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2013/09/04

しずかさんの人気ランキング

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  • 焼津市の徳川家康ゆかりの地(1)焼津神社

    焼津市の徳川家康ゆかりの地(1)焼津神社

    静岡県焼津市に鎮座する焼津神社の創建は反正天皇4年(西暦409年)と伝えられています。日本武尊を焼津の守神としてお祀りをしたのが焼津神社のはじまりです。焼津神社付近では、古墳時代の集落跡という1,600年程昔の宮之腰遺跡が存在し、古くから人々が居住したことが知られています。室町時代に今川氏が駿河の国を治めていた頃、この地域は「入江荘(いりえのしょう)」とも呼ばれ、焼津神社はその地名から「入江大明神」とも称されてきました。境内にある江戸時代の灯籠には「入江大明神廣前」の文字が彫られています。今川氏や徳川家などの武家の信仰も厚く、また焼津地域の人々や漁業関係者から崇められています。現在の本殿は慶長8年(1603年)、徳川家康によって建てられたものです。家康は田中城を出て焼津の浜から出港し、久能山で鷹狩に勤しん...焼津市の徳川家康ゆかりの地(1)焼津神社

    地域タグ:焼津市

  • 砥鹿神社里宮(2)

    砥鹿神社里宮(2)

    里宮拝殿砥鹿神社は、本宮山に1300年以上前から鎮まる神を祀る奥宮と、里にて祀る里宮とで二所一体の崇敬を集める神社であり、また三河国内の筆頭神社一之宮です。里宮の社殿は伝統的木造建築の檜造りです。さざれ石開運石(かいうんせき)、子産石(こうみいし)とも云い、開運や安産、子授けのご利益がございます。全国にあるさざれ石の中でもとても大きく、高さ2.6m、横幅3.4mの日本一のさざれ石になります。ケヤキ手水舎表神門正面にある拝殿に繋がる表神門太鼓楼津守神社(つもりじんじゃ)祭神:田裳見宿彌(たもみのすくね)※10月第2日曜に例祭を斎行。同日氏子秋祭りが本社で斎行され、当社まで子供御輿が巡幸する。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング砥鹿神社里宮(2)

    地域タグ:豊川市

  • 砥鹿神社里宮(1)

    砥鹿神社里宮(1)

    JR飯田線「三河一宮」駅下車、徒歩約5分のところにある三河国一之宮砥鹿神社(とがじんじゃ)の歴史は1300年を遡り、古くから朝廷の崇敬篤く、平安時代には「延喜式内社」に列せられ、三河国の国司が国内神社に巡拝奉幣する筆頭神社「一之宮」となりました。 西参道大鳥居以前は本宮山砥鹿神社奥宮を遙拝するものとして、天保13年(西暦1842年)岡崎藩勘定奉行の長尾応二郎興達により旧宝飯郡市田村に建立されました。昭和20年(1945年)豊川海軍工廠への空襲時に損傷を受け、昭和31年(1956年)に国道151号線沿いに移築されました。鳥居には至る所に空爆の被弾痕が見られます。 本宮山の山頂に奥宮(豊川市上長山町本宮下)、山麓に里宮(豊川市一宮町西垣内)が鎮座しています。永禄年間には、付近に徳川家康の命を受けた本多信俊が一...砥鹿神社里宮(1)

    地域タグ:豊川市

  • 御津神社(みとじんじゃ)

    御津神社(みとじんじゃ)

    大恩寺を見学した後、すぐ隣りの御津神社にも立ち寄ってみました。御津神社(豊川市御津町)の創建は、西暦以前に遡るといわれ、あまりにも古く記録がないため不詳なのだそうです。祭神は大国主命。古代穂国の港の地として栄えた御津町に古くから鎮座して、当時は港湾や船舶守護の神社として崇敬されて参拝されていたといわれています。境内の大楠は、神社のシンボルで、樹齢1,000年を超える老木です。御霊社天満社4月の第3日曜日には、その年の豊漁・安全祈願と鳥賊(いか)の供養のため鳥賊(いか)祭りが行われます。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村神社・仏閣ランキング御津神社(みとじんじゃ)

    地域タグ:豊川市

  • 徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

    徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

    念仏堂跡天文22年(1553年)の建立で、国の重要文化財に指定されていましたが、1994年に焼失。大恩寺念仏堂歴史天文22年(1553)牧野保成造立元禄10年(1697)移築大改修大正10十年(1921)国宝指定昭和25年(1950)国重文指定昭和28年(1953)解体復原平成6年(1994)焼失説明浄土宗御津山大恩寺は松平親忠の中興で徳川家、牛久保牧野家、為当竹本家、大塚岩瀬家等の崇敬が続いた。念仏堂の構造は桁行五間、梁間五間、一重入母屋造、檜皮葺で一間の逗子があった。特に内陣の厨子、須弥壇の形式彫刻等に見るべきものが多く、天井、長押等の絵画も見事で室町時代の秀作と言われた。平成八年八月御津山大恩寺本殿に向かって左手の道を墓地に向かう途中、牧野家、清廉夫婦、広忠、亀姫の墓があります。牧野家のお墓松平清康...徳川家康ゆかりの大恩寺(2)

    地域タグ:豊川市

  • 徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

    徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

    JR東海道本線「愛知御津駅」下車徒歩約15分のところにある大恩寺。豊川市観光協会HPによると、徳川家康が、何度も訪れたことがある場所と知って、昨年訪ねてみました。当時の住職、成誉上人(じょうよしょうにん)は家康の叔父に当たり、家康はその叔父に会いに訪れていたそうです。大恩寺の創建については、推古天皇の時代(593~628)、三論宗の布教のために高句麗から訪れていた僧の恵灌(えかん)が、御津山の約2㌔北東に位置する新宮山に「浄光院」を建立したのが始まりとされています。それから約700年後の1444年、浄土宗を広めるためにこの地を訪れた茨城県の「弘経寺」(ぐぎょうじ)の僧侶、了暁(りょうぎょう)が、当時荒れ果ててしまっていた寺を再興。浄土宗大運寺を開きました。1490年、寺は松平家(のちの徳川家)の4代・松平...徳川家康ゆかりの大恩寺(1)

    地域タグ:豊川市

  • 蒲郡の竹島 八百富神社(2)

    蒲郡の竹島 八百富神社(2)

    八百富神社と徳川家との関係は深く、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの前には徳川家康が参拝し、その後朱印4石8斗を寄進したといわれています。また、家康が会津の上杉征伐に向かう途中、船で竹島に着き、郷土である内田弥右衛門義隆が蜻蛉貝や鯛二匹を献上したという記録があり、その際縁起が良いと喜んだそうです。八百富神社八安徳天皇の養和元年(1181年)に、藤原俊成によって創建されたと伝えられています。ご祭神は天照大神が剣を折って霧を出した時に現われたと言われている市杵島姫命で、開運・安産・縁結の神として知られ、江の島・竹生島・厳島と共に、日本七弁天の中に挙げられています。八大龍神社/祭神豊玉彦命藤原俊成の夢に、「永く竹島に遷りて諸人に幸福を与えん」(竹島に長く留まり、全ての人々に幸福を与えなさい)という宣託があり、...蒲郡の竹島八百富神社(2)

  • 蒲郡の竹島 八百富神社(1)

    蒲郡の竹島 八百富神社(1)

    数年前のこと、愛知県蒲郡の八百富神社を参拝しました。1181年(養和元年)三河国国司である藤原俊成が、竹生島より勧請し創建したといいます。「竹島弁天」ともいい、日本七弁天の一つとされています。蒲郡市沖の三河湾にある竹島に鎮座し、竹島全域が八百富神社の境内です。潮干狩りをする人たちの姿も見られました。さあ、この急な階段をのぼって行きます。宇賀神社/祭神宇迦之御魂神宇迦之御魂神は食物を主宰する神様です。当社は昔三河守源範頼の信仰が厚い神社でした。一時は、国府村に遷座されていましたが、享保10年(1725)国府村や竹島の神主が「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより、宇賀神社は竹島に戻されることになり、国府の人々は八尾登美神社の崇敬者となりました。大黒神社/祭神大国主命大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、...蒲郡の竹島八百富神社(1)

    地域タグ:蒲郡市

  • 岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    龍海院の本堂裏手の墓所には、酒井正親墓のほか、松平広忠後室・真喜姫(田原御前)の墓など、家康ゆかりの方の墓が祀られています。松平清康の墓徳川家康の祖父。信忠の子。大永3(1523)年13歳で家督を継ぎ,翌年西郷弾正左衛門尉信貞を攻めて安祥(安城)から岡崎に入り,次いで西三河を平定。享禄2(29)年牧野伝蔵ら4人兄弟のこもる吉田城を攻め落し,田原に押寄せて東三河も手中に収めた。その後,今川氏に属し天文2(33)年三河に進出した信濃の兵と井田野で戦ってこれを敗走させた。同4年12月織田信秀を討つため尾張森山に陣をしいたが,家臣阿部弥七郎の誤解から不慮の死をとげた。この事件は一般に「森山崩れ」と呼ばれている。(コトバンクより)酒井雅楽頭正親の墓清康、広忠、家康の3代に仕えた家臣。建立の際、清康が改宗を希望しまし...岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    地域タグ:岡崎市

  • 岡崎の龍海院(1)是之字寺

    岡崎の龍海院(1)是之字寺

    東岡崎駅から徒歩3分、駅の近くに建つ龍海院は、享禄3年(1530年)6月、模外惟俊を開山として、徳川家康の祖父・松平清康が創建し、武運長久の祈願寺としました。家康の父・松平広忠によって再興された岡崎市内の龍渓院が山の近くにあるのに対して、当寺は海側にあるので、龍海院と名付けられたと言われています。通称「是之字寺(ぜのじでら)」といい、山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「是」の文字があります。清康が20歳の時、元旦の初夢に左手に「是の字」を握る夢を見たので、これを模外和尚に占わせたところ「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。それを聞いた清康は、模外禅師を初代として龍海院を建立。その...岡崎の龍海院(1)是之字寺

    地域タグ:岡崎市

  • 聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。豊臣秀勝没年:天正13.12.10(1586.1.29)生年:生年不詳安土桃山時代の武将。織田信長の4男で,羽柴(豊臣)秀吉の養子。通称於次。生年は定かではないが,天正10(1582)年の秀吉書状に於次は「十五六」とあることから永禄11(1568)年ごろの誕生と思われる。養子となったのは天正5,6年であろう。当初は長浜城の留守にあったが,同10年3月以降は秀吉と共に中国地方を転戦し,山崎の戦にも従軍。秀吉が大徳寺で行った信長の葬礼では秀吉と共に喪主を務めた。同年10月丹波亀山城主となり従五位下丹波守に叙任,次いで正四位侍従。同11年の賤ケ岳の戦,翌12年の小牧・長...聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    地域タグ:京都市

  • 鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    では、薬王寺の境内を散策してみましょう。鐘楼祈珠之塚と叶水(かのうすい)さしのべさんは、この祈珠之塚の後ろ側にあるのですが、写っていませんでした(:_;)さしのべさん(本名毒消し薬王菩薩)長くさしのべた右手・・・苦悩する人々を抱きしめ救済しようとされるお姿つま先を立てた左足・・・すぐにでも傍に駆けつけ寄り添おうとされるお姿お姿の通り薬壷を持たれるさしのべさんは、皆様の悩みや苦しみを引き受けて下さる菩薩様です。【縁起】徳川家・蒲生家とゆかりの深かった当山は元禄時代、三代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長公の奥方の寄進により三千坪の敷地を擁し、一般民衆が参詣できない格式の高いお寺でしたが、当時その一隅に誰もがお参りできる、手を長く伸ばし足をつま先立て薬壷を持った、毒消し薬王菩薩様がおわしまし、「さしのべさ...鎌倉の薬王寺(2)鐘楼~観音堂

    地域タグ:鎌倉市

  • 鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    鎌倉市扇ヶ谷にある薬王寺は、かつては、梅嶺山夜光寺と称し、真言宗の寺院でしたが、1293年(永仁元年)日蓮の弟子日像により、日蓮宗に改宗しました。日達聖人は、有力な外護者の援助を得て、七堂伽藍完備の立派な寺院とし、山号寺号を大乗山薬王寺と改称。寛永年間、駿河大納言徳川忠長の追善供養の為、奥方松孝院殿(織田信長の孫/信良の娘)は莫大な金子と広大な土地を寄進し、三千坪の境内に諸堂を造営し、大乗山薬王寺と改称。1720年(享保5年)の火災で、五重塔(徳川忠長供養塔)など諸堂を焼失。山門をくぐると本堂が見えて来ます。 もとは真言宗梅嶺山夜光寺と称していました。日像上人(日蓮の孫弟子)が住職と論難の末、日蓮宗に改宗させ、薬王寺に改称したと伝えられています。 徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長公の供養塔や、松山城主...鎌倉の薬王寺(1)徳川忠長の供養塔

    地域タグ:鎌倉市

  • 家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    鎌倉市扇ガ谷にある英勝寺は、鎌倉唯一の尼寺です。寺域は、開基英勝院尼の祖先であり、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌邸跡とされています。太田道灌4代の太田康資の娘とされるお勝の方は、徳川家康の側室です。家康との間に生まれた市姫が幼くして亡くなった後、家康の命により、後に初代水戸藩主となった徳川頼房の養母を務めました。家康の死後は落飾して英勝院と称し、3代将軍・家光より扇ガ谷の地を賜り、英勝寺を創建しました。第一世庵主は頼房の娘・小良姫(清因尼)で、以降は水戸徳川家のお姫さまが庵主を務めました。そのため水戸様の尼寺と称され、法要に際しては徳川将軍菩提寺の増上寺などから僧が派遣されました。1923年の関東大震災で倒壊した山門は市内の他所に移されていましたが、2011(平成23)年に境内の元の場所に再建されました...家康の側室・英勝院ゆかりの英勝寺

    地域タグ:鎌倉市

  • 小野小町双紙洗水遺跡

    小野小町双紙洗水遺跡

    一条戻り橋から東へ90m。南北に伸びる道を小町通といいます。一条通堀川東入二筋目西北角に「小野小町双紙洗水遺跡」の石碑があります。かなり背の低い石碑な上、植木に隠れていたので、場所がわからず、何度も通り過ぎてしまいまました(..;)正面には「小町通」、側面に「小野小町双紙洗水遺跡」の文字が刻まれています。かつてこの地で、小野小町と大伴黒主との歌合せが行われました。狩野探幽『三十六歌仙額』対戦相手の大友黒主は、小町相手には勝ち目がないと思い、前日小町の邸に忍び込んで、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きします。そして、小町が歌を記した草紙に加筆し、『万葉集』を盗作したように見せかけました。しかし、小町が庭の井戸水で草子を洗うと、後から書き加えた歌の文字が流れ消えたといいます。小町が草紙を洗った井戸がこの辺りと...小野小町双紙洗水遺跡

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  • 数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    京都市上京区の堀川に架けられている一条通の一条戻り橋は、数々の残酷な歴史の舞台にとなってきました。戦国時代には、細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎が鋸挽きにされました。和田新五郎(わだしんごろう、生年不明-天文13年8月11日(1544年8月29日))は、戦国時代の武士。三好長慶の被官。新五郎は室町幕府12代将軍である足利義晴の嫡男・足利菊童丸の侍女と「不義密通」していたことを咎められ、天文13年(1544年)、一条戻橋で「鋸引き」の刑で処刑された。最初の鋸で両腕を切り落とされ、その後頸を斬り落とされたという。山科言継曰く、「前代未聞」の残忍な処刑方法だったという。また侍女の方も洛中を裸体で引き廻された後六条河原で処刑された。処刑は足利義晴及び細川晴元による主導で行われた。この事件は長慶の面目を丸潰し...数々の歴史の舞台となった一条戻り橋

    地域タグ:京都市

  • 聚楽城 加藤清正邸跡

    聚楽城 加藤清正邸跡

    京都の一条戻橋から東へ50mほど行ったところに、聚楽城加藤清正邸の案内板があります。Googleマップで、偶然見つけました。豊臣秀吉が京都に築いた聚楽第において加藤清正の屋敷があったとされる場所です。「聚楽亭」と書くことがあり,「じゅらくのてい」とも読み,「聚楽城」とも称する。天正13(1585)年関白に就任した豊臣秀吉が,京都内野の大内裏跡に建てた邸宅。同14年春に着工し,翌年9月完成した。秀吉隆昌期の所産で,四周を濠塁で囲み,このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示したといわれ,同16年4月には後陽成天皇の行幸を仰いでいる(→聚楽行幸記)。同19年12月関白を養子秀次(→豊臣秀次)に譲り,聚楽第も秀次の居所となったが,文禄4(95)年7月秀次を高野山へ追って自殺させ,その8月聚楽第も秀吉の命で破壊された...聚楽城加藤清正邸跡

    地域タグ:京都市

  • 豊田市の挙母城(七州城)

    豊田市の挙母城(七州城)

    愛知県豊田市小坂本町付近にあった「拳母城」(ころもじょう)は、江戸時代の1782年(天明2年)に築城されました。三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城とも(しちしゅうじょう)とも呼ばれました。こ拳母城には天守閣はなく、藩主が居住する御殿を中心に、侍屋敷などが設置され、1787年(天明7年)には拳母藩の藩校「崇化館」(そうかかん)が設立されました。明治時代に廃城となりましたが、1978年(昭和53年)には、絵図をもとに隅櫓が復元され、隅櫓に隣接して「又日亭」(ゆうじつてい)という書院と茶室が設けられました。現在は本丸跡が豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されており、櫓台の石垣が残っています。又日亭挙母城の起源となった金谷城は、鎌倉時代の1309年に中條景長...豊田市の挙母城(七州城)

    地域タグ:豊田市

  • 日限地蔵尊(浜松市元城町)

    日限地蔵尊(浜松市元城町)

    浜松城向かいの元城町東照宮の鳥居から東へ坂を下ったところに日限地蔵尊が祀られているお堂があります。日限地蔵(ひぎりじぞう)は日本各地に存在する「日を限って祈願すると願いが叶えられる」といわれる地蔵菩薩です。この地蔵尊は江戸時代の文政年間(1818〜1830年)浜松宿田町で呉服屋を営んでいた小野江家に祀られていたものだとされている。現在の場所に移された明治初年から、既に日限地蔵に対する信仰は広がり、心願成就の仏様として平成の現在でも地域信仰は厚い。太平洋戦争中、浜松市は米軍の焼夷弾や艦砲射撃の戦禍に見舞われたが、不思議な事に地蔵尊の境内には一発の弾も落ちなかった。このため、境内に避難していた市民は全員助かったといわれている。そうした霊験が人伝えに語り継がれ、元城の日限地蔵の今日を迎えている。(「Do!はまま...日限地蔵尊(浜松市元城町)

    地域タグ:中区

  • 了運寺(知立市)

    了運寺(知立市)

    知立神社に向かう途中、この門に惹かれて立ち寄りました。了運寺の創建は不詳ですが知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊として開かれたのが始まりと伝えられています。元は天台宗でしたが明応2年(1493)、浄林了運大和尚が浄土宗に改宗し、了運寺と改めました。明治の廃仏毀釈運動により、神宮寺であった総持寺が廃寺になると、多くの仏像が了運寺に移され、後に総持寺が再興されると戻されたそうです。ブログランキングの応援よろしくお願いします😄にほんブログ村 神社・仏閣ランキング  了運寺(知立市)

    地域タグ:知立市

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