日々史跡めぐり
住所
出身
ハンドル名
しずかさん
ブログタイトル
日々史跡めぐり
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/shizuyashizu
ブログ紹介文
日本あちこちの史跡・寺社仏閣・城・地名の由来などを紹介しています。
自由文
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しずかさんのブログ記事

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(4)安心院

    岡崎の安心院の創建は寿永年間(1182~83)、義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため開いたのが始まりと伝えられています。義経の念持仏で浄瑠璃姫が賜ったと伝わる十一面観世音菩薩坐像を安置しています。当初は妙大寺という七堂伽藍が立ち並ぶ大きな寺でしたが、戦火により衰退し、今では本堂と庫裡を残すのみです。駒札によると、文安5年(1448年)に成瀬国平が大檀那になってこの寺を建立、木像の釈迦如来像を寄進し、以来成瀬家の菩提寺になったとのことです。境内には、芭蕉の句碑もあります。ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ岡崎の浄瑠璃姫伝説(4)安心院

  • 浄瑠璃姫伝説を追って(3)浄瑠璃ヶ淵跡

    浄瑠璃姫が身を投げたという菅生川沿いの浄瑠璃広場には、浄瑠璃ヶ淵跡の句碑が建っています。浄瑠璃ヶ淵跡今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。承安四年(1174)、浄瑠璃姫十六歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄...浄瑠璃姫伝説を追って(3)浄瑠璃ヶ淵跡

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(2)六所神社

    六所神社は37代・斉明天皇の勅願により、奥州の六所大明神を歓請し創立したと伝えられています。松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く、徳川家康の産土神として江戸幕府の厚い保護を受けました。楼門は、4代将軍・家綱が寄進したものといわれています。現在の社殿は寛永11年(1634年)~寛永13年にかけて三代将軍・徳川家光が再建したものです。日光東照宮を思わせる華麗な社殿ですね。ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ岡崎の浄瑠璃姫伝説(2)六所神社

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(1)麝香塚(じゃこうづか)石

    岡崎の浄瑠璃姫伝説を辿ってみました。  浄瑠璃姫三河国矢作(やはぎ)地方などの伝説や《浄瑠璃物語》に登場する女主人公。《浄瑠璃物語》によれば,源中納言兼高と妻の遊君矢作の長者とが峰の薬師(鳳来(ほうらい)寺)に申し子をして得た子。14歳のとき,金売吉次の供をして奥州に下る牛若(義経)と契ったとされ,駿河国吹上で病に死んだ義経を姫が蘇生させたとされる。また,三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向(えこう)すると姫の墓の五輪塔が砕けて,奇瑞をみせたと伝える。(コトバンクより) 名鉄東岡崎駅近くの六所神社の大鳥居脇にある高宮神社の礎石は、源義経が浄瑠璃姫の形見の麝香を埋めたとされる麝香塚に使われていた石と伝わっています。    ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログラン...岡崎の浄瑠璃姫伝説(1)麝香塚(じゃこうづか)石

  • 岡崎めぐり(10)岡崎城 その弐

    天守閣は、2階から4階までが江戸時代の岡崎を紹介する歴史資料館になっています。5階は展望室となっており、三河平野を一望することができます。家康はいつも、この天守閣から北に見える徳川家菩提寺の大樹寺を拝したといわれています。木々の間に大樹寺がちらっと見えます。龍城神社岡崎城の跡地に鎮座する龍城神社(たつきじんじゃ)は、東照宮の一つです。三河国守護代・西郷稠頼が岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させて天に去っていたので、以降、天守に龍神を祀り、城の名を龍ヶ城、井戸の名を龍の井と称したという伝承があります。1543年(天文12年)岡崎城で、家康が誕生した際にも金色の龍が現れたといいます。1624年~1643年(寛永年間)家康を祭神として東照宮を岡崎城天守に祀りました。後に本多忠勝を合祀し、大正三年県...岡崎めぐり(10)岡崎城その弐

  • 岡崎めぐり(9)岡崎城 その壱

    岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、松平元康のちの徳川家康の生地です。元康は、岡崎城内の坂谷邸で生まれましたが、6歳で故郷を離れ、織田家、そして今川家の人質として少年期を過ごしました。岡崎城の別名は「龍城」。1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公...岡崎めぐり(9)岡崎城その壱

  • 岡崎めぐり(8)大樹寺 松平八代墓

    松平八代墓元和元年(1615)徳川家康は、先祖松平八代廟所を寺内に建立しました。元和3年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされます。昭和44年には岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立しました。徳川家康の墓ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ岡崎めぐり(8)大樹寺松平八代墓

  • 岡崎めぐり(7)大樹寺 

    永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで、今川義元を失った今川軍は潰走、拠点の大高城で織田方の水野信元の使者からの今川義元討死の報を聞いた松平元康(のちの徳川家康)は、岡崎の松平家の菩提寺・大樹寺に手勢18名ととも逃げ込みました。しかし寺を囲んだ追撃の前に絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げると、登誉は問答の末「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)」の経文[汚れなき世を築くために生きよ」の教えを説いて諭しました。これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固め、教えを書した旗を立て、およそ500人の寺僧とともに奮戦し郎党を退散させました。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになります。こうして元康は、今川軍の元での城代山田景隆が...岡崎めぐり(7)大樹寺

  • 岡崎めぐり(6)滝山東照宮

    滝山寺境内の滝山東照宮は、三代将軍・徳川家光の命により勧進されたものであり、日光、久能山とともに、東照宮三宮とされています。正保元年(1644年)、徳川家光は徳川家康が生まれた岡崎城の近くにも東照宮を観請したいと考え、酒井忠勝、松平正綱らに命じてその場所の選定を行わせたところ、家康もよく訪れていた滝山寺に観請するのが良いということになり、正保3年(1646年)9月17日に創建されました。創建以来、滝山寺が別当職を兼務(別当寺)してきましたが、明治6年(1873年)の神仏分離により、滝山寺の運営から独立して独自の神官が選任され、無格社に列せられました。大正5年(1917年)白山社、日吉社を合祀。大正12年(1924年)稲荷社、若一皇子社、荒神社、神明社を合祀。昭和28年(1953年)11月、本殿ほかが国の重要文化...岡崎めぐり(6)滝山東照宮

  • 岡崎めぐり(5)滝山寺

    滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家の恩恵を受けてきました。岡崎市最古の和様建築物である三門、本堂ともに国の重要文化財です。三門(三門の画像:Wikipediaより)本堂貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設。現在の本堂は、明治43年頃に解体・大修理をしたもの。寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像は、鎌倉時代の第1の仏師運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。聖観音像は源頼朝の等身大で、仏身に御髪と御歯が納められてい...岡崎めぐり(5)滝山寺

  • 岡崎めぐり(4)

    岡崎市欠町石ヶ崎の八柱神社には、徳川家康の妻であった築山御前の首塚があります。築山御前は、今川方の出身であり、織田信長に武田方と内通しているとのとの嫌疑をかけられ、殺害されてしまいました。八柱神社拝殿八柱神社本殿築山御前首塚築山御前は関口刑部少輔義廣殿の御息女瀬名姫で今川義元の養女になり家康公の御正室になられました。長男の岡崎三郎信康公は織田信長公の御息女徳姫を御正室に迎へられましたので母と嫁は全くの仇敵となってしまいました。徳姫の父信長公は今や隆々の勢力を有し天下を治めんとして居り、徳姫も父の権威を背景に我侭の振舞もあり、家康公も信長公を恐れ浜松城に移っても築山御前を迎へようとはせず、築山御前の怒りは火の如く燃へ信康公と徳姫を離間させようと狂乱に近き挙動もあったと思われる。されど主害に値するほどの罪悪であった...岡崎めぐり(4)

  • 岡崎めぐり(3)若宮八幡宮・徳川信康の首塚

    愛知県岡崎市朝日町にある若宮八幡宮には、徳川家康の長男・徳川信康の首塚があります。信康は、永禄2年(1559)3月6日、駿府で生まれました。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごし、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。永禄10年(1567)織田信長の娘・徳姫と結婚し、家康が浜松城に移った元亀元年(1570)に岡崎城主になり、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗りました。信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫り、信康は、天正7年(1579)遠江(浜松)の二俣城で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残し、21歳の...岡崎めぐり(3)若宮八幡宮・徳川信康の首塚

  • 岡崎めぐり(2)伊賀八幡宮 その弐

    随身門をくぐります。拝殿寛永13年(1636)三代将軍・徳川家光によって本殿に増設し、造営されました。(国の重要文化財)同じ年に日光東照宮も改築完工されています。本殿は、慶長16年(1611)徳川家康によって造営されました。権現造りの本殿は入母屋造が普通ですが、伊賀八幡宮は流造りになっています。(国の重要文化財)「本殿」「幣殿」「拝殿」の三連で権現造りとなっています。さざれ石国家『君が代』に歌われた石です。毎年1月の大寒の日に、28mはなれた場所から矢を放ち檜の的板のわれ具合によってその年の豊凶を占う「武者的神事」が行われ、「矢が的に当たる」「当たるが割れない」「2つに割れる」「3つ以上に割れる」の4段階で判定されます。ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログラ...岡崎めぐり(2)伊賀八幡宮その弐

  • 岡崎めぐり(1)伊賀八幡宮

    松平家の4代親忠が、文明2年(1470)に松平家(徳川家の祖)の子孫繁栄・武運長久の守護神、氏神として伊賀八幡宮を創建ました。5年後に氏寺(菩提寺)として創建の大樹寺と共に、江戸時代にわたっても将軍家の厚い崇敬をうけました。天下人となった徳川家康により社殿の改築が行われ、家康も、大きな合戦の時には必ず参詣したといわれています。のちに3代将軍・家光が社殿を拡張し、家康(東照大権現)を祀りました。石鳥居明神鳥居で、国の重要文化財。石橋蓮池にかかる石橋です。寛永13年、境内が整備された際、架けられました。現在は渡ることはできません。国の重要文化財随身門神域を守る随神様を門の両側に祀っています。また門の表と裏両方の左右に力神が門の屋根を支えています。国の重要文化財7月には、はすの花も開花し、はすの名所としても人気があり...岡崎めぐり(1)伊賀八幡宮

  • 谷中めぐり(5)瑞輪寺 その弐 大久保主水の墓

    瑞輪寺の墓地には、江戸水道の開設者である大久保主水の墓があります。大久保主水墓(都旧跡)台東区谷中4丁目2番5号瑞輪寺名は忠行、または藤五郎と称す。三河国の武士で、徳川家康に仕え三百石を給されていた。一向一揆のときに足を負傷してから戦列に加われず、餅菓子を作る特技を生かし、以降、家康に菓子を献じたという。天正18年(1590)家康は江戸に入り町づくりを始める。用水事業を命ぜられた忠行は、武蔵野最大の湧水地である井の頭池、善福寺池を源に、それぞれの池から流れる河流を利用して、江戸城ならびに市中の引水に成功した。これを神田上水といい、江戸の水道の始まりであり、また我が国水道のさきがけであった。この功により、家康から「主水」の名を賜り、水は濁らざるを尊しとして「モント」と読むべしと言ったという。以来、子孫は代々主水と...谷中めぐり(5)瑞輪寺その弐大久保主水の墓

  • 谷中めぐり(5)瑞輪寺 その壱

    瑞輪寺は、日新上人により開山された日蓮宗のお寺です。日新上人は徳川家康が幼少の頃、学問教育の師範でした。沿革1591年(天正19年)-日本橋馬喰町に瑞輪寺が創建される。1601年(慶長6年)-神田に移転。1649年(慶安2年)-現在地に移転。1856年(安政3年)-台風によって諸堂が被害を受ける。1868年(明治元年)-上野戦争により全山焼失。以降再建を図る。2006年(平成18年)4月-中本山から本山(由緒寺院)に昇格塔頭として浄延院、躰仙院、正行院、久成院、本妙院がある。江戸十大祖師の一つとして、除厄・安産飯匙の祖師と称される。江戸時代は身延山久遠寺の善立寺(足立区)、宗延寺(杉並区)と並ぶ江戸触頭であった。(Wikipediaより)応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ谷中めぐり(5)瑞輪寺その壱

  • 谷中めぐり(4)延壽寺

    延壽寺(えんじゅじ)は、明暦3年(1657年)覚性院日勤を開山に創建された大乗山延寿院を起源としています。宝永年間に身延山久遠寺の末寺となり、宝暦5年(1755年)に寺号を六浦山延寿寺に改め、身延山の宿坊山本坊より日荷上人像を勧請しました。明和9年(1772年)の明和大火で焼失、安永3年(1774年)までに諸堂が再建されました。慶応4年(1868年)上野戦争で山門以外の伽藍を焼失。山門明治9年(1876年)に本堂、庫裡を再建。本堂明治44年(1911年)には仮堂であった日荷堂も再建されました。日荷堂応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ谷中めぐり(4)延壽寺

  • 谷中めぐり(3)蓮華寺

    谷中の蓮華寺は、虫封の寺、鳥文斎栄之(浮世絵師)、富士松魯中(富士松節)の菩提寺として知られてます。山号は寂静山。中山法華経寺19世寂静院日賢の隠室が起源、寛永7年(1630年)常在院日在が創建しました。赤門の山門は、明暦の大火、元禄地震、上野戦争、関東大震災、東京大空襲などを免れ現存しています。現在の本堂は、文政年間(1818年-1830年)頃、勘定奉行の細田丹波守時敏が寄進したもの。にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ谷中めぐり(3)蓮華寺

  • 谷中めぐり(2)護国院

    寛永2年(1625年)、天海僧正により東叡山寛永寺が開山され、天海の命を受けた開基生順によって、東叡山寛永寺最初の子院として護国院が建立されました。寛永7年(1630年)、天海により境内に一堂が建立され、古仏師春日の作といわれる釈迦、文珠、普賢の三尊像を安置、本尊としたことから釈迦堂と名づけられ、護国院は別当寺(管理寺院)となりました。寛永16年(1639年)、釈迦堂で豊臣・徳川両軍の霊を弔う大念仏法要が執り行われ、徳川家光より藤原信実筆と伝えられる大黒天の画像が奉納されました。以来この像は護国院大黒天として信仰を集め、谷中七福神のひとつとして信仰されています。護国院は当初、寛永寺本坊裏手(現在の東京国立博物館北の寛永寺墓地の位置)にありましたが、徳川家霊廟建設のため幕府の命により移転。慶安4年(1651年)、...谷中めぐり(2)護国院

  • 谷中めぐり(1)一乗寺

    数年前に遡りますが、東京都台東区谷中の寺院めぐりをしました。一乗寺は、日蓮宗の寺院で、山号は大法山。天正18年(1590年)頃、日僚(茂原妙光寺17世)を開山に創建。現在の伽藍は戦前までに整備されたもので、昭和12年(1937年)客殿庫裡が再建されました。境内には、儒学者大田錦城の墓所(東京都指定旧跡)があります。太田錦城墓所在地台東区谷中1丁目6番1号一乗寺内指定昭和3年3月太田錦城(1765~1825)は江戸時代中期の儒学者で、名は元貞、字は公幹、才佐と称し、錦城は号である。加賀国大聖寺に生まれ、当時の大儒であった皆川淇園、山本北山に折衷派を学んだが満足せず、漢代以降の中国の諸説を直接研究し、一家の学を建てた。晩年にいたり、一時京畿に遊び、三河国吉田藩に仕えたが、加賀国金沢藩から賓師として招かれ、三百石を給...谷中めぐり(1)一乗寺

  • 奥山方広寺の浜松別院・正福寺

    浜松市高町の正福寺は、奥山方広寺の浜松別院であり、奥山半僧坊浜松別院とも呼ばれています。「奥山半僧坊は、大河ドラマ『おんな城主直虎』で紹介された井伊直政(徳川四天王の一人)の母の出身である奥山家ゆかりの寺である」という案内板に惹きつけられました(^^;当寺には、浜松七福神のうちの「福禄壽尊天」が鎮座しています。にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ奥山方広寺の浜松別院・正福寺

  • 下多良神社

    米原市下多良に鎮座する下多良神社。由緒によると御祭神は素戔鳴尊、古くは祇園社といい、下多良村の産土神であったといいます。御祭神素盞鳴尊御神紋瓜に唐花御由緒古くは素盞鳴神社と称した。佐々木の末裔河合阿房守実氏が、応仁元年代々伊賀国屋形義綱、義実公の2代に仕え、阿山郡河合村に住し、御祭神を祀ったが、天正2年秀元は伊賀国を退去して当村に居を移し、其子孫が多良山の頂に奉遷して祇園社と称した。後産土神となり、新幹線通過のため現在地に祀った。(滋賀県神社庁サイトより)にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ下多良神社

  • 青岸寺(2)庭園

    青岸寺庭園は、青岸寺の本堂裏手にあり、裏山を背景に、山腹を利用して築かれた回遊式と観賞式を兼ねた庭園。昭和9年(1934)、国の名勝に指定されています。三世住持の興欣により書かれた『築園記』によると、庭は江戸前期、要津和尚の入山とともに造られましたが、彦根城内の楽々園を造築する際に石が取り出され一時荒れていました。その楽々園や玄宮園を造った井伊家の家臣香取氏が、興欣の依頼を受けて再築ました。池の中央に蓬莱島、後ろに滝を組み、池畔に無数の岩と刈り込みを配した、築山林泉式枯山水は、白砂の代りに杉苔の緑を用いて、水の流れを表現しています。(滋賀・びわ湖観光情報サイト参照)にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ青岸寺(2)庭園

  • 青岸寺(1)

    滋賀県米原市の太尾山西麓にある曹洞宗の青岸寺。山号は吸湖山、近江湖北二十七名刹第27番札所、近江七福神(福禄寿)。境内にある築山林泉式枯山水庭園「青岸寺庭園」で知られています。創建は室町時代初期で、近江守護の佐々木道誉が不動山の山号と米泉(べいせん)寺の寺号で開創しました。本尊の聖観音像は、南北朝時代に佐々木六角氏頼が、諸堂の再建とともに造立したもので、秘仏とされています。その胎内には、氏頼の持念仏であった高さ約20cmの観音像が納められています。この観音像は「お腹籠の観音」または「旗竿の観音」と呼ばれ、氏頼はこの観音像を必ず旗竿に祀って出陣したといいます。本堂その後、戦国時代に観音像一駆を残して焼失しましたが、慶安3年(1650年)、彦根藩主・井伊直澄の命により彦根大雲寺の要津守三が入山し、敦賀の伊藤五郎助の...青岸寺(1)

  • 大谷吉継の首塚(米原)

    米原にある大谷吉継の首塚を訪ねて来ました。JR米原駅から徒歩約15分。米原郵便局を目印に進み、下多良神社の脇の道を通り過ぎて行くと、畑の真ん中に祠が見えてきます。大谷吉継は、豊臣秀吉の小姓として信任を得、奉行となって越前敦賀で5万石を拝領。朝鮮の役に石田三成らとともに参加。秀吉没後、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いで西軍石田方として参戦。小早川秀秋の裏切りによって、西軍の敗北を悟った吉継が、敵に首を渡さないよう、湯浅五助の介錯で自刃。家臣・三浦喜太夫が袋に包んで吉継の甥の僧・祐玄に持たせ、敦賀の逃亡の途中に、この地に埋め隠したといわれています。吉継の自害後、喜太夫は追腹を切り、五助は藤堂隊に駆け行って討ち死にしました。吉継の首については、諸説あり、自害した吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められ(...大谷吉継の首塚(米原)

  • 石田三成ゆかりの地(11)嶋氏館跡

    今回は、石田三成の重臣・嶋左近ゆかりの地を紹介します。島氏の出自は明らかでありませんが、奈良県生駒郡平群町周辺の在地領主で、椿井城・西宮城を本拠にしていたという説の他、米原の山内一豊の妻・千代の出生地から近くにある春日神社にも、嶋氏館跡があります。この一帯は、今井氏の重臣「嶋氏」の館跡とされる。館の東には北国街道の飯村川の渡しがあったことから、嶋氏が交通の要衝を管理する立場にあったと考えられる。嶋氏については「嶋記録」に詳しいが、昔から嶋仲間が四組(角左衛門・新六・仁左衛門・十郎右衛門)あり、遺領の土地や位牌を守り毎年法要を行っている。石田三成の重臣嶋左近は当地の出身といわれている。島(嶋)清興(しまきよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。通称は左近で、一般には島左近(しまさこん)...石田三成ゆかりの地(11)嶋氏館跡

  • 新年のご挨拶

    昨年も応援コメントありがとうございましたm(__)m今年もよろしくお願い致します(#^.^#)にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ新年のご挨拶

  • 石田三成ゆかりの地(10)春日神社

    米原市世継の春日神社も石田三成ゆかりの神社です。のどかな田園風景を見ながら歩いて行きます。当社には三成がお手植えした伝わる藤があります。三成が美濃へと出立する前に、ここで戦勝祈願の記念にとして植えた藤なのだそうです。また、石田三成の家紋である「下り藤」もここからのものだと考えられています。今年も一年ありがとうございました。来年もよろしくお願いいたします。にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ石田三成ゆかりの地(10)春日神社

  • 石田三成ゆかりの地(9)彦根の宗安寺 

    彦根城跡から夢京橋キャッスルロードに出ると、通りの真ん中に浄土宗の宗安寺があります。井伊直政の正室・東梅院の父母の菩提を弔うため上野国箕輪に建立された安国寺を前身とします。井伊直政が高崎城主となると安国寺は移転。1601年佐和山入城に伴い、佐和山城下へ移され、宗安寺と改名。1603年、彦根城築城の際、現在の地へ移転されました。赤門は、石田三成の佐和山城の表門を移築したものと伝えられています。現在の本堂は、江戸時代中期に長浜城付属御殿を移築したものです。また、本尊の阿弥陀如来立像は、大坂夏の陣の時、淀君の念持仏とされる仏像を持ち帰ったもので、胎内納経の奥書から文永7年(1270年)の作といわれています。書院には、石田三成の念持仏の千体仏と石田地蔵尊が安置されています。また、当寺は、朝鮮通信使節団高官の彦根での宿泊...石田三成ゆかりの地(9)彦根の宗安寺

  • 石田三成ゆかりの地(8)観音寺

    数年前のことになりますが、寺の小僧だった石田三成と豊臣秀吉が出会った場所とされている米原市の観音寺を訪れてみました。三成の出生地・石田よりバスで米原方面に向かい、観音寺下車。観音寺は、もとは伊吹山中にあり、僧三修が開いた伊吹四大寺として隆盛を極めていましたが、13世紀に山を降り、現在地に移ったとされています。ここは、鷹狩で立ち寄った秀吉に三成が茶でもてなし、才能を見出されたという三献の茶のエピソードが伝えられているお寺です。境内にはその時の水を汲んだという井戸もあります。三献の茶のエピソードのもとになった観音寺にお参りできて大満足でしたにほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ石田三成ゆかりの地(8)観音寺