興寺(3)大書院 その弐

    大書院の上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。谷文晁詩人谷麓谷の子として、宝暦恰3年(1763)江戸に生まれた。画をもって田安侯に仕え、松平定信の庇護を受けた。円山派の波辺南岳、北山寒巌の北画風をはじめ、宋、元、明の諸家の名蹟に学び、あらゆる画風の長をとって折衷した。山水、花鳥、人物など一つとして可ならざるはなく、大和絵までこなし、光琳瓜、四条派瓜をとり入れるなど。その画風は江戸期の全流派を集大成した感じがある。旅を愛し、最も得意とするところは山水画で、北宗的な堅い筆法と南宋的で柔和な空問のひろがりを総合して一派を創始、南北総派の祖といわれる。山水画の中でも三十歳前後の作品は、賦彩や濃淡のニュアンス、構...鷲津の本興寺(3)大書院その弐

  • 鷲津の本興寺(2)大書院 その壱

    方丈で受付を済ませ、大書院、奥書院、客殿の見学のスタートです。大書院は、文政10年(1827)の建立で、上段之間十五畳、中之間十八畳、岸良之間十八畳からなっています。大書院大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。(駒札より)双竜争珠の図大書院のからの遠州流庭園「四季山水図」の『秋之景色』花鳥図屏風ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ鷲津の本興寺(2)大書院その壱

  • 鷲津の本興寺(1)

    湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上人の開山で、今川氏の帰依や徳川家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇りました。山号は常霊山。院号は大悲院。本尊は三宝尊。山門は、愛知県豊橋市の吉田城から移築したもの。山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。その後、亨保10年(1725)に硯在の本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。300mという長い参道の両脇に塔頭が四院あります。浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300メ...鷲津の本興寺(1)

  • 新居町の散策(6)隣海院

    湖西市新居町の隣海院は、日ヶ崎隣海院という天台宗の寺でしたが、明応の災害で流出し、新居に移されたと伝えられています。慶安元年(1648)新福寺三世進外能迪和尚を開祖と仰ぎ、曹洞宗に改めました。宝永四年の災害で諸堂のすべてが流出し、翌年現在地に移り日ヶ崎山を新居山に改めました。文化七年(1810)に火災に遭い、翌八年に庫裡、文政二年(1819)に本堂を再建。山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ」と呼ぶ憤怒像の彫刻があり、参詣者の邪心を祓うと言われています。ジキジキ像を撮り忘れてしまったので、こちらのサイトで、ジキジキ像の画像をご覧ください。http://www.sotozen-navi.com/detail/index_221173.html山門に参拝者を見下ろすような形で祀られている「ジキジキ像」は、...新居町の散策(6)隣海院

  • 新居町の散策(5)本果寺(ほんがじ)

    本果寺はもともと真言宗の寺でしたが、元中七年(1390)に法華宗に改宗。天正二年(1574)に徳川家康から徒役免除及び朱印四石五斗の判物を与えられました。山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれています。明治元年(1868)、有栖川宮東下にあたり祈願寺とされました。あけぼのの鐘春は、境内を八重桜が彩ります。本果寺もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成十二...新居町の散策(5)本果寺(ほんがじ)

  • 新居町の散策(4)神宮寺

    新居町の神宮寺は、応永二年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられる寺です。江戸時代後期までは代々の住職がありましたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになったそうです。(湖西市観光振興協議会HPより) 子安観音の子安殿宗派臨済宗方広寺派白翁山神宮禅寺本尊阿弥陀如来地蔵菩薩創建応永2年(1395)開山悦翁大園真覚禅師聖鑑国師(無文元選禅師・後醍醐天皇の皇子)の法を直伝。 寺紋は十六菊、伊勢神宮信仰に関係があったと思われる。創建時は、日ケ崎にあったが宝永4年(1707)の大地震後、新居宿のまちづくりと共に、現在地に再建された。明治になって要津寺と光珠庵が当寺に合寺した。 境内には、子安観音(安産と子育て)、関所稲荷(忠臣蔵にでてくる土屋主税が建立)東海道の旅人の安全を見守っていた鯖弘法大師等が祀られて...新居町の散策(4)神宮寺

  • 新居町の散策(3)諏訪神社

    続いて新居町の諏訪神社へ。諏訪神社は、建御名方命を祭神として祀り、天下の奇祭「奉納煙火」で知られています。地域の住民の氏神として古来より尊崇される神社ですが、明応・永正・元禄年間など数度の災害によって宝永五年(1708)に現在地に移されるまでの古文書などの記録は残されておらず、創立の由緒や年代は明らかになっていないそうです。(湖西市観光振興協議会HP参照)当社は、景行天皇十九年(約千九百年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(一七〇八)現在地に遷座となる。現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(一五九〇年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。境内には樹齢4...新居町の散策(3)諏訪神社

  • 龍谷寺

    鷲栖院と同じく新居町の龍谷寺へ。龍谷寺の起源は、貞和元年(1345)気賀の庄、石川氏が開基となり、楠正成公に仕えた後に仏門に入った龍氏(石峰和尚が入野村(現在の浜松市入野町)に創建、東に佐鳴湖を見る所にあったことから山号を東湖山、寺号を自分の姓一字を入れて龍谷寺としたことに始まります。その後、永正元年(1504)、雲谷和尚が、産海村(現在の浜松市西区雄踏宇布見)に移し、寛文5年(1665)には、新居宿に移転し万牛和尚を開山としました。宝永4年(1707)10月4日に大地震が発生。三度の津波に見舞われ新居宿は全没。この災害で壊滅状態になりましたが、翌年、江国和尚がに現在地に再興。再建しました。現在の堂宇は14世玄雄和尚が再建しました。(龍谷寺HP参照)本堂聖観世音菩薩を本尊とする臨済宗妙心寺派のお寺です。鐘楼ブロ...龍谷寺

  • 鷲栖院(じゅせいいん)

    昨年の4月、新居町のウォーキングに参加した帰りに寄ったお寺です。湖西市新居の鷲栖院は、貞和(1345~1349)以前の創立といわれ、創建時は天台宗の寺であったといわれています。天正元年(1573)に再興して新福寺末寺になりました。慶長19年(1614)に開山堂を建立し、宝永6年(1709)に諸堂を改修しています。境内にある佐橋甚兵衛の墓佐橋甚兵衛の墓佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦2年(1657)まで、関所奉行を務めた。明暦3年、74歳で没し、初め自ら開基となった祐念寺に葬られたが、廃寺後ここ鷲栖院に移された。平成22年3月湖西市教育委員会鷲栖院(じゅせいいん)

  • 松ヶ崎大黒天(妙円寺)

    「松ヶ崎の大黒さん」として親しまれている妙円寺は、五山の送り火「妙法」の「法」の字が点火される松ヶ崎山のふもとにあります。山門大黒堂大黒堂の前にあるこの「なで大黒像」を撫でてから、自分の体の悪いところを撫でて祈願するとご利益があるそうです。当山は山号を松崎山。寺号を妙円寺(通称は松ヶ崎大黒天)といいます。松崎山妙圓寺と号し、日英上人の開基にかかる日蓮宗の寺である。本尊の大黒天は伝教大師の作、日蓮聖人が開眼したものといわれている。当寺は京都の表鬼門に位置するところから、古来、福運を授ける神と信ぜられ、昭和44年(1969)の火災にも無事で「火中の大黒さま」と呼ばれて、正月初子の日を始めとし、甲子の日には参詣者が多い。当寺は京都・都七福神の第一番で、背後の山では毎年8月16日孟蘭盆会の行事として「妙法」二字の送り火...松ヶ崎大黒天(妙円寺)

  • 修学院離宮(10)

    今まで歩いてきた道、見学してきたところを対岸から眺めながら、浴龍池のまわりを歩いていきます。千歳橋松並木を通り、出口へと向かいます。急な斜面の登り下りを含め約3kmほど歩いてことになります。結構な運動をした感じでした(^^;今年の春も京都に行く予定でしたが、コロナの影響で、キャンセルすることにしました。また機会があれば、この素晴らしい修学院離宮を見学してみたいと思います。この記事をもって、修学院離宮の記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)mブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(10)

  • 修学院離宮(8) 上離宮 土橋

    窮邃亭を出て、浴龍池の周りを歩いて行きます。池に映る樹々。まるで鏡のように映し出されています。土橋下離宮から歩いてきたところを上から見下ろすことができます。回遊式の庭園としてつくられているので、様々なアングルから池を中心とした景色を楽しむことができます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(8)上離宮土橋

  • 修学院離宮(8) 上離宮 窮邃亭

    続いて、上離宮の窮邃亭へ。窮邃亭は、創建当時から現存する唯一の建物だそうです。後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土間庇をめぐらす。内部は18畳の1室とし、間仕切りはない。ただし、北側の東隅に板間が突出し、水屋となっている。水屋には流し、天袋、地袋を設ける。床(とこ)、棚などの座敷飾りはないが、池に面する北面から西面にかけて鉤の手に6畳分を框一段分高くなった「上段」とする。上段の西側窓際には幅1尺、長さ2間の肘掛板があり、これは欅の...修学院離宮(8)上離宮窮邃亭

  • 修学院離宮(7) 千歳橋

    隣雲亭から浴龍池に向かいます。千歳橋中島と万松塢の間に架かる橋は、千歳橋という屋形橋で、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架け、宝形造屋根には金銅の鳳凰が飾られています。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したもので、当初から離宮にあったものではないそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(7)千歳橋

  • 修学院離宮(6)上離宮 隣雲亭

    隣雲亭は、海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建っています。床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられるほどの池を眺望するための簡素な建物です。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建。 では、ここからの素晴らしい眺望をもう一度ご覧ください!ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(6)上離宮隣雲亭

  • 修学院離宮(5)上離宮の浴龍池

    上離宮の表門に当たる御成門に到着!急な石段を上って行った先には、こんな絶景が広がっていました。眼下に巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした庭園。浴竜池は、谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及んでいます。遠方には、借景の山々を望むことができます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(5)上離宮の浴龍池

  • 修学院離宮(4) 中離宮の楽只軒

    楽只軒は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所の一部です。瓦葺、杮庇の建物。手前が「一の間」とその奥が二の間一の間は6畳で、狩野探信の「吉野山桜図」が描かれています。二の間は8畳で、「竜田川紅葉図」が描かれています。「楽只軒」の額は後水尾院の筆によるものです。上離宮に向かって、再び田園風景を眺めながら歩いて行きます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(4)中離宮の楽只軒

  • 修学院離宮(3)中離宮の客殿

    中離宮へ中離宮は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身で、この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていました。上皇の離宮建設により、奈良八島の地へ移っていき、朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となりました。客殿 客殿は、東福門院の女院御所の対面所を移築したもので、楽只軒の南東に接して建っています。建物は入母屋造の杮葺。西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間があります。一の間の飾り棚は、霞のたなびく様に似ることから...修学院離宮(3)中離宮の客殿

  • 新年のご挨拶

    昨年も応援コメントありがとうございましたm(__)m今年もよろしくお願い致します(#^.^#)にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ新年のご挨拶

  • 修学院離宮(2)下離宮から中離宮へ

    下離宮の参観を終え、松並木を眺めながら中離宮へ向かいます。明治天皇が行幸する際に、赤松を植樹し、砂利を敷き整備したことから御馬車道とも呼ばれているそうです。この辺りは、田園風景が広がり、比叡山、東山、北山が一望できます。離宮内には田んぼがあるとはびっくりでした。近くの農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたそうで、今も宮内庁が農家と契約し、米・野菜を作っているとか。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(2)下離宮から中離宮へ

  • 修学院離宮(1)下御茶屋 寿月観

    2015年の12月、修学院離宮の見学をしてきました。なかなか予約が取れなかった離宮ですが、秋の紅葉シーズンが終わったあたりで、運よく参観予約の空きがありました。修学院離宮は、17世紀中頃、1653年(承応2年)~1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営された離宮で、上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)という3か所の庭園からなります。面積は54万平方メートル。見学は、下御茶屋からスタートです。池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建っています。表総門を入り、北に進むと、石段上に御幸門があります。屋根は柿葺、花菱紋の透かし彫りが施されされています。御幸門を入り右折すると中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観があります。寿月観後水尾院行幸...修学院離宮(1)下御茶屋寿月観

  • 岩佐又兵衛の「浄瑠璃姫物語絵巻」その弐

    今回は、岩佐又兵衛の三大絵巻を同時公開ということで、前々から楽しみにしていました。展覧会は、もちろん撮影禁止なので、私が事前に購入したMOA美術館所蔵「岩佐又兵衛作品集」から何場面が紹介します。『浄瑠璃物語』奥州へ下る牛若と三河矢矧の長者の娘浄瑠璃との悲恋物語。15歳の春、鞍馬を出た牛若は奥州を目指す。浄瑠璃姫と出会い、恋に落ちる牛若しかし、先を急がなければならない牛若は、浄瑠璃姫と別れる。その悲しさと旅の疲れからか、牛若は病に。源氏に伝わる宝物が、大蛇、白鳩、烏、小童に姿を変え、牛若を守る。後に浄瑠璃姫を再会した牛若は、平家討伐の暁には、浄瑠璃姫を北政所にすることを約し、大天狗・小天狗に姫を送り届けるように頼む。といった展開で進んでいきます。又兵衛の絵は、愛と復讐の物語というテーマで、凄惨な合戦場面や惨酷な殺...岩佐又兵衛の「浄瑠璃姫物語絵巻」その弐

  • 岩佐又兵衛の「浄瑠璃物語絵巻」その壱

    2014年の秋のことですが、熱海のMOA美術館で開催された岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」と「浄瑠璃物語絵巻」という展示会へ出掛けて来ました。岩佐又兵衛といえば、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも一躍有名になった黒田官兵衛を有岡城に幽閉した荒木村重の子どもで、落城の際、城の残された荒木一族・郎党は惨殺されましたが、幼子であった又兵衛は乳母に救い出され、京都の本願派寺院あるいは石山本願寺に保護されました。成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕え、信雄の改易後は「勝以」と改名し、京で絵師の修業を積んだといいます。この又兵衛の作品の一つに「浄瑠璃物語絵巻」があり、義経と浄瑠璃姫の物語が描かれています。展示会場まで、この近未来的なエスカレーターに乗って行きます。色も少しずつ変わ...岩佐又兵衛の「浄瑠璃物語絵巻」その壱

カテゴリー一覧
商用