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ブログタイトル
日々史跡めぐり
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/shizuyashizu
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日本あちこちの史跡・寺社仏閣・城・地名の由来などを紹介しています。
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2013/09/04
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しずかさんの新着記事

1件〜100件

  • 泉岳寺(5)大石内蔵助の墓

    泉岳寺の大石内蔵助(良雄)の墓「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の名で広く知られています。没年:元禄16.2.4(1703.3.20)生年:万治2(1659)江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった...泉岳寺(5)大石内蔵助の墓

  • 泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓

    続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701)播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都...泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓

  • 泉岳寺(3) 阿くり(瑤泉院)の墓

    泉岳寺の赤穂義士の墓所に向かいます。義士墓入口の門この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年)-正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5...泉岳寺(3)阿くり(瑤泉院)の墓

  • 泉岳寺(2)

    梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。首洗い井戸義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング泉岳寺(2)

  • 泉岳寺(1)

    東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されています。中門泉岳寺には、三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうは...泉岳寺(1)

  • 犬山の瑞泉寺

    犬山の瑞泉寺は、信長、秀吉らに崇敬され、尾張徳永家にも庇護された寺です。山門犬山城の門を移築したものといわれています。当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶうち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一族)に命じ岩頭をうたせたところ、清泉がわき出た。禅師はその人の「瑞」をとって瑞泉寺と名付け、泉から立ち昇る水気が太陽に映えて龍が昇天するさまに似ていたので、山号を「青龍」と決めたと伝えられる。禅師は師の無因宗因を開山に勧請し、自らはへりくだって二世となった。禅師は以来十年の歳月をかけて、応永二十二年(1415)に大伽藍を完成させた...犬山の瑞泉寺

  • 大将軍八神社

    数年前、北野天満宮の帰りに大将軍八神社(だいしょうぐんはちじんじゃ)を参拝しました。大将軍八神社は、桓武天皇が、王城鎮護のために星神大将軍を勧請したといわれる社で、方除け厄除けの神として、建築・移動・転宅・婚姻・旅行・交通等あらゆる人間生活に於いて方位の厄災から守護する神として信仰されました。本来の祭神は大将軍ですが、明治の神仏分離令にて祭神は素盞嗚尊と改められました。方徳殿に大将軍神像80体(重要文化財)と陰陽道安倍家の古天文暦道資料(京都府指定文化財)があり、毎年5月1日~5月5日と11月1日~11月5日には一般に公開されています。(その他の日は予約制)神像群は平安時代中期から末期の制作といわれ、すべて男神像で、甲冑を着用した武装形の像、束帯姿の像、童子形の像などがあるそうです。これはいつか公開時に観に行き...大将軍八神社

  • 源覚寺(2)塩地蔵尊

    塩地蔵尊二体で一組のお地蔵さま。お地蔵さまの体に塩をつけてお祈りすると、同じ部分の病気が治るといいます。砂のように見えるのは塩です。「塩」ということで、お相撲さんもお参りに見えるそうですよ。毘沙門天小石川七福神のひとつになっています。※2012年の記事よりブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング源覚寺(2)塩地蔵尊

  • 源覚寺(1)こんにゃくえんま像

    2012年の旅を振り返ります。東京都文京区小石川に、こんにゃくえんまとして親しまれている源覚寺があります。寛永元年(1624年)に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建され、特に徳川秀忠、家光から信仰を得ていたといいます。本尊は阿弥陀三尊。度重なる大火で、本堂などがほとんど焼失しましたが、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れたそうです。現在の本堂は1979年に再建されたものです。こんにゃくえんま像は、鎌倉時代の作といわれる1メートルほどの木造の閻魔大王の坐像で、文京区指定有形文化財。毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われ、今でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくをお供える人が多いそうです。木造閻魔王坐像源覚寺に伝わる閻魔像で、閻魔堂に安置されている。右眼が黄色く濁っているが、閻魔王が信心深い老婆...源覚寺(1)こんにゃくえんま像

  • 鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢

    本願寺鷺森別院は、和歌山市鷺ノ森にある浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の西本願寺の別院です。天正8年から11年(1580年から1583年)には織田信長との和睦によって大坂の石山本願寺から退去した宗主顕如が当寺に滞在し、浄土真宗の本拠地として位置づけられていた。しかし、その後、豊臣秀吉の紀州征伐によって急速に衰退し、江戸時代には紀州門徒の支援によって、明和5年(1768年)に再興したが、第二次世界大戦には和歌山大空襲によって焼失した。現在の建物は1948年(昭和23年)に再建、その後改築されたものである。(Wikipediaより)専光寺の境内にある手水鉢。鷺森合戦の際、雑賀孫市が血の付いた槍を洗ったという伝説のある手水鉢なのだそうです。雑賀孫一(鈴木孫市)石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍...鷺森別院と雑賀孫市の血槍洗いの手水鉢

  • 京阪電鉄で巡る旅(4)縁心寺

    縁心寺は、膳所城の初代城主・戸田一西(かずあき)により慶長7年(1602)に創建されました。もとは、栄泉寺といい、瓦寺とも呼ばれていました。当時、膳所や大津には瓦葺の寺院がなかった中で、唯一瓦葺であったからといいます。本堂弁天堂膳所藩主戸田家、本多家の菩提寺でもあり、境内には本多氏代々の墓や戸田一西の墓があります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 京阪電鉄で巡る旅(4)縁心寺

  • 京阪電鉄を巡る旅(3)響忍寺

    和田神社から響忍寺へ。元は膳所城周辺にありましたが、火災により焼失。宝暦元年(1751)に膳所藩家老・村松八郎右衛門屋敷跡に再建されました。膳所六門の一つを持ち、表門と中門には屋敷門が使われています。親鸞聖人御像鐘楼旧本堂の鬼瓦ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 京阪電鉄を巡る旅(3)響忍寺

  • 京阪電鉄を巡る旅(2)和田神社 石田三成が繋がれた大銀杏

    和田神社の境内には、樹齢約650年、樹高約25メートルの大きな銀杏の木があります。関ヶ原の戦いに敗れた石田三成が京都に護送される途中、この銀杏につながれ小休止したという言い伝えが残っています。この木は、かつては湖上を行く船の目印になったとも言われています。天然記念物和田神社のいちょう一株このいちょう(公孫樹)は滋賀県下において他に例を見ないほどの巨木で、樹高約24m、目通り周囲約4.4mあります。樹齢はおよそ約600年を経ていると推定され、多数の気根(地上の幹から出て空気中に露出した根)を垂れています。樹勢もすこぶる盛んで枝葉が密生し、樹形も均斉のよくとれた美しい姿を保つなど貴重な名木です。また、このいちょうは和田神社の神木として、さらに琵琶湖上から和田の浜の目標樹となっていたと思われます。石田三成が関ケ原合戦...京阪電鉄を巡る旅(2)和田神社石田三成が繋がれた大銀杏

  • 京阪電鉄を巡る旅(1)和田神社

    京阪電鉄「膳所本町」下車徒歩10分のところに鎮座する和田神社は、斉明天皇、天智天皇、天武天皇のいずれの御世かとされる白鳳4年に、創祀されたと伝えられています。その後、八大龍王社や正霊天王社、などと時代の移り変わりとともに呼び名も代わり、明治維新のころに膳所藩主の令達により、現在の名前、和田神社になったといわれています。壬申の乱から間もない頃、湖に暮らす人々の安寧を願ってここに「海津見わだつみの神」が祀られ、祭神の名にちなんで、この地は和田浜や和田岬と呼ばれるようになりました。(和田神社公式HPより)持統帝の朱鳥元年頃(西暦686年)から八大龍王社と呼ばれ、仁明帝の承和2年(西暦825年)から正霊天王社とも称され、明治維新の際膳所藩主の令達に依り和田神社と称さる。現在の本殿は、鎌倉時代の建築様式を代表する他に比類...京阪電鉄を巡る旅(1)和田神社

  • 多賀町を巡る(14)多賀大社 「奥書院・名勝庭園」

    奥書院は多賀大社に残る最も古い建物で、江戸時代中期、安永12年再建の不動院書院跡です。鶴の間床の間に富士山と鶴が描かれています。彦根藩井伊家の参内の時の休憩所ともなり、勅使の間ともいわれています。狩野派の絵師による襖絵は、元々多賀大社の別当寺(神宮寺)であった天台宗不動院の大書院にあったもので、安永2年(1773年)の大火で大書院が焼失した際にも持ち出されて無事だったそうです。庭園(国名勝指定)奥書院から見下ろすように築かれた安土桃山時代の池泉観賞式の庭園で、広さは約二百坪。正面に守護石を据え、左右に鶴と亀の岩島を配し、大きな自然石を渡して橋としています。天正16年(1588)豊臣秀吉が、母・大政所の病気平癒を祈願して奉納した米一万石をもとに築造されたと伝えられています。ブログランキングの応援よろしくお願いしま...多賀町を巡る(14)多賀大社「奥書院・名勝庭園」

  • 多賀町を巡る(13)多賀大社「文庫~つり鐘」

    文庫桜田門外の変の後、彦根藩は勤王の旗印を刻印を明らかにしました。この文庫は、江戸時代に多賀大社の神職などを務めた車戸(くるまど)家の文庫で、昭和7年の造営時に現在地に移築されました。幕末期の車戸宗功(そうこう)は勤皇の考えが強く、長州藩士ら勤王方と彦根藩老との仲介役を務め、徳川幕府家の井伊家の領内にある中で、長州の伊藤俊介(後の博文)らと、この文庫内で密会していたといいます。大釜寛永10年(1633)と元禄12年(1699)の銘が入った釜が2つあり、多賀大社が造営された竣工時に湯神楽に使うために寄進されたとされています。神輿庫昭和の造営時に、参集殿の西側から移築され、鉄筋コンクリートで築造されました。神輿と鳳輦(ほうれん)が保管され、4月22日の古例大祭(多賀祭り)の際、町内を巡行します。鐘楼天文24年(15...多賀町を巡る(13)多賀大社「文庫~つり鐘」

  • 多賀町を巡る(12)多賀大社

    反り橋を渡って神門をくぐります。神門手水舎神馬舎拝殿手前が拝殿。その奥が神楽殿。さらに奥が本殿。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。本殿右に能舞台左に絵馬殿が立っています。絵馬殿ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(12)多賀大社

  • 多賀町を巡る(11)多賀大社 「反り橋」

    多賀町多賀に鎮座する多賀大社は、伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めました。式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社。当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあり、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされています。天正16年(1588年)には、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い、1万石を寄進しました。大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営された石造りの反り橋は、このことから、「太閤橋」の雅名でも呼ばれています(正しくは太鼓橋)。ブログランキ...多賀町を巡る(11)多賀大社「反り橋」

  • 多賀町を巡る(10)真如寺

    近江鉄道多賀駅から多賀大社に向かう途中にある真如寺。朱色の山門が目を引きます。山門、本堂、庫裏、書院、鐘楼は、創建以来の建物であるといわれています。本堂に安置されている本尊の木造阿弥陀如来坐像は、元々は多賀大社の本地堂の本尊でしたが、明治時代初期の神仏分離の際、真如寺に移されました。像高は140cmほどの藤原時代の仏像で、なで肩でふっくらと肉づきがよく、やわらかな曲線をしており、国指定の重要文化財です。寺宝には、生前の行いを閻魔大王に裁かれ、罰を受ける様子が描かれた「地獄絵図」などがあります。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(10)真如寺

  • 多賀町を巡る(9)桜町延命地蔵尊

    多賀大社の門前町にある桜町延命地蔵尊は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社の参拝客も多く立ち寄っていました。本堂前には、半跏地蔵菩薩、来迎三尊仏、本堂の中央には、本尊地蔵菩薩を安置し、左側に地獄で人の罪を裁くという閻魔大王を中心にして、罪を記録し報告するという俱生神(ぐしょうじん)、司録神(しろくじん)、浄玻梨(じょうはり)を配して、地獄の場面をあらわし、右側に地獄の苦を救う千手千眼自在菩薩を配している。ここ桜町は、多賀大社の門前町で、多くの参詣者で賑わっていた。また、桜町地蔵の境内は、古くから地蔵信仰の場で、多賀大社参拝の人も立ち寄っていた。地蔵菩薩はわが名を称える人の苦しみを救い、また姿を変えて、延命・子育・腹帯地蔵などに化身して、人々の願いを聴き入れる現世の救済の神秘な力を持つとされている。天保年間(183...多賀町を巡る(9)桜町延命地蔵尊

  • 多賀町を巡る(8)高源寺 その参

    また高源寺には、村山たか女の肖像画、源氏物語明石之巻襖絵、地蔵菩薩半跏像などがあります。庭園を散策した後、本堂を見学させていただきました。たか女は、多賀大社の近くの生まれで、多賀大社境内にあった般若院に出入りをしていたころに井伊直弼と当院で出会ったとされています。たか女は、直弼と直弼の懐刀として活躍した長野主膳の菩提を68歳で亡くなるまで弔い続けたといいます。源氏物語明石之巻襖絵 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  多賀町を巡る(8)高源寺その参

  • 多賀町を巡る(10)高源寺 その弐

    また、境内には、井伊直弼が始めたと伝えられる石州流直弼派「一会流」の「茶筅塚」があります。石州流(せきしゅうりゅう)は、片桐石州(貞昌)を流祖と仰ぐ武家茶道の流派の総称。一口に石州流と言っても様々であり、初期の伝承系譜によって大きくいくつかの派に分けられるほか、地域ごとに様々なグループを形成している。井伊直弼は、元来は300俵扶持の部屋住みで、その頃からおそらく石州流の茶湯を学んでいたと考えられる。片桐宗猿に事細かな質問をしており、『茶湯一会集』その他の著書などから当代一流の茶人であったと考えられている。家臣に宇津木左近があり、維新後に茶道教授をはじめており、この系譜が復元されて一会流と称している。(Wikipediaより)塚は、75センチ立方の台座の上に75センチの茶筅が置かれ、ともに御影石製。鐘楼多賀観光協...多賀町を巡る(10)高源寺その弐

  • 多賀町を巡る(9)高源寺 その壱

    多賀町楢崎高源寺は、鎌倉時代に創建され、もとは天台宗に属し、十福寺と呼ばれていました。総門石田三成の居城・佐和山城の裏門を移したものだそうです。近江源氏・佐々木氏の四天王の一人として活躍した楢崎氏の菩提寺として創建されたたものとされています。織田信長によって、佐々木氏が滅亡するや楢崎氏もこの地を離れ、それ以後廃寺になりました。その後、彦根藩主井伊家の家老の脇家、宇津木家の両家によって再興され、両氏の院号にちなんで、天徳山高源寺とし、臨済宗妙心寺派に属し、現在に至っているとのこと。最盛期には、書院三十坪、仏殿二十五坪、奥殿三十坪、禅堂三十二坪などを要する大寺院で、湖東における名刹でしたが、明治9年(1876)火災により、総門以外の伽藍はすべて灰となってしまいました。その後、明治14年(1881年)多賀から正覚院・...多賀町を巡る(9)高源寺その壱

  • 多賀町を巡る(8)多賀大社のケヤキ「女飯盛木」

    こちらが、女飯盛木です。元正天皇(715~724)の病気平癒祈願にケヤキで杓子が謹製された。その残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承されている。東の木が男飯盛木、西側の木が女飯盛木と呼ばれ、「お多賀杓子の飯盛木」の言伝えで親しまれている。(駒札より)幹周9.75m樹高15m樹齢(推定)300年以上幹周は、男飯盛木よりも女飯盛木の方が大きいですが、斜めに立っている姿は、しなやかで女性らしいかな?樹齢は不明ですが、相当の古木で、ケヤキとしては県下最大級だそう。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング多賀町を巡る(8)多賀大社のケヤキ「女飯盛木」

  • 多賀町を巡る(7)多賀大社のケヤキ「男飯盛木」

    多賀と敏満寺の境界には、2本のケヤキの巨木が立っています。こちらが、男木の男飯盛木。この木の杓子で飯を盛り差し上げたところ、天正天皇が快癒したという言い伝えからこの名がついています。元正天皇(715~724)の病気平癒祈願にケヤキで杓子が謹製された。その残り枝を地に挿したものが大木になったと伝承されている。東の木が男飯盛木、西側の木が女飯盛木と呼ばれ、「お多賀杓子の飯盛木」の言伝えで親しまれている。樹周6.32m樹高15m樹齢(推定)300年以上だいぶ傷んでしまっていて、痛々しいですね(:_;)ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  多賀町を巡る(7)多賀大社のケヤキ「男飯盛木」

  • 多賀町を巡る(6)西徳寺

    滋賀県の多賀大社の門前に位置する西徳寺を訪ねました。山門聖武天皇の勅願により、天平八年(736)行基が創設。当初は「山天平寺」と称し、法相宗に属す。天平11年、行基により座像弥陀仏一体、立像二体を彫刻。座像弥陀仏は多賀大社の本地仏に、立像一体は西徳寺の本尊、もう一体は四十九院の本尊に給う。第二世基恩僧都の天平12年には帝により多賀天守社を命じられる。第八世義真大僧都が延暦寺初代座主となり、第十四世静源権大僧都の時、承和二年(835)に法相宗から天台宗に改宗。第四十八世慈広大僧正の建長七年(1255)親鸞聖人が関東から上洛の際、当院に三日間滞在。第六十一世慈照の永正元年、勅許を得て浄土真宗に改宗、寺号を「西徳寺」。室は蓮如上人第十三女貞子なり。元亀元年(1571)織田信長、浅井長政による元亀の役の兵火により七堂伽...多賀町を巡る(6)西徳寺

  • 多賀町を巡る(5)調宮神社(ととのみやじんじゃ)

    調宮神社は、多賀大社のお旅所になっており、古例大祭には頭人を先頭にして行列が続き、富の木を持ち帰る儀式があります。飛の木とは、神社東方の4株が寄り集まったカツラの木を称し、多賀大社創始にまつわる縁起があるとのこと。今も多賀大社古例大祭には「富の木渡し」という重要な神事に使用されるそうです。(多賀観光協会HPより)参道には、この黄金の橋が架かっています。拝殿本殿神代の昔伊邪那岐大神は杉坂山にご降臨なされ次いでこの栗栖の里にて暫くお休みになられたことが當社の創祀とされるのち多賀の宮にお鎮まりになった大神は毎年四月の多賀大社古例大祭に先ず當神社へ渡御されて神輿鳳輦に境内の富の木を飾り打籠をて大社に還幸されるこれはご鎮座の昔を再現する神事といわれるなお十一月十五日の大宮祭にも大社より神幸がある豊かな自然に囲まれた調宮神...多賀町を巡る(5)調宮神社(ととのみやじんじゃ)

  • 多賀町を巡る(4)市杵島姫神社・久徳城跡

    久徳定高(多賀定高)は、多賀氏一族として京極氏に仕え、長享元年(1487)、合戦における功により現在の犬上郡多賀町久徳の地を賜り、芹川を外堀にした久徳城を築き、久徳を称するようになりました。滋賀県多賀町久徳は、六角氏と浅井氏の係争の地でした。久徳一族は六角氏の庇護を受けていましたが、浅井長政の攻撃を受け、久徳城は永禄3年(1560)に落城。永禄11年(1568)織田信長の上洛に抵抗して六角氏が没落すると、織田氏に属するようになります。元亀元年(1570)浅井長政が織田信長と対立するようになり、姉川の合戦が起ると織田方として浅井勢と戦い、当主宗重は信長から三千石の黒印状を賜り、久徳氏は久徳城に復帰。元亀2年には、浅井氏の命を受けた高宮三河守の攻撃を撃退。浅井氏滅亡後は豊臣氏に仕えましたが、関が原の合戦に際して西軍...多賀町を巡る(4)市杵島姫神社・久徳城跡

  • 多賀町を巡る(3)大瀧神社 その参

    大瀧神社の境内神社の犬上神社。(犬上神社の画像:滋賀県観光情報HPより稲依別王命が狩りに出られた時、大蛇に食べられそうになったのを、その飼い犬に助けられたことから犬を祀った神社として有名になり、「犬胴松」と呼ばれる松に伝わる伝説にも残っています。犬上郡の地名も「犬噛」からきているといわれています。犬胴松の伝説(いぬどうまつのでんせつ)大瀧神社周辺その昔、犬上神社の祭神、稲依別王が狩に出て昼寝をしていたおりに、大蛇に頭上から狙われたが連れていた犬が主人を守ろうと吠えた声で目を覚ました。そのやかましさに思わず太刀で犬の首をはねたという。その首は大蛇の頭に噛みつき、そのまま一緒に川に落ち、大蛇は死んだ。王は命を守ってくれた忠犬の首をはねたことを悔やみ、この地に弔いの松の木を植えた。それが犬胴松の伝説として残っている。...多賀町を巡る(3)大瀧神社その参

  • 多賀町を巡る(2)大瀧神社 その弐 大蛇ヶ淵

    大瀧神社に面する犬上川の清流は、滝の宮とも言われるとおり、約10mもの落差を流れ落ちながら奇岩怪岩の間をうねっており、大蛇ヶ淵(だいじゃがふち)と呼ばれる景勝の地となっています。水の神・自然の神と崇められています。予想以上にダイナミックな滝でした。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  多賀町を巡る(2)大瀧神社その弐大蛇ヶ淵

  • 多賀町を巡る(1)大瀧神社 その壱

    昨年の秋、Twitterのフォロワーさんで、彦根在住の緑茶さん@grnt2512に、滋賀県犬上郡多賀町を案内していただきました。多賀町の大瀧神社は、「滝の宮」とも言われ、祭神のタカオカミ、クラオカミは、滝の近くに鎮座しています。一之鳥居二之鳥居二之鳥居の前には冨王稲荷神社が祀られています。社殿は寛永15年(1638)徳川三代将軍・徳川家光の下知により、当時多賀大社、胡宮神社と共に造営されました。 拝殿古来、多賀大社の末社、あるいは奥宮として考えられています。 本殿大瀧神社(瀧之宮)御祭神高龗神闇龗神水分神例祭日5月5日御本殿一間社流造檜皮葺(県有形文化財)御祭神は京都鞍馬の貴船神社にも祀られる水神で旧大滝村の総鎮守として、又、犬上川流域の水利を司る神として広く崇敬されている。創祀年代は確定できないが「淡海落穂草...多賀町を巡る(1)大瀧神社その壱

  • 雲龍院(4)

    悟りの窓書院悟之間の窓。悟りの窓からのぞく風景から四季の移り変わりを感じることができます。照明を落とした部屋に、障子の隙間から入ってくる自然光が、見事な光と影のバランスを作りだしていました。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  雲龍院(4)

  • 雲龍院(3)

    雲龍院の庭大石(内蔵助)良雄筆「龍淵」赤穂城を退き、山科に浪宅を構え閑居した大石良雄の力強い筆跡の「龍淵」の書。雲龍院の近くに大石良雄が身を寄せていた来迎院があり、その茶室含翠軒で討ち入りの密議をしたとのことです。霊明殿御寺泉涌寺の別院である雲龍院は皇室と密接な関係があり、後水尾天皇以降の陵墓が後山にあります。霊明殿はその皇族の位牌堂のことで、現在の建物は明治元年に孝明天皇・大宮御所・静寛院宮・各尼門跡宮からの援助を受け建立されました。北朝の後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇、称光天皇の御尊牌、後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇、東福門院・普明照院といった江戸時代の皇子・皇女の尊牌が奉安されています。霊明殿の前には、徳川慶喜寄進の石灯籠があります。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村...雲龍院(3)

  • 雲龍院(2)

    龍華殿(本堂)室町時代は康応元年(1389年)に後円融天皇により建立されたが焼失、後土御門天皇の寄進により再建されました。現在の建物は、寛永年間の再建。寄棟、こけら葺き、国の重要文化財(昭和41年(1966年)指定)蓮華の間蓮華の間の障子窓を覗くと椿・灯籠・紅葉・松が見え、撮影スポットとなっています。  ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  雲龍院(2)

  • 雲龍院(1)

    昨年の秋、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院・雲龍院を訪ねました。泉涌寺別院。山号は瑠璃山。本尊は薬師如来。西国薬師四十九霊場第40番札所。泉山七福神巡り第5番(大黒天)札所。細い参道を進んで行きます。鎮守社衆宝観音鐘楼井戸庫裡 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  雲龍院(1)

  • 京を巡る(15)妙顕寺 「金丸」

    葬儀や法事などの仏事で、お経を唱える僧侶が鳴らしている仏具の一つに「金丸」(かなまる)というものがあります。 妙顯寺の本堂にお参りした人が、金丸を自由に鳴らしても良いように置かれていました。大きさは、かなり大きなものです。 金丸の鳴らし方や諸注意については、立て看板に記されてあります。  お参りの記念に、一度鳴らしてみませんか? その他、妙顕寺で目に留まったものを写してみました。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  京を巡る(15)妙顕寺「金丸」

  • 京を巡る(14)妙顕寺 勅使門

    勅使門勅使を受け入れる寺社には勅使専用の部屋や門をつくり、現在でも勅使の間、勅使門として残されているところがあります。勅使門は、勅願寺において勅使を送迎するための唐門で、門扉には菊の紋章が付いています。通常は閉門しており、特別な行事の場合のみ開門します。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  京を巡る(14)妙顕寺勅使門

  • 京を巡る(13)妙顕寺 花手水と秀吉

    各地の寺社で話題になっている「花手水」妙顕寺にもありました。華やかで写真映えするとあって、インスタなどSNSで大人気になっています。妙顕寺の庭園とのコラボも見事なものです。そして、こんな案内もありました。ここは、豊臣秀吉ゆかりの地でもあります。柱の傷わかりますか? 妙顕寺は天文17年(1548年)、二条西洞院に再建されますが、天正12年(1584年)、豊臣秀吉の命により、現在地に移転。そして秀吉は、妙顕寺跡地に二条第妙顕寺城を築きました。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  京を巡る(13)妙顕寺花手水と秀吉

  • 京を巡る(12)妙顕寺 和紙の芸術作品

    ここで、室内展示に目を向けてみましょう。「妙顕寺のまるごと美術館」では、和紙の専門商社「和紙来歩」による和紙を使った作品、襖絵、障子などが展示されていました。「雲海の七龍神」「花明かり」「水のかたち」まるで美術館に迷い込んだような空間です。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京を巡る(12)妙顕寺和紙の芸術作品

  • 京を巡る(12)妙顕寺 光琳曲水の庭 その弐

    「光琳曲水の庭」は、正面から眺める庭園はもちろんのこと、円窓を通して眺める景色も楽しめます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  京を巡る(12)妙顕寺光琳曲水の庭その弐

  • 京を巡る(11)妙顕寺 光琳曲水の庭

    妙顕寺の中庭には、かつて尾形光琳が作庭した庭園があったと伝わっています。しかし、天明の大火で焼失してしまい、現在の庭は、再建時に「松竹梅図」の掛け軸を参考にして作られたものなのだそうです。中央の大きな松がシンボルです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京を巡る(11)妙顕寺光琳曲水の庭

  • 京を巡る(10)妙顕寺「五色椿と赤松の庭」

    続いて「五色椿と赤松の庭」椿と赤松がシンボルで、中央に配された水琴窟の音色を体験することができます。そして、藁アートの作品も飾られていました。こちらは、塩澤文男氏のスタイリッシュな襖絵ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京を巡る(10)妙顕寺「五色椿と赤松の庭」

  • 新年のご挨拶

    明けましておめでとうございます!昨年も当ブログへのコメント&応援ありがとうございました。今年もよろしくお願いいたします。にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ新年のご挨拶

  • 京を巡る(9)妙顕寺 孟宗竹の坪庭

    ここから拝観受付をし、妙顕寺の中に入ります。境内では「孟宗竹の坪庭」、「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、「光琳曲水の庭」といった三つの趣の異なる庭園を鑑賞できます。こちらが「孟宗竹の坪庭」この庭は、ネスカフェのCMにも使われたことがあるので、ご覧になっている方も多いでしょう。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  京を巡る(9)妙顕寺孟宗竹の坪庭

  • 京を巡る(8)妙顕寺 山門~

    京都市上京区の妙顕寺は、元亨元年(1321年)、日像により今小路(現京都市上京区大宮通上長者町)建立されました。応仁の乱や宗派間の紛争(天文法難)により長い間、移転を繰り返し、天正11年(1583)年豊臣秀吉の命によって現地に移建。現在のお堂は、天保5(1834)年の再建です。妙顕寺、妙覚寺、立本寺の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。山門本堂正しくは四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺といい、日蓮宗の大本山の一つである。日蓮聖人の孫弟子に当たる日像上人が、元亨元年(1321)に、京都における日蓮宗最初の道場として創建したのが当寺の起こりである。建武元年(1334)には、後醍醐天皇から法華宗号と勅願寺の綸旨(詔の趣旨)を受け、法華宗最初の勅願寺として洛中洛外の宗門の第一位に認められた。...京を巡る(8)妙顕寺山門~

  • 京を巡る(7)本法寺

    上京区小川通の本法寺は、1436年(永享8)本阿弥清信が日親上人を開基に請じて創建したのが起こりです。はじめは東洞院綾小路にありましたが、1536年(天文5)法華の乱によって山徒に焼かれ、後に現在の地に移りました。江戸時代には後水尾天皇、紀州徳川家の保護をうけて繁栄しました。現代の経蔵、宝蔵のほかは天明の大火(1788)後に再建されたものです。仁王門本堂1797年(寛政9年)本阿弥光悦筆の扁額本法寺は、琳派の祖・本阿弥光悦の菩提寺で、本堂の前には、本阿弥光悦お手植えの松があります。本阿弥光悦(1558-1637)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家で、その才能は多岐にわたり、書・絵画・陶芸・漆芸などに優れた作品をのこしています。本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えてい...京を巡る(7)本法寺

  • 京を巡る(6)矢田寺

    京都の繁華街・寺町通りにある矢田寺は、西山浄土宗の寺院で、通称矢田地蔵(やたじぞう)と呼ばれています。平安時代初期、奈良の矢田寺の別院として五条坊門に創建され、以後、寺地を転々とし、天正7年(1579年)に現在地に移されたといわれています。当寺の梵鐘は六道珍皇寺の「迎え鐘」に対し、「送り鐘」と呼ばれ、死者の霊を迷わず冥土へ送るために撞く鐘として信仰されています。正平14年(1359年)に鋳造された梵鐘は戦時中の金属供出により失われ、昭和48年(1973年)に新鋳されました。金剛山矢田寺と号する西山浄土宗の寺で、通称、矢田地蔵の名で知られている。寺伝によれば、当寺は、平安時代の初め、大和国(奈良県)の矢田寺の別院として五条坊門(下京区)に創建され、以後、寺院を転々とし、天正7年(1579)に現在の地に移されたとい...京を巡る(6)矢田寺

  • 慈照寺(5)錦鏡池~庭園

    では、慈照寺の庭園に目を向けてみましょう。錦鏡池を中心とする池泉回遊式庭園で、特別史跡・特別名勝。錦鏡池には、北斗石をはしめとする名石が配置されています。北斗石樹齢500年の千代の槇洗月泉錦鏡池南東端に落ちる滝。大内石守護大名・大内政弘の寄進によるもの。青紅葉に囲まれた慈照寺の境内。ゆっくりと出口に進んで行きます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング慈照寺(5)錦鏡池~庭園

  • 京を巡る(4)慈照寺「東求堂」

    方丈から東求堂へ。観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが東求堂(国宝)です。一重入母屋造、檜皮葺で、文明18年(1486年)の建立。足利義政の持仏堂で、阿弥陀三尊が安置され、仏間の東北に同仁斎と呼ぶ4畳半の書院があります。名は「東方の人念仏して西方に生ぜんことを求む」の語による。書院は同仁斎(名は「聖人一視而同仁」の語による)と呼ばれ,四畳半で付書院と棚をもち,四畳半茶室のはじめとされる。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京を巡る(4)慈照寺「東求堂」

  • 京を巡る(4)慈照寺 銀沙灘・向月台

    方丈前には、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるため、向月台は坐って東山に昇る月を待ったものという説があります。銀沙灘向月台八幡社ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング京を巡る(4)慈照寺銀沙灘・向月台

  • 京を巡る(3)慈照寺 総門~観音殿(銀閣)

    数年ぶりに慈照寺を訪ねました。総門銀閣寺垣慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は、銀閣寺垣と呼ばれています。庫裏・大玄関宝処関方丈(本堂)慈照寺は、相国寺の境外塔頭であり、室町幕府第8代将軍・足利義政が鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営した楼閣建築である観音殿は銀閣、観音殿を含めた寺院全体は銀閣寺として知られています。観音殿(銀閣)銀閣は、金閣、飛雲閣(西本願寺境内)とあわせて京の三閣と呼ばれ、「古都京都の文化財」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。銀閣は宝形造り二層の楼閣。上層は潮音閣。下層は心空殿。庭の北にある東求堂(国宝)内部に同仁斎があり、四畳半茶室の原型といわれています。仏間は阿弥陀如来像、義政公像を安置。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキ...京を巡る(3)慈照寺総門~観音殿(銀閣)

  • 京を巡る(2)閑臥庵

    京都市北区烏丸通の閑臥庵(かんがあん)は、黄檗宗の寺で、江戸時代前期には後水尾法皇の実弟である梶井常修院の宮の院邸でした。王城鎮護の為に貴船の奥の院から鎮宅霊符神(ちんたくれいふじん)をこの地に歓請し、初代隠元禅師から六代目の黄檗山萬福寺管長千呆(せんがい)禅師を招いて1671年に開山したのが始まりです。法皇より「閑臥庵」の勅号を賜り、御所の勅願所とされました。鎮宅堂十干十二支九星を司る総守護神で、安倍晴明が開眼した北辰鎮宅霊符神が祀られています。後水尾法皇ゆかりの品々や伊藤若冲の十二支版木、開山三百三十周年記念時に制作した砂曼荼羅などが公開されています。また、黄檗宗の普茶料理を京懐石風にアレンジした料理を、庭園を眺めながらいただくことができます。閑臥庵山号を瑞芝山という黄檗宗の禅寺である。本堂には、唐の仏師に...京を巡る(2)閑臥庵

  • 京を巡る(1)西園寺

    京都市上京区寺の西園寺は、1224年(元仁元年)西園寺公経が北山殿内(現在の鹿苑寺の辺り)に同家の菩提寺として創建したもので、元仁元年(1224年)のの落慶法要の壮麗さは、藤原道長の法成寺をしのぐものだといわれたそうです。公経が鎌倉幕府と関係があったことから、鎌倉時代には隆盛しましたたが、鎌倉幕府が滅亡するに及び衰退。室町時代に入ると3代将軍足利義満がこの地に北山第(現在の鹿苑寺)の造営に伴い、1352年(文和元年)室町(上京区竹園町付近)に移り、1554年(天文23年)、縁誉が中興して浄土宗に改め、1590年(天正18年)現在の寺地に移されました。宝樹山竹林院と号する浄土宗の寺である。鎌倉幕府の太政大臣となった藤原公経が、元仁元年(1224)の衣笠山の麓に苑池を造り、池畔に本堂、寝殿など壮麗な堂宇を建てて、西...京を巡る(1)西園寺

  • 遠州信貴山別院(4)常楽寺

    遠州信貴山別院と隣接して、常楽寺があります。天平六年(734年)の開山で、高野山真言宗の古刹です。本尊は阿弥陀如来。 本堂往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したといいますが、戦火で建物、記録が消失し、詳細は不明。 十三佛堂以下、三方原合戦においての興味深い話が書かれていますので、お読みください。 中澤山常楽寺当山は、遠州信貴山別院である。往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したという。惜しむらくは度々の兵火に遭い、建物、記録が消失し、詳細は不明。享保年間に漸く再興した由。江戸中期の地誌、杉浦国頭が著した「曳馬捨遣」によると「元亀三とせのたたかひの時、此溝行来の、わづらいなりとて、常楽寺に、いくさ人みだれ入りて、かの弥陀を取って橋にして、かよひけりとなり…」とみえており、史上有名な三方原合戦のとき、徳川勢か武田勢か...遠州信貴山別院(4)常楽寺

  • 遠州信貴山別院(3)

    タワシ観音願い事や病気・痛みで苦しんでいる方は、観音様のその部分をタワシで洗ってください。また、心の悩みも観音様のお胸を洗えば、心のしこりがとけます。お不動様(一願不動)一願だけ祈願しましょう。一願不動のご真言「ノウマク、サンマンダ、バザラ、ダンカン」鐘つき堂毎月の行事として3日、13日、23日の10時より毘沙門天ご縁日護摩、毎月21日10時はお大師様の法要、毎月28日10時は人形供養(お焚き上げ供養)を行っております。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング遠州信貴山別院(3)

  • 遠州信貴山別院(2)

    大師堂弘法大師(空海)をお祀りしています。こちらでは、お砂踏みができます。修行大師仏足跡お釈迦様の足跡を拝んでから、手で撫でると、いろいろな災難を免れて幸運に恵まれるそう。道祖神幸せの神、縁結びの神、子宝の神。マニコロ上から七福神、梵文心経、宝号心経、十二支が画かれています。一回廻すと心経一巻読誦したのと同じ功徳を積むことができるのだそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング遠州信貴山別院(2)

  • 遠州信貴山別院(1)

    浜松市中区中沢町の信貴山(しぎさん)別院は、奈良県・信貴山の遠州別院です。本堂(毘沙門堂)本尊の毘沙門天をお祀りしています。アショーカピラー念ずれば花ひらく世界平和と諸願成就を祈念して建立されました。頂の獅子はお釈迦様です。右回りでお経の書いてある筒(マニコロ)を回しながらお詣りします。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング遠州信貴山別院(1)

  • 長栄寺(2)

    長栄寺の山門以外の建物は、明治の火災で焼失し、現在の本堂や庫裡は、昭和47年(1972)に新築完成されたものです。鐘堂は、総欅造りで平成4年(1992)に完成しました。本堂の裏手に行くと、濃淡のピンクのハナモモが咲き誇っていました。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング長栄寺(2)

  • 長栄寺(1)

    浜松市中区花川町にある長栄寺。山門脇の枝垂桜が有名だと聞いて、今年の春、初めて訪ねました。どうですか!見事な枝垂桜でしょう。日蓮宗の福聚山(ふくじゅさん)長栄寺といい、元名3年(1617)に本住坊日陽上人が開いたと伝えられているが、それよりも7~80年前から寺のような形であったと思われる。山門は、この寺で一番古い建物である、明治の火災では消失を免れたが、柱の焦げ跡が寺の歴史を物語っている。現在の本堂と庫裡は、昭和47年(1972)に新築完成された。現在の鐘堂は、総欅造りで平成4年(1992)に完成した。毎年除夜の鐘を打つ大晦日は大勢の人で賑わっている。本堂ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング長栄寺(1)

  • 小國神社(8)社殿

    二の鳥居をくぐって社殿へと進んで行きます。舞殿正月3日の国指定無形文化財の「田遊神事」、また、4月の例祭では国指定重要無形民俗文化財の「十二段舞楽」がここで舞われます。拝殿恒例の祭典及び結婚式、祈祷祭等は全て拝殿にて行われています。明治19年の再建で間口5間2尺5寸、奥行3件1尺5寸入母屋造の建物で、屋根は檜皮葺です。本殿は、明治15年の大火にて焼失しましたが、明治19年再建されました。間口3間1尺5寸、高さ4丈3尺で屋根は総檜皮葺の大社造で、御祭神「大己貴命」を祀っています。元亀3年(1572年)、甲斐の武田信玄が遠江に侵攻した際、小國神社の神職は徳川家康に味方しました。天正3年(1575年)、徳川家康が社殿を再建し、江戸時代に入ってからも歴代の将軍が社殿の造営や営繕、社領の寄進を行いました。明治5年(187...小國神社(8)社殿

  • 小國神社(7)二の鳥居

    社殿の前の鳥居は、二の鳥居と呼ばれています。明治15年まで、この場所に楼門があったそうです。残念なことに、明治15年、火災により焼失しまったそうです。春は、枝垂桜が二の鳥居の周りを彩ります。 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ  小國神社(7)二の鳥居

  • 小國神社(5)小國神社のパワースポット「家康公立あがり石」

    小國神社には、いくつかのパワースポットがあります。家康公の立ちあがり石徳川家康は、三方原合戦の前年の元亀三年九月、願文と三条小鍛冶宗近の太刀を奉納、開運を祈願しました。次いで、大正2年4月、犬居城攻略の道すがら参拝し、この石に腰かけて休息されたと伝えられています。以来、この石は「立あがり石」と言われ、石にあやかりたいとして人生の再起を念じて石に腰かける参拝者の姿があるそうです。金運・良縁のパワースポット金銀石この石を撫で、願をこめながら松の幹を撫でれば、金運、良縁に恵まれるという言い伝えがあるそうです。願掛け松 ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ  小國神社(5)小國神社のパワースポット「家康公立あがり石」

  • 小國神社(4)御神木~遠江森町の舞楽

    御神木当社の御神木の一つに数えられた大杉の脇にあり、平成元年3月1日、小國神社御神木となりました。このお賽銭の入れ方凄いですね!一宮常夜燈遠江森町の舞楽小国神社の舞楽は、静岡県周智郡森町一宮に伝わる民俗芸能の舞楽。小国神社の境内にある舞殿で、4月17日、18日の両日、番外曲の花の舞のほか12曲の舞楽が舞われる。曲目は「連舞」「色香」「蜂舞」「鳥舞」「大平楽」「新まく」「安摩」「二の舞」「抜頭」「陵王」「納蘇利」「獅子舞」であるが、悪魔祓い、五穀豊穣の「獅子舞」が曲に加えられていたり、「抜頭」の終りに舞い手を追い込む者たちが登場するなどの演出があり、独特の芸態を有しているところに特徴がある。1975年(昭和50年)12月8日記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択され、1982年(昭和57年)1月14日に...小國神社(4)御神木~遠江森町の舞楽

  • 小國神社(4)神幸所~大杉

    さらに参道を進んで行きます。神幸所神幸所は、4月の御例祭時に一年に一度だけ御祭神が神輿にのりやってきます。(小國神社HPより)だいこくさま全国一宮等合殿社延宝8年の社記、諸古文書の社頭配置図によると全国一宮等御祭神七三柱が境内社として各所に祀られていましたが、明治の初めに本社焼失時または腐朽等により明治15年より境内末社八王子社に仮に合祀されたものを平成元年12月氏子崇敬者の守護神として復興鎮祭されました。(小國神社HPより)大杉此の杉は、当社の御神木の一つに数えられたもので、慶長の古図(約400年前)に大杉と記されていおり、樹令1000年余りと言い伝えられています。老木の為・中が空洞になり縁だけの年輪(木目)500余年を数えます。古老より願掛杉又は福寿杉とも虫封杉とも伝われ洞穴に散錬して心願を祈っています。惜...小國神社(4)神幸所~大杉

  • 小國神社(3)森山焼の橋~事待池

    森山焼の橋森山焼の橋森町の銘陶森山焼四家(静邨、中村、晴山、田米)の陶房に協力を願い、それぞれの特色ある陶器片を、貝のように鏤め、比売神様への掛け橋として新装しました。平成二十五年四月宗像社御祭神田心姫命(たごりひめのみこと)田霧姫命(たぎりひめのみこと)市杵島姫命(いつきしまひめのみこと)弁天社ともいい、女性の守護神と敬われ、また、水徳の神とも敬われています。この赤い橋を渡ると八王子社です。御祭神国狭槌命(くにさづちのみこと)五男神三女神の八柱の神1月17日の例祭には奉射神事があります。事待池小國神社は「願い事が意のままに叶う神社」事任神社(ことのままのかみやしろ)として広く知られ、本社に詣で願掛けをして「事のままに待ち」心願成就すれば池に鯉を放ち神恩感謝の意を表わす慣わしから「ことまち池」といわれています。...小國神社(3)森山焼の橋~事待池

  • 小國神社(2)飯王子社~鉾執社

    小國神社は、静岡県周智郡森町に鎮座する神社で、大己貴命を祭神としています。欽明天皇の16年(555)2月18日、現在地より6kmほど離れた本宮山に神霊が示現したので、勅命によりそこに社殿が造営されたとされています。皇族や武将の信仰が篤く、遠江国一宮として崇敬を受けました。境内には、今も勅使参道が往時のまま残っており、その両側には、樹齢数百年といわれるスギの大樹がそびえ立っています。飯王子社昔、遠州横須賀の地方に毎年旱天長雨の為、五穀稔らず住民こぞって一宮様に詣で祈り、豆を捧げしところ、村長の霊夢に「端殿を横須賀の方に向け、保食神を飯王子社と称へ奉らば五穀みのらむ」との神託により社殿を横須賀の方に向け祭り、以来此の地に不作絶へたと言はれ、また、2月15日の祭りに上げた大豆を馬や牛に与えれば災なく無病に育つと伝えら...小國神社(2)飯王子社~鉾執社

  • 小國神社(1)ことまち横丁

    静岡県周智郡森町は「遠州の小京都」とも呼ばれ、長い歴史を持つ神社・仏閣が点在しています。今年の春、遠江国一宮「小國神社」を参拝してきました。駐車場に立つ見事な桜の木小國神社の鳥居の横には、食べ物屋、お土産屋が集まっていることまち横丁があります。コロナ感染予防のため、マスク姿の参拝者がほとんどでしたが、こちらは相変わらず賑わっていました。私は三密を恐れて、店内には入りませんでした。外観のみの撮影です。小國ことまち横丁の由来ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ小國神社(1)ことまち横丁

  • 鷲津の本興寺(7) 三十番神堂~鐘楼

    三十番神堂三十番神堂は、日替わりの守護神である三十番神を祀る建物で、文明4年(1472)五世日暹の代の創建。現在の建物は文政4年(1821)二十九世日壇の代に再建されたものです。建物は前舎・後舎にわかれ、前舎は桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、前方に一間の向拝があります。前舎の背面に接続する後舎は切妻造りで、三十番神を安置した客殿があります。前舎、後舎とも桟瓦葺きでしたが、平成25年度の保存修理工事により、瓦葺き型銅板葺きに変更されました。改修前の屋根は、中央に二つの峰を持つ特殊な瓦を配置し、左右逆方向に瓦を葺くという特徴的なものでした。 鐘楼宝永2年(1674)17世日観の代、上総国佐貫藩主松平山城守重治夫人の発願により建立されました。入母屋造りの袴腰付き鐘楼で、組物など細部の意匠に技巧的な特徴が見られます。...鷲津の本興寺(7)三十番神堂~鐘楼

  • 鷲津の本興寺(6)本堂

    開山杉と呼ばれる杉の間を抜けて本堂へ。開山杉樹叫六百年余と推定きれるこの老杉は、永徳3年(1383)門祖日陳聖人の東海巡科の折、改宗した当山の開山杉として植えられたものと伝えられています。京都本山本禅寺を建立された日陳聖人は、応永13年(1406)越後への帰路に再び当山を訪れ、寺門の隆盛を喜ばれ、開山記念として杉樹を御手植えされたと伝えられています。樹齢約630年樹高約16メートル(落雷により樹高止まる)胴廻右4.4m左3.7m科目スギ科スギ 本堂当寺はもと真言宗の寺院で、永徳3年(1383)に開山日乗聖人により法華宗に改宗したといわれています。戦国期には今川氏や徳川氏から寺領を安堵され、天文21年(1552))九世日礼の代に再建されました。建物は桁行五間・梁間五間の茅葺で、大仏様・禅宗様の二様式と、伝銃株式で...鷲津の本興寺(6)本堂

  • 鷲津の本興寺(5) 客殿

    回廊を通って、客殿に向かいます。客殿寛永14年(1637)、十三世日渕の代に建立され、安永2年(1773)二十五世日義の代に再建されました。桁行十間・梁間八間の寄棟造りで、前面に桟瓦葺きの向拝がつき、側面に濡縁が巡らされています。比較的古式な客殿ですが、江戸時代の特徴をよく示しています。平成23年度から24年度に行われた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より)句碑星野立子花の寺静かな人出中に歩す中門大書院の本玄関に通ずる中門は、朱塗りの門であることから別名朱門(あかもん)とも呼ばれています。貞享3年(1686)十七世日観の代の建立とされ、本柱と控柱の直上に切妻屋根を載せた薬医門といわれる門です。薬医門は、元来桃山時代創始の城門の一種でしたが、江戸時代には寺院の門として多く用...鷲津の本興寺(5)客殿

  • 鷲津の本興寺(4) 遠州流庭園

    国指定重要文化財絹本著色法華経曼荼羅図四幅鎌倉時代の作、法華経を四幅にして絵解きに資する絵図。奥書院もと三河国吉田城内にあった建物で、延宝二年(一六七四)十六世日穏の代、山門とともに当山に寄進されたものです。構造は、木遣平屋建てで、桁行八間・梁間五間の寄棟造りの茅葺きの縁側をつけた住宅風書院建築です。創建当初からのものではありませんが、使用されている材料や技法は江戸時代初期の建物様式を遺す建物です。平成二十四年度から二十五年度に行なわれた保存修理工事に伴い、本茅葺きから茅葺き型鋼板葺きに変更されました。(駒札より)庭園は「遠州流庭園」となっており、小堀遠州の作庭と言われています。遠州流庭園裏山の自然林を借景に大書院と奥書院に面して配置された庭園で、当地方の作庭に大きな影響を残した小堀遠江守政一が関わったといわれ...鷲津の本興寺(4)遠州流庭園

  • 鷲津の本興寺(3)大書院 その弐

    大書院の上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。谷文晁詩人谷麓谷の子として、宝暦恰3年(1763)江戸に生まれた。画をもって田安侯に仕え、松平定信の庇護を受けた。円山派の波辺南岳、北山寒巌の北画風をはじめ、宋、元、明の諸家の名蹟に学び、あらゆる画風の長をとって折衷した。山水、花鳥、人物など一つとして可ならざるはなく、大和絵までこなし、光琳瓜、四条派瓜をとり入れるなど。その画風は江戸期の全流派を集大成した感じがある。旅を愛し、最も得意とするところは山水画で、北宗的な堅い筆法と南宋的で柔和な空問のひろがりを総合して一派を創始、南北総派の祖といわれる。山水画の中でも三十歳前後の作品は、賦彩や濃淡のニュアンス、構...鷲津の本興寺(3)大書院その弐

  • 鷲津の本興寺(2)大書院 その壱

    方丈で受付を済ませ、大書院、奥書院、客殿の見学のスタートです。大書院は、文政10年(1827)の建立で、上段之間十五畳、中之間十八畳、岸良之間十八畳からなっています。大書院大書院は、二十九世日壇の代の文政10年(1827)、上段・下段の間取りを持つ公式対面の場所として建立されました。完成の記念として上段の間には、壁面七面、襖四本の両面の計十五面に、谷文晁によって「紙本水墨四季山水障壁画」が描かれ、このことから当寺は「文晁寺」とも言われてぃます。また、下段の間には岸良の「双竜争珠の図」や杉戸絵が描かれています。(駒札より)双竜争珠の図大書院のからの遠州流庭園「四季山水図」の『秋之景色』花鳥図屏風ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ鷲津の本興寺(2)大書院その壱

  • 鷲津の本興寺(1)

    湖西市鷲津にある本興寺は、永徳3年(1383)日乗上人の開山で、今川氏の帰依や徳川家康からの朱印地拝領により、十万石の格式を誇りました。山号は常霊山。院号は大悲院。本尊は三宝尊。山門は、愛知県豊橋市の吉田城から移築したもの。山門(惣門)もと三河国吉田城の城門であったものを、延宝2年(1674)十六世日穏の代に吉田城より移築したもので、高麗門と言われる形式の門です。改築される前は、上端が薄く下瑞が厚い板を段状に葺いた段葺き技法の特徴を備えた風格のある門でたが、移築時に柿葺きに改修されました。その後、亨保10年(1725)に硯在の本瓦葺きに改修されました。なお、創建時の段葺き屋根の特徴は、現在も瓦葺きの下に保存されています。300mという長い参道の両脇に塔頭が四院あります。浜名湖辺から正面の本堂に向かう全長300メ...鷲津の本興寺(1)

  • 新居町の散策(6)隣海院

    湖西市新居町の隣海院は、日ヶ崎隣海院という天台宗の寺でしたが、明応の災害で流出し、新居に移されたと伝えられています。慶安元年(1648)新福寺三世進外能迪和尚を開祖と仰ぎ、曹洞宗に改めました。宝永四年の災害で諸堂のすべてが流出し、翌年現在地に移り日ヶ崎山を新居山に改めました。文化七年(1810)に火災に遭い、翌八年に庫裡、文政二年(1819)に本堂を再建。山門は宝永年間建立の四脚門で、梁上に「ジキジキ」と呼ぶ憤怒像の彫刻があり、参詣者の邪心を祓うと言われています。ジキジキ像を撮り忘れてしまったので、こちらのサイトで、ジキジキ像の画像をご覧ください。http://www.sotozen-navi.com/detail/index_221173.html山門に参拝者を見下ろすような形で祀られている「ジキジキ像」は、...新居町の散策(6)隣海院

  • 新居町の散策(5)本果寺(ほんがじ)

    本果寺はもともと真言宗の寺でしたが、元中七年(1390)に法華宗に改宗。天正二年(1574)に徳川家康から徒役免除及び朱印四石五斗の判物を与えられました。山門は黒塗りの医王門で、乗馬のまま通行できることから武家用門ともいわれています。明治元年(1868)、有栖川宮東下にあたり祈願寺とされました。あけぼのの鐘春は、境内を八重桜が彩ります。本果寺もとは真言宗のお寺であったが、元中七年(1390年)本興寺の末寺となり、法華宗に改宗した。宝永四年(1707年)の大津波により大破、惣町移転となり、翌年現在の地に移転した。徳川家康をはじめ代々の将軍より朱印を賜り、有栖川宮御祈願所を拝命し、位牌を安置。松山新田の開拓者野口休可の墓や無縁供養のめぐみ観音を祀る。俳匠大野林火の句碑があり、「お経に化けた鯛」の伝話もある。平成十二...新居町の散策(5)本果寺(ほんがじ)

  • 新居町の散策(4)神宮寺

    新居町の神宮寺は、応永二年(1395)仲翁和尚による開山と伝えられる寺です。江戸時代後期までは代々の住職がありましたが、嘉永元年(1848)から東福寺が兼務するようになったそうです。(湖西市観光振興協議会HPより) 子安観音の子安殿宗派臨済宗方広寺派白翁山神宮禅寺本尊阿弥陀如来地蔵菩薩創建応永2年(1395)開山悦翁大園真覚禅師聖鑑国師(無文元選禅師・後醍醐天皇の皇子)の法を直伝。 寺紋は十六菊、伊勢神宮信仰に関係があったと思われる。創建時は、日ケ崎にあったが宝永4年(1707)の大地震後、新居宿のまちづくりと共に、現在地に再建された。明治になって要津寺と光珠庵が当寺に合寺した。 境内には、子安観音(安産と子育て)、関所稲荷(忠臣蔵にでてくる土屋主税が建立)東海道の旅人の安全を見守っていた鯖弘法大師等が祀られて...新居町の散策(4)神宮寺

  • 新居町の散策(3)諏訪神社

    続いて新居町の諏訪神社へ。諏訪神社は、建御名方命を祭神として祀り、天下の奇祭「奉納煙火」で知られています。地域の住民の氏神として古来より尊崇される神社ですが、明応・永正・元禄年間など数度の災害によって宝永五年(1708)に現在地に移されるまでの古文書などの記録は残されておらず、創立の由緒や年代は明らかになっていないそうです。(湖西市観光振興協議会HP参照)当社は、景行天皇十九年(約千九百年前)の創立と伝えられる古社である。当初は新居宿の総氏神、猪鼻湖神社として猿田彦大神を奉斎し、浜辺に鎮座していたが、数度の天災により宝永五年(一七〇八)現在地に遷座となる。現神社名は井口嘉末なる者が信州より移り住み、天正年間(一五九〇年頃)諏訪大明神の御分霊を合祀したことから、いつしか諏訪神社と称するようになった。境内には樹齢4...新居町の散策(3)諏訪神社

  • 龍谷寺

    鷲栖院と同じく新居町の龍谷寺へ。龍谷寺の起源は、貞和元年(1345)気賀の庄、石川氏が開基となり、楠正成公に仕えた後に仏門に入った龍氏(石峰和尚が入野村(現在の浜松市入野町)に創建、東に佐鳴湖を見る所にあったことから山号を東湖山、寺号を自分の姓一字を入れて龍谷寺としたことに始まります。その後、永正元年(1504)、雲谷和尚が、産海村(現在の浜松市西区雄踏宇布見)に移し、寛文5年(1665)には、新居宿に移転し万牛和尚を開山としました。宝永4年(1707)10月4日に大地震が発生。三度の津波に見舞われ新居宿は全没。この災害で壊滅状態になりましたが、翌年、江国和尚がに現在地に再興。再建しました。現在の堂宇は14世玄雄和尚が再建しました。(龍谷寺HP参照)本堂聖観世音菩薩を本尊とする臨済宗妙心寺派のお寺です。鐘楼ブロ...龍谷寺

  • 鷲栖院(じゅせいいん)

    昨年の4月、新居町のウォーキングに参加した帰りに寄ったお寺です。湖西市新居の鷲栖院は、貞和(1345~1349)以前の創立といわれ、創建時は天台宗の寺であったといわれています。天正元年(1573)に再興して新福寺末寺になりました。慶長19年(1614)に開山堂を建立し、宝永6年(1709)に諸堂を改修しています。境内にある佐橋甚兵衛の墓佐橋甚兵衛の墓佐橋甚兵衛吉次は、今切関所が幕府直轄時代の正保4年(1647)から明暦2年(1657)まで、関所奉行を務めた。明暦3年、74歳で没し、初め自ら開基となった祐念寺に葬られたが、廃寺後ここ鷲栖院に移された。平成22年3月湖西市教育委員会鷲栖院(じゅせいいん)

  • 松ヶ崎大黒天(妙円寺)

    「松ヶ崎の大黒さん」として親しまれている妙円寺は、五山の送り火「妙法」の「法」の字が点火される松ヶ崎山のふもとにあります。山門大黒堂大黒堂の前にあるこの「なで大黒像」を撫でてから、自分の体の悪いところを撫でて祈願するとご利益があるそうです。当山は山号を松崎山。寺号を妙円寺(通称は松ヶ崎大黒天)といいます。松崎山妙圓寺と号し、日英上人の開基にかかる日蓮宗の寺である。本尊の大黒天は伝教大師の作、日蓮聖人が開眼したものといわれている。当寺は京都の表鬼門に位置するところから、古来、福運を授ける神と信ぜられ、昭和44年(1969)の火災にも無事で「火中の大黒さま」と呼ばれて、正月初子の日を始めとし、甲子の日には参詣者が多い。当寺は京都・都七福神の第一番で、背後の山では毎年8月16日孟蘭盆会の行事として「妙法」二字の送り火...松ヶ崎大黒天(妙円寺)

  • 修学院離宮(10)

    今まで歩いてきた道、見学してきたところを対岸から眺めながら、浴龍池のまわりを歩いていきます。千歳橋松並木を通り、出口へと向かいます。急な斜面の登り下りを含め約3kmほど歩いてことになります。結構な運動をした感じでした(^^;今年の春も京都に行く予定でしたが、コロナの影響で、キャンセルすることにしました。また機会があれば、この素晴らしい修学院離宮を見学してみたいと思います。この記事をもって、修学院離宮の記事は終わりです。最後までお読みいただきありがとうございましたm(__)mブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(10)

  • 修学院離宮(8) 上離宮 土橋

    窮邃亭を出て、浴龍池の周りを歩いて行きます。池に映る樹々。まるで鏡のように映し出されています。土橋下離宮から歩いてきたところを上から見下ろすことができます。回遊式の庭園としてつくられているので、様々なアングルから池を中心とした景色を楽しむことができます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(8)上離宮土橋

  • 修学院離宮(8) 上離宮 窮邃亭

    続いて、上離宮の窮邃亭へ。窮邃亭は、創建当時から現存する唯一の建物だそうです。後水尾院によって造営された上の茶屋・下の茶屋の建物のほとんどが滅失または再建されているなかで、本建物は唯一、創建当時のものとされている。ただし、幕末頃には相当に荒廃していたようで、大幅な修理が加わっている。大きい中島の上に建ち、宝形造、杮葺、屋根頂部に瓦製の露盤を置き、その上に切子頭の宝珠を乗せる。南面と東面は縁および土間庇をめぐらす。内部は18畳の1室とし、間仕切りはない。ただし、北側の東隅に板間が突出し、水屋となっている。水屋には流し、天袋、地袋を設ける。床(とこ)、棚などの座敷飾りはないが、池に面する北面から西面にかけて鉤の手に6畳分を框一段分高くなった「上段」とする。上段の西側窓際には幅1尺、長さ2間の肘掛板があり、これは欅の...修学院離宮(8)上離宮窮邃亭

  • 修学院離宮(7) 千歳橋

    隣雲亭から浴龍池に向かいます。千歳橋中島と万松塢の間に架かる橋は、千歳橋という屋形橋で、東には宝形造、西には寄棟造の屋根を架け、宝形造屋根には金銅の鳳凰が飾られています。文政7年(1824年)の離宮改修時に、京都所司代の内藤信敦が橋台を寄進し、文政10年(1827年)に水野忠邦が屋形を寄進したもので、当初から離宮にあったものではないそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(7)千歳橋

  • 修学院離宮(6)上離宮 隣雲亭

    隣雲亭は、海抜150メートル、浴竜池との標高差10メートルのところに建っています。床、棚などの座敷飾りはなく、装飾は欄間の花菱文と釘隠にみられるほどの池を眺望するための簡素な建物です。当初の建物は延宝5年(1677年)に焼失し、現存する建物は文政7年(1824年)の再建。 では、ここからの素晴らしい眺望をもう一度ご覧ください!ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(6)上離宮隣雲亭

  • 修学院離宮(5)上離宮の浴龍池

    上離宮の表門に当たる御成門に到着!急な石段を上って行った先には、こんな絶景が広がっていました。眼下に巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした庭園。浴竜池は、谷川を堰き止めて造った人工池で、堤防は高さ13メートル、延長200メートルに及んでいます。遠方には、借景の山々を望むことができます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(5)上離宮の浴龍池

  • 修学院離宮(4) 中離宮の楽只軒

    楽只軒は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所の一部です。瓦葺、杮庇の建物。手前が「一の間」とその奥が二の間一の間は6畳で、狩野探信の「吉野山桜図」が描かれています。二の間は8畳で、「竜田川紅葉図」が描かれています。「楽只軒」の額は後水尾院の筆によるものです。上離宮に向かって、再び田園風景を眺めながら歩いて行きます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(4)中離宮の楽只軒

  • 修学院離宮(3)中離宮の客殿

    中離宮へ中離宮は、後水尾上皇の第8皇女・光子(てるこ)内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身で、この地にはそれ以前、上皇の第1皇女である梅宮が出家して円照寺という尼寺を構えていました。上皇の離宮建設により、奈良八島の地へ移っていき、朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められました。1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となりました。客殿 客殿は、東福門院の女院御所の対面所を移築したもので、楽只軒の南東に接して建っています。建物は入母屋造の杮葺。西側の南が「一の間」、その東が「二の間」、その北が「三の間」で、一の間の北には仏間があります。一の間の飾り棚は、霞のたなびく様に似ることから...修学院離宮(3)中離宮の客殿

  • 新年のご挨拶

    昨年も応援コメントありがとうございましたm(__)m今年もよろしくお願い致します(#^.^#)にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ新年のご挨拶

  • 修学院離宮(2)下離宮から中離宮へ

    下離宮の参観を終え、松並木を眺めながら中離宮へ向かいます。明治天皇が行幸する際に、赤松を植樹し、砂利を敷き整備したことから御馬車道とも呼ばれているそうです。この辺りは、田園風景が広がり、比叡山、東山、北山が一望できます。離宮内には田んぼがあるとはびっくりでした。近くの農民が離宮内にあるた田んぼで作った米を献上していたそうで、今も宮内庁が農家と契約し、米・野菜を作っているとか。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ修学院離宮(2)下離宮から中離宮へ

  • 修学院離宮(1)下御茶屋 寿月観

    2015年の12月、修学院離宮の見学をしてきました。なかなか予約が取れなかった離宮ですが、秋の紅葉シーズンが終わったあたりで、運よく参観予約の空きがありました。修学院離宮は、17世紀中頃、1653年(承応2年)~1655年(承応4年)に後水尾上皇の指示で造営された離宮で、上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、下御茶屋(しものおちゃや)という3か所の庭園からなります。面積は54万平方メートル。見学は、下御茶屋からスタートです。池泉観賞式庭園のなかに、後水尾院の御座所となった寿月観が建っています。表総門を入り、北に進むと、石段上に御幸門があります。屋根は柿葺、花菱紋の透かし彫りが施されされています。御幸門を入り右折すると中門があり、池を掘った土を盛り上げた高みに寿月観があります。寿月観後水尾院行幸...修学院離宮(1)下御茶屋寿月観

  • 岩佐又兵衛の「浄瑠璃姫物語絵巻」その弐

    今回は、岩佐又兵衛の三大絵巻を同時公開ということで、前々から楽しみにしていました。展覧会は、もちろん撮影禁止なので、私が事前に購入したMOA美術館所蔵「岩佐又兵衛作品集」から何場面が紹介します。『浄瑠璃物語』奥州へ下る牛若と三河矢矧の長者の娘浄瑠璃との悲恋物語。15歳の春、鞍馬を出た牛若は奥州を目指す。浄瑠璃姫と出会い、恋に落ちる牛若しかし、先を急がなければならない牛若は、浄瑠璃姫と別れる。その悲しさと旅の疲れからか、牛若は病に。源氏に伝わる宝物が、大蛇、白鳩、烏、小童に姿を変え、牛若を守る。後に浄瑠璃姫を再会した牛若は、平家討伐の暁には、浄瑠璃姫を北政所にすることを約し、大天狗・小天狗に姫を送り届けるように頼む。といった展開で進んでいきます。又兵衛の絵は、愛と復讐の物語というテーマで、凄惨な合戦場面や惨酷な殺...岩佐又兵衛の「浄瑠璃姫物語絵巻」その弐

  • 岩佐又兵衛の「浄瑠璃物語絵巻」その壱

    2014年の秋のことですが、熱海のMOA美術館で開催された岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」と「浄瑠璃物語絵巻」という展示会へ出掛けて来ました。岩佐又兵衛といえば、今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でも一躍有名になった黒田官兵衛を有岡城に幽閉した荒木村重の子どもで、落城の際、城の残された荒木一族・郎党は惨殺されましたが、幼子であった又兵衛は乳母に救い出され、京都の本願派寺院あるいは石山本願寺に保護されました。成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕え、信雄の改易後は「勝以」と改名し、京で絵師の修業を積んだといいます。この又兵衛の作品の一つに「浄瑠璃物語絵巻」があり、義経と浄瑠璃姫の物語が描かれています。展示会場まで、この近未来的なエスカレーターに乗って行きます。色も少しずつ変わ...岩佐又兵衛の「浄瑠璃物語絵巻」その壱

  • 浄瑠璃姫と義経の彫像

    鳳来寺の表参道の「歴史が歩いた坂道」には、「浄瑠璃姫と義経」の彫像があります。平成8(1996)年3月に整備され、彫像は、鈴木武右衛門氏によるものです。義経浄瑠璃姫数年前に見たときも思ったのですが、あまりに芸術的過ぎて、理解できなかったのですが、この苦しみもがいている様子が、二人の悲恋を表しているのでしょうか。浄瑠璃姫と義経平家が都で全盛を誇っていたころ、岡崎の近くの矢作の里に、兼高長者という金持ちの権力者が住んでいました。長者には、鳳来寺のお薬師様に祈願して生まれた、浄瑠璃姫という美しい一人娘がありました。姫が15歳の春、平家の目を逃れ、藤原氏を頼って奥州へ向かう義経が、源氏とつながりのある兼高長者の家に泊まりました。姫と義経は愛し合うようになりましたが、義経はいつまでもいることはできません。「半年たったら、...浄瑠璃姫と義経の彫像

  • 蒲原の浄瑠璃姫の伝説(3)

    蒲原の新栄六本松公園の北側に、浄瑠璃姫の墓、浄瑠璃姫の碑、吹き上げの六本松があります。浄瑠璃姫は、義経を追ってここまで来ましたが、力尽きてここ吹き上げの浜で亡くなったといいます。里人は浄瑠璃姫を哀れんで丁重に葬り、塚の上に目印として松を6本植えたと伝えられています。浄瑠璃姫の碑・吹き上げの六本松浄瑠璃姫に関する伝説はいくつかあり、そのひとつがここ蒲原町に残っています。浄瑠璃姫の碑には、恋い慕う義経を追ってきた三河国矢作の浄瑠璃姫が、吹き上げの浜で疲れ果てて亡くなったと記されいます。天正時代の頃(1580年)に小野於通(おのおつう)という女性によりまとめ上げられた「浄瑠璃十二段草子」という本には、里人によって吹き上げ浜に追われた瀕死の義経が、浄瑠璃姫の涙の雫により甦ったという筋書きになっています。それに節をつけて...蒲原の浄瑠璃姫の伝説(3)

  • 蒲原の浄瑠璃姫の伝説(2)源義経硯水跡

    蒲原の駿河モータースの横に源義経硯水跡があります。   ここは蒲原木之内家菩提所で、1167年(仁安2年)に作られ、蒲原一族初代・清實以後と浄瑠璃姫等の五輪の墓が建てられました。   1174年(承安4年)義経が東に下る時にこの菩提所の涌き水を使って浄瑠璃姫に手紙を書いたといわれています。 手紙を読んだ浄瑠璃姫は、義経を追いかけて来たのですが、病で倒れこの地で亡くなりました。1817年(文化14年)には地蔵尊が建てられ、「いぼ神様」として尊ばれ、義経硯水の水をイボにつけると、イボが落ちるという霊験を願って参拝者が絶えなかったのですが、旅人に持ち去られ、36代勝則によって再建されました。  1933年(昭和8年)国道工事のため、墓地は北に移り、面積は縮小し、現在の形となりました。残念ながら涌き水は涸れてしまいまし...蒲原の浄瑠璃姫の伝説(2)源義経硯水跡

  • 蒲原の浄瑠璃姫の伝説(1)浄瑠璃姫の位牌が伝わる蒲原の光蓮寺

    東海道本線「新蒲原駅」より徒歩15分ほどのところにある光蓮寺に向かいました。光蓮寺は1620(元和6)年に開山した浄瑠璃姫を供養するお寺です。浄瑠璃姫の供養を行っていたのは、もとは慶徳寺というお寺でしたが、慶徳寺から浄瑠璃姫の位牌を引き継いだのが光蓮寺なのだそうです。浄瑠璃姫は、奥州に向かった義経を追いかけ、富士川のあたりまで来たのですが、蒲原の地で命を落としてしまいます。境内にある浄瑠璃姫の壁画光蓮寺には、浄瑠璃姫の位牌があります。ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ蒲原の浄瑠璃姫の伝説(1)浄瑠璃姫の位牌が伝わる蒲原の光蓮寺

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(9)本願寺三河別院の観月遺跡

    本願寺三河別院は、浄瑠璃姫が観月の宴に興じたところとされ、姫の死後、侍女・更科がここに草庵を営んで菩提を弔ったといいます。境内には観月遺跡と更科の墓と伝わる供養塔があります。ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ岡崎の浄瑠璃姫伝説(9)本願寺三河別院の観月遺跡

  • 岡崎の浄瑠璃姫伝説(8)誓願寺

    兼高長者は、身を投げた浄瑠璃姫を誓願寺に葬り、十王堂を建てました。本堂十王堂そして、義経と浄瑠璃姫の木像を作り、義経が姫に贈った薄墨の笛、姫の鏡とともに堂内に安置したといいます。2005年に浄瑠璃姫と義経のウォーキングに参加した時に、その寺宝を見せていただきました。義経と浄瑠璃姫義経と浄瑠璃姫の木像義経の薄墨の笛浄瑠璃姫の墓ブログランキングに参加しています!応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ブログランキングへ岡崎の浄瑠璃姫伝説(8)誓願寺

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