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では、薬王寺の境内を散策してみましょう。鐘楼祈珠之塚と叶水(かのうすい)さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)さしのべさん(本名毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさ...鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂
鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔
鎌倉幕府滅亡から南北朝時代が好きで、武州多摩から鎌倉へ何度か遠征しています。今回は元弘元年(1331)に発覚した討幕計画(元弘の乱)で捕らえられ処刑された、↑日野俊基卿の墓所(国指定史跡 日野俊基墓)のある源氏山周辺を探訪しました。源氏山は、亀谷山(かめがやつやま)とも呼ばれていたそうですが、後三年の役(1083~1087)で源頼義・義家親子が奥州征伐に向かう際、山上に白旗を立てて戦勝祈願をした伝説が残っており...
Twitter記事より鎌倉の薬王寺の和尚様が、「超宗派有志僧侶の会」を立ち上げて下さったようです。人事も決まり、形に出来たとのことで、シェアさせて頂きました。更に僧侶の方が増えることを願っています。因みに東京の僧侶の方はお一人で、しかも会長になられたようです。正式なHPの開設はまだなようですが、また開設されましたら、お知らせさせて下さいね。皆様にたくさんのエールを賜り、超宗派有志僧侶の会立ち上げることがで...