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2013/09/04

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  • 蒲郡の竹島 八百富神社(1)

    数年前のこと、愛知県蒲郡の八百富神社を参拝しました。1181年(養和元年)三河国国司である藤原俊成が、竹生島より勧請し創建したといいます。「竹島弁天」ともいい、日本七弁天の一つとされています。蒲郡市沖の三河湾にある竹島に鎮座し、竹島全域が八百富神社の境内です。潮干狩りをする人たちの姿も見られました。さあ、この急な階段をのぼって行きます。宇賀神社/祭神宇迦之御魂神宇迦之御魂神は食物を主宰する神様です。当社は昔三河守源範頼の信仰が厚い神社でした。一時は、国府村に遷座されていましたが、享保10年(1725)国府村や竹島の神主が「竹島に帰りたい」という霊夢を見たことにより、宇賀神社は竹島に戻されることになり、国府の人々は八尾登美神社の崇敬者となりました。大黒神社/祭神大国主命大国主神は国土を平定し、土地を開拓し、...蒲郡の竹島八百富神社(1)

    地域タグ:蒲郡市

  • 岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    龍海院の本堂裏手の墓所には、酒井正親墓のほか、松平広忠後室・真喜姫(田原御前)の墓など、家康ゆかりの方の墓が祀られています。松平清康の墓徳川家康の祖父。信忠の子。大永3(1523)年13歳で家督を継ぎ,翌年西郷弾正左衛門尉信貞を攻めて安祥(安城)から岡崎に入り,次いで西三河を平定。享禄2(29)年牧野伝蔵ら4人兄弟のこもる吉田城を攻め落し,田原に押寄せて東三河も手中に収めた。その後,今川氏に属し天文2(33)年三河に進出した信濃の兵と井田野で戦ってこれを敗走させた。同4年12月織田信秀を討つため尾張森山に陣をしいたが,家臣阿部弥七郎の誤解から不慮の死をとげた。この事件は一般に「森山崩れ」と呼ばれている。(コトバンクより)酒井雅楽頭正親の墓清康、広忠、家康の3代に仕えた家臣。建立の際、清康が改宗を希望しまし...岡崎の龍海院(2)家康ゆかりの方の墓

    地域タグ:岡崎市

  • 岡崎の龍海院(1)是之字寺

    東岡崎駅から徒歩3分、駅の近くに建つ龍海院は、享禄3年(1530年)6月、模外惟俊を開山として、徳川家康の祖父・松平清康が創建し、武運長久の祈願寺としました。家康の父・松平広忠によって再興された岡崎市内の龍渓院が山の近くにあるのに対して、当寺は海側にあるので、龍海院と名付けられたと言われています。通称「是之字寺(ぜのじでら)」といい、山門や鐘撞き堂・灯籠など、境内のいたるところに「是」の文字があります。清康が20歳の時、元旦の初夢に左手に「是の字」を握る夢を見たので、これを模外和尚に占わせたところ「是の字を分けると、日の下の人となる。是の字を握るは天下を取ることなり。遅くとも、清康公の三代後までには、必ず、天下人が現れるであろう。」と予言しました。それを聞いた清康は、模外禅師を初代として龍海院を建立。その...岡崎の龍海院(1)是之字寺

    地域タグ:岡崎市

  • 聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    平安京大内裏の蘭林坊があったところ(上京区土屋町通出水上る東側)は、豊臣秀吉の聚楽第があった時代には、豊臣秀勝の邸宅があったと推定されています。豊臣秀勝没年:天正13.12.10(1586.1.29)生年:生年不詳安土桃山時代の武将。織田信長の4男で,羽柴(豊臣)秀吉の養子。通称於次。生年は定かではないが,天正10(1582)年の秀吉書状に於次は「十五六」とあることから永禄11(1568)年ごろの誕生と思われる。養子となったのは天正5,6年であろう。当初は長浜城の留守にあったが,同10年3月以降は秀吉と共に中国地方を転戦し,山崎の戦にも従軍。秀吉が大徳寺で行った信長の葬礼では秀吉と共に喪主を務めた。同年10月丹波亀山城主となり従五位下丹波守に叙任,次いで正四位侍従。同11年の賤ケ岳の戦,翌12年の小牧・長...聚楽城武家地豊臣秀勝邸跡伝承地(京都)

    地域タグ:京都市

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