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2013/09/04

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  • 御津神社(みとじんじゃ)

    大恩寺を見学した後、すぐ隣りの御津神社にも立ち寄ってみました。御津神社(豊川市御津町)の創建は、西暦以前に遡るといわれ、あまりにも古く記録がないため不詳なのだそうです。祭神は大国主命。古代穂国の港の地として栄えた御津町に古くから鎮座して、当時は港湾や船舶守護の神社として崇敬されて参拝されていたといわれています。境内の大楠は、神社のシンボルで、樹齢1,000年を超える老木です。御霊社天満社4月の第3日曜日には、その年の豊漁・安全祈願と鳥賊(いか)の供養のため鳥賊(いか)祭りが行われます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング御津神社(みとじんじゃ)

    地域タグ:豊川市

  • 徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

    念仏堂跡天文22年(1553年)の建立で、国の重要文化財に指定されていましたが、1994年に焼失。大恩寺念仏堂歴史天文22年(1553)牧野保成造立元禄10年(1697)移築大改修大正10十年(1921)国宝指定昭和25年(1950)国重文指定昭和28年(1953)解体復原平成6年(1994)焼失説明浄土宗御津山大恩寺は松平親忠の中興で徳川家、牛久保牧野家、為当竹本家、大塚岩瀬家等の崇敬が続いた。念仏堂の構造は桁行五間、梁間五間、一重入母屋造、檜皮葺で一間の逗子があった。特に内陣の厨子、須弥壇の形式彫刻等に見るべきものが多く、天井、長押等の絵画も見事で室町時代の秀作と言われた。平成八年八月御津山大恩寺本殿に向かって左手の道を墓地に向かう途中、牧野家、清廉夫婦、広忠、亀姫の墓があります。牧野家のお墓松平清康...徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

    地域タグ:豊川市

  • 徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

    JR東海道本線「愛知御津駅」下車徒歩約15分のところにある大恩寺。豊川市観光協会HPによると、徳川家康が、何度も訪れたことがある場所と知って、昨年訪ねてみました。当時の住職、成誉上人(じょうよしょうにん)は家康の叔父に当たり、家康はその叔父に会いに訪れていたそうです。大恩寺の創建については、推古天皇の時代(593~628)、三論宗の布教のために高句麗から訪れていた僧の恵灌(えかん)が、御津山の約2㌔北東に位置する新宮山に「浄光院」を建立したのが始まりとされています。それから約700年後の1444年、浄土宗を広めるためにこの地を訪れた茨城県の「弘経寺」(ぐぎょうじ)の僧侶、了暁(りょうぎょう)が、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興。浄土宗大運寺を開きました。1490年、寺は松平家(のちの徳川家)の4代・松平...徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

    地域タグ:豊川市

  • 蒲郡の竹島 八百富神社(2)

    八百富神社と徳川家との関係は深く、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印4石8斗を寄進したといわれています。また、家康が会津の上杉征伐に向かう途中、船で竹島に着き、郷土である内田弥右衛門義隆が蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があり、その際縁起が良いと喜んだそうです。八百富神社八安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成によって創建されたと伝えられています。ご祭神は天照大神が剣を折って霧を出した時に現われたと言われている市杵島姫命で、開運・安産・縁結の神として知られ、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。八大龍神社/祭神豊玉彦命藤原俊成の夢に、「永く竹島に遷りて諸人に幸福を与えん」(竹島に長く留まり、全ての人々に幸福を与えなさい)という宣託があり、...蒲郡の竹島八百富神社(2)

  • 蒲郡の竹島 八百富神社(1)

    数年前のこと、愛知県蒲郡の八百富神社を参拝しました。1181年(養和元年)三河国国司である藤原俊成が、竹生島より勧請し創建したといいます。「竹島弁天」ともいい、日本七弁天の一つとされています。蒲郡市沖の三河湾にある竹島に鎮座し、竹島全域が八百富神社の境内です。潮干狩りをする人たちの姿も見られました。さあ、この急な階段をのぼって行きます。宇賀神社/祭神宇迦之御魂神宇迦之御魂神は食物を主宰する神様です。当社は昔三河守源範頼の信仰が厚い神社でした。一時は、国府村に遷座されていましたが、享保10年(1725)国府村や竹島の神主が「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより、宇賀神社は竹島に戻されることになり、国府の人々は八尾登美神社の崇敬者となりました。大黒神社/祭神大国主命大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、...蒲郡の竹島八百富神社(1)

    地域タグ:蒲郡市

  • 岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    龍海院の本堂裏手の墓所には、酒井正親墓のほか、松平広忠後室・真喜姫(田原御前)の墓など、家康ゆかりの方の墓が祀られています。松平清康の墓徳川家康の祖父。信忠の子。大永3(1523)年13歳で家督を継ぎ,翌年西郷弾正左衛門尉信貞を攻めて安祥(安城)から岡崎に入り,次いで西三河を平定。享禄2(29)年牧野伝蔵ら4人兄弟のこもる吉田城を攻め落し,田原に押寄せて東三河も手中に収めた。その後,今川氏に属し天文2(33)年三河に進出した信濃の兵と井田野で戦ってこれを敗走させた。同4年12月織田信秀を討つため尾張森山に陣をしいたが,家臣阿部弥七郎の誤解から不慮の死をとげた。この事件は一般に「森山崩れ」と呼ばれている。(コトバンクより)酒井雅楽頭正親の墓清康、広忠、家康の3代に仕えた家臣。建立の際、清康が改宗を希望しまし...岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    地域タグ:岡崎市

  • 岡崎の龍海院(1)是之字寺

    東岡崎駅から徒歩3分、駅の近くに建つ龍海院は、享禄3年(1530年)6月、模外惟俊を開山として、徳川家康の祖父・松平清康が創建し、武運長久の祈願寺としました。家康の父・松平広忠によって再興された岡崎市内の龍渓院が山の近くにあるのに対して、当寺は海側にあるので、龍海院と名付けられたと言われています。通称「是之字寺(ぜのじでら)」といい、山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「是」の文字があります。清康が20歳の時、元旦の初夢に左手に「是の字」を握る夢を見たので、これを模外和尚に占わせたところ「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。それを聞いた清康は、模外禅師を初代として龍海院を建立。その...岡崎の龍海院(1)是之字寺

    地域タグ:岡崎市

  • 聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。豊臣秀勝没年:天正13.12.10(1586.1.29)生年:生年不詳安土桃山時代の武将。織田信長の4男で,羽柴(豊臣)秀吉の養子。通称於次。生年は定かではないが,天正10(1582)年の秀吉書状に於次は「十五六」とあることから永禄11(1568)年ごろの誕生と思われる。養子となったのは天正5,6年であろう。当初は長浜城の留守にあったが,同10年3月以降は秀吉と共に中国地方を転戦し,山崎の戦にも従軍。秀吉が大徳寺で行った信長の葬礼では秀吉と共に喪主を務めた。同年10月丹波亀山城主となり従五位下丹波守に叙任,次いで正四位侍従。同11年の賤ケ岳の戦,翌12年の小牧・長...聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    地域タグ:京都市

  • 鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    では、薬王寺の境内を散策してみましょう。鐘楼祈珠之塚と叶水(かのうすい)さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)さしのべさん(本名毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさ...鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    地域タグ:鎌倉市

  • 鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    地域タグ:鎌倉市

  • 家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺です。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡とされています。太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、徳川家康の側室です。家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めました。家康の死後は落飾して英勝院と称し、3代将軍・家光より扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました。第一世庵主は頼房の娘・小良姫(清因尼)で、以降は水戸徳川家のお姫さまが庵主を務めました。そのため水戸様の尼寺と称され、法要に際しては徳川将軍菩提寺の増上寺などから僧が派遣されました。1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていましたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されました...家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    地域タグ:鎌倉市

  • 小野小町双紙洗水遺跡

    一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主は、小町相手には勝ち目がないと思い、前日小町の邸に忍び込んで、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きします。そして、小町が歌を記した草紙に加筆し、『万葉集』を盗作したように見せかけました。しかし、小町が庭の井戸水で草子を洗うと、後から書き加えた歌の文字が流れ消えたといいます。小町が草紙を洗った井戸がこの辺りと...小野小町双紙洗水遺跡

    地域タグ:京都市

  • 数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻り橋は、数々の残酷な歴史の舞台にとなってきました。戦国時代には、細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎が鋸挽きにされました。和田新五郎(わだしんごろう、生年不明-天文13年8月11日(1544年8月29日))は、戦国時代の武士。三好長慶の被官。新五郎は室町幕府12代将軍である足利義晴の嫡男・足利菊童丸の侍女と「不義密通」していたことを咎められ、天文13年(1544年)、一条戻橋で「鋸引き」の刑で処刑された。最初の鋸で両腕を切り落とされ、その後頸を斬り落とされたという。山科言継曰く、「前代未聞」の残忍な処刑方法だったという。また侍女の方も洛中を裸体で引き廻された後六条河原で処刑された。処刑は足利義晴及び細川晴元による主導で行われた。この事件は長慶の面目を丸潰し...数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    地域タグ:京都市

  • 聚楽城 加藤清正邸跡

    京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城加藤清正邸の案内板があります。Googleマップで、偶然見つけました。豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正13(1585)年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる(→聚楽行幸記)。同19年12月関白を養子秀次(→豊臣秀次)に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4(95)年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された...聚楽城加藤清正邸跡

    地域タグ:京都市

  • 豊田市の挙母城(七州城)

    愛知県豊田市小坂本町付近にあった「拳母城」(ころもじょう)は、江戸時代の1782年(天明2年)に築城されました。三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城とも(しちしゅうじょう)とも呼ばれました。こ拳母城には天守閣はなく、藩主が居住する御殿を中心に、侍屋敷などが設置され、1787年(天明7年)には拳母藩の藩校「崇化館」(そうかかん)が設立されました。明治時代に廃城となりましたが、1978年(昭和53年)には、絵図をもとに隅櫓が復元され、隅櫓に隣接して「又日亭」(ゆうじつてい)という書院と茶室が設けられました。現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。又日亭挙母城の起源となった金谷城は、鎌倉時代の1309年に中條景長...豊田市の挙母城(七州城)

    地域タグ:豊田市

  • 日限地蔵尊(浜松市元城町)

    浜松城向かいの元城町東照宮の鳥居から東へ坂を下ったところに日限地蔵尊が祀られているお堂があります。日限地蔵(ひぎりじぞう)は日本各地に存在する「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。この地蔵尊は江戸時代の文政年間(1818〜1830年)浜松宿田町で呉服屋を営んでいた小野江家に祀られていたものだとされている。現在の場所に移された明治初年から、既に日限地蔵に対する信仰は広がり、心願成就の仏様として平成の現在でも地域信仰は厚い。太平洋戦争中、浜松市は米軍の焼夷弾や艦砲射撃の戦禍に見舞われたが、不思議な事に地蔵尊の境内には一発の弾も落ちなかった。このため、境内に避難していた市民は全員助かったといわれている。そうした霊験が人伝えに語り継がれ、元城の日限地蔵の今日を迎えている。(「Do!はまま...日限地蔵尊(浜松市元城町)

    地域タグ:中区

  • 了運寺(知立市)

    知立神社に向かう途中、この門に惹かれて立ち寄りました。了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊として開かれたのが始まりと伝えられています。元は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し、了運寺と改めました。明治の廃仏毀釈運動により、神宮寺であった総持寺が廃寺になると、多くの仏像が了運寺に移され、後に総持寺が再興されると戻されたそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  了運寺(知立市)

    地域タグ:知立市

  • 岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

    大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。西郷頼嗣の墓初代岡崎城主次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。(Wikipediaより)西郷信貞の墓4代・岡崎城主大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂...岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

    地域タグ:岡崎市

  • 岡崎の大林寺(1)松平廟

    岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。それら...岡崎の大林寺(1)松平廟

    地域タグ:岡崎市

  • 殿橋(岡崎市)

    岡崎の中心部を流れる乙川には、3本の橋が架けられています。上流から明代橋、桜城橋、殿橋の順に設置されています。中でも、殿橋は、徳川家康ゆかりの岡崎城の上流に位置し、昭和2年(1927)の竣工時から当時の意匠をほぼ残したまま現在に至るまで現役で存在している橋で、御影石造りの大きな親柱が特徴的です。歴史を遡ると、旧橋は、正保2年(1645)、岡崎藩主・水野忠善が藩主のころ完成しました。当時は「菅生橋」と呼ばれ、後に「殿橋」と呼ばれるようになり、現在地より100メートルほど下流にあったそうです。今では、毎年、3~4月に開催される桜まつりや、8月の第一土曜日に開催される「岡崎観光夏まつり花火大会」はこの橋のたもとで行われています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング殿橋(岡崎市)

    地域タグ:岡崎市

  • 小豆坂古戦場跡(岡崎市)

    岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。槍立松、血洗い池などから当時を偲ぶことができます。史跡小豆坂古戦場跡355平方メートル徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小...小豆坂古戦場跡(岡崎市)

    地域タグ:岡崎市

  • 臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

    臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。今川氏輝の墓今川氏輝今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった...臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(6)今川神廟 今川義元の首塚

    茶室の次は、登ってきた階段を降りて「今川神廟」に向かいました。こちらは、今川義元と氏輝の廟で、2018年5月に落慶法要が行われました。以前は、現在建っている場所よりも後ろに建っていましたが、義元公の功績を評価し、偉人に相応しい立派なものをというご住職の考えで、本堂へ向かう歩道沿いに再建されたそうです。優美な曲線を描き、大きく軒を伸ばした屋根が特徴の優美な建物です。中には石塔と位牌があります。左側の大きな石塔は今川義元公、右側の小さな石塔は、今川氏輝公のもの。今川義元の石塔(首塚)桶狭間の戦いで、織田方に討ち取られた義元公の首級は、重臣・岡部元信と織田信長との交渉により後に返還され、駿河の菩提寺であった天澤寺に葬られましたが、天澤寺の衰退後、臨済寺に移されました。一方、胴体は腐敗が激しく、駿河に戻り途中、豊...臨済寺の春の特別公開(6)今川神廟今川義元の首塚

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(5)茶室「夢想庵」

    臨済寺の伽藍の最上部にある茶室「夢想庵」へこの渡り廊下を上って行きます。茶室には、一度に大人数が入れない為、書院にて人数制限が行われてからの移動となりました。茶室内部夢想庵からは、美しい庭園や遠く静岡の街並みを一望できます。この日は大雨でしたので、ぼんやりとした写真しか撮れませんでしたが、晴れた日ならもっと素晴らしい景色を見られるのでしょうね。次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(5)茶室「夢想庵」

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(4)

    一階の見学を終え、二階へ上がって行くと、竹千代手習いの間があります。人質として臨済寺で過ごした幼少期の徳川家康・竹千代が勉強した部屋が再現されています。小さな和室に机と座布団が置かれ、天井には、立派な龍が描かれています。この部屋の周りには、徳川・今川ゆかりの品が展示されています。榊原康政寄進の鉄山釜太原雪斎使用の陣中袈裟春日局所持の団扇徳川家伝来の硯箱竹千代使用の硯家康公御真影次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(4)

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  • 臨済寺の春の特別公開(3)

    臨済寺の本堂の見学の続きをお届けします。大岩地蔵太原雪斎の肖像画この奥には、ご本尊の釈迦如来像と、今川家の位牌が並んでいます。釈迦如来像と日光月光菩薩今川家、徳川家の位牌今川義元の像臨済寺庭園臨済寺の庭園は、昭和11年(1936)に国の名勝に指定されています。次は二階へと進んで行きます。  ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  臨済寺の春の特別公開(3)

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(2)

    続いて臨済寺の開山堂です。臨済寺を開山した大休宗休禅師の像大休宗休の弟子で、臨済寺の2代目住持の太原雪斎の像次の部屋へと進んで行きます。山門と同様、徳川慶喜による『大龍山』の書今川義元・氏輝像今川義元の像今川氏輝の像摩利支天像ふと外を見たら、「今川さん」が軒先で佇んでいました(^0^;)「雨止まないかな~」って言ってた様子(^^ゞ次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  臨済寺の春の特別公開(2)

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開

    天文24年(1555年)3月、徳川家康は、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で、関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶りました。静岡市葵区大岩町にある臨済寺は、今川家の菩提寺で賤機(しずはた)山の山麓にあり、家康が幼少時に今川家の人質として過ごし、太原雪斎の教育を受けた寺として知られています。享禄年間(1528~32)今川義元が建立、初め善得院と称しましたが、1536年(天文5)住職・太原雪斎は、後奈良天皇の師にあたる大休宗休を開山として臨済寺と改称し、雪斎自らが2代目の住持となりました。雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、今川領国内に臨済宗を広げ、寺勢は興隆しました。また雪斎は、当寺の住持であると同時に、軍師として今川氏を補佐しました。 先月のことですが...臨済寺の春の特別公開

    地域タグ:静岡市

  • 家康の「しかみ像」に新説が!

    誰もが一度は見たことの「しかみ像」『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)は、顔をしかめ憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれ、徳川家康が三方ヶ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにした家康の肖像画の一つとされてきましたが、近年の研究では、それが否定されています。しかみ像を所蔵する徳川美術館の調査によると、「台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめの所持品とあり、尾張徳川家9代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と1780年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。」とのこと。Wikipediaによると、「本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康...家康の「しかみ像」に新説が!

  • 「家康伝承と浜松」展

    浜松市博物館で開催中の「家康伝承と浜松」展。浜松城や北遠の城の出土遺物や三方ヶ原の戦いの布陣図、後世における徳川家康の由緒や伝承を記した古文書や書籍、三方ヶ原の戦いを描いた絵、徳川家康ゆかりの食品にまつわる資料等が展示されています。武田家禁制三ヶ年の鬱憤三方ヶ原の戦いに関わる武田信玄書状を期間限定で展示されています。~5月28日(日)(期間限定)三方ヶ原の戦い(元亀3年(1572)12月22日)の直前の同年10月21日、遠江に進軍してきた武田信玄が三河国の国衆の奥平道紋に宛てた書状。浜松に向かい徳川家康と戦い「三ヶ年の鬱憤」を晴らすと表明しています。個人の方からお借りしている資料であるため、実際に見ることができる機会が少ない貴重な資料なのだそう。武田信玄書状三方ヶ原の布陣図三方原絵図遠州味方ヶ原合戦図天竜...「家康伝承と浜松」展

  • 三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台

    浜松まつりの夜には、豪華絢爛な御殿屋台の引き回しが行われます。三方原南の御殿屋台の彫刻には、三方ヶ原の合戦での家康と信玄が彫られているそうです。一昨日撮影したのは、屋台の背後からでしたので、正面の彫り物が写っていませんでしたが(^0^;)2022年5月の中日新聞によると、北区三方原南町の「三南(さんなん)組」は、2015年に新築し、16年から引き回しに参加していたが、彫師の体調不良のため、屋台の上部と下部の一部彫刻が未完成となっていたが、2022年4月中旬に新しく彫刻が完成した。屋台は幅三・六メートル、長さ五・一メートル、高さ五・一メートルで主にケヤキ造り。前面の下部には、徳川家康がこよなく愛したとされる霊獣の獏(ばく)が新しく彫られた。獏は金属を食べるため、金属が武器にされる戦時中は生きられず、平和を好...三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台

  • 小豆餅と銭取

    浜松には、徳川家康と武田信玄との三方ヶ原の合戦ゆかりのお菓子があります。御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。「あおい」の小豆餅銭取の由来によると「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ余り追いかけ、とうとう家康から銭を取ったとのことです。この時、餅を食べたところを「小豆餅」銭を取ったところを「銭取」という地名になったと言われ、浜松の一角に小豆餅、銭取として遠州バスの上り、下りのバス停として残っています。」Wikipediaによると「徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を...小豆餅と銭取

  • 商売繁盛・芸能の神様の黒田稲荷(浜松市)

    浜松駅から徒歩5分、鍛治町の有楽街の南側の入り口を入ると、すぐ左手に真っ赤な鳥居が見えてきます。黒田稲荷は、豊受大神を御神体とし、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神として、教興寺の末寺・浄教寺の妙円尼が境内にお祀りしたのが始まりととされ、明治時代になり、廃藩置県で廃寺となりましたが、町の人々の熱心な信仰心によりお稲荷様だけが残されています。五穀豊穣、商売繁盛のほか、芸能事にもご利益があるといい、祠の脇には、都はるみさんのサイン入りの「アンコ椿は恋の花」と書かれた巨大絵馬が飾られています。これには、ちょっとしたエピソードが残されています。浜松で開かれることになっていた都はるみさんのコンサートのポスターが、黒田稲荷の脇の電柱に貼ってあるのを見た売れない呉服商が、黒田稲荷を参拝後、都さんに直接着物を売りに行き、都...商売繁盛・芸能の神様の黒田稲荷(浜松市)

  • 沼八幡宮(浜松市)

    浜松市浜北区沼の沼八幡宮浜北駅から徒歩数分のところにあります。沼八幡宮は、徳川家康の家臣で戦功のあった太田沼之助が、隠居して家康に与えられたlの土地を開墾し、1586(天正14)年、京都の岩清水八幡宮から御霊分けをしてこの場所に鎮座した神社です。「沼」と名がつく神社は初めて聞いたのですが、この沼八幡宮は、沼之助自身の名前から「沼新田村」とつけたのが由来だそうです。名前に「沼」がつくのも珍しいと思いますが(^_^;)そもそも沼之助は、浜松城下に住み、彼の屋敷に通ずる小路は「沼殿小路」と呼ばれていたそうです。その小路の名は、飯尾豊前守連龍が曳馬城主だった頃、家老の江馬安芸守泰顕の屋敷の脇道が、江馬殿小路、沼殿小路と呼ばれていたとか・・・境内には春の訪れが(*^。^*)神社の名前の由来からいろんなことを知りまし...沼八幡宮(浜松市)

  • 徳川秀忠誕生の井(浜松市)

    徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(1590年)には上洛し、秀吉の養女で、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げましたが、秀吉と信雄が仲違いして、信雄が除封されたことにより離縁となります。そして、文禄4年(1595年)9月、秀吉養女のお江と再婚することになります。その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡の徳川秀忠誕生の井戸が浜松市常盤町にあり...徳川秀忠誕生の井(浜松市)

  • 松尾神社(浜松市)

    浜松市中区元魚町に鎮座する松尾神社和銅年間(708〜715年)の創建で、当初は浜松神社と呼ばれていたそうです。徳川家康が引間城を拡張した折、城内にあった鎮守神の松尾神社を移転、合祀して社名も松尾神社と改め、以後、浜松城主の祈願所として歴代の城主が帰依するようになりました。祭神は徳川家康をはじめ、白鬚神、大山咋神、厳島姫神で、特に白鬚神は浜松の土産神として人々の崇敬を集め、八方除けの守護神として災難除けにご加護があるといわれています。御祭神:白鬚大神・大山咋神・厳島姫神例祭日:六月十五日前の土曜日由緒当社は和銅年間の創建で、浜松神社と言い、白鬚大神を主神として奉斎する浜松の総社であります。猿田彦神とも言われ、八方除け・寿命守護の神さまとして、遠く三河地方まで崇敬が及んでいます。その後天正五年浜松城内の守護神...松尾神社(浜松市)

  • 本多忠勝の屋敷跡(浜松市)

    分器稲荷神社付近には、本多忠勝の屋敷跡の標柱がたっています。本多忠勝酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。(コトバンクより)ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 本多忠勝の屋敷跡(浜松市)

  • 遠江分器稲荷神社(浜松市)

    浜松市中区に鎮座する分器稲荷神社は、田町の氏神社とされ、永禄11年(1568年)2月に創建されたと伝えられています。「分器」は、引馬宿南端の境界を示した「分木」が由来であるという説があります。辺りには、尺貫法の元締めとなる役人の住居があったそうです。社伝によれば、古くは、許免社と呼ばれ、(許免とは「コメ」と訓み、米の意味)分器宇賀大神とも称し、約1500年前の22代・清寧天皇の御代に天竜河の開墾のために勧請されたともされています。慶長9年(1604)2月、徳川家康の命により本殿を修造。明治7年には、三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年6月に再興が許されています。昭和20年6月、空襲により焼失。昭和31年に本殿、同32年に拝殿が再建されました。拝殿本殿境内には、様々な狐の象があります。黄金の狐像神...遠江分器稲荷神社(浜松市)

  • 五社神社・諏訪神社

    浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに徳川2代将軍徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になったそうです。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものとされています。相殿に応神天皇、徳川家康を祀り、菅原道真、大鷦鷯尊、稲倉魂命、大日女命、素戔嗚命を合祀しています。浜松城の前身である曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれています。後に家康が浜...五社神社・諏訪神社

  • 心造寺(浜松市)

    浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。1758(宝暦8)年に完成した七間四面の本堂は1771(明和8)年に全焼、1775(安永4)年に同じ七間四面の本堂が再建されました。しかし、1945(昭和20)年6月の太平洋戦争中に空襲を受け焼失してしまい、現在の建物は1951(昭和26...心造寺(浜松市)

  • 法雲寺(浜松市)

    浜松市中区高町の法雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。高町の坂の途中にあり、坂の途中にあり、モダンな建物です。公式HPによると、明治43年安寧寺末の小庵、正法庵・耕雲庵が合併し、両庵の法と雲をとり法雲寺となりました。正法庵・耕雲庵ともに記録が残っておらず、開創年代・開山禅師の略歴などは不明とされています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング法雲寺(浜松市)

  • 新年のご挨拶

    昨年も当ブログへの訪問ありがとうございました。今年もよろしくお願いしますm(__)mブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング新年のご挨拶

  • 秋の京都 妙祐久遠寺

    常寂光寺・二尊院の紅葉を満喫した後、妙祐久遠寺を訪ねました。総本山を京都・岩倉の「妙満寺」とする顕本法華宗の寺院で、開山は、慶長14年(1609年)慶長法難にて徳川家康に「耳削ぎ・鼻削ぎの刑」に処された日経上人。本堂には、青銅製の物では日本最古とされる日蓮聖人像と、木造の日経上人像を安置しています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング秋の京都妙祐久遠寺

  • 尾張一宮の旅(5)真清田神社 その弐

    手水舎吐水龍は、寛永8年(1631)初代尾張藩主徳川義直公奉納によるもの(こちらはレプリカで、本物は宝物館に保管されています)。服織神社一宮市が織物産業で栄えたことから、昭和40年(1965年)に織物の神社として創建されました。一宮七夕まつりにミス七夕・ミス織物が参列し御衣奉献祭が斎行されます。残念ながら修復中でした(;;)神馬神水舎龍から流れる井戸水は、平安時代に白河天皇の病を治したと伝えられ、無病息災のご神水として大切にされてきました。明治11年10月25日、明治天皇が一宮を巡幸され、ご昼餐の際、この井戸水を御膳水として陛下に献上されました。社務所には、この水をいれる容器が販売されており、この霊水は持ち帰ることができます。おもかる石こちらにもありました。願い事を思い浮かべながら石を持ち上げ、次に、もう...尾張一宮の旅(5)真清田神社その弐

  • 尾張一宮の旅(4)真清田神社

    一宮市の中心部に鎮座する真清田神社は、古代に尾張地方を治めた尾張氏の奉斎に始まるとされ、尾張氏祖神の天火明命を祭神としています。平安時代、「尾張國一之宮」として、国司を始め人々の崇敬を集め、一帯の地名「一宮」はこの真清田神社の社格に由来。鎌倉時代、順徳天皇が多数の舞楽面を奉納しました。社殿は昭和20年(1945年)の一宮空襲で焼失したため、いずれも戦後の再建です。空襲で焼失した社殿は、典型的な尾張造として知られていました。楼門楼門はその空襲による焼失を免れましたが、これも昭和36年(1961年)に再建されています。拝殿・本殿本殿内陣中陣の御扉や柱桁などは、特別に伊勢の神宮から下賜された古材を使用。本殿・祭文殿(さいもんでん)などは神社建築としての造形を評価され、国の登録有形文化財に登録されています。ブログ...尾張一宮の旅(4)真清田神社

  • 尾張一宮の旅(3) 宝部山地蔵寺

    次は、宝部山地蔵寺を訪ねました。地蔵寺という名だけに、鐘楼の前にお地蔵様こういうところに立っているお地蔵様は珍しいような(^_^;本堂延命地蔵菩薩がお祀りされています。客殿聖徳皇太子奉安殿 立ち並ぶお地蔵様ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 尾張一宮の旅(3)宝部山地蔵寺

  • 尾張一宮の旅(2) 常念寺 その弐

    本堂書院観音堂の足利尊氏の守り本尊といわれる如意輪観世音菩薩像は一宮市指定文化財に認定されており、両脇には西国・秩父・坂東の百観音霊場の分身を安置しています。一宮市指定文化財彫刻如意輪観音菩薩坐像一躰柳星山常念寺蔵昭和三十八年三月二日指定常念寺は、足利尊氏の甥といわれる空遄召運上人が、明徳元年(一三九〇)に創建した西山浄土宗の寺である。この像は、足利尊氏の守り本尊と伝えられる。高い宝髻、宝石をちりばめた宝冠、うっすら開いた玉眼、不自然さもなく巧妙に配置された六本の腕、思惟する女性的な温顔にあてがわれた指のやわらかさ、胸に垂下する瓔珞など、まことに美しい像である。片膝のすわり方であるが、安定して危なげがない。おそらく寺の創建ごろに制作された像であろう。像高三十五センチ。一宮市教育委員会一宮城主関氏三代塔また...尾張一宮の旅(2)常念寺その弐

  • 尾張一宮の旅(1) 常念寺

    東海道線にはよく乗車するのですが、尾張一宮に下車したのは今回が初めてです。駅前の駐輪場でレンタサイクルを借り、2時間ほど街をぶらりとしてきました。常念寺は、明徳元年(1390)、足利尊氏の甥・空遄召運上人(くうせんしょううんしょうにん)の創建と伝えられています。唐門安穏親子地蔵境内の隅々まで整備されており、庭園も美しいです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング尾張一宮の旅(1)常念寺

  • 京阪電鉄で巡る旅(7)円満院 その参

    円満院の中には、大津絵美術館があり、大人は500円で見学できます。大津絵は、江戸時代に東海道の大津宿で街道を行き交う旅人等に縁起物として神仏画を描き、売ったのがその始まりです。神仏や人物、動物がユーモラスなタッチで描かれ、道歌が添えられており、人間関係や社会に関する教訓が風刺を込めて表されています。鬼の念仏こんな可愛い人形も展示されていました。私は前々からこの大津絵に興味があり、それらを見たかったのもこの円満院を訪ねた理由の一つであります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 京阪電鉄で巡る旅(7)円満院その参

  • 京阪電鉄で巡る旅(6)円満院 その弐

    円満院の宸殿の内部に入ってみましょう。重要文化財に指定されている宸殿は、1619年(元和5年)に徳川幕府第2代将軍・徳川秀忠の息女・和子が後水尾天皇の后として正式に御所に入る際に建てられました。その後、1647年(正保4年)に京都御所より譲り受けた建物です。間取りは南北2列の計6室からなり、各室には狩野派による障壁画が描かれていましたが、現在のものは複製で、原本の障壁画は京都国立博物館に収蔵されているそうです。後水尾天皇が座した玉座を配した「玉座の間」の天井は、格天井となっています。宸殿の南側の庭園は、室町時代の相阿弥のされる池泉鑑賞式のお庭です。和傘の演出が良いですね~本殿歴代天皇のお位牌が祀られています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京阪電鉄で巡る旅(6)円満院その弐

  • 京阪電鉄で巡る旅(5)円満院 その壱

    京阪電鉄で巡る旅、しばらくお休みしていましたが、久しぶりに続きをアップします。今回は、滋賀県大津市園城寺町にある円満院を紹介します。京阪電車石山坂本線「大津市役所前」駅より徒歩7分「三井寺」駅より徒歩10分「浜大津」駅より徒歩15分と、どの駅からも徒歩圏内にあります。この時は、「大津市役所前」駅で下車し、大津市歴史博物館を見学した帰りに、円満院に立ち寄りました。圓満院は寛和三年(987年)に、村上天皇の第三皇子悟円親王により創立された天台宗の門跡寺院です。三井三門跡の一つであり、開基当時は平等院と呼ばれていました。永承7年(1052年)、関白・藤原頼通が父の道長の別荘であった宇治殿を寺院に改めて、平等院(後の圓満院)の明尊大僧正によって完成しました。悟円親王の子永円親王が初代院主となり、三井平等院の名前を...京阪電鉄で巡る旅(5)円満院その壱

  • 岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(2)

    ※2014年の秋に、熱海のMOA美術館で催された展覧会を振り返っています。この展覧会は、岩佐又兵衛の三大絵巻を同時公開ということで、前々から楽しみにしていました。展覧会場内はもちろん撮影禁止なので、私が事前に購入したMOA美術館所蔵「岩佐又兵衛作品集」から何場面が紹介します。『浄瑠璃物語』奥州へ下る牛若と三河矢矧の長者の娘浄瑠璃との悲恋物語。15歳の春、鞍馬を出た牛若は奥州を目指す。浄瑠璃姫と出会い、恋に落ちる牛若しかし、先を急がなければならない牛若は、浄瑠璃姫と別れる。その悲しさと旅の疲れからか、牛若は病に。源氏に伝わる宝物が、大蛇、白鳩、烏、小童に姿を変え、牛若を守る。後に浄瑠璃姫を再会した牛若は、平家討伐の暁には、浄瑠璃姫を北政所にすることを約し、大天狗・小天狗に姫を送り届けるように頼む。といった展...岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(2)

  • 岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(1)

    2014年の秋のことですが、熱海のMOA美術館で開催された岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」と「浄瑠璃物語絵巻」という展示会へ出掛けて来ました。  岩佐又兵衛といえば、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも一躍有名になった黒田官兵衛を有岡城に幽閉した荒木村重の子どもで、落城の際、城の残された荒木一族・郎党は惨殺されましたが、幼子であった又兵衛は乳母に救い出され、京都の本願派寺院あるいは石山本願寺に保護されました。成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕え、信雄の改易後は「勝以」と改名し、京で絵師の修業を積んだといいます。 この又兵衛の作品の一つに「浄瑠璃物語絵巻」があり、義経と浄瑠璃姫の物語が描かれています。  展示会場まで、この近未来的なエスカレーターに乗って行きます。...岩佐又兵衛「浄瑠璃物語絵巻」(1)

  • 鳳来寺の浄瑠璃姫と義経の彫像

    鳳来寺の表参道の「歴史が歩いた坂道」には、「浄瑠璃姫と義経」の彫像があります。平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。義経浄瑠璃姫数年前に見たときも思ったのですが、あまりに芸術的過ぎて、理解できなかったのですが、この苦しみもがいている様子が、二人の悲恋を表しているのでしょうか。浄瑠璃姫と義経平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作の里に、兼高長者という金持ちの権力者が住んでいました。長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた、浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。姫が15歳の春、平家の目を逃れ、藤原氏を頼って奥州へ向かう義経が、源氏とつながりのある兼高長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。「半年たっ...鳳来寺の浄瑠璃姫と義経の彫像

  • 蒲原に伝わる浄瑠璃姫の伝説(3)浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松

    蒲原の新栄六本松公園の北側には、浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松があります。浄瑠璃姫は、義経を追ってここまで来ましたが、力尽きてここ吹き上げの浜で亡くなったといいます。里人は浄瑠璃姫を哀れんで丁重に葬り、塚の上に目印として松を6本植えたと伝えられています。浄瑠璃姫の碑・吹き上げの六本松浄瑠璃姫に関する伝説はいくつかあり、そのひとつがここ蒲原町に残っています。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河国矢作の浄瑠璃姫が、吹き上げの浜で疲れ果てて亡くなったと記されいます。天正時代の頃(1580年)に小野於通(おのおつう)という女性によりまとめ上げられた「浄瑠璃十二段草子」という本には、里人によって吹き上げ浜に追われた瀕死の義経が、浄瑠璃姫の涙の雫により甦ったという筋書きになっています。それに節...蒲原に伝わる浄瑠璃姫の伝説(3)浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松

  • 蒲原の浄瑠璃姫伝説(2)源義経の硯水跡

    蒲原の駿河モータースの横に源義経硯水跡があります。ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、蒲原一族初代・清實以後と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。1174年(承安4年)義経が東に下る時にこの菩提所の涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙を書いたといわれています。手紙を読んだ浄瑠璃姫は、義経を追いかけて来たのですが、病で倒れこの地で亡くなりました。1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ、義経硯水の水をイボにつけると、イボが落ちるという霊験を願って参拝者が絶えなかったのですが、旅人に持ち去られ、36代勝則によって再建されました。1933年(昭和8年)国道工事のため、墓地は北に移り、面積は縮小し、現在の形となりました。残念ながら涌き水は涸れてしまいました。ブログラ...蒲原の浄瑠璃姫伝説(2)源義経の硯水跡

  • 蒲原に伝わる浄瑠璃姫伝説(1)光蓮寺

    静岡県の蒲原にも浄瑠璃姫伝説が伝わっています。東海道本線「新蒲原駅」より徒歩15分ほどのところにある光蓮寺光蓮寺は1620(元和6)年に開山した浄瑠璃姫を供養するお寺です。浄瑠璃姫の供養を行っていたのは、もとは慶徳寺というお寺でしたが、慶徳寺から浄瑠璃姫の位牌を引き継いだのが光蓮寺なのだそうです。浄瑠璃姫は、奥州に向かった源義経を追いかけ、富士川のあたりまで来たのですが、蒲原の地で命を落としてしまいます。境内にある浄瑠璃姫の壁画光蓮寺には、浄瑠璃姫の位牌があります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング蒲原に伝わる浄瑠璃姫伝説(1)光蓮寺

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(9)本願寺三河別院の観月遺跡

    岡崎の本願寺三河別院は、浄瑠璃姫が観月の宴に興じたところとされ、姫の死後、侍女・更科がここに草庵を営んで菩提を弔ったといいます。境内には観月遺跡と更科の墓と伝わる供養塔があります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(9)本願寺三河別院の観月遺跡

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(8)誓願寺

    浄瑠璃姫伝説の続きです。兼高長者は、身を投げた浄瑠璃姫を誓願寺に葬り、十王堂を建てました。本堂十王堂そして、義経と浄瑠璃姫の木像を作り、義経が姫に贈った薄墨の笛、姫の鏡とともに堂内に安置したといいます。2005年に浄瑠璃姫と義経のウォーキングに参加した時に、その寺宝を見せていただきました。義経と浄瑠璃姫色鮮やかでとても美しいですね。義経と浄瑠璃姫の木像義経の薄墨の笛浄瑠璃姫の墓ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(8)誓願寺

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(7)浄瑠璃寺

    浄瑠璃姫が、平家の目を逃れ、隠れ住んだところに建つ寺院で、通称・浄瑠璃寺と呼ばれます。元は岡崎曲輪(くるわ)付近にあったといいます。浄瑠璃姫の父・兼高長者が瑠璃光山安西寺を開いたのが始まりで、後に光明院浄瑠璃寺に改称したとされました。義経と浄瑠璃姫の画像と、浄瑠璃姫の守本尊である尊薬師如来が安置されています。2005年に来た時には、義経と浄瑠璃姫の幟が立っていたのですが、この時はなくなっていました。今では、岡崎観光協会のおすすめコースからも、「浄瑠璃姫伝説」は外されててしまったようです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(7)浄瑠璃寺

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(5)成就院の浄瑠璃姫の墓

    浄瑠璃姫の菩提を弔うために、侍女の十五夜は、冷泉という尼になり、浄瑠璃姫が身を投げた淵の川岸に庵室を結び、冷泉寺としました。後にこの地に竜沢永源が、浄瑠璃姫の供養のため、創立したのが成就院とされています。境内の墓地には浄瑠璃姫の墓、侍女・冷泉の墓、穴観音、足跡岩があります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(5)成就院の浄瑠璃姫の墓

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(4)安心院

    岡崎の安心院の創建は寿永年間(1182~83)、義経が浄瑠璃姫の菩提を弔うため開いたのが始まりと伝えられています。義経の念持仏で浄瑠璃姫が賜ったと伝わる十一面観世音菩薩坐像を安置しています。当初は妙大寺という七堂伽藍が立ち並ぶ大きな寺でしたが、戦火により衰退し、今では本堂と庫裡を残すのみです。駒札によると、文安5年(1448年)に成瀬国平が大檀那になってこの寺を建立、木像の釈迦如来像を寄進し、以来成瀬家の菩提寺になったとのことです。境内には、芭蕉の句碑もあります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(4)安心院

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(3)浄瑠璃ヶ淵跡

    浄瑠璃姫が身を投げたという菅生川沿いの浄瑠璃広場には、浄瑠璃ヶ淵跡の句碑が建っています。浄瑠璃ヶ淵跡今からおよそ800年程前、鎌倉街道矢作の宿に「浄瑠璃姫」というそれは美しい姫がいました。姫の出生については諸説がありますが、何れにしてもこの辺りの支配的立場にあった者の家に生まれたようです。承安四年(1174)、浄瑠璃姫十六歳の春のこと、とき、源氏再興の大望を抱き、金売り吉次を伴い東北地方きっての豪族藤原秀衡のもとへ向かう牛若丸こと「源義経」が旅の途中でこの矢作の宿に立ち寄り、折しも浄瑠璃姫の奏でる「想夫恋(そうふれん)」の琴の調べに、名笛「薄墨(うすずみ)」を合わせ吹いたのが縁となり、二人は別れを惜しむ中となりました。しかし、奥州へ下る身の義経は、再開の証にと母の常磐御膳(ときわごぜん)より送られた父の愛管「薄...岡崎の浄瑠璃姫伝説(3)浄瑠璃ヶ淵跡

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(2)六所神社

    六所神社は37代・斉明天皇の勅願により、奥州の六所大明神を歓請し創立したと伝えられています。松平氏が三河入国以来、代々崇敬厚く、徳川家康の産土神として江戸幕府の厚い保護を受けました。楼門は、4代将軍・家綱が寄進したものといわれています。現在の社殿は寛永11年(1634年)~寛永13年にかけて三代将軍・徳川家光が再建したものです。日光東照宮を思わせる華麗な社殿ですね。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(2)六所神社

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(1)麝香塚(じゃこうづか)石

    愛知県の岡崎には浄瑠璃姫伝説が伝わっています。浄瑠璃姫三河国矢作(やはぎ)地方などの伝説や《浄瑠璃物語》に登場する女主人公。《浄瑠璃物語》によれば,源中納言兼高と妻の遊君矢作の長者とが峰の薬師(鳳来(ほうらい)寺)に申し子をして得た子。14歳のとき,金売吉次の供をして奥州に下る牛若(義経)と契ったとされ,駿河国吹上で病に死んだ義経を姫が蘇生させたとされる。また,三河国笹谷で義経が法華経と歌を回向(えこう)すると姫の墓の五輪塔が砕けて,奇瑞をみせたと伝える。(コトバンクより)名鉄東岡崎駅近くの六所神社の大鳥居脇にある高宮神社の礎石は、源義経が浄瑠璃姫の形見の麝香を埋めたとされる麝香塚に使われていた石と伝わっています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング岡崎の浄瑠璃姫伝説(1)麝香塚(じゃこうづか)石

  • 冠者殿社

    京都の冠者殿社は、四条通の八坂神社御旅所の横に建つ八坂神社の境内摂社で、素戔嗚尊の荒魂が祀られています。また、誓文払い」の社として有名です。(誓文払いとは、商売上の駆け引きで一年についた嘘の罪を払ってもらうという商店の安売り、すなわちセールのこと。)一方、源頼朝の命で源義経を襲撃した土佐坊昌俊の霊を祀ったとも伝わっています。土佐坊は熊野詣のために上京したと偽り、堀川邸を訪ねましたが、義経と弁慶に上洛の目的を怪しまれたため、義経を暗殺する意思はないという旨を誓紙に書いて神に捧げます。誓文を書いた土佐坊を義経は宿舎に返しました。その後、土佐坊は堀川館を急襲したものの襲撃に失敗し、土佐坊は捕らえられ、義経の前に引き出されました。義経は「わが主人の命を重んじて、誓文をしたためてまでこの義経を狙うとは忠義なもの。命が惜し...冠者殿社

  • 熊谷直実 鎧掛けの松

    熊谷直実は、はじめは平家に仕えていましたが、石橋山の戦いをきっかけに源頼朝に従い、御家人となりました。後に出家して蓮生(れんせい)と名乗ります。「平家物語」の「敦盛最期」での平敦盛との一騎打ちは、能の「敦盛」をはじめ様々な作品に取り上げられています。京都の金戒光明寺には熊谷直実ゆかりのものがあります。熊谷直実(法力房蓮生法師)鎧掛けの松熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)(1141~1208)は、建久4年(1193)ここ黒谷の法然上人を尋ね、方丈裏の池(鎧池)にて鎧を洗いこの松の木に鎧を掛け出家した。庵は蓮池の畔に建てられ、現在の蓮池院(熊谷堂)である。供養塔は法然上人の御廟前に平敦盛の供養塔と向かい合わせに建てられています。古樹は枯れ、現在の木は二代目です。(案内板より)「平家物語」によれば源平の戦いで、直...熊谷直実鎧掛けの松

  • 俵藤太のムカデ退治伝説(3)御上神社

    御上神社(みかみじんじゃ)は、滋賀県野洲市にある神社です。 近江富士の別名もある三上山の山麓に鎮座し、三上山を神体山として祀る神社です。武士の崇敬が篤く、源頼朝が建久元年(1190年)、足利尊氏が建武3年(1336年)、豊臣秀吉が天正14年(1586年)にそれぞれ神領を寄進しています。楼門(重要文化財)御上神社一、御鎮座地滋賀県野洲市三上838一、御祭神天之御影神(天照大神の御孫)一、由緒当神社の社記によると、天之御影神は今から2千2百余年前の孝霊天皇6年6月18日三上山に御降臨になったので、神孫の御神祝等は三上山を神体山として鎮祭申上げた。降って養老2年、勅命によって現在の地に社殿を造営して遷祀された。爾来、朝野の崇敬あつく、清和天皇の御代に正一位、醍醐天皇の御代に明社大社、次に圓融天皇の御代には勅願所と定め...俵藤太のムカデ退治伝説(3)御上神社

  • 俵藤太のムカデ退治伝説(2)雲住寺

    龍王宮秀郷社の隣にある雲住寺は、俵藤太(藤原秀郷)の追善供養のために15代目の子孫により建立された寺で、この寺は瀬田の唐橋の守り寺にもなっています。百足供養堂毎年10月の第3日曜に俵藤太と百足供養会が催されるそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング俵藤太のムカデ退治伝説(2)雲住寺

  • 俵藤太のムカデ退治伝説(1)龍宮秀郷社

    瀬田の唐橋の東岸にある龍宮秀郷社には、ムカデ退治伝説が伝わっています。瀬田の唐橋には、平安時代、平将門の乱を鎮めた藤原秀郷(俵藤太)が、唐橋の川底にある竜宮の乙姫の願いで、大百足を退治したという伝説があり、当社は、その秀郷と乙姫の霊を祀る神社です。右が「龍王宮」、左が「秀郷社」むかしむかし、近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々が橋を渡れなくなっていました。そこを通りかかった俵藤太は平気で大蛇を踏みつけて渡ってしまいました。その夜、藤太が踏みつけた大蛇が美しい娘に化けて藤太を訪ねました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の乙姫で、龍神一族が三上山の百足に苦しめられているので、藤太に百足を退治して欲しいと懇願しました。藤太は、剣と弓矢を携えて三上山に向かうと、山を7巻き半する大百足が現れました。藤太は、矢を放ちましたが、大...俵藤太のムカデ退治伝説(1)龍宮秀郷社

  • 彦根の長久寺「源頼朝手植え梅」

    彦根の長久寺は、1041年(長久2年)後三条天皇の皇后の祈願所として創建されました。創建時より寺勢は大いに振るい、比叡山延暦寺を凌ぐほどの勢力でしたが、1510年(永平7年)に、六角・京極両氏の兵火により大打撃を受け、さらに1571年(元亀2年)、信長の比叡山焼き討ちの際、堂塔伽藍を焼き尽くされてしまいました。その後、彦根藩主となった井伊氏は後水尾天皇の勅を奉じて、普門山常心院の山号院号を賜り、徳川将軍家の助力も受けながら、長久寺の再建に努めました。本堂は井伊家家老の庵原主税助朝真の寄進により再建されました。寺宝として「番町皿屋敷」のお菊が所有していたと伝わる6枚の皿と、お菊慰霊供養寄進帳を所蔵しています。お皿の常設展示はされていません。事前に電話予約が必要だそうです。境内には、源頼朝手植えと伝わる梅があります...彦根の長久寺「源頼朝手植え梅」

  • 鞭崎神社

    滋賀県草津市の鞭崎神社の創建は白鳳4年(676)、大中臣清麿が天武天皇の勅命により勧請したのが始まりと伝えられています。当初は矢橋八幡宮と称していましたが建久元年(1190)、源頼朝が上洛の際、矢橋の浦から鞭にて神社の森を指し、村人に当社の事を尋ねた故事から鞭崎八幡宮と称するようになりました。以来、頼朝は当社を深く崇敬し建久3年(1192)には社領を寄進し社殿を造営していました。現在の表門は、元々、膳所城の南大手門として建てられたもので、明治4年(1871)に膳所城が廃城になった際、当社に移されました。この表門は、高麗門、切妻、本瓦葺、江戸時代初期の城門建築の遺構として大変貴重な存在で、国指定重要文化財に指定されています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング鞭崎神社

  • 岡崎の滝山寺

    岡崎の滝山寺は1300年前に開かれた古刹で、天武天皇の勅願により薬師如来を祀り、吉祥寺と名乗ったのが始まりとされています。山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、徳川家の恩恵を受けてきました。岡崎市最古の和様建築物である三門、本堂ともに国の重要文化財です。三門(三門の画像:Wikipediaより)本堂貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設。現在の本堂は、明治43年頃に解体・大修理をしたもの。寺宝の聖観音・梵天・帝釈天三尊像は、鎌倉時代の第1の仏師運慶・湛慶父子の作として、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。聖観音像は源頼朝の等身大で、仏身に御髪と御歯が納めら...岡崎の滝山寺

  • 泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓

    泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。法名は刃雲輝剣信士。忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛歌川国貞作堀部安兵衛赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて...泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓

  • 泉岳寺(6)大石主税の墓

    続いて、大石主税の墓です。大石主税(大石良金おおいしよしかね)幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。赤穂城を幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたったが、この間の、5月11日(6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かった。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられた...泉岳寺(6)大石主税の墓

  • 泉岳寺(5)大石内蔵助の墓

    泉岳寺の大石内蔵助(良雄)の墓「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の名で広く知られています。没年:元禄16.2.4(1703.3.20)生年:万治2(1659)江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった...泉岳寺(5)大石内蔵助の墓

  • 泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓

    続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701)播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都...泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓

  • 泉岳寺(3) 阿くり(瑤泉院)の墓

    泉岳寺の赤穂義士の墓所に向かいます。義士墓入口の門この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年)-正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5...泉岳寺(3)阿くり(瑤泉院)の墓

  • 泉岳寺(2)

    梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。首洗い井戸義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング泉岳寺(2)

  • 泉岳寺(1)

    東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されています。中門泉岳寺には、三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうは...泉岳寺(1)

  • 犬山の瑞泉寺

    犬山の瑞泉寺は、信長、秀吉らに崇敬され、尾張徳永家にも庇護された寺です。山門犬山城の門を移築したものといわれています。当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶうち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一族)に命じ岩頭をうたせたところ、清泉がわき出た。禅師はその人の「瑞」をとって瑞泉寺と名付け、泉から立ち昇る水気が太陽に映えて龍が昇天するさまに似ていたので、山号を「青龍」と決めたと伝えられる。禅師は師の無因宗因を開山に勧請し、自らはへりくだって二世となった。禅師は以来十年の歳月をかけて、応永二十二年(1415)に大伽藍を完成させた...犬山の瑞泉寺

  • 大将軍八神社

    数年前、北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方除け厄除けの神として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。本来の祭神は大将軍ですが、明治の神仏分離令にて祭神は素盞嗚尊と改められました。方徳殿に大将軍神像80体(重要文化財)と陰陽道安倍家の古天文暦道資料(京都府指定文化財)があり、毎年5月1日~5月5日と11月1日~11月5日には一般に公開されています。(その他の日は予約制)神像群は平安時代中期から末期の制作といわれ、すべて男神像で、甲冑を着用した武装形の像、束帯姿の像、童子形の像などがあるそうです。これはいつか公開時に観に行き...大将軍八神社

  • 源覚寺(2)塩地蔵尊

    塩地蔵尊二体で一組のお地蔵さま。お地蔵さまの体に塩をつけてお祈りすると、同じ部分の病気が治るといいます。砂のように見えるのは塩です。「塩」ということで、お相撲さんもお参りに見えるそうですよ。毘沙門天小石川七福神のひとつになっています。※2012年の記事よりブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング源覚寺(2)塩地蔵尊

  • 源覚寺(1)こんにゃくえんま像

    2012年の旅を振り返ります。東京都文京区小石川に、こんにゃくえんまとして親しまれている源覚寺があります。寛永元年(1624年)に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建され、特に徳川秀忠、家光から信仰を得ていたといいます。本尊は阿弥陀三尊。度重なる大火で、本堂などがほとんど焼失しましたが、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れたそうです。現在の本堂は1979年に再建されたものです。こんにゃくえんま像は、鎌倉時代の作といわれる1メートルほどの木造の閻魔大王の坐像で、文京区指定有形文化財。毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われ、今でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくをお供える人が多いそうです。木造閻魔王坐像源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆...源覚寺(1)こんにゃくえんま像

  • 鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢

    本願寺鷺森別院は、和歌山市鷺ノ森にある浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の西本願寺の別院です。天正8年から11年(1580年から1583年)には織田信長との和睦によって大坂の石山本願寺から退去した宗主顕如が当寺に滞在し、浄土真宗の本拠地として位置づけられていた。しかし、その後、豊臣秀吉の紀州征伐によって急速に衰退し、江戸時代には紀州門徒の支援によって、明和5年(1768年)に再興したが、第二次世界大戦には和歌山大空襲によって焼失した。現在の建物は1948年(昭和23年)に再建、その後改築されたものである。(Wikipediaより)専光寺の境内にある手水鉢。鷺森合戦の際、雑賀孫市が血の付いた槍を洗ったという伝説のある手水鉢なのだそうです。雑賀孫一(鈴木孫市)石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍...鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢

  • 京阪電鉄で巡る旅(4)縁心寺

    縁心寺は、膳所城の初代城主・戸田一西(かずあき)により慶長7年(1602)に創建されました。もとは、栄泉寺といい、瓦寺とも呼ばれていました。当時、膳所や大津には瓦葺の寺院がなかった中で、唯一瓦葺であったからといいます。本堂弁天堂膳所藩主戸田家、本多家の菩提寺でもあり、境内には本多氏代々の墓や戸田一西の墓があります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 京阪電鉄で巡る旅(4)縁心寺

  • 京阪電鉄を巡る旅(3)響忍寺

    和田神社から響忍寺へ。元は膳所城周辺にありましたが、火災により焼失。宝暦元年(1751)に膳所藩家老・村松八郎右衛門屋敷跡に再建されました。膳所六門の一つを持ち、表門と中門には屋敷門が使われています。親鸞聖人御像鐘楼旧本堂の鬼瓦ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 京阪電鉄を巡る旅(3)響忍寺

  • 京阪電鉄を巡る旅(2)和田神社 石田三成が繋がれた大銀杏

    和田神社の境内には、樹齢約650年、樹高約25メートルの大きな銀杏の木があります。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京都に護送される途中、この銀杏につながれ小休止したという言い伝えが残っています。この木は、かつては湖上を行く船の目印になったとも言われています。天然記念物和田神社のいちょう一株このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例を見ないほどの巨木で、樹高約24m、目通り周囲約4.4mあります。樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ケ原合戦...京阪電鉄を巡る旅(2)和田神社石田三成が繋がれた大銀杏

  • 京阪電鉄を巡る旅(1)和田神社

    京阪電鉄「膳所本町」下車徒歩10分のところに鎮座する和田神社は、斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳4年に、創祀されたと伝えられています。その後、八大龍王社や正霊天王社、などと時代の移り変わりとともに呼び名も代わり、明治維新のころに膳所藩主の令達により、現在の名前、和田神社になったといわれています。壬申の乱から間もない頃、湖に暮らす人々の安寧を願ってここに「海津見わだつみの神」が祀られ、祭神の名にちなんで、この地は和田浜や和田岬と呼ばれるようになりました。(和田神社公式HPより)持統帝の朱鳥元年頃(西暦686年)から八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和2年(西暦825年)から正霊天王社とも称され、明治維新の際膳所藩主の令達に依り和田神社と称さる。現在の本殿は、鎌倉時代の建築様式を代表する他に比類...京阪電鉄を巡る旅(1)和田神社

  • 多賀町を巡る(14)多賀大社 「奥書院・名勝庭園」

    奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期、安永12年再建の不動院書院跡です。鶴の間床の間に富士山と鶴が描かれています。彦根藩井伊家の参内の時の休憩所ともなり、勅使の間ともいわれています。狩野派の絵師による襖絵は、元々多賀大社の別当寺(神宮寺)であった天台宗不動院の大書院にあったもので、安永2年(1773年)の大火で大書院が焼失した際にも持ち出されて無事だったそうです。庭園(国名勝指定)奥書院から見下ろすように築かれた安土桃山時代の池泉観賞式の庭園で、広さは約二百坪。正面に守護石を据え、左右に鶴と亀の岩島を配し、大きな自然石を渡して橋としています。天正16年(1588)豊臣秀吉が、母・大政所の病気平癒を祈願して奉納した米一万石をもとに築造されたと伝えられています。ブログランキングの応援よろしくお願いしま...多賀町を巡る(14)多賀大社「奥書院・名勝庭園」

  • 多賀町を巡る(13)多賀大社「文庫~つり鐘」

    文庫桜田門外の変の後、彦根藩は勤王の旗印を刻印を明らかにしました。この文庫は、江戸時代に多賀大社の神職などを務めた車戸(くるまど)家の文庫で、昭和7年の造営時に現在地に移築されました。幕末期の車戸宗功(そうこう)は勤皇の考えが強く、長州藩士ら勤王方と彦根藩老との仲介役を務め、徳川幕府家の井伊家の領内にある中で、長州の伊藤俊介(後の博文)らと、この文庫内で密会していたといいます。大釜寛永10年(1633)と元禄12年(1699)の銘が入った釜が2つあり、多賀大社が造営された竣工時に湯神楽に使うために寄進されたとされています。神輿庫昭和の造営時に、参集殿の西側から移築され、鉄筋コンクリートで築造されました。神輿と鳳輦(ほうれん)が保管され、4月22日の古例大祭(多賀祭り)の際、町内を巡行します。鐘楼天文24年(15...多賀町を巡る(13)多賀大社「文庫~つり鐘」

  • 多賀町を巡る(12)多賀大社

    反り橋を渡って神門をくぐります。神門手水舎神馬舎拝殿手前が拝殿。その奥が神楽殿。さらに奥が本殿。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。本殿右に能舞台左に絵馬殿が立っています。絵馬殿ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(12)多賀大社

  • 多賀町を巡る(11)多賀大社 「反り橋」

    多賀町多賀に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあり、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされています。天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い、1万石を寄進しました。大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営された石造りの反り橋は、このことから、「太閤橋」の雅名でも呼ばれています(正しくは太鼓橋)。ブログランキ...多賀町を巡る(11)多賀大社「反り橋」

  • 多賀町を巡る(10)真如寺

    近江鉄道多賀駅から多賀大社に向かう途中にある真如寺。朱色の山門が目を引きます。山門、本堂、庫裏、書院、鐘楼は、創建以来の建物であるといわれています。本堂に安置されている本尊の木造阿弥陀如来坐像は、元々は多賀大社の本地堂の本尊でしたが、明治時代初期の神仏分離の際、真如寺に移されました。像高は140cmほどの藤原時代の仏像で、なで肩でふっくらと肉づきがよく、やわらかな曲線をしており、国指定の重要文化財です。寺宝には、生前の行いを閻魔大王に裁かれ、罰を受ける様子が描かれた「地獄絵図」などがあります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(10)真如寺

  • 多賀町を巡る(9)桜町延命地蔵尊

    多賀大社の門前町にある桜町延命地蔵尊は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社の参拝客も多く立ち寄っていました。本堂前には、半跏地蔵菩薩、来迎三尊仏、本堂の中央には、本尊地蔵菩薩を安置し、左側に地獄で人の罪を裁くという閻魔大王を中心にして、罪を記録し報告するという俱生神(ぐしょうじん)、司録神(しろくじん)、浄玻梨(じょうはり)を配して、地獄の場面をあらわし、右側に地獄の苦を救う千手千眼自在菩薩を配している。ここ桜町は、多賀大社の門前町で、多くの参詣者で賑わっていた。また、桜町地蔵の境内は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社参拝の人も立ち寄っていた。地蔵菩薩はわが名を称える人の苦しみを救い、また姿を変えて、延命・子育・腹帯地蔵などに化身して、人々の願いを聴き入れる現世の救済の神秘な力を持つとされている。天保年間(183...多賀町を巡る(9)桜町延命地蔵尊

  • 多賀町を巡る(8)高源寺 その参

    また高源寺には、村山たか女の肖像画、源氏物語明石之巻襖絵、地蔵菩薩半跏像などがあります。庭園を散策した後、本堂を見学させていただきました。たか女は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに井伊直弼と当院で出会ったとされています。たか女は、直弼と直弼の懐刀として活躍した長野主膳の菩提を68歳で亡くなるまで弔い続けたといいます。源氏物語明石之巻襖絵 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  多賀町を巡る(8)高源寺その参

  • 多賀町を巡る(10)高源寺 その弐

    また、境内には、井伊直弼が始めたと伝えられる石州流直弼派「一会流」の「茶筅塚」があります。石州流(せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。井伊直弼は、元来は300俵扶持の部屋住みで、その頃からおそらく石州流の茶湯を学んでいたと考えられる。片桐宗猿に事細かな質問をしており、『茶湯一会集』その他の著書などから当代一流の茶人であったと考えられている。家臣に宇津木左近があり、維新後に茶道教授をはじめており、この系譜が復元されて一会流と称している。(Wikipediaより)塚は、75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。鐘楼多賀観光協...多賀町を巡る(10)高源寺その弐

  • 多賀町を巡る(9)高源寺 その壱

    多賀町楢崎高源寺は、鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し、十福寺と呼ばれていました。総門石田三成の居城・佐和山城の裏門を移したものだそうです。近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として創建されたたものとされています。織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になりました。その後、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家によって再興され、両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っているとのこと。最盛期には、書院三十坪、仏殿二十五坪、奥殿三十坪、禅堂三十二坪などを要する大寺院で、湖東における名刹でしたが、明治9年(1876)火災により、総門以外の伽藍はすべて灰となってしまいました。その後、明治14年(1881年)多賀から正覚院・...多賀町を巡る(9)高源寺その壱

  • 多賀町を巡る(8)多賀大社のケヤキ「女飯盛木」

    こちらが、女飯盛木です。元正天皇(715~724)の病気平癒祈願にケヤキで杓子が謹製された。その残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承されている。東の木が男飯盛木、西側の木が女飯盛木と呼ばれ、「お多賀杓子の飯盛木」の言伝えで親しまれている。(駒札より)幹周9.75m樹高15m樹齢(推定)300年以上幹周は、男飯盛木よりも女飯盛木の方が大きいですが、斜めに立っている姿は、しなやかで女性らしいかな?樹齢は不明ですが、相当の古木で、ケヤキとしては県下最大級だそう。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(8)多賀大社のケヤキ「女飯盛木」

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