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2013/09/04

  • 鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    では、薬王寺の境内を散策してみましょう。鐘楼祈珠之塚と叶水(かのうすい)さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)さしのべさん(本名毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさ...鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    地域タグ:鎌倉市

  • 鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    地域タグ:鎌倉市

  • 家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺です。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡とされています。太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、徳川家康の側室です。家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めました。家康の死後は落飾して英勝院と称し、3代将軍・家光より扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました。第一世庵主は頼房の娘・小良姫(清因尼)で、以降は水戸徳川家のお姫さまが庵主を務めました。そのため水戸様の尼寺と称され、法要に際しては徳川将軍菩提寺の増上寺などから僧が派遣されました。1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていましたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されました...家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    地域タグ:鎌倉市

  • 小野小町双紙洗水遺跡

    一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主は、小町相手には勝ち目がないと思い、前日小町の邸に忍び込んで、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きします。そして、小町が歌を記した草紙に加筆し、『万葉集』を盗作したように見せかけました。しかし、小町が庭の井戸水で草子を洗うと、後から書き加えた歌の文字が流れ消えたといいます。小町が草紙を洗った井戸がこの辺りと...小野小町双紙洗水遺跡

    地域タグ:京都市

  • 数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻り橋は、数々の残酷な歴史の舞台にとなってきました。戦国時代には、細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎が鋸挽きにされました。和田新五郎(わだしんごろう、生年不明-天文13年8月11日(1544年8月29日))は、戦国時代の武士。三好長慶の被官。新五郎は室町幕府12代将軍である足利義晴の嫡男・足利菊童丸の侍女と「不義密通」していたことを咎められ、天文13年(1544年)、一条戻橋で「鋸引き」の刑で処刑された。最初の鋸で両腕を切り落とされ、その後頸を斬り落とされたという。山科言継曰く、「前代未聞」の残忍な処刑方法だったという。また侍女の方も洛中を裸体で引き廻された後六条河原で処刑された。処刑は足利義晴及び細川晴元による主導で行われた。この事件は長慶の面目を丸潰し...数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    地域タグ:京都市

  • 聚楽城 加藤清正邸跡

    京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城加藤清正邸の案内板があります。Googleマップで、偶然見つけました。豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正13(1585)年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる(→聚楽行幸記)。同19年12月関白を養子秀次(→豊臣秀次)に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4(95)年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された...聚楽城加藤清正邸跡

    地域タグ:京都市

  • 豊田市の挙母城(七州城)

    愛知県豊田市小坂本町付近にあった「拳母城」(ころもじょう)は、江戸時代の1782年(天明2年)に築城されました。三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城とも(しちしゅうじょう)とも呼ばれました。こ拳母城には天守閣はなく、藩主が居住する御殿を中心に、侍屋敷などが設置され、1787年(天明7年)には拳母藩の藩校「崇化館」(そうかかん)が設立されました。明治時代に廃城となりましたが、1978年(昭和53年)には、絵図をもとに隅櫓が復元され、隅櫓に隣接して「又日亭」(ゆうじつてい)という書院と茶室が設けられました。現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。又日亭挙母城の起源となった金谷城は、鎌倉時代の1309年に中條景長...豊田市の挙母城(七州城)

    地域タグ:豊田市

  • 日限地蔵尊(浜松市元城町)

    浜松城向かいの元城町東照宮の鳥居から東へ坂を下ったところに日限地蔵尊が祀られているお堂があります。日限地蔵(ひぎりじぞう)は日本各地に存在する「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。この地蔵尊は江戸時代の文政年間(1818〜1830年)浜松宿田町で呉服屋を営んでいた小野江家に祀られていたものだとされている。現在の場所に移された明治初年から、既に日限地蔵に対する信仰は広がり、心願成就の仏様として平成の現在でも地域信仰は厚い。太平洋戦争中、浜松市は米軍の焼夷弾や艦砲射撃の戦禍に見舞われたが、不思議な事に地蔵尊の境内には一発の弾も落ちなかった。このため、境内に避難していた市民は全員助かったといわれている。そうした霊験が人伝えに語り継がれ、元城の日限地蔵の今日を迎えている。(「Do!はまま...日限地蔵尊(浜松市元城町)

    地域タグ:中区

  • 了運寺(知立市)

    知立神社に向かう途中、この門に惹かれて立ち寄りました。了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊として開かれたのが始まりと伝えられています。元は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し、了運寺と改めました。明治の廃仏毀釈運動により、神宮寺であった総持寺が廃寺になると、多くの仏像が了運寺に移され、後に総持寺が再興されると戻されたそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  了運寺(知立市)

    地域タグ:知立市

  • 岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

    大林寺の墓所には、松平氏入城以前の岡崎城主・西郷頼嗣、信貞の墓などもあります。西郷頼嗣の墓初代岡崎城主次第に松平氏に圧迫されその姻戚(頼嗣は松平信光の子松平光重(大草(岡崎)松平家初代)を婿とする)となり屈服した。(Wikipediaより)西郷信貞の墓4代・岡崎城主大草松平家初代当主・松平光重の子とするのが一般的であるが(『寛政重修諸家譜』など)、実父は西郷弾正左衛門頼嗣であるとも言われ、それゆえ西郷信貞として呼ばれることがある。兄・親貞の後を継いで同家の3代当主となり、岡崎城(明大寺旧城)を居所として、岡崎市南部および大草城(愛知県幸田町北部)を支配したと考えられる[4]。大永4年(1524年)に松平清康による山中城(岡崎市舞木町城山)への攻撃を受け、岡崎城とその所領を明け渡した。山中城攻略は大久保忠茂...岡崎の大林寺(2)岡崎城主と赤穂浪士の墓

    地域タグ:岡崎市

  • 岡崎の大林寺(1)松平廟

    岡崎の大林寺は、明応2年(1493)、松平光重が天盈良倪(てんえいりょうげい)を開山として明大寺に創建、当初は光林寺と称していました。享禄3年(1530)、徳川家康の祖父・松平清康の命で現在地の岡崎城の北に位置する魚町に移転されました。天文4年(1535)12月、清康は尾張の守山城で変死し、遺骸は随念寺で荼毘にふされました。清康の夫人・春姫(西郷信貞の娘)は尼となり、天文17年(1548)2月、大林寺にて死去。天文18年(1549)、清康の子で、家康の父・松平広忠も若くして亡くなります。松平氏は織田氏・今川氏への影響を恐れ、ひそかに遺骸を大林寺に移し、能見村に葬り、清康、広忠、春姫の霊廟が本寺に置かれることとなりました。境内の一角に「松平廟」があり、松平清康、広忠、清康夫人・春姫の墓が並んでいます。それら...岡崎の大林寺(1)松平廟

    地域タグ:岡崎市

  • 殿橋(岡崎市)

    岡崎の中心部を流れる乙川には、3本の橋が架けられています。上流から明代橋、桜城橋、殿橋の順に設置されています。中でも、殿橋は、徳川家康ゆかりの岡崎城の上流に位置し、昭和2年(1927)の竣工時から当時の意匠をほぼ残したまま現在に至るまで現役で存在している橋で、御影石造りの大きな親柱が特徴的です。歴史を遡ると、旧橋は、正保2年(1645)、岡崎藩主・水野忠善が藩主のころ完成しました。当時は「菅生橋」と呼ばれ、後に「殿橋」と呼ばれるようになり、現在地より100メートルほど下流にあったそうです。今では、毎年、3~4月に開催される桜まつりや、8月の第一土曜日に開催される「岡崎観光夏まつり花火大会」はこの橋のたもとで行われています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング殿橋(岡崎市)

    地域タグ:岡崎市

  • 小豆坂古戦場跡(岡崎市)

    岡崎市戸崎町の小豆坂古戦場跡は、尾張の織田信秀と駿河の今川義元が2度にわたり激戦を繰り広げた舞台です。永禄7年(1564)には土呂・針崎の三河一向一揆と徳川家康との戦場になりました。槍立松、血洗い池などから当時を偲ぶことができます。史跡小豆坂古戦場跡355平方メートル徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川氏、西の織田氏にはさまれ、たびたび戦火にみまわれた。三河を統一した松平清康(家康の祖父)が天文4年(1535)尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、尾張の織田信秀(信長の父)は、安城を拠点に矢作川東岸部への進出をはかった。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢を生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢とこの小豆坂で戦った。この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小...小豆坂古戦場跡(岡崎市)

    地域タグ:岡崎市

  • 臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

    臨済寺の境内墓地の最上段には、今川氏輝や太原雪斎の墓の他、徳川家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓があります。今川氏輝の墓今川氏輝今川氏親の長男,母は中御門宣胤の娘(寿桂尼)。幼名竜王丸,通称は五郎。大永5(1525)年,元服して氏輝と名乗り,翌年,父の死によって家督を継ぐが,14歳という若さのため実際の国政は母の寿桂尼が執り,氏輝の文書発給がみられるのは,それから2年後の同8年3月からである。天文1(1532)年あたりから独自の領国支配がみられ,江尻湊の振興をはかる経済政策,検地の施行,さらに御馬廻衆の創設などに取りくみ,甲斐の武田信虎と戦ったりしているが,同5年3月17日,24歳の若さで突然没した。同日,すぐ下の弟彦五郎も没しており,駿府今川館において何らかの異変が起こった...臨済寺の春の特別公開(7)今川氏輝・太原雪斎の墓

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(6)今川神廟 今川義元の首塚

    茶室の次は、登ってきた階段を降りて「今川神廟」に向かいました。こちらは、今川義元と氏輝の廟で、2018年5月に落慶法要が行われました。以前は、現在建っている場所よりも後ろに建っていましたが、義元公の功績を評価し、偉人に相応しい立派なものをというご住職の考えで、本堂へ向かう歩道沿いに再建されたそうです。優美な曲線を描き、大きく軒を伸ばした屋根が特徴の優美な建物です。中には石塔と位牌があります。左側の大きな石塔は今川義元公、右側の小さな石塔は、今川氏輝公のもの。今川義元の石塔(首塚)桶狭間の戦いで、織田方に討ち取られた義元公の首級は、重臣・岡部元信と織田信長との交渉により後に返還され、駿河の菩提寺であった天澤寺に葬られましたが、天澤寺の衰退後、臨済寺に移されました。一方、胴体は腐敗が激しく、駿河に戻り途中、豊...臨済寺の春の特別公開(6)今川神廟今川義元の首塚

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(5)茶室「夢想庵」

    臨済寺の伽藍の最上部にある茶室「夢想庵」へこの渡り廊下を上って行きます。茶室には、一度に大人数が入れない為、書院にて人数制限が行われてからの移動となりました。茶室内部夢想庵からは、美しい庭園や遠く静岡の街並みを一望できます。この日は大雨でしたので、ぼんやりとした写真しか撮れませんでしたが、晴れた日ならもっと素晴らしい景色を見られるのでしょうね。次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(5)茶室「夢想庵」

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(4)

    一階の見学を終え、二階へ上がって行くと、竹千代手習いの間があります。人質として臨済寺で過ごした幼少期の徳川家康・竹千代が勉強した部屋が再現されています。小さな和室に机と座布団が置かれ、天井には、立派な龍が描かれています。この部屋の周りには、徳川・今川ゆかりの品が展示されています。榊原康政寄進の鉄山釜太原雪斎使用の陣中袈裟春日局所持の団扇徳川家伝来の硯箱竹千代使用の硯家康公御真影次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング臨済寺の春の特別公開(4)

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開(3)

    臨済寺の本堂の見学の続きをお届けします。大岩地蔵太原雪斎の肖像画この奥には、ご本尊の釈迦如来像と、今川家の位牌が並んでいます。釈迦如来像と日光月光菩薩今川家、徳川家の位牌今川義元の像臨済寺庭園臨済寺の庭園は、昭和11年(1936)に国の名勝に指定されています。次は二階へと進んで行きます。  ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  臨済寺の春の特別公開(3)

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  • 臨済寺の春の特別公開(2)

    続いて臨済寺の開山堂です。臨済寺を開山した大休宗休禅師の像大休宗休の弟子で、臨済寺の2代目住持の太原雪斎の像次の部屋へと進んで行きます。山門と同様、徳川慶喜による『大龍山』の書今川義元・氏輝像今川義元の像今川氏輝の像摩利支天像ふと外を見たら、「今川さん」が軒先で佇んでいました(^0^;)「雨止まないかな~」って言ってた様子(^^ゞ次に続くブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  臨済寺の春の特別公開(2)

    地域タグ:静岡市

  • 臨済寺の春の特別公開

    天文24年(1555年)3月、徳川家康は、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜って次郎三郎元信と名乗り、今川義元の姪で、関口親永の娘・瀬名(築山殿)を娶りました。静岡市葵区大岩町にある臨済寺は、今川家の菩提寺で賤機(しずはた)山の山麓にあり、家康が幼少時に今川家の人質として過ごし、太原雪斎の教育を受けた寺として知られています。享禄年間(1528~32)今川義元が建立、初め善得院と称しましたが、1536年(天文5)住職・太原雪斎は、後奈良天皇の師にあたる大休宗休を開山として臨済寺と改称し、雪斎自らが2代目の住持となりました。雪斎は、当寺を駿河の勅願寺に昇格させた上、今川領国内に臨済宗を広げ、寺勢は興隆しました。また雪斎は、当寺の住持であると同時に、軍師として今川氏を補佐しました。 先月のことですが...臨済寺の春の特別公開

    地域タグ:静岡市

  • 家康の「しかみ像」に新説が!

    誰もが一度は見たことの「しかみ像」『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(徳川美術館所蔵)は、顔をしかめ憔悴したような表情に描かれていることから、『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれ、徳川家康が三方ヶ原の戦いで敗れた姿を描かせ、慢心の戒めにした家康の肖像画の一つとされてきましたが、近年の研究では、それが否定されています。しかみ像を所蔵する徳川美術館の調査によると、「台帳記録では、しかみ像は紀伊徳川家から嫁いだ従姫よりひめの所持品とあり、尾張徳川家9代宗睦(むねちか)の養子、治行(はるゆき)と1780年に結婚した際に持参したとみられる。記録に「東照宮尊影」とあり、家康像と伝えられてきたが、戦いの記述はなかった。」とのこと。Wikipediaによると、「本図は18世紀の終り頃に紀州徳川家から尾張徳川家に伝来し、当時は「家康...家康の「しかみ像」に新説が!

  • 「家康伝承と浜松」展

    浜松市博物館で開催中の「家康伝承と浜松」展。浜松城や北遠の城の出土遺物や三方ヶ原の戦いの布陣図、後世における徳川家康の由緒や伝承を記した古文書や書籍、三方ヶ原の戦いを描いた絵、徳川家康ゆかりの食品にまつわる資料等が展示されています。武田家禁制三ヶ年の鬱憤三方ヶ原の戦いに関わる武田信玄書状を期間限定で展示されています。~5月28日(日)(期間限定)三方ヶ原の戦い(元亀3年(1572)12月22日)の直前の同年10月21日、遠江に進軍してきた武田信玄が三河国の国衆の奥平道紋に宛てた書状。浜松に向かい徳川家康と戦い「三ヶ年の鬱憤」を晴らすと表明しています。個人の方からお借りしている資料であるため、実際に見ることができる機会が少ない貴重な資料なのだそう。武田信玄書状三方ヶ原の布陣図三方原絵図遠州味方ヶ原合戦図天竜...「家康伝承と浜松」展

  • 三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台

    浜松まつりの夜には、豪華絢爛な御殿屋台の引き回しが行われます。三方原南の御殿屋台の彫刻には、三方ヶ原の合戦での家康と信玄が彫られているそうです。一昨日撮影したのは、屋台の背後からでしたので、正面の彫り物が写っていませんでしたが(^0^;)2022年5月の中日新聞によると、北区三方原南町の「三南(さんなん)組」は、2015年に新築し、16年から引き回しに参加していたが、彫師の体調不良のため、屋台の上部と下部の一部彫刻が未完成となっていたが、2022年4月中旬に新しく彫刻が完成した。屋台は幅三・六メートル、長さ五・一メートル、高さ五・一メートルで主にケヤキ造り。前面の下部には、徳川家康がこよなく愛したとされる霊獣の獏(ばく)が新しく彫られた。獏は金属を食べるため、金属が武器にされる戦時中は生きられず、平和を好...三方ヶ原の合戦に纏わる御殿屋台

  • 小豆餅と銭取

    浜松には、徳川家康と武田信玄との三方ヶ原の合戦ゆかりのお菓子があります。御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。「あおい」の小豆餅銭取の由来によると「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ余り追いかけ、とうとう家康から銭を取ったとのことです。この時、餅を食べたところを「小豆餅」銭を取ったところを「銭取」という地名になったと言われ、浜松の一角に小豆餅、銭取として遠州バスの上り、下りのバス停として残っています。」Wikipediaによると「徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に敗れた際、敗走の途中でこの近辺の茶屋で小豆餅を...小豆餅と銭取

  • 商売繁盛・芸能の神様の黒田稲荷(浜松市)

    浜松駅から徒歩5分、鍛治町の有楽街の南側の入り口を入ると、すぐ左手に真っ赤な鳥居が見えてきます。黒田稲荷は、豊受大神を御神体とし、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全の神として、教興寺の末寺・浄教寺の妙円尼が境内にお祀りしたのが始まりととされ、明治時代になり、廃藩置県で廃寺となりましたが、町の人々の熱心な信仰心によりお稲荷様だけが残されています。五穀豊穣、商売繁盛のほか、芸能事にもご利益があるといい、祠の脇には、都はるみさんのサイン入りの「アンコ椿は恋の花」と書かれた巨大絵馬が飾られています。これには、ちょっとしたエピソードが残されています。浜松で開かれることになっていた都はるみさんのコンサートのポスターが、黒田稲荷の脇の電柱に貼ってあるのを見た売れない呉服商が、黒田稲荷を参拝後、都さんに直接着物を売りに行き、都...商売繁盛・芸能の神様の黒田稲荷(浜松市)

  • 沼八幡宮(浜松市)

    浜松市浜北区沼の沼八幡宮浜北駅から徒歩数分のところにあります。沼八幡宮は、徳川家康の家臣で戦功のあった太田沼之助が、隠居して家康に与えられたlの土地を開墾し、1586(天正14)年、京都の岩清水八幡宮から御霊分けをしてこの場所に鎮座した神社です。「沼」と名がつく神社は初めて聞いたのですが、この沼八幡宮は、沼之助自身の名前から「沼新田村」とつけたのが由来だそうです。名前に「沼」がつくのも珍しいと思いますが(^_^;)そもそも沼之助は、浜松城下に住み、彼の屋敷に通ずる小路は「沼殿小路」と呼ばれていたそうです。その小路の名は、飯尾豊前守連龍が曳馬城主だった頃、家老の江馬安芸守泰顕の屋敷の脇道が、江馬殿小路、沼殿小路と呼ばれていたとか・・・境内には春の訪れが(*^。^*)神社の名前の由来からいろんなことを知りまし...沼八幡宮(浜松市)

  • 徳川秀忠誕生の井(浜松市)

    徳川秀忠は、徳川家康の三男として、遠江国(静岡県)浜松に生まれました。幼名は長丸。のち竹千代。母は側室の西郷局。彼女は、浜松城に奉公に出て、家康の目に止まり、二代将軍の秀忠を生みました。同母弟は、四男松平忠吉。長兄・松平信康は秀忠の生まれた年に自害、次兄の秀康は、秀吉の養子に出され、のちに結城秀康となったため、また母親が三河の名家であるということもあり、秀忠が、実質的な世子となりました。天正18年(1590年)には上洛し、秀吉の養女で、織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げましたが、秀吉と信雄が仲違いして、信雄が除封されたことにより離縁となります。そして、文禄4年(1595年)9月、秀吉養女のお江と再婚することになります。その秀忠が産湯をつかったと伝えられる井戸跡の徳川秀忠誕生の井戸が浜松市常盤町にあり...徳川秀忠誕生の井(浜松市)

  • 松尾神社(浜松市)

    浜松市中区元魚町に鎮座する松尾神社和銅年間(708〜715年)の創建で、当初は浜松神社と呼ばれていたそうです。徳川家康が引間城を拡張した折、城内にあった鎮守神の松尾神社を移転、合祀して社名も松尾神社と改め、以後、浜松城主の祈願所として歴代の城主が帰依するようになりました。祭神は徳川家康をはじめ、白鬚神、大山咋神、厳島姫神で、特に白鬚神は浜松の土産神として人々の崇敬を集め、八方除けの守護神として災難除けにご加護があるといわれています。御祭神:白鬚大神・大山咋神・厳島姫神例祭日:六月十五日前の土曜日由緒当社は和銅年間の創建で、浜松神社と言い、白鬚大神を主神として奉斎する浜松の総社であります。猿田彦神とも言われ、八方除け・寿命守護の神さまとして、遠く三河地方まで崇敬が及んでいます。その後天正五年浜松城内の守護神...松尾神社(浜松市)

  • 本多忠勝の屋敷跡(浜松市)

    分器稲荷神社付近には、本多忠勝の屋敷跡の標柱がたっています。本多忠勝酒井忠次,榊原康政,井伊直政とともに徳川四天王と呼ばれ,徳川氏譜代家臣団の最上層を形成した。父は忠高,母は植村新六郎氏義の女。幼名鍋之助,通称平八郎。1560年(永禄3)尾張大高城の兵糧入れが初陣。武功により頭角をあらわし,66年寄騎(よりき)50人余を付属された。以後武田信玄との諸戦で勇戦し,信玄の近習小杉左近はその武勇を〈家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八〉とうたったという。(コトバンクより)ブログランキングの応援よろしくお願いします😄 にほんブログ村 神社・仏閣ランキング 本多忠勝の屋敷跡(浜松市)

  • 遠江分器稲荷神社(浜松市)

    浜松市中区に鎮座する分器稲荷神社は、田町の氏神社とされ、永禄11年(1568年)2月に創建されたと伝えられています。「分器」は、引馬宿南端の境界を示した「分木」が由来であるという説があります。辺りには、尺貫法の元締めとなる役人の住居があったそうです。社伝によれば、古くは、許免社と呼ばれ、(許免とは「コメ」と訓み、米の意味)分器宇賀大神とも称し、約1500年前の22代・清寧天皇の御代に天竜河の開墾のために勧請されたともされています。慶長9年(1604)2月、徳川家康の命により本殿を修造。明治7年には、三組町の秋葉神社に合祀されましたが、明治11年6月に再興が許されています。昭和20年6月、空襲により焼失。昭和31年に本殿、同32年に拝殿が再建されました。拝殿本殿境内には、様々な狐の象があります。黄金の狐像神...遠江分器稲荷神社(浜松市)

  • 五社神社・諏訪神社

    浜松城から歩くこと10分。五社神社・諏訪神社があります。昭和35年(1960)、隣接して鎮座していた五社神社と諏訪神社を合祀し、五社神社・諏訪神社となりました。両社ともに徳川2代将軍徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として徳川家の崇敬を受け、子守り、子育ての神としての信仰されています。五社神社五社神社は、太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になったそうです。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものとされています。相殿に応神天皇、徳川家康を祀り、菅原道真、大鷦鷯尊、稲倉魂命、大日女命、素戔嗚命を合祀しています。浜松城の前身である曳馬城主・久野越中守が城内に創建したのに始まるといわれています。後に家康が浜...五社神社・諏訪神社

  • 心造寺(浜松市)

    浜松の心造寺は、徳川家康が、1580(天正8)年7月に徳川秀忠の産土神(うぶすながみ)として五社神社を浜松城内から常寒山(とこさむやま)へと移し、その北側の隣接地に開いたお寺です。開山は讃誉智眼(さんよちげん)上人、開基は秀忠の母である西郷局。西郷局が奉納した鉄灯篭は、戦災で片方が失われ、現在は1つだけ残されています。西郷局(さいごうのつぼね)父は戸塚忠春。通称はお愛の方。徳川家康の側室であり、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠、松平忠吉の生母として知られている。院号は宝台院。1758(宝暦8)年に完成した七間四面の本堂は1771(明和8)年に全焼、1775(安永4)年に同じ七間四面の本堂が再建されました。しかし、1945(昭和20)年6月の太平洋戦争中に空襲を受け焼失してしまい、現在の建物は1951(昭和26...心造寺(浜松市)

  • 法雲寺(浜松市)

    浜松市中区高町の法雲寺は臨済宗妙心寺派の寺院です。高町の坂の途中にあり、坂の途中にあり、モダンな建物です。公式HPによると、明治43年安寧寺末の小庵、正法庵・耕雲庵が合併し、両庵の法と雲をとり法雲寺となりました。正法庵・耕雲庵ともに記録が残っておらず、開創年代・開山禅師の略歴などは不明とされています。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング法雲寺(浜松市)

  • 新年のご挨拶

    昨年も当ブログへの訪問ありがとうございました。今年もよろしくお願いしますm(__)mブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング新年のご挨拶

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