メインカテゴリーを選択しなおす
「吉良邸討ち入り」(1703年)浪士の一人に「堀部武庸」(ほりべたけつね/1670-1703年)の名がある。剣がメッチャ強いだけでなく、かなりの文才も備えていたようで、「堀部武庸筆記」という記録も残していて、これは後世の赤穂浪士研究の貴重な資料になっているとのことだ。
泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。法名は刃雲輝剣信士。忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛歌川国貞作堀部安兵衛赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて...泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓