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泉岳寺の御朱印|赤穂浪士は本当に義士だったのか!?(東京都港区)
所在地東京都港区高輪2丁目11−1宗 派曹洞宗由 緒1612年、徳川家康が幼少期に人質として身を寄せていた今川義元の菩提を弔うため、江戸城に近接する外桜田に創建したのが始まり。しかし1641年に寛永の大火で焼失。その後、1604〜1651年
* クリスマスマーケットphotos____ 例年と比べ暖かい赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットでした。 12月14日って赤穂浪士討ち入りの日だよね。ドラマや映画では降りしきる雪を突いて大石内蔵助以下47士が吉良邸を襲撃するシーンを何度となく観ました。 江戸の冬は寒かったなぁ...
『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。泉岳寺の本堂を参拝し、いよいよ赤穂浪士・赤穂義士(泉岳寺では「赤穂義士」の呼び名…
取りあえず福豆だけは買いました皆さんは節分の準備を始めていますか?赤穂大石神社祈祷済みが気に入りまして🤭✨ご祭神は大石内蔵助良雄以下四十七義士命と中折の…
江戸川柳でたどる偉人伝(江戸時代②)浅野内匠頭・大石内蔵助・吉良上野介・宝井其角・加賀千代女
「川柳」は「俳句」と違って、堅苦しくなく、肩の凝らないもので、ウィットや風刺に富んでいて面白いものです。今では、「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」など「〇〇川柳」というのが大はやりで、テレビ番組でも紹介されており、書籍も出ています。そこ
赤穂義士墓御朱印 参拝日:令和4年(2022年)10月24日 開閉門時間 アクセス 泉岳寺境内図 義士墓所に向かいます。 義士墓所 義士墓所の入口に「義士への鎮魂」の水琴が有りました。ここから先は少し空気が違う感覚が有った。 義士墓入口の門 神聖な気持ちで階段を上ります。門を潜ると直ぐ右手に社務所が有り、義士墓に供えるお線香を300円で頂きます。 朱印料は志しと言う事で、500円をお納めさせて頂きました。 こちらも朱印帳直書きでした。 義士墓お参り前にお願いしておけば、お参りの間に書いて頂けます。 順番にお線香をお供えご供養します。 浅野内匠頭の墓 大石内蔵助の墓 四十七義士墓所 曹洞宗 萬松…
「吉良邸討ち入り」(1703年)浪士の一人に「堀部武庸」(ほりべたけつね/1670-1703年)の名がある。剣がメッチャ強いだけでなく、かなりの文才も備えていたようで、「堀部武庸筆記」という記録も残していて、これは後世の赤穂浪士研究の貴重な資料になっているとのことだ。
東京都港区高輪の泉岳寺は、慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を招いて外桜田(現在の警視庁の近く)に創建されました。寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失し、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、高輪の地で再建されました。浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもので、浅野長矩と赤穂浪士が葬られており、毎年4月初旬と12月14日には義士祭が催されています。中門泉岳寺には、三つの門(総門・中門・山門)がありましたが、現在は中門と山門のみが残っています。現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に再建されたもので、昭和7年に大修理を施されています。「萬松山」の額は、中国明時代の禅僧・為霖動霈(いりんどうは...泉岳寺(1)
梵鐘・鐘楼堂大正2年・41世普天霊明(ふてんれいみょう)和尚代に作られた鐘で、朝の坐禅の時と夕方の閉門の時に撞いています。また、江戸から明治まで使われていた梵鐘は、現在ウィーンの国立民族博物館に所蔵されています。主税梅大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅です。瑤池梅義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したものです。血染めの梅、血染めの石浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。首洗い井戸義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング泉岳寺(2)
泉岳寺の赤穂義士の墓所に向かいます。義士墓入口の門この門は浅野家の鉄砲州上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築したものです。赤穂藩主・浅野長矩の夫人・阿くり(瑤泉院)の墓瑤泉院(ようぜんいん、延宝2年(1674年)-正徳4年6月3日(1714年7月14日)、生年については異説も)は、江戸時代中期の女性。赤穂事件で知られる赤穂藩主浅野長矩の妻。名は阿久里(あぐり/おくり)、阿久理・阿久利とも。初代備後国三次藩主の浅野長治の三女。父の死後、その跡を継いだ浅野長照の養女となった。母は浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の娘。はじめ尚姫と名づけられたが、のちに栗姫、阿久里姫と改名した。三次藩士の落合勝信がお付きの用人として付けられ、彼女の養育に当たった。生まれてすぐに播磨国赤穂藩主・浅野長矩との縁組が進められ、延宝5...泉岳寺(3)阿くり(瑤泉院)の墓
続いて、浅野内匠頭のお墓です。冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士の戒名が読み取れます。浅野長矩あさのながのり(1667―1701)播磨(はりま)赤穂(あこう)城主、5万3500石。広島浅野家の分家。妻は浅野長治(ながはる)の長女(瑤泉院(ようぜいいん))。1645年(正保2)浅野長直(ながなお)が常陸(ひたち)(茨城県)笠間(かさま)から赤穂に転封となり加里屋(かりや)城を築いたが、長矩はその孫で1675年(延宝3)に父長友(ながとも)の跡を継いだ。1680年、従(じゅ)五位下内匠頭(たくみのかみ)。1701年(元禄14)幕府から勅使の御馳走(ごちそう)役を命ぜられたが、その指南(しなん)役である高家肝煎(こうけきもいり)の吉良義央(きらよしなか)との間柄が悪化した様子で、3月14日幕府の年賀の答礼として京都...泉岳寺(4)浅野内匠頭の墓
泉岳寺の大石内蔵助(良雄)の墓「良雄」は諱で、通称(仮名)は「内蔵助」。一般にはこの大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の名で広く知られています。没年:元禄16.2.4(1703.3.20)生年:万治2(1659)江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった...泉岳寺(5)大石内蔵助の墓
続いて、大石主税の墓です。大石主税(大石良金おおいしよしかね)幼名は松之丞(まつのじょう)、通称は主税(ちから)。父は大石良雄。母はりく。元禄元年(1688年)に播磨国赤穂藩筆頭家老大石良雄の嫡男として赤穂に誕生。幼いころには疱瘡を患ったという。元禄14年(1701年)3月14日(4月21日)、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩が即日切腹、赤穂藩が改易となった時、良金は数え年で14歳であり、元服前だった。赤穂城を幕府の収城使脇坂安照に引き渡した後、良金の父の良雄は遠林寺において藩政残務処理にあたったが、この間の、5月11日(6月16日)、良金は生母りくや弟吉之進、妹くうとるりの四人を連れてりくの実家但馬豊岡藩家老石束毎公の屋敷へ向かった。この豊岡滞在中に良金は毎公より脇差を与えられた...泉岳寺(6)大石主税の墓
泉岳寺の大石主税の墓の横に堀部安兵衛の墓があります。討ち入り後、赤穂浪士たちは4つの大名家の屋敷にお預けとなり、堀部安兵衛は、大石主税らとともに、伊予松山藩主・松平定直の江戸屋敷へ預けられました。元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府より赤穂浪士へ切腹が命じられ、屋敷にて松平家家臣・荒川十大夫の介錯により切腹。享年34。主君・長矩と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られました。法名は刃雲輝剣信士。忠臣蔵:堀部弥兵衛と堀部安兵衛歌川国貞作堀部安兵衛赤穂浪士の一人。名は武庸(たけつね)。実父中山弥次衛門は越後(えちご)新発田(しばた)藩溝口家に仕えていたが浪人となる。父の死後江戸に出て儒学や剣を学ぶうち,伯父・甥(おい)の義盟を結んだ菅野六左衛門が高田馬場(たかだのばば)で決闘したのを助太刀して勇名をあげ,望まれて...泉岳寺(7)堀部安兵衛の墓
18きっぷケチケチ旅行の1日目、明石、坂越に続く3カ所目の途中下車です。 播州赤穂駅 赤穂城址までの道 赤穂城址 赤穂大石神社 花岳寺 岡山へ 播州赤穂駅 JR赤穂線の播州赤穂駅です。大学生時代に友人たちと海辺でキャンプするために一度訪れたことがあります。久しぶりです。 赤穂という名の町はここだけなのに、なぜ駅名に播州がつくかと思ったら、開業当時に飯田線に赤穂駅(現・駒ケ根駅)が既にあったからなんですね。 (Wikipedia情報) 赤穂といえば忠臣蔵のモチーフとなった赤穂事件です。浅野内匠頭は赤穂藩藩主でした。 実は忠臣蔵の話、あんまり良く分かっていないんですけどね。そこまで興味ないというか…
今日は【播磨国】の 赤穂城 を紹介したいと思います。 ここへ行ったのは、正直なとところ姫路城へ行ったついでだったのですが、実際にこの城を生で見ると立派で壮大な城でありました。 それは素