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2021/07/05

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  • 片山城 美濃 その1 多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

    片山城は岐阜県揖斐郡池田町片山にあります。城主は不破河内守光治と推定されているが築城時期、目的などは明確ではないとされます。城郭遺構は東西≒250m、南北≒400mで城域には多数の城郭遺構がビッシリと残っていましたので山城見学が堪能できました。今回の参考資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第1集(西美濃・本巣郡)」岐阜県教育委員会(2)「岐阜の山城ベスト50を歩く」三宅唯美・中井均編2010(3)城ヶ谷7号墳・片山城跡:一般地方道大垣池田線道路改良工事に伴う緊急発掘調査報告書などです。城域が広く、遺構数も多いのでその1とその2に分けて掲載したいと思います。片山城片山から青墓に抜ける円興寺道を扼する城郭だったか円興寺は元円興寺に在った寺院のようですが信長の焼き討ちで焼亡、後に現在の位置に再建されたと...片山城美濃その1多数の城郭遺構がよく残る岐阜県下最大級の山城を堪能する

  • 井ノ口城 三河 額田郡一揆の拠点 その後の松平・徳川の発展のきっかけとなった

    井ノ口城は井ノ口砦ともいわれ愛知県岡崎市井ノ口町にあります。寛成六年(1465)三河国額田郡で反幕府・反守護のいわゆる「額田郡一揆」と呼ばれる蜂起事件が起こり、この地域で有力な大場氏、丸山氏、梁田氏などが井ノ口城を拠点として、京の幕府へ運ばれる年貢等を略奪したとされます。牧野氏、西郷氏によって井ノ口城は一旦は攻め落とされましたが、大将分のものは逃亡し狼藉を続けたと伝わります。幕府は改めて伊勢氏に命じて一揆の鎮圧を図り、政所執事の伊勢氏は配下の松平氏、戸田氏を用いて一揆の鎮圧に成功します。松平氏、戸田氏はこの功によりこの地域での支配権を獲得し、特に松平氏にとっては三河平定のきっかけとなったようです(一揆の理由・経過等については諸説があります)。今回の参考仕様は(1)「三河松平一族」平野昭夫2002(2)「愛...井ノ口城三河額田郡一揆の拠点その後の松平・徳川の発展のきっかけとなった

  • 高山屋敷 近江 高山城塞群の一つ 堀と土塁に囲まれた城郭遺構が残る

    高山屋敷は滋賀県水口町高山にあります。佐々木盛綱配下の高山源太左衛門が領したとされる地で、付近にはいくつもの高山氏由来の城郭遺構や屋敷地が残されています。今回の現在先は高山屋敷と名付けられた城郭遺構となっていますが、東側に隣接して屋敷地が在ったと考えられているようです。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)「甲賀郡史」甲賀郡教育会1926(3)「水口町志」水口町志編纂委員会1959などです。高山屋敷周囲には数多くの甲賀の城が点在する資料(3)によると、高山氏は甲賀五十三家の一つに数えられ南の三大寺、北の岩坂まで領していた時期が有ったようですが東側は杣川を区切りとしたようです。附近には甲賀衆の城郭が多数残されています。高山屋敷Ⅰ郭東側に居館が在ったと思われるが現...高山屋敷近江高山城塞群の一つ堀と土塁に囲まれた城郭遺構が残る

  • 宇佐山城 近江 多数の石垣が見どころの城郭 東海古城研究会の見学会で訪れました

    宇佐山城は滋賀県大津市錦織町にあります。織田信長の命により森可成によって築かれたとされ、山下の大津方向から見える面には石垣が多用され見どころとなっています。今回は東海古城研究会の見学会で、琵琶湖畔の坂本城なども併せて訪れました。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)「図解近畿の城郭Ⅰ」城郭談話会編2014(3)「近江の山城ベスト50を歩く」中井均編2006(4)「米原文化協会『城歩会』宇佐山城見学会資料」長谷川博美2018などです。宇佐山城志賀の陣では壺笠山の浅井・朝倉軍と対峙したとされる森可成は侵入してきた浅井・朝倉連合と宇佐山城を降り下って戦って討ち死にし、宇佐山城の出丸(端城)も落とされたが本城は落城を免れ、戦いは膠着状態に陥り両軍は和議を結んだと伝わります。その後、明智光秀が比叡山焼き討ちまで...宇佐山城近江多数の石垣が見どころの城郭東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 東海古城研究会の機関紙「城」 第235号が刊行されました

    東海古城研究会の機関紙「城」の第235号が刊行され、会員に郵送で届きました。「信康事件の周辺に関するノート」は前号に続いて信康事件の論考で、松平家忠日記に登場する「新城」普請との関連などをとりあげて検討しています。「石樋丁場跡と周辺の残石」は、石丁場と刻印などを丹念に調査した結果を連載の形で報告しています。「岡崎公園内の発掘調査」はこれまでに数多く行われてきた岡崎城の発掘調査の結果をわかりやすくまとめて報告しています。「土岐市の城ケ根砦について」「月原本城山城登城路と特異な遺構を探査」は山城の探索と考察となっています。「城」の入手については東海古城研究会の公式「X」(旧Twitter)→こちらのDM又はGoogleフォームで問合せ、申し込みが可能です。東海古城研究会の機関紙「城」第235号が刊行されました

  • 油日城 近江 遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

    油日城は滋賀県甲賀市甲賀町油日にあります。有名な油日神社が北東約300mにあり、この地域の中心的な城郭だったとされ、北側に杣川、南側に心教田川が流れる尾根上に築かれています。付近には多数の城郭が点在し、西からの侵入に対して油日城を守る体制がとられているようにみえました。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。油日城近江から伊賀へ抜ける主要な街道の結節点にある近江から伊賀へ抜ける道は後世のJR草津線や車の道の開発によって旧街道は目立たなくなりましたが、今もほぼ残されているようでした。油日城後世の道路街道イ旧街道ア杣川の旧河道ウなどを考慮して遺構を見る油日城は城址の西側を通る道路イを抑える役割があったように一見思われますが、明治期の地図などで確認すると道路イは後世に敷...油日城近江遺構がよく残るが後世の道路で城の向きが紛らわしい甲賀の城郭

  • 中上城 伊勢 集落から離れた村の城 占地に関連して想像を膨らませる

    中上城は三重県員弁郡東員町中上にあります。花戸城、花扉城とも呼ばれ、築城は明応年間(1492~1501)坂太郎左衛門によって行われたとされ、時期は不明ですが敵に敗れて廃城になったと伝ええられています。その後、阪氏は蓮如上人に帰依し中上集落に遍崇寺を建立したとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。中上城付近の集落にもそれぞれ村の城が築かれていた中上城の周辺には北山城、長深城、志知城など村の城が築かれていたようです。中上城城の占地が集落から離れていた特別な理由があったかA辺りが普通?村の城は集落に隣接している場合が多いと思いますが、中上城は集落の西端部から≒400m、中心部から≒800mの離れた場所に築かれていました...中上城伊勢集落から離れた村の城占地に関連して想像を膨らませる

  • 箕輪城 信濃 天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

    箕輪城は長野県上伊那郡箕輪町にあります。城主は箕輪左衛門重時と伝わり、天竜川対岸の福与城などと連携して当地区を支配していたされます。その後武田氏の南下によって伊那谷が支配されましたが、後に徳川氏によって付近に木下陣屋が置かれ箕輪城は廃城になったようです。天竜川の第二河岸段丘上に築かれた城塞群の中心が、今見る箕輪城だったとされます。今回の参考資料は「信濃の山城と館5」宮坂武男著2013などです。※宮武武男先生による箕輪城の鳥観図は長野県立歴史館HPの「宮坂武男城郭鳥観図」からご覧いただけます→こちら箕輪城河岸段丘上の南北に城砦群が築かれていた資料によると、箕輪城の城塞群は今見る箕輪城の北側に北城、中心部を南城(しろ山)、その南側にカネチョウ山があり、さに段丘南端部には砦が設けられていたとされ、天竜川対岸の福...箕輪城信濃天竜川の河岸段丘上に築かれた箕輪氏の城塞群の中心城郭で遺構の残りが良い

  • 仲明城 遠江 敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

    仲明(なかみょう)城は静岡県磐田市敷地字仲明にあります。附近を領していた敷地氏の居城と伝わりますが詳細は不明のようです。二重堀切などの遺構の特徴から、今見る姿は武田氏によって改修が行われたと考えられそうです。資料によっては付近の家田城と一体の城郭であったとされますが、遺構の状況などから別の城郭とも考えられています。今回の参考資料は(1)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022と(2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978などです。仲明城遠州に侵入した武田軍は付近に布陣した武田信玄の二俣城攻めの時には、合代島の亀井戸城に本陣が置かれた可能性があり、周辺が宿陣地となったとされ、仲明城もその範囲に入っていたと思われます。その際には社山城も二重堀切などの存在などから武田氏の配下となって...仲明城遠江敷地川に突き出した支尾根に築かれ背後の尾根を厳重に遮断した城郭

  • 滝川城 近江 大手道どこか?滝川一益ゆかりの城 興味深い遺構が多数

    滝川城(五反田城)は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野小字五反田にあります。滝川城は櫟野一帯を支配した滝川氏一族の本拠とされ滝川一益が在城したゆかりの城として知られます。附近には甲賀の巨刹櫟野寺が在り、周りを取り囲むように展開している滝川氏の城郭との関係性も興味深いです。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。※付近の櫟野大原城その1は→こちら滝川城上、中、下ノ組は櫟野寺に関連した地名か櫟野寺は延暦寺の有力末寺で甲賀六大寺の筆頭として往時は多数の末寺があり、寺領は広大であったとされます。戦国期には滝川氏に寺領の多くを奪われたのかもしれないと想像しましたがどうでしょう。滝川城櫟野川越しに櫟野寺が良く見える滝川城は櫟野川を水堀に見立て西に滝川西城、川の向うには滝川支城を配し櫟野川...滝川城近江大手道どこか?滝川一益ゆかりの城興味深い遺構が多数

  • 大平本城 三河 その1 規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

    大平(おおだいら)本城は愛知県豊田市大平町にあります。その1では主郭の南側を中心に見学しましたが、その2では主郭と城域の北側を見学したいと思います。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023などです。※大平本城その1は→こちら大平姫城は→こちら大平本城本城と姫城で市場古城と同様のU字形の尾根の内側に居館があったのか鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵入した当初は市場古城に入ったとされます。市場古城は北側の背後に馬蹄形の尾根を背負った立地となっていたとされます。大平城も本城と姫城の尾根に挟まれた...大平本城三河その1規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

  • 大平本城 その1 規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

    大平(おおだいら)本城は愛知県豊田市大平町にあります。隣接して大平姫城があり、両城は一体だった可能性もありそうです。当初は大内下総守久政が居城し、後に足助の鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵攻したときに奪われたとされます。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023(4)「大平本城跡発掘調査報告会資料」愛知県埋蔵文化センター2011などです。※大平姫城は→こちら大平本城小原地区の西部に位置し大平姫城と隣接して北西の美濃方面に備えた城郭か大平本城・姫城は主要な街道の結節点に築かれた城郭で、竪堀の...大平本城その1規模の大きな山城の城郭遺構と大平姫城との関連が興味深い

  • 大平姫城 三河 隣接する大平本城との関連が考えられる尾根先端の城郭

    大平(おおだいら)姫城は豊田市大平町にあります。隣接して大平本城があり、その関係性については諸説があるようですが両城は一体だった可能性もありそうです。当初は大内下総守久政が居城したとされますが、後に足助の鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵攻したときに奪われたと伝わります。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「愛城研報告第16号」三河・大平城の縄張高田徹2012(4)「愛知縣西加茂郡全圖」西加茂郡教育會編纂松岡利助1915.6」西加茂郡教育會1915と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023などです。大平姫城小原地区は谷ごとに割拠した豪族により支配されていた足助鈴木氏の侵攻によって...大平姫城三河隣接する大平本城との関連が考えられる尾根先端の城郭

  • 野井城 美濃 主要な街道を扼する岩村城の出城の一つ 曲輪を囲む犬走が良く残る

    野井城は白金城城とも呼ばれ、岐阜県恵那市三郷町野井にあります。岩村藩の参勤交代で藩主が通った道という殿様街道・大名街道は幾本もあるようですが、野井城の東下の谷を通る道も殿様街道とされます。野井城はその立地から、岩村城への道の抑えとしての役割があったようです。今回の参考資料は「信濃をめぐる境目の山城と館美濃・飛騨・三河遠江編」宮坂武男2015などです。野井城殿様街道は東海自然歩道の一部となり、人気のハイキングコースとなっている土岐川筋の抑えとして取手平砦が設けられ、野井城と併せて北側の中山道方面を警戒していたと考えられるようです。※鳥居平砦は→こちら野井城野井地区からの道車は通行止めとなっている道は車両通行止めになっていますので、小ヶ沢池までの約1㎞はハイキング気分で歩きました。殿様街道からの明確な登城路は...野井城美濃主要な街道を扼する岩村城の出城の一つ曲輪を囲む犬走が良く残る

  • 小原地区の城郭 三河 東海古城研究会の見学会で訪れました

    小原の城郭は愛知県豊田市小原町にあります。今回は東海古城研究会の日帰りバス見学会で訪れました。見学先は市場城→市場古城→大平本城→大平姫城でした。午前中はあいにくの雨でしたが、午後は雨も上がり時折日が差す好天となり「終わりよければ全てよし」の見学会でした。小原地区には13の城址があるとされます。戦国時代以前には各谷間に関東から来た支配者が割拠したとされます。戦国期には足助鈴木氏の一員(鱸氏とも)が市場古城を足掛かりにして、小原地区全体を市場城を中心にして支配したとされます。後に小原鈴木氏は家康の関東移封に従わず、改易となり没落したと伝わります。市場城当日はベテラン会員さんが作成した資料が準備され、詳しい現地解説が行われました。午前中は雨でしたが、参加者の皆さんは熱心に説明に耳を傾け、遺構を見学しました。市...小原地区の城郭三河東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 足助城 三河 その2 整備された城跡公園の興味深い城郭遺構を堪能する

    足助城は愛知県豊田市足助(あすけ)町にあります。城址が真弓山にあることから、真弓山城とも呼ばれ足助七城の一つとして、足助鈴木氏が築いたとされます。現在、中心部は城跡公園となっていますが、公園化に先立って発掘調査が行われ、多数の建物跡などが検出され、それに基づいたいくつかの建物などが復元・整備されています。その1では城跡公園外の興味深い城郭遺構を見学しましたが今回は整備された公園内を見学します。公園内には要所要所に案内パネルが設けられていますので、興味深い城郭遺構を堪能できます。足助城足助氏の飯盛山城と鈴木氏の足助城は築城年代が異なる古く鎌倉期に足助を領したのは足助氏、戦国時代に領したのは鈴木氏だった考えられ、足助氏が飯盛山城を築き鈴木氏が足助城を築いたとされます。いろいろな条件が重なって、飯盛山城の復原は...足助城三河その2整備された城跡公園の興味深い城郭遺構を堪能する

  • 足助城 三河 その1 整備された城跡公園の外側にある城郭遺構を見学する

    足助城は愛知県豊田市足助(あすけ)町にあります。城址が真弓山にあることから、真弓山城とも呼ばれ足助七城の一つとして、足助鈴木氏が築いたとされます。現在、中心部は城跡公園となっていますが、公園化に先立って発掘調査が行われ、多数の建物跡などが検出され、それに基づいた建物が復元・整備されています。中心部から幾本も延びる尾根は削平され曲輪が設けられ、城域は広く城跡公園外にも城郭遺構が残されています。公園化の整備に伴って公園内の見学は有料化され、公園の周囲にフェンスが設けられました。今回は城跡公園外の興味深い城郭遺構を見学したいと思います。今回の資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001(2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(3)「城跡公園足助城」パンフレットなどです。足助城主要な...足助城三河その1整備された城跡公園の外側にある城郭遺構を見学する

  • 東禅寺城 伊勢 150m超の断崖絶壁を利用した城郭は隣接する巨刹 東禅寺との関連があったか

    東禅寺城は三重県いなべ市藤原町東禅寺字神垣内にあります。築城の時期は明らかではないようですが城主は片山平三、斎藤助六が伝わります。片山氏は南北朝の頃、上木村を中心に付近十ヶ村を領したとされ、斎藤氏は東禅寺の坊官を務め東禅寺から石川城に移ったとされます。※石川城は東禅寺の北東800m付近の藤原町石川にありましたが、セメント工場の建設によって消滅しました。今回の参考資料は(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(3)Webサイトいなべ市地理情報「いなっぷる」などです。東禅寺城東禅寺は戦火で焼かれ焼亡したが東禅寺城に隣接した遺跡が確認されている東禅寺は地名として残るほどの巨刹寺院で、東禅寺城が東禅寺に隣接して築かれたといったほうが良いかもしれません。東禅寺城...東禅寺城伊勢150m超の断崖絶壁を利用した城郭は隣接する巨刹東禅寺との関連があったか

  • 櫟野大原城 近江 その2 興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭 見どころてんこ盛りでワクワクの見学

    櫟野(いちの)大原城は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野(いちの)にあります。見どころの多い櫟野大原城はその1で城域東側部分を見学しましたが、その2では西側部分を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)現地案内板・大原自治振興会などです。※大原氏の大原城は→こちら櫟野大原城周辺地図はその1をご覧ください※その1は→こちら櫟野大原城U字型の珍しい堀切Eその役割は?東上から櫟野大原城で目を引く遺構の一つがⅣ郭のU字型の珍しい堀切でした。尾根を断ち切るように掘られてはいますが、その役割は何だったのか、資料(1)でもⅣ郭への雨水の流れ込み防止か?ヒョットすると城郭遺構ではないのかもしれないとも記されていました。U字型の雨水対策の堀切は初めて見ましたが、山城では...櫟野大原城近江その2興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭見どころてんこ盛りでワクワクの見学

  • 櫟野大原城 近江 その1 興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭 見どころてんこ盛りでワクワクの見学

    櫟野(いちの)大原城は滋賀県甲賀市甲賀町櫟野(いちの)にあります。甲賀の雄族大原氏が櫟野寺(らくやじ)の寺領以外の櫟野領も支配し、16世紀に一族の大原伴三郎が櫟野大原城を築いたとされます。鈴鹿峠まで7Kmの地で大原氏が領する東の端に位置しています。城域は櫟野川へ突き出した尾根上に在り、現況は周囲を田地が取巻いていました。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)現地案内板・大原自治振興会などです。櫟野大原城は見どころが多いのでその1・その2で紹介します。※大原氏の大原城は→こちら櫟野大原城付近には滝川一益ゆかりの滝川城がある東7kmの鈴鹿峠までほとんどが山地櫟野大原城は尾根上に築かれ、遺構の状況から見ると西向きの備えがより厳重な城郭だったと思われました。東は鈴鹿峠...櫟野大原城近江その1興味深い多数の遺構が完存する甲賀大原氏の城郭見どころてんこ盛りでワクワクの見学

  • 堤城 遠江 牛渕川を利用した城 別郭の千畳敷は城域だったのか?

    堤城は静岡県菊川市下平川にあります。築城時期は明確ではありませんが1500年前後と考えられているようです。城主は松井氏が今川範国によってここに移されたとされます。堤城は城域の西側を菊川と並行して流れる牛渕川を守りに利用して西側の監視・防衛を役割として築かれたとされます。今回の参考資料は(1)「菊川市の城館周遊マップ」菊川市教育委員会(2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会1978(3)「今川氏の城郭と合戦水野茂編著2019(4)「静岡県の城跡西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022(5)「遠江国風土記伝」内山真竜著明治33年(1900)(6)「塩の道ウォーキング」静岡新聞社編著2000などです。堤城付近は牛渕川や菊川の大規模な洪水被害に悩まされ続けた牛渕川の河川改修や圃場整備は戦後になって行われ...堤城遠江牛渕川を利用した城別郭の千畳敷は城域だったのか?

  • 一色山城 尾張 尾張地区では珍しく城郭遺構の残りが良好な山城

    一色山城は愛知県瀬戸市川平町にあります。築城の時期は不詳ですが、天文三年(1534)に城主の磯村左近が品野城主松平家重と落合城主戸田家光に攻められて討ち死にしたとの伝説があるようです。城址は愛知森林管理事務所の管轄下にある山地にあり開発の手が入っていないため、城郭遺構の残存状況は風化による変化以外にはなさそうで、とても良い状態でした。今回の参考資料は「「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010などです。一色山城現在も周辺には民家はない南からの侵入に備えたか城主は品野城主松平家重と落合城主戸田家光に攻められて討ち死にしたとた伝わります。城の備えは南側を向いているようで、現在の207号線沿いの川(樋ヶ沢川)の谷間に往時も山道があったと思われます。一色山城道eは作業用道路でゲートがある愛...一色山城尾張尾張地区では珍しく城郭遺構の残りが良好な山城

  • 城ヶ峰砦 美濃 史料・伝承不明、人里離れた岩峰上に築かれた山道を扼する砦か

    城ヶ峰砦は岐阜県恵那市東野小野川にあります。巨岩に覆われた小ピークに城ヶ峰の名前が残り、城ヶ峰神社が祀られ、ここに城砦があったとされるようです。往時は山中に岩村から中津川へ抜ける地図に残らない程度の山道があった可能性がありそうです。付近の道路(413号)は後に敷設され、明治の地図にはそれらしい道は載っていませんでした。今回の参考資料は「信濃をめぐる境目の山城と美濃・飛騨・三河・遠江編」宮坂武男編2015などです。城ヶ峰砦小野川沿いに413号が敷設された保古の湖は大正時代、根の上湖は戦後に造られた灌漑用の人造湖で往時は城ヶ峰砦付近を通って中津川へ抜ける道があった可能性がありそうです。城ヶ峰砦明治の地図には歩く道も見当たらない往時の城ヶ峰砦付近は深い山の中で、近年の開発で周辺雄様子は一変したのがわかります。近...城ヶ峰砦美濃史料・伝承不明、人里離れた岩峰上に築かれた山道を扼する砦か

  • 安田城 越中 土塁の厚さに驚く復元された平城を堪能 東海古城研究会の見学会で訪れました

    安田城は富山県富山市婦中町安田にあります。全国制覇を目指す豊臣秀吉が越中の佐々成政を攻めた時、秀吉の本陣となった白鳥城の支城として前田氏によって築かれ、配下の岡嶋一吉が城主となったとされます。城郭遺構の配置から、それ以前にも館城が存在していた可能性もありそうですが詳らかではない様です。安田城はその後廃城となり耕作地化されて地表面からの確認が難しい状態になっていたようですが、発掘調査によって、江戸期の絵図に描かれた城郭遺構が確認され、復元されました。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)現地パンフレット(3)「令和3・4年度安田城跡再整備事業の概要」富山県埋蔵文化財センター202306(4)現地案内板と学芸員さんの解説などです。安田城明治の旧地図では遺構の痕跡がわずかに認められる昭和になって圃場整備事業に先...安田城越中土塁の厚さに驚く復元された平城を堪能東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 岡崎城 三河 清海堀探索、石垣、堀など 東海古城研究会の見学会が行われました

    岡崎城は愛知県岡崎市にあります。徳川家康の生誕地として知られ、若き日の家康が桶狭間合戦の後10年間を過ごしました。城郭としての歴史は15世紀中頃の西郷氏まで遡りますが、今見る岡崎城は江戸期に何度も改修が繰り返された姿となっています。今回は東海古城研究会の半日見学会が行われ、普段は立ち入ることが出来ない清海堀の探索と城内の石垣や堀、岡崎城に付随する大林寺の見学でした。当日資料と石垣めぐりのパンフレットなどを参照し、担当者の説明を聞きながら見学しました。岡崎城見学ルート国土地図に見学先とルートを加筆岡崎城は明治以降、城域の跡地を県役所、図書館、病院、裁判所、動物園、スケートリンクなどに利用し、公園化も進められ、河川の開削改修などもされてきたため現在、城郭遺構として見ることが出来るのは一部にとどまりますが、発掘...岡崎城三河清海堀探索、石垣、堀など東海古城研究会の見学会が行われました

  • 中金古城 三河 南北朝期の足助氏の城郭遺構か、三宅氏の中金城の詰城か

    中金古城は豊田市中金町にあります。飯田街道を見下ろす山上にあり、南下の尾根上の中金城との関連も考えられるようです。山上の中金古城の伝承は地元にもなく、その位置から古い時代(南北朝期)の足助氏に関連した城郭遺構の可能性と南側尾根に築かれている中金城の詰城という想定もあるようです。今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994などです。なお資料⑵では中金城を中金城A、中金古城を中金城Bとし資料(1)では中金古城を(仮称)としています。※中金城は→こちら中金古城南北朝期の足助氏に属する城郭か、中金城の詰城か中金城は街道AとBの結節点に築かれ街道を扼する城郭とされますが、中金古城は古い形式の山城で南北朝期の足助氏に属するとされる見方と...中金古城三河南北朝期の足助氏の城郭遺構か、三宅氏の中金城の詰城か

  • 増山城 越中 規模の大きい城域に興味深い城郭遺構がてんこ盛りで見ごたえあり!

    増山城は富山県砺波市増山にあります。築城は南北朝期にさかのぼるとされ、その後幾多の武将の名が城主として登場するようです。その間に度々改修が行われ、居館を含めた今見る規模の大きな城塞群となったと考えられ慶長年間頃に廃城になり、その後耕作地としての利用があったようです。今回は東海古城研究会の一泊二日の特別見学会で訪れました。参考資料は(1)見学会当日資料(2)パンフレット「増山城跡」砺波市教育委員会2023(3)現地案内板などです。増山城和田川に造られたダムによって一部が水没した増山城の直下を流れる和田川にダム(昭和44年竣工)が作られたことにより城域西側の屋敷地や対岸の城下町などが一部水没したようですが、ほとんどの城郭遺構は現存し、資料⑵では「山城の教科書」と呼ぶにふさわしい山城と謳っていました。増山城城郭...増山城越中規模の大きい城域に興味深い城郭遺構がてんこ盛りで見ごたえあり!

  • 中金城 三河 主要な街道の結節点を扼する三宅氏の城郭

    中金城は愛知県豊田市中金町にあります。資料によっては、山頂部にある山城の中金古城を中金城B、中腹にある中金城Aとしている場合もあるようです。今回は中金城Aにあたる城郭を見学します。中金城は三宅氏が築いたとされ、山頂の中金古城の方が古く、中金城は後に居館として築かれた可能性があるとされます。今回の資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(3)「忘れられた街道上」中根洋治著2006(4)「愛知の歴史街道」中根洋治著1997などです。中金城主要な街道AとBの結節点を見下ろす位置に築かれている東西に走る国道153号線Aは古い飯田街道とほぼ同じルートを通り、矢作川の土場(川湊)のあった古鼡(ふっそ)から中金へ抜ける物流の道Bが中金で合流して...中金城三河主要な街道の結節点を扼する三宅氏の城郭

  • 松倉城 越中 南北朝期から250年間、重要拠点として補強され続けた遺構が見どころ 東海古城研究会の見学会で訪れました

    松倉城は富山県魚津市鹿熊にあります。築城年代の詳細は不明とされますが南北朝期前半と考えられています。その後、この城を巡って幾度もの戦いが繰り返され戦国末期までの約250年間にわたって重要な拠点としての役割を果たしてきたようです。今回の参考資料は(1)見学会資料(2)パンフレット「松倉城跡」魚津市教育委員会などです。東海古城研究会の一泊二日の特別見学会に参加して訪れました。松倉城かつては鹿熊に城下町があり、南東約5㎞には松倉金山もあり古くから栄えた資料⑵によると、松倉城の南東約5㎞には南北朝期からの金山があり、松倉が栄え、幾たびも奪い合われた要因の一つとなったようです。松倉城は堅固な城塞で籠城の記録が多く残るようですので、山下の鹿熊の城下町には居館があり、非常時には松倉城に入ったのかもしれません。松倉城山上...松倉城越中南北朝期から250年間、重要拠点として補強され続けた遺構が見どころ東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 大和城 信濃 諏訪下社の有力な社人大和氏の鎌倉街道甲州街道を見下ろす城郭

    大和(おわ)城は長野県諏訪郡下諏訪町高木と諏訪市大和の境界に位置します。諏訪下社の有力な社人で武人だった大和氏の城郭で下社の領域の下諏訪の東側の守りを担っていたと伝わります。なお大和氏の居館は下諏訪の諏訪下社付近にあったとされます。今回の資料は「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013などです。大和城諏訪上下社の争い、武田氏の侵攻など東からの脅威が多かったのに備えたか諏訪湖と北側から突き出した尾根の間を通り東から下諏訪に向かう鎌倉街道を抑える絶好の位置に大和城は築かれたようです。大和城鎌倉街道から大和城を見る東から城趾の東側に車を停め、残存する鎌倉街道を西に向かって歩き大和城に向いました。途中の鎌倉街道から大和城が良く見えました。ということは大和城からもこちらがよく見えるということですね。大和城大手道の途中、...大和城信濃諏訪下社の有力な社人大和氏の鎌倉街道甲州街道を見下ろす城郭

  • 岡崎城 三河 東海古城研究会の見学会が行われます

    NHKの大河ドラマ「どうする家康」で沸く岡崎城の堀と石垣を中心に見学する、東海古城研究会の見学会の案内ハガキが届きました。2023年11月19日(日)午後1時集合で、普段は堀底に降りて見学することが出来ない清海堀の堀底に降りての見学や、最新研究の成果や発掘調査結果の成果も併せて岡崎城の姿を知ることが期待できそうです。かつては城域だった松平清康の墓がある大林寺も訪れます。興味のある方は東海古城研究会の公式Twitterで問合せ、申し込みが出来ます。締め切りは11月12日参加費は2000円岡崎城の大河ドラマ館前に集合。※当ブログに会への問い合わせ用リンクが張ってあります。東海古城研究会の公式Twitter(X)のDM又は東海古城研究会の問い合わせ用Googleフォームhttps://t.co/zeR7OA2V...岡崎城三河東海古城研究会の見学会が行われます

  • 宮崎城 越中 海岸線と山街道を扼す越中越後境目の城 東海古城研究会の見学会で訪れました

    宮崎城は富山県下新川郡朝日町にあります。越中と越後の境目の城として奪いあいが繰り返されたようです。日本海が間近に迫る尾根上に築かれ、狭い海岸線を通る街道と城の南側を通る山街道を扼する山城であったとされます。今回は東海古城研究会の1泊2日の特別見学会に参加して二日間で七城を訪れました。参考資料は見学会資料と現地案内板、現地パンフレットなどです。宮崎城中型バスで細い山道aを登る城址への道aは細く、見学会の中型バスでは対向車が来たらアウト!道に覆いかぶさる木の枝をものともせずバスは進みましたが、参加者は緊張感で息をのみました。※乗用車でもすれ違いは不可の部分が多そうでした。宮崎城戦時中、陸軍によって改変が行われている部分が多い資料と現地案内板によると城山公園、矢倉台、本丸の辺りは戦時中、軍用電波施設が建設された...宮崎城越中海岸線と山街道を扼す越中越後境目の城東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 下切城 三河 矢作川に突き出した尾根を通る街道の峠道を扼する山城か

    下切城は愛知県豊田市下切町にあり城主、城歴は不明とされます。矢作川に削られ舌状に突き出した尾根の先端部に築かれた山城で、往時は尾根の根元を通る峠道があったのではないかと考えられる地形でした。道は東の榑俣城、西は浅谷城の近傍を通る飯田街道への道の可能性があるのではないかと想像しながら見学しました。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告書2」愛知県教育委員会1994などです。※榑俣城は→こちら下切城矢作川を眼下に見下ろし小渡城、浅谷城が見え榑俣城への主街道を監視できた榑俣城からの道が小渡へ矢作川を渡ったとすれば、渡河地点が下切城からよく見えたのではないかと思いました。現在の道は城址を取り巻く車の道となっていますが、かつては城址の北東側の峠...下切城三河矢作川に突き出した尾根を通る街道の峠道を扼する山城か

  • 源治山城 伊勢 信長の伊勢侵攻で滅んだ。城郭遺構は三岐鉄道に分断された

    源治山城は三重県四日市市山城町字源治山にあります。山城城、下野城、下野山城とも呼ばれ、建武年中に見永籐七郎秀宗が足利尊氏からこの地を与えられ歴代が居城したと伝わりますが、永禄十一年(1568)織田信長の伊勢侵攻によって滅ぼされたとされます。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。源治山城朝明(あさけ)川を背後に控えた後堅固の台地突端の城郭だった織田信長の伊勢侵攻で朝明川下流の萱生城と同時期に落城したと思われます。源治山城三岐鉄道の敷設によって遺構は東西に分断された三岐鉄道の敷設工事によって、開削され城郭遺構の中央部で分断されたため、Ⅰ郭は見学路がわかりづらくなっていました。団地内には多少の駐車スペースもありましたが、朝明川沿い...源治山城伊勢信長の伊勢侵攻で滅んだ。城郭遺構は三岐鉄道に分断された

  • 殿ノ山 遠江 比木の城山の出城か 土豪の根小屋を武田氏が改修か

    殿ノ山は比木の殿ノ山城とも呼ばれ静岡県御前崎市比木三間にあります。城主等の詳細は不明のようですが、中世の比木荘を支配した土豪の城館であったようです。殿ノ山北方約500mの牧之原台地の南端には比木の城山があり、その出城又は根小屋としての存在も想定できるようですが、武田と徳川の抗争期には武田の高天神への補給路確保のための改修を受けた可能性もありそうです。今回の参考資料は(1)「静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978中世城館跡』(2)「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)静岡古城研究会2022などです。殿ノ山殿ノ山から比木の城山に至る道Bは、今も残る殿ノ山が出城又は根小屋とされるのは、比木の城山とを結ぶ道Bが今も確認できるからのようです。殿ノ山の南側を通る筬川(オサガワ)沿いの道は、武田軍の...殿ノ山遠江比木の城山の出城か土豪の根小屋を武田氏が改修か

  • 三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道 その4 宮崎村明見から岡崎城へ

    天正三年五月武田勝頼の大軍に包囲された長篠城の籠城将兵400人は次第に追い詰められ、鳥居強右衛門が単身夜陰に紛れて長篠城を脱出し、岡崎城の信長・家康に救援を訴え取って返したと伝わります。この決死の脱出行と味方に朗報を届けて死に至るいきさつが戦国の世で敵の将兵にも武士の鑑として賞賛され、強衛門の磔の図が武田の武将の背旗に描かれ今に伝わりました。当ブログでは強右衛門が駆け抜けた道をその1その2その3とたどってきましたが、今回はその4として、宮崎村明見から岡崎城までの道を地図でたどります。今回の参考資料は(1)「奥平氏と額田」額田町教育委員会2005(2)2万分の1国土地図明治23年頃測図などです。※その1→こちらその2→こちらその3→こちら『落合左平次道次背旗鳥居強右衛門勝高逆磔之図』東京大学史料編纂所蔵抜粋...三河・長篠城から岡崎城へ鳥居強右衛門勝商が救援を求めて往復した道その4宮崎村明見から岡崎城へ

  • 多喜南城 近江 改変が一部あるものの興味深い遺構の残存状態が良好な多喜氏の城郭

    多喜南城は滋賀県甲賀市甲賀町滝にあります。城主は滝氏とされ、以前は多喜北城と呼ばれていた多喜城との関連が考えられるようです。主郭の規模は多喜城とほぼ同等だったようですが、一部を竹林造成のために土取りされ、失われた部分にあったと思われる虎口などの確認が困難になったようです。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)「図解近畿の城郭Ⅰ」城郭談話会編2014などです。※多喜城は→こちら多喜南城多喜城よりも東と南東方面の視界が開けている川を挟んで大原氏と向き合う多喜城を主城と考えた場合、多喜南城からは東と南東方向の視界が開けていて、この方面の監視と防衛の役割を担っていた可能性を想像しました。川を挟んで甲賀の雄族大原氏が割拠していました。※大原城は→こちら多喜南城Ⅰ郭東側斜...多喜南城近江改変が一部あるものの興味深い遺構の残存状態が良好な多喜氏の城郭

  • 迫間城 美濃 東を意識した尾根上のコンパクトな城郭 人気のハイク道が通る

    迫間(はさま)城は岐阜県関市迫間にあります。東の猿啄城から西の長山城まで続く約10㎞の尾根上の途中に築かれていました。平安時代に開かれた迫間(はさま)不動尊の修験の場でもあったようで、山下では迫間不動尊の社殿や滝なども見学出来ました。城歴などの詳細は詳らかではないようです。人気のハイク道が尾根上を通っているため、遺構の一部が改変されていましたが、おおむね遺構を確認することが出来ました。今回の参考資料は「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第2集」岐阜県教育委員会2003などです。※長山城は→こちら迫間城同じ尾根上に在る猿啄城と長山城との関連が興味深い迫間不動尊は戦国時代のはるか昔に開かれた霊場ですが、今も尾根上に八方遥拝所などが現役で残っていました。迫間城からは西方の約14㎞先に岐阜城が見えましたが、迫間城に狼...迫間城美濃東を意識した尾根上のコンパクトな城郭人気のハイク道が通る

  • 乙ヶ林城 三河その2 諸説ありの謎の平場と周囲の興味深い遺構を見学する

    乙ヶ林(オカバヤシ)城は愛知県豊田市乙ヶ林町にあります。その1ではきれいに削平された平場Aに至るメインの登城路を想定しましたが、その2では同じ尾根上の北側にある自然地形に近い広い平場Bとその周囲を中心に見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(2)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知中世城郭研究会1993(3)「小原の城郭」作図:千田嘉博小原村教育委員会1993などです。※その1は→こちら乙ヶ林城概略図竪堀④から平場Aへの通路(破壊道?)がある乙ヶ林城平場A西辺の低土塁南から平場Aの西辺には低土塁が一部分残っていました。この土塁は後世の通路のために一部が壊されているようで、原形の高さなどは不明でした。乙ヶ林城竪土塁⑦東上から土塁①→A西辺の低土塁→竪土...乙ヶ林城三河その2諸説ありの謎の平場と周囲の興味深い遺構を見学する

  • 乙ヶ林城 三河その1 規模の大きな土塁・堀切が残る城郭の登城路を想定する

    乙ヶ林城は愛知県豊田市乙ヶ林町にあります。乙ヶ林はオカバヤシと読みます、地名・人名の読みは難しいですね。城主や城歴の詳細は明らかではないようですが、本田忠勝の旗奉行であった三宅道清も在城したとされます。城域の南側の尾根は道路工事によって切り通され、崩落防止の工事が行われたようですが、城址の主要部分の規模の大きな遺構は良好に残り、見どころが豊富でしたので、2回に分けて掲載したいと思います。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(2)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知中世城郭研究会1993(3)「小原の城郭」作図:千田嘉博小原村教育委員会1993などです。乙ヶ林城各集落の小領主は後に市場城の鱸(スズキ)氏に属したとされる旧小原村には現在11城が確認されていますが、それぞれ小...乙ヶ林城三河その1規模の大きな土塁・堀切が残る城郭の登城路を想定する

  • 小峯城 陸奥 震災からの修復が完了し、往時の姿を堪能 東海古城研究会の見学会で訪れました

    小峰城は白河城、白河小峰城とも呼ばれ福島県白河市郭内にあります。14世紀に結城氏が初期の築城をしたとされますが、その後数多くの勢力が入れ替わり、発展を遂げ、今見る小峰城は寛永年間に入部した丹羽氏によって石垣を多用した城に改修され阿武隈川の流路の付替えも行われたと伝わります。東日本大震災で多くの石垣が崩れ、建物も被害を受けたそうですが平成31年に修復が終わり、以前の美しい姿をとりもどしていました。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)白河市文化財パンフレット「小峰城跡」白河市教育委員会2017と現地案内板などです。小峰城阿武隈川の旧流路A丹羽氏によって付替えが行われた小峰城は阿武隈川が削り残した台地を利用して築かれ、丹羽氏の時代に城地や侍屋敷の大幅拡張が行われたようです。その際阿武隈川を付替え、新たな土...小峯城陸奥震災からの修復が完了し、往時の姿を堪能東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 根羽城ヶ峰 信濃 武田氏の三河進出に際して改修強化された在地勢力の詰城か

    根羽城ヶ峰は根羽男(ねばお)城とも言われ長野県根羽村(愛宕山)にあります。城主は石原但馬と伝わり下条氏に属していたとされます。武田氏の三河進出で、三河との国境の関門として飯田街道を根羽城ヶ峰、根羽女城、小栃砦によって抑えていたと考えられています。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男著2013などです。※根羽女城は→こちら小栃砦は→こちら根羽城ヶ峰三拠点で飯田街道を抑え、狼煙台も兼ねていたか信濃と三河の境目の根羽村を通過する旧飯田街道を三拠点で厳重に押さえ、同時に根羽地区を守る城郭群としても機能していたのではないでしょうか。資料(1)には武田氏時代には狼煙台としても使われていた可能性が示されていました。根羽城ヶ峰根羽の集落からの尾根道Aを登る資料(1)では城址南東側の黒地からの道が紹介されてい...根羽城ヶ峰信濃武田氏の三河進出に際して改修強化された在地勢力の詰城か

  • 草間城 三河 諸国古城之図と現地を照合し、位置と規模を想定して楽しむ

    草間城は愛知県豊橋市城山町・向草間町にあります。現地は宅地化が進み城址遺構は消滅したとさわれますが諸国古城之図に草間(三河渥美)として残されています。宅地造成で城郭遺構は失われ、地形も大きく変わりましたが諸国古城之図に描かれた草間城と、残された諸資料、現地見学でかつての草間城の位置と規模を想定してみたいと思います。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告書Ⅲ」愛知県教育委員会1997(2)「渥美郡史」愛知県渥美郡役所1923(大正12年)(3)「今昔マップontheweb」埼玉大学教育学部谷謙二(2000~2022年)と諸国古城之図の「三河渥美草間」などです。広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「三河渥美草間」※広島市立図書館の許諾を頂き掲載しています。諸国古城之図に描かれた草間城に...草間城三河諸国古城之図と現地を照合し、位置と規模を想定して楽しむ

  • 二子城 伊勢 室町時代に築城 主要な街道を抑える有力者の城か

    二子城は三重県津市安濃町中川字城山にあります。村主文宗が城主で室町時代に築城されたと伝わりますが、詳細は不明とされます。城は安濃から家所へ抜ける街道の要地にあり、平山城ですが街道を扼する城だった可能性があるようです。今回の参考資料は(1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976と⑵「津の城跡50選」津観光ガイドネット・山城調査プロジェクトチーム2016などです。二子城付近には多数の村の城がある二子城も村の城の一つだったか城の南を流れる穴倉川によって分断された山地の谷間を抜ける道があり、南神山→日南田→家所と抜ける主要な街道だったようです。二子城尾根上に築かれ、階段状に平場が設けられている尾根の南側は土採りでも行われたかのような急角度の地形でした。北側と西側には山畑が営まれたような階段状の平場がいくつも...二子城伊勢室町時代に築城主要な街道を抑える有力者の城か

  • 川折城 三河 掘割は切通か、堀切か 孤立した尾根の遺構の役割は何か

    川折城は愛知県豊田市浅谷町にあります。地元も郷土史家によって尾根を断ち切る堀切地形が確認され、城郭遺構として認識されました。川折城と命名されましたが城主や城歴は不明です。北西800mにある一色城との関連が考えられるとされています。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)愛知県中世城館跡調査報告書Ⅱ愛知県教育委員会1994などです。川折城美濃と三河の境目の地域にあり孤立した尾根上に築かれている様に見える付近の一色城、浅谷城は小原の鈴木氏に関連した城郭とされますので、川折城は狼煙でその間をつなぐ役割の可能性があるのではないかと考えてみました。カシミール3Dの「見通し」機能で確認すると浅谷城はAのルートで見えるようです。一色城は山が邪魔をして見えないようですが谷間に居...川折城三河掘割は切通か、堀切か孤立した尾根の遺構の役割は何か

  • 会津若松城 陸奥 復元された天守、残存する高石垣、門跡など見どころが多い 東海古城研究会の見学会で訪れました

    会津若松城は福島県会津若松市にあり鶴ヶ城、黒川城とも呼ばれます。豊臣秀吉の奥羽仕置きで蒲生氏郷が奥羽ではまだ普及していなかった石垣普請を行い初の天守造営を行ったと伝わります。戊辰戦争後に建物は撤去されましたが石垣は残り、昭和40年に今見る天守などの建物が外観復元され、多数の門跡などと併せて見どころが豊富でした。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)現地案内パンフレットなどです。会津若松城戊辰戦争での白虎隊自刃と新政府軍の砲撃が知られている大河ドラマなどでも戊辰戦争の籠城や白虎隊の自刃などがよく知られていますが、今回は城郭としての会津若松城の見学が中心でした。新政府軍の砲撃は約1.3㎞離れた小田山の砲陣から行われ、城にアームストロング砲の多数の砲弾が降り注いだとされます。会津若松城表門(鉄門)と走長屋奥...会津若松城陸奥復元された天守、残存する高石垣、門跡など見どころが多い東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 榑俣城 主要な街道を扼する城郭 狼煙の中継点でもあったか

    榑俣城は愛知県豊田市榑俣町にあります。小原の市場城主鈴木(鱸)氏の家臣古山某などが付近に屋敷を持ち、城を管理したと伝わります。城の北側には「みだかり峠」があり小原村から飯田方面に抜ける主要な街道(飯田街道と呼ばれる)が通っていました。この街道は後世には馬車が通る郡道となりました。今回の参考資料は(1)「「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993(2)「愛知県中世城館跡調査報告書2」愛知県教育委員会1994(3)「小原の城郭」小原村文化財保護委員会(作図:千田嘉博)1993などです。なお資料(1)の榑俣城の記事は浅井敏氏による民俗学的な調査・考察も行われていて貴重な史料でした。榑俣城飯田街道を扼するだけでなく狼煙の中継点としても重要な役割を担っていた可能性がある飯田街道を見下ろす位置にある榑俣...榑俣城主要な街道を扼する城郭狼煙の中継点でもあったか

  • 三春城 陸奥 歴史は古いが現況の城郭遺構は近世城郭 東海古城研究会の特別見学会で訪れた

    三春城は福島県田村郡三春町にあります。今回は東海古城研究会の二泊三日の特別見学会で訪れました。三春城は永正元年(1504)戦国大名の田村義顕が築き、14Km南西の守山地区から移ったとされますが、遺跡の状況から南北朝期には城として機能していたようです。その後江戸時代に至る間に数多くの城主が入れ替わり、正保二年(1645)秋田氏が入部して最終形の今見る近世城郭の三春城となったようです。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)パンフレット「三春城跡」三春町教育委員会・三春町歴史民俗資料館編などです。三春城山下の城下町から見上げる山上の三春城三階櫓は存在感抜群だった大志多山に築かれた三春城は、天守に相当する三階櫓が西端部に位置し、当時の西側山下の城下町から良く見えて、お城としての存在感は抜群だったのではないかと...三春城陸奥歴史は古いが現況の城郭遺構は近世城郭東海古城研究会の特別見学会で訪れた

  • 長野氏城 伊勢その2 南北朝期に山上に築かれ信長の伊勢侵攻まで続いた中伊勢の雄、長野氏の城郭

    長野氏城(長野城)は三重県津市美里町にあります。長野氏城の東側にある長野城を長野氏城、細野城と呼ぶ場合もあるようで混乱しますが、ここでは参考資料(1)の呼び方で記述したいと思います。今回の参考資料も(1)「三重の山城ベスト50を歩く」福井健二・竹田憲治・中井均編2012(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976などです。※登城路と周辺地形についてはその1をご覧ください→こちら長野氏城西側と北東の守りが厳重に見える登城路のある北東側の尾根と西側尾根の守りが厳重だったように見えました。長野氏城高狭ヶ野林道終点g西から駐車場になっている奥に城址高狭ヶ野林道経由で来ると城址の西側に隣接する駐車場に到達します。今回は登城路の見学も楽しみたいと思い東側から歩いて登りましたが、城趾見学だけならばここまで車で来るこ...長野氏城伊勢その2南北朝期に山上に築かれ信長の伊勢侵攻まで続いた中伊勢の雄、長野氏の城郭

  • 長野氏城 伊勢その1 南北朝期に山上に築かれ信長の伊勢侵攻まで続いた中伊勢の雄、長野氏の城郭

    長野氏城(長野城)は三重県津市美里町にあります。長野氏城の東側にある長野城を長野氏城、細野城と呼ぶ場合もあるようで混乱しますが、ここでは参考資料(1)の呼び方で記述したいと思います。城は標高540mの山上にあります。桂畑から林道瀬戸線→高狭ヶ野林道経由で城址へ車で到達する林道がありますが、今回は麓の中野集落にある中野文化会館に駐車して比高約370m、距離約2.3㎞の登城路を歩いて登りました。なお林道は大雨などで、しばしば通行止めになっていますので、林道経由で訪れる場合は事前に「津市美里総合支所」に電話で確認をお勧めします。今回の参考資料は(1)「三重の山城ベスト50を歩く」福井健二・竹田憲治・中井均編2012(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976などです。長野氏城登城路を歩いて登る比高370m、...長野氏城伊勢その1南北朝期に山上に築かれ信長の伊勢侵攻まで続いた中伊勢の雄、長野氏の城郭

  • 白川城 陸奥 鎌倉時代から戦国期にかけての広範囲な城郭遺構が次々発見されている

    白川城は福島県白河市藤沢にあり通称搦目(からめ)城ともいわれています。今回は東海古城研究会の見学会で訪れました。源頼朝の奥州征伐で活躍した結城朝光は白河庄を与えられ、孫の祐広が下総結城から移住して、白川城を本拠としたと伝えられています。その後、結城氏は南北朝期に義良親王(後村上天皇)を奉じて北朝方の足利尊氏と戦い奥州南朝派の雄族となりました。初期白川城の築城年代は南北朝時代と考えられており永正年間(1504~1520)には、白川結城氏の本城は小峰城に移ったものと推定されています。今回は御本城山と呼ばれる主郭とその周囲を見学しましたが、周辺には多数の城郭遺構があり、巨大な城郭群の存在が明らかになりつつあるようでした。今回の参考資料は当日配布の見学会資料等です。白川城御本城山を中心とした広範囲の城郭群が明らか...白川城陸奥鎌倉時代から戦国期にかけての広範囲な城郭遺構が次々発見されている

  • 小栃砦と青木峠 信濃 飯田街道を扼する砦とされるが残存遺構に謎が多い

    小栃砦は長野県上伊那郡根羽村字小栃にあります。根羽地区は三河国だったのが戦国期以降、南信の勢力や武田氏によって信濃国に編入されたようです。飯田街道の杣路峠からの道が砦の直下の青木峠を通りますので、砦は根羽村の南西側の守りの役割を担っていたのではないかと考えられます。根羽女城、根羽城ケ峰などと併せて南西側は小栃砦、北側は根羽砦、北西側は月瀬城で守ったのではないでしょうか。飯田街道は三州街道、伊奈街道、中馬街道などとも呼ばれ武田信玄や勝頼も通った主要な街道でした。今回の参考資料は(1)「信濃の山城と館6」宮坂武男2013と(2)「愛知の歴史街道」中根洋治1997(3)ひなたGISなどです。※飯田街道杣路峠は→こちら根羽女城は→こちら根羽砦は→こちら小栃砦根羽地区は信濃と三河の境目にあり矢作川と主要な街道が交わ...小栃砦と青木峠信濃飯田街道を扼する砦とされるが残存遺構に謎が多い

  • 二本松城 陸奥 中世山城と近世城郭の複合城郭遺構を見学 東海古城研究会の見学会で訪れました

    二本松城は霞ヶ城とも呼ばれ福島県二本松市郭内にあります。初代城主は畠山満泰で田地ケ岡からこの地に城を移したと伝わります。その後、目まぐるしく城主が変わり江戸期に入り丹羽光重の時代に近世城郭として形を整えられたとされます。東海古城研究会の特別見学会「福島県の古城と史跡をたずねて」に参加して見学しました。今回の参考資料は(1)パンフレット「史跡二本松城跡」、(2)見学会当日資料と(3)パンフレット「二本松まち歩きマップ」などです。二本松城破線内は初期の城域後に奥州街道は南東に付け替えられた資料によると、畠山満泰が築城した初期の二本松城は新城館に居館があり、本丸に詰城を設け家臣の屋敷を尾根続きの南と東に配置したとされます(点線の城域を想定)。旧奥州街道(想定)は城内を通っていましたが、後の城域拡張で南東に付け替...二本松城陸奥中世山城と近世城郭の複合城郭遺構を見学東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 根羽女城 信濃 飯田街道と矢作川を抑える狼煙台も兼ねた山城

    根羽女城は長野県上伊那郡根羽村字西山にあります。城主・来歴は不明のようですが、西側の飯田街道を挟んだ根羽城ケ峰と同時代の城と考えられるようです。今回の資料は宮沢武男先生の「信濃の山城と館6」2013などです。なお「信濃の山城と館」シリーズに掲載されている数多くのカラー城郭鳥観図は、宮武先生から長野県立歴史館に寄贈され、同館の長野県立歴史館公式HPデジタル歴史館「宮坂武男城郭鳥瞰図」で公開されています。根羽女城のカラー鳥観図も見ることが出来ますので、ぜひご覧ください。※長野県立歴史館の公式ホームページは→こちら根羽女城飯田街道(153号)を挟んで根羽城ケ峰とセットになっていた根羽地区は矢作川、小川川や杣路峠を越してきた飯田街道などの分岐点にあり、資料によると、根羽城ケ峰の城主は石原但馬で武田氏に属する下条氏...根羽女城信濃飯田街道と矢作川を抑える狼煙台も兼ねた山城

  • 鶴峰城 陸奥 猪苗代城に隣接する平山城 東海古城研究会の見学会で訪れました

    鶴峰城は福島県耶麻郡猪苗代町に在ります。東海古城研究会の特別見学会「福島県の古城と史跡を訪ねて」に参加して訪れました。当初の鶴峰城は猪苗代城の分郭として機能していたと伝わり、隠居城と呼ばれていたとされ、猪苗代城とは大きな堀で区切られ、大手虎口なども別に設けられていたようです。中世の猪苗代氏代々の城でしたが、近世初期になって会津藩の支城となり鶴峰城の部分が廃城となり現在の猪苗代城の部分が大改修を加えられて残されたと伝わります。鶴峰城の参考資料はパンフレット「猪苗代城跡附鶴峰城跡」猪苗代町教育委員会などです。鶴峰城猪苗代城の北側に中世の城郭遺構が良く残る平山城見学会では猪苗代城を見学し、両城を区切る堀切を通り北側にある鶴峰城を見学しました。資料によると、廃城となった鶴峰城は、その後手を加えられることが無かった...鶴峰城陸奥猪苗代城に隣接する平山城東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 猪苗代城 陸奥 巨大な土の空堀と石垣の遺構を堪能 東海古城研究会の見学会で訪れました

    猪苗代城は亀ヶ城ともいわれ福島県耶麻郡猪苗代町に在ります。東海古城研究会の特別見学会「福島県の古城と史跡を訪ねて」に参加して訪れました。日頃は地元の山城中心の日帰り見学しかしていませんので福島県の城郭や歴史はほとんど知りませんでしたが、いくつもの巨大な山城や見事な石垣の近世城郭を堪能し、大満足の見学会でした。◆見学会は2泊3日で行われ、11ヶ所の城址を訪れましたので追い追い当ブログに順不同で掲載してゆきたいと思います。今回掲載の猪苗代城の参考資料は(1)見学会当日資料と(2)パンフレット「猪苗代城跡附鶴峰城跡」猪苗代町教育委員会です。猪苗代城磐梯山の山麓南端尾根の先端に築かれている会津と言えば磐梯山ですが、そのすそ野に突き出した尾根状地形の南端に築かれた猪苗代城からは磐梯山が眼前にデーンとすわっていました...猪苗代城陸奥巨大な土の空堀と石垣の遺構を堪能東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 松平信康・築山殿事件の論考が 「城」第234号に掲載されています

    「城」は東海古城研究会の機関紙です。4月発刊の第234号には、会員の高橋陽介さんと石川浩治さんの論考も掲載されています。NHKの大河ドラマ「どうする家康」で取上げられた、家康の上ノ郷城攻めについては石川浩治さんの「徳川家康の上ノ郷城攻めの陣城について」で、松平信康・築山殿の事件については、あの「関ケ原の合戦はなかった」で新たな視点を提供した高橋陽介さんの「松平信康事件の虚像構築過程に関する仮説およびその検証」で各々の研究・検証結果が報告されています。高橋陽介さんの「松平信康事件の虚像構築過程に関する仮説およびその検証」では、事件に関してこれまで語られてきた数多くの諸説を徹底検証し、一時資料を中心にして研究・再検討することで、これまでの諸説と異なる新たな視点が導き出され、とても興味深かったです。※参考までに...松平信康・築山殿事件の論考が「城」第234号に掲載されています

  • 大給城 三河その4 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

    大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあり松平氏の一族が城主と伝えられています。その4では北側の特徴ある水の手曲輪を中心に見学したいと思います。資料によると織田・今川の境目の城だった大給城を松平忠成が「大給城北沢水手」で攻めて戦功を挙げ今川義元から感情を受けたとされます。当時の大給城は北側の沢筋が弱点だったと思われ、今見る規模の大きな水の手曲輪はその後の改修とも考えられ大給城の見どころの一つとなっています。※これまでの大給城はこちらからその1その2その3今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010(4)浅野文庫「諸国古城之図三河加茂大給」広島市立中央図...大給城三河その4岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

  • 大給城 三河その3 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

    大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあり松平氏の一族が城主と伝えられています。その1、その2、では城址の中心部をメインに見学してきましたが、その3ではⅠ郭(主郭)を取り巻く南、西、北の腰曲輪群や館跡とされる南側のⅢ郭、南西尾根と見どころの大堀切などを見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010(4)浅野文庫「諸国古城之図三河加茂大給」広島市立中央図書館所蔵などです。※「諸国古城之図三河加茂大給」は大給城その1をご覧ください。大給城その1は→こちらその2は→こちら大給城その3ではⅠ郭の南、西、北の大堀切、腰曲輪群や館跡とされる南側...大給城三河その3岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

  • 大給城 三河その2 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

    大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあり松平氏の一族が城主と伝えられています。その1に続いて、興味深い遺構のⅠ郭(主郭)、Ⅱ郭、Ⅳ郭を見学したいと思います。今回の参考資料も(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010(4)浅野文庫「諸国古城之図三河加茂大給」広島市立中央図書館所蔵などです。※大給城その1は→こちら※「諸国古城之図三河加茂大給」は大給城その1をご覧ください大給城その2では、Ⅰ郭(主郭)Ⅱ郭Ⅳ郭を中心に見学します。大給城現地案内板の縄張図を切り出すⅣ郭虎口CからⅣ郭、通路22と通り平場24からⅡ郭へ通路27で入りました。Ⅱ郭とⅠ郭を仕切る石塁Pは石垣が巻...大給城三河その2岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

  • 大給城 三河その1 岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

    大給(おぎゅう)城は愛知県豊田市大内町にあります。これまで何度も訪れたことのある山城ですが、先日行われた東海古城研究会の見学会をきっかけに、今回は城址の隅々まで徹底見学します。大給城の今見る姿は小牧長久手の戦い前後に秀吉の東進を恐れた徳川家康方が改修強化した姿とされ、岩山に多数の巨岩が露頭した城域に巧みに築かれています。遺構は曲輪・虎口・土塁・櫓台・竪堀・横堀・水の手など山城のすべての要素が詰まっていますので気が付けば見学に6時間が経っていました。今回はその1としますが、複数回に分けて徹底紹介したいと思います。今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010...大給城三河その1岩山に築かれた多数の遺構が完存する大規模な山城を徹底見学する

  • 西阿知和城 三河 松平信光、徳川家康関連の失われた城郭の占地と縄張りを想定する

    西阿知和城は愛知県岡崎市西阿知和町にあります。松平氏三代信光が松平郷から岩津に進出した時に弟信季がこの地に築城し在城して阿知和氏を名乗り、代々居住したと伝わります。信光が岩津に進出して徳川家康につながる発展をしましたが、元亀の時に武田軍が三河に侵攻して岡崎に迫った時には阿知和右衛門が百々城の青山忠門などと共に真福寺付近で戦ったとされます。※岩津城は→こちら百々城は→こちら西阿知和城岩津七城は岩津城の近距離にあるが、西阿知和城は離れた位置にある松平信光が岩津に進出した際には岩津城の近くに、いわゆる岩津七城を築いたとされますが西阿知和城はやや離れた位置にあります。岩津七城には信光の子供を入れたとされますので、弟の信季は扱いが違っていたのかもしれません。西阿知和城南を流れる青木川は、1633年に現況に付け替えら...西阿知和城三河松平信光、徳川家康関連の失われた城郭の占地と縄張りを想定する

  • 松平城 三河 徳川家康の始祖の地に築かれた城郭 主郭を取り巻く横堀が見どころ

    松平城は豊田市松平町にあります。松平城は郷敷城とも呼ばれ、徳川家の始祖の地とされ初代松平親氏が居館の詰城として築いたと伝わります。城はその後何度も補強され、今見る姿は戦国末期の改修を受けた廃城となる直前の姿と思われます。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994(2)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992(3)「愛知の山城ベスト50を歩く」愛知中世城郭研究会・中井均編2010と現地案内板などです。松平城松平地区は矢作川から遠く三代信光の時に勢力を伸ばし矢作川に達して飛躍した様々な伝承に彩られた松平氏と徳川家ですが、始まりの地である松平地区は山間部にあり、舟運で栄える矢作川沿岸の岩津へ三代松平信光の時に勢力を伸ばしたのを契機として後の徳川家康につながる飛躍を果たしたと...松平城三河徳川家康の始祖の地に築かれた城郭主郭を取り巻く横堀が見どころ

  • 令和5年5月 東海古城研究会の見学会 徳川家康の始祖の地と周辺の城郭を見学

    東海古城研究会の定例日帰りバス見学会が5月21日(日)に行われました。徳川家康の始祖松平氏初代親氏が拠ったとされる豊田市松平地区と周辺の城郭を訪れました。見学コースは丸根城→大給城→松平城→松平氏館→高月院でした。丸根城出丸を取り巻く堀と城址碑大給城特徴ある石垣大給城館跡の広い曲輪大給城北尾根の大堀切大給城岩盤を掘削した大迫力の西尾根の大堀切大給城主郭とⅡ郭を仕切る珍しい石垣大給城高さ4mコケに覆われた高石垣大給城東側を守る虎口大給城北沢の石垣で築かれた巨大な水の手曲輪松平城城域を取り巻く横堀松平城井戸跡大手門跡の石柱松平氏館今は松平東照宮高月院松平家の菩提寺当日は内容が豊富な見学コースで、駆け足の見学でしたが天候にも恵まれ、コロナ禍も収まりつつある中で担当役員さん作成の丁寧な史料と解説で大いに楽しむこと...令和5年5月東海古城研究会の見学会徳川家康の始祖の地と周辺の城郭を見学

  • 柏尾城 美濃 その2 畝状竪堀群と謎の長大な竪堀地形を見学

    柏尾(かしわお)城は岐阜県養老郡養老町柏尾にあります。城主・城歴の詳細は不明のようですが、山麓にあった柏尾寺(柏尾廃寺)が信長によって焼かれたと伝わり、同時期に柏尾城も落城したと考えられます。その2では、山上の柏尾城の城郭遺構に残る石垣造りの小曲輪、畝状竪堀群や東側山腹に残る長大な竪堀地形などを見学します。今回の参考資料は「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第一集」岐阜県教育委員会2002などです。※柏尾城その1は→こちら柏尾城畝状竪堀④⑤⑥など竪堀地形が多い※Ⅰ郭Ⅱ郭と堀切Aは、その1にて柏尾城は東側と西側は、這って登る急角度の岩場とガレ場ですが傾斜の緩い西側と尾根続きの南側は竪堀や大きな堀切で厳重な備えが設けられていました。Ⅲ郭とⅣ郭はガレ場と岩盤の急斜面に無理やり造ったような小平場でした。柏尾城左に竪堀...柏尾城美濃その2畝状竪堀群と謎の長大な竪堀地形を見学

  • 柏尾城 美濃 その1 信長に焼かれた山麓の廃寺から岩山の城郭遺構に登る

    柏尾(かしわお)城は岐阜県養老郡養老町柏尾にあります。城主・城歴の詳細は不明のようですが、山麓にあった柏尾寺(柏尾廃寺)が信長によって焼かれたと伝わり、同時期に柏尾城も落城したと考えられます。その1では、柏尾廃寺と僧房の石仏を集積して祀る千体仏を見学した後に山上の柏尾城の城郭遺構に登ります。今回の参考資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第一集」岐阜県教育委員会2002と(2)現地案内板などです。柏尾城城は養老山地の東尾根の中腹に築かれ柏尾寺は山麓の扇状地との境目に位置する資料(2)によると、柏尾寺は奈良時代の創建といわれ24坊が在ったとされ、信長の焼き討ちで焼亡するまでの長期にわたって付近一帯を領有し、柏尾城も寺領防衛の一環として築かれたのではないかと想像しました。柏尾廃寺柏尾寺は廃寺となり、金堂...柏尾城美濃その1信長に焼かれた山麓の廃寺から岩山の城郭遺構に登る

  • 秦梨城山城 三河 その2 秦梨の旧道を歩き、街道を扼する粟生氏の詰城を見学

    秦梨城山城は愛知県岡崎市秦梨町にあります。その1では秦梨の地を南北に通る旧道と城址の遺構の取っ付きまでを見学しましたが、その2では城郭遺構を見学したいと思います。旧道と城址の位置関係等は、その1をご覧ください。今回の参考資料も(1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994と(2)「愛城研報告第2号」愛知中世城郭研究会1995などです。※秦梨城山城その1は→こちら秦梨城山城大きな堀切Aで区切って二つの郭を築造Ⅰ郭の中心部には櫓台状の大きな土壇⑬、Ⅱ郭南辺には幅広の低土塁が設けられ、帯曲輪と腰曲輪画が取巻いていました。秦梨城山城Ⅰ郭中央部の土壇⑬南から削平は甘く輪郭は不明瞭土壇⑬は幅広の低土塁状の櫓台のような地形でした。周囲の樹木が無ければ乙川沿いの南北の広い範囲が見渡せたことでしょうね。秦梨城...秦梨城山城三河その2秦梨の旧道を歩き、街道を扼する粟生氏の詰城を見学

  • 秦梨城山城 三河 その1 秦梨の旧道を歩き、街道を扼する粟生氏の詰城を見学

    秦梨城山(はたなししろやま)城は愛知県岡崎市秦梨町にあります。城の歴史は古く、城主の粟生氏は鎌倉時代に足利市の被官として秦梨に入り、粟生氏の居館が在ったとされる地には「殿屋敷」の地名が残り秦梨城山城はその詰城だったとされます。また秦梨を南北に抜ける主要道があり、秦梨山城は主要道を扼する位置にあり、南を梅薮屋敷、北を秦梨城によって守っていたと考えられています。その1では今もその痕跡が残る古い道を探り秦梨山城との位置関係も確認したいと思います。今回の参考資料は(1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994と(2)「愛城研報告第2号」愛知中世城郭研究会1995などです。※梅薮屋敷は→こちら秦梨城は→こちら秦梨山城明治の旧地図で旧道を確認する現在の地図では旧道は不明確ですが、明治の地図では旧道が明確...秦梨城山城三河その1秦梨の旧道を歩き、街道を扼する粟生氏の詰城を見学

  • 大給城 松平城 丸根城ほか 東海古城研究会の見学会 案内ハガキが届きました

    東海古城研究会から5月21日(日)の日帰りバス見学会の案内ハガキが届きました。中身の濃い日帰り見学会の内容です。※東海古城研究会公式Twitterは→こちら大給城城趾碑と大堀切大給城興味深い石垣丸根城馬出が見どころ松平城松平氏発祥の地徳川家康の始祖の地、松平郷を中心に日帰りバス見学会が行われます。何度も訪れても、そのたびに新たな発見があり今回も期待できます。詳しくは東海古城研究会の公式Twitterでご覧になれます。問い合わせや参加申し込みも可能です。大給城松平城丸根城ほか東海古城研究会の見学会案内ハガキが届きました

  • 秦梨城 三河 尾根を断ち切る大堀切が圧巻 北を守る粟生氏の居館か

    秦梨(はたなし)城は愛知県岡崎市秦梨城にあります。城主の粟生氏は鎌倉時代に三河守護足利市の被官として秦梨郷の郷司となり永禄期に松平元康に屈して去るまでの約300年間にわたりこの地を支配したようです。今回の参考資料は(1)「愛知県2」愛知県教育委員会1994(2)「愛城研報告2」愛知中世郭研究会1995などです。秦梨城南に梅薮屋敷、北に秦梨城「お屋敷」の詰城として秦梨城山城が伝わる秦梨地区の中心に「お屋敷」の地名が残り秦梨城山城がその詰城で、北を守る秦梨城、南を守る梅薮屋敷の体勢だったと考えられます。古くは南の茅原沢町から秦梨町に抜ける峠越えの街道がメインだったようで、この街道の北を守るのが秦梨城だったとされます。今は35号線が秦梨城と乙川の間を通っていますが、往時の道は秦梨から渡河して向林城の下を通ってい...秦梨城三河尾根を断ち切る大堀切が圧巻北を守る粟生氏の居館か

  • 大高城ほか 尾張 東海古城研究会の見学会で訪れました

    今回は、東海古城研究会の月例見学会で年次総会を兼ねて、大高城と桶狭間の戦いでの織田勢の陣城城塞群を訪ねました。見学コースはJR大高駅に集合➡鷲津砦➡長寿寺➡丸根砦➡定期総会➡大高城➡向山砦➡氷上砦でした。鷲津砦の位置は城趾碑の建つ鷲津砦A、北側の尾根の先端部Bなどが候補地としてありますが、住宅開発や耕作地化などで、今見る地形からでは判断が分かれるようです。丸根砦の周りは住宅地ですが遺構もある程度残り城趾碑も立っています。向山砦は春江院に隣接した地形とされます。氷上砦は氷上姉子神社周辺と伝わりますが明確な遺構は残っていないようです。鷲津砦A城趾碑が建つ鷲津砦Aには城趾碑が建っていますが、耕作地化などで地形の改変が著しいため、往時の遺構の確認が難しいようです。明忠院から鷲津砦Bを見上げる西下から鷲津砦Bは明忠...大高城ほか尾張東海古城研究会の見学会で訪れました

  • 朝比奈の城山 遠江その2 大迫力!全長500mの尾根に展開する遺構の残りが良い山城

    朝比奈の城山は静岡県御前崎市下朝比奈にあります。今回はその2です。※その1は→こちら朝比奈の城山今回は図5の部分を見学します朝比奈の城山は全長500mに及ぶ尾根上に築かれた山城で、その1では図3と図4の部分を見学しました。今回は中心部の図5の部分を見学します。朝比奈の城山Ⅰ郭が主郭Ⅱ郭はⅠ郭に付随した物見台とされる朝比奈の城山は東からの侵入に対する備えが厳重で、尾根を断ち切る大きな堀切D,EやⅡ郭の土塁などが見どころでした。Ⅰ郭の縁辺部にぐるっと溝が切られていましたが、雨水によって曲輪の切岸が崩落するのを防ぐための排水溝だったのかもしれないと考えました。朝比奈の城山堀切1南西から右にⅠ郭の切岸尾根hを登るとⅠ郭とhを断ち切る堀切1が設けられていました。東側の二重堀切と比べると規模が小さいものでした。朝比奈...朝比奈の城山遠江その2大迫力!全長500mの尾根に展開する遺構の残りが良い山城

  • 朝比奈の城山 遠江その1 大迫力!全長500mの尾根に展開する遺構の残りが良い山城

    朝比奈の城山は静岡県御前崎市下朝比奈にあり南谷城とも云うようです。城主に曽根孫太夫長一の名が残り城山の北側山下に土塁で囲まれた屋敷跡が伝わります。今見る城址遺構は天正二年の武田勝頼の高天神城奪取以降の武田軍の補給路の一つとして改修を受けている可能性が指摘されています。今回の参考資料は(1)「静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978と(2)「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022などです。◆城域が広いためその1、その2でお伝えします。朝比奈の城山朝比奈川を挟んで北側には横舟城がある資料⑵によると、武田軍が横舟城とセットで朝比奈ルートの補給路を確保するために朝比奈の城山も改修・強化したと考えられる記されていました。朝比奈の城山南北500mの尾根に遺構が残る規模が大きく図が...朝比奈の城山遠江その1大迫力!全長500mの尾根に展開する遺構の残りが良い山城

  • 祐向山城 美濃 地域最高所に築かれ掛洞城との関連が考えられるの山城

    祐向山(いこうやま)城は岐阜県本巣市法林寺にあります。城主・城歴は明確ではないようですが所在する旧地名は本巣町文珠と岐阜市奥にまたがっていました。付近には掛洞城や法林寺城があり関連を探ってみたいと思います。今回の資料は(1)「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第1集」岐阜県教育委員会2002(2)「岐阜の山城ベスト50を歩く」三宅唯美、中井均編2010などです。※掛洞城は→こちら祐向山城周辺の山城の最高所に祐向山城はある文殊の森公園として整備され山口城、法林寺城、祐向山城を巡るハイク道があり、祐向山城と掛洞城は尾根道で連絡されています。今回は北東側の奥地区から登り掛洞城経由で祐向山城を見学します。※掛洞城は→こちら祐向山城掛洞城から尾根道をたどり祐向山城へ文殊の森公園は人気のハイキングコースのようで、ハイク道...祐向山城美濃地域最高所に築かれ掛洞城との関連が考えられるの山城

  • 岩津城 その2 真の姿を見せた城は見どころ豊富 東海古城研究会の見学会で訪れた

    岩津城は岡崎市岩津町にあります。松平氏三代目の松平信光が松平郷から進出し、後の徳川家康につながる発展の礎を築いた歴史上重要な場所です。2023年3月東海古城研究会の見学会で近年整備されて真の姿を見せる岩津城と信光が創建した信光明寺、信光に至る松平三代の墓所、初代親氏の庶子と言われ信光に従った酒井広親、信光に従って活躍した成瀬政直の墓などを見学しました。今回の参考資料は見学会の当日資料です。※岩津城その1は→こちら岩津城矢作川の舟運によって栄えた岩津を信光が領して発展の礎を築いた家康の将軍就任に関連して「源氏」の血筋が強調されましたが、岩津に残る諸資料では、信光のころは都との結びつきが強く、徳川の家紋の三葉葵のルーツは、当時名乗っていた加茂朝臣から加茂神社の「二葉葵」の可能性が否定できないようです。信光が岩...岩津城その2真の姿を見せた城は見どころ豊富東海古城研究会の見学会で訪れた

  • 猪飼城 伊勢 単郭小規模 シンプルな集落の城 耕作地化との関連は

    猪飼城は三重県桑名市多度町北猪飼にあります。小規模な村の城で、城主・城歴は不詳の様のようです。主郭や腰曲輪には石垣が見られますが、後世に積まれた可能性もあるようにみrました。今回の参考資料は「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。猪飼城付近には同様の小規模な小山城がある集落と直結した「村の城」と考えられる猪飼城は、肱江川に突き出した集落近くの尾根の先端部に築かれ、後世に耕作地として利用された可能性がありそうでした。猪飼城南からの全景城は集落北側の尾根先端部に築かれていますが、現在は城址主郭部への道が尾根の東西に2本あり、城道の断定は難しいようです。猪飼城自然地形の谷Aを後方の守りとし、南側の守りは切岸のみ?後世の耕作地化による改変が考えられるので、Ⅰ郭の周囲に土塁がなかったとは断定することは難し...猪飼城伊勢単郭小規模シンプルな集落の城耕作地化との関連は

  • 竹谷城 三河 絵図と照合して往時の姿を想定する 東海古城研究会の見学会で見学

    竹谷城は愛知県蒲郡市竹谷町にあります。2023年2月21日に東海古城研究会の見学会で訪れました。当日資料によると、松平宗家三代目信光の長男守家が竹谷の地を与えられ、竹谷松平を名乗ったとされます。築城は十六世紀初頭と伝えられているようです。今回の参考資料は(1)見学会当日資料(2)「愛知県中世城館跡調査報告3」愛知県教育委員会1997(3)広島市中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「三河宝飯竹ノ谷」(4)「愛知の山城ベスト50」愛知中世城郭研究会・中井均編2010などです。竹谷城占地は埋立て前の三河湾に近く街道も城の南側を通っていた鵜殿氏の上ノ郷城が北東約2kmにあり、竹谷に進出した松平氏と共存していた時期があった思われ、港には約200mと近く、東西を結ぶ主街道とも接していましたので軍事的にも経済的に...竹谷城三河絵図と照合して往時の姿を想定する東海古城研究会の見学会で見学

  • 牧ヶ久保城 伊勢 珍しい構造の遺構が残る、これまで情報が見られなかった城址

    牧ヶ久保城は三重県鈴鹿市小社町牧ヶ久保にあります。これまで、その存在や城主・城歴などの情報に接することはありませんでしたが、「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008によって紹介されていましたので見学しました。城は牧ケ久保城の脇を流れる御幣川の左岸に突き出した舌状台地上に築かれていました。牧ヶ久保城御幣川上流約1.5kmの同じく左岸には小岐須城がある周辺には伊勢国の一宮、猿田彦神社の本宮椿大社があり、コンパクトながら遺構が良く残る山本城や小岐須城なども有ります。※山本城は→こちら牧ヶ久保城Ⅰ郭(主郭)、Ⅱ郭は土地の造成で遺構の改変がある。近年の工場用地造成によってⅠ郭、Ⅱ郭周辺の遺構は改変を受けましたが、資料の縄張図作成時点では、まだ遺構全体が確認できたようです。図2の④も造成部分は今は埋め立てられていまし...牧ヶ久保城伊勢珍しい構造の遺構が残る、これまで情報が見られなかった城址

  • 上飯田砦 遠江 平成8年発見の幻の山城 飯田古城の北を監視する支城だったか

    上飯田砦は静岡県周智郡森町上飯田にあります。附近の宅地造成に伴って行われた発掘調査によって確認されました。南方300mには地元の雄族山内氏の飯田古城があり、飯田古城にある崇信寺とも深い関りが想定されるところから、飯田古城又は飯田城の支城だった可能性が考えられるようですが、その存在が文献・資料・地誌などに見られない幻の城と言われます。今回の資料は「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)静岡古城研究会2022などです。上飯田砦崇信寺の前身は上飯田砦の城山の一角にあった中心部は後世の改変がある上飯田砦は城址から延びる尾根などに山畑が多数開発され、遺構と紛らわしい平場が尾根上に多数ありました。また城郭遺構のある中心部は後世の護摩壇や神社などの宗教施設によっての改変があるようでした。上飯田砦見学路はa又は...上飯田砦遠江平成8年発見の幻の山城飯田古城の北を監視する支城だったか

  • 磯山城 近江 その2 歴史に度々登場する全長1㎞ の山城 数多い犬走が見どころ

    磯山城は滋賀県米原市磯にあります。その1では磯山城の小字名トラカシロ(虎ヶ城)にある北城の近くまで見学しました。その2では、北城周辺から見学を始めます。※その1は→こちら磯山城北城⑨のある磯山から3方向に尾根が延びている北城から礒崎神社に下り⑪を見学して引き返し、北東尾根の⑬⑭を見学しました。その後石ケ鼻の尾根を下りながら見学しました。磯山城北城⑨南側の平場⑧南東から小雨模様で雨具が必要だった平場⑧の面積は広かったですが、土塁は無く防御施設は切岸のみのようでした。長谷川先生は解説で、守りの要は切岸と強調されます。他の城址を見学する時にも切岸に注目して見学する様にしています。磯山城北城⑨南辺の犬走と切岸カッコ良くて見どころです!北城⑨の南側の先端部を取り巻くように犬走が設けられていました。犬走によって削り出...磯山城近江その2歴史に度々登場する全長1㎞の山城数多い犬走が見どころ

  • 磯山城 近江 その1 歴史に度々登場する全長1㎞ の山城 数多い犬走が見どころ

    磯山城は滋賀県米原市磯にあります。今回はウッディパル余呉の城郭フォーラムに参加し見学しました。講師は歴史城郭研究家の長谷川博美先生でした。磯山城は彦根市松原を本拠とする松原氏が城主と伝わり、その後北近江の浅井氏によって落城。織田信長の佐和山城攻略では織田軍が陣したとされます。関ケ原の戦い後に井伊直政が彦根城を築く際には磯山、彦根山、荒神山が検討されたといわれます。今回の資料は(1)長谷川博美先生作成の当日資料「城郭フォーラム磯山城レジュメ」(2)「図解近畿の城郭Ⅴ」城郭談話会編2018などです。磯山城は琵琶湖に突き出した磯山のある半島状の尾根上に築かれ、琵琶湖の海上交通と東側の街道を抑える要衝だったようです。明治のころには砂の堆積で内湖が琵琶湖と分断されていたようです。磯山城内湖は埋め立てられ往時の様子は...磯山城近江その1歴史に度々登場する全長1㎞の山城数多い犬走が見どころ

  • 岩津城 三河 東海古城研究会の見学会が行われます

    東海古城研究会の3月の見学会の案内ハガキが届きました。3月19日(日)午後「岩津城と信光明寺」を見学します。徳川(松平)家康の始祖の地・松平郷から松平三代信光が岡崎市の岩津に進出し、後の松平家(徳川家)の発展の礎を築いたのが岩津城と信光明寺です。岩津城鳥観図小牧長久手の戦い前後に家康が大幅改築した興味深い姿を今に留める地元の方が整備に尽力され、往時の姿を見ることが出来るようになっています。見学会の詳しい案内は東海古城研究会の公式Twitterに掲載されています。問い合わせや申し込みは公式TwitterのDMやGoogleフォームで出来ます。当ブログの左下にもリンクが張り付けてあります。岩津城三河東海古城研究会の見学会が行われます

  • 小島城 三河 消滅した城郭遺構を絵図から想定復原すると意外に面白い

    小島城は愛知県西尾市小島町にあります。初期の城主は鷹部屋鉾之助と伝わり、その後山田七蔵重宗、伊奈忠基、忠家、忠次が居城し徳川家康の元で活躍した忠次の時、家康の関東移封に従ったとされ小島城は廃城となったようです。今回の参考資料は、広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「三河幡豆小島」とWikipediaなどです。小島城今は大規模な工場が建ち、城址は完全消滅した近年の大規模開発によって、城郭遺構と周辺には大規模な工場が建ち並んで遺構は失われ付近に立ち入ることは出来ませんでしたので周囲を見学して回りました。諸国古城之図に小島城の絵図が残されていて、周辺の地形と照合すれば、城郭部分の想定復原がある程度可能かもしれないと思い試みてみました。広島市立中央図書館所蔵浅野文庫「諸国古城之図」より「三河幡豆小島...小島城三河消滅した城郭遺構を絵図から想定復原すると意外に面白い

  • 大洞城 美濃 その2 石造りの城郭、堀切や竪堀もよく残り興味深い

    大洞城は岐阜県関市富之保にあります。その1では通路cを進み、石垣③まで見学しました。今回の参考資料も「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第2集」岐阜県教育委員会2003などです。※その1は→こちら大洞城道bは林道の敷設で失われ、枡形虎口アも石垣の一部のみが残る道aは今も踏跡が明瞭に残り⑥付近は段差がありました。資料によるとアの位置に石垣造りの枡形虎口があるとされていましたが、林道工事によって石垣の一部が残るのみでした。大洞城道cから石垣③を見上げる東から高さは3m程ありそう見どころです!石垣③の上にはⅠ郭とⅡ郭があり、通路cを見下ろす構造になっていたようです。荒々しい石垣が見どころでしたが、少し崩れたところがあり通路cには転落石がいくつも転がっていました。大洞城通路cとⅡ郭東からⅡ郭は南辺が石垣の馬出曲輪のよ...大洞城美濃その2石造りの城郭、堀切や竪堀もよく残り興味深い

  • 大洞城 美濃 その1 山上に石垣の山城 山下に屋敷地が明瞭に残り見ごたえあり

    大洞城は岐阜県関市富之保にあります。一柳城とも呼ばれ一柳伊豆守直末が築城した、稲葉彦六が城主だったなど諸説があるようですが、不明な点が多いとされます。今回の参考資料は「岐阜県中世城館跡総合調査報告書第2集」岐阜県教育委員会2003などです。大洞城山城、居館、城下町が揃っていたか津保川と武儀倉川に挟まれた尾根上に城郭遺構が、山下に居館跡が残ります。保津川左岸(南側)の地名「町」には城下町もあったと伝わります。大洞城山下と山上に城郭遺構が残る城道bは林道で改変された資料によると、稲荷神社の敷地部分は屋敷地だった可能性があるとされ、その場合はさらに広い屋敷地が山下に広がっていたことになります。道aは今も残りますが、道bは近年の林道の敷設でかなり失われていました。山上の城郭はコンパクトながら、興味深い遺構が良く残...大洞城美濃その1山上に石垣の山城山下に屋敷地が明瞭に残り見ごたえあり

  • 田振城 三河 峠道と足助街道を見張る最高所の城郭だったか

    田振城は豊田市田振町にあります。城主は林五郎左衛門義豊の名が伝わるようですが、城の来歴などは不詳とされます。その立地が付近の最高所にある為、足助の黍生城などとの関係性が考えられるようです。また旧道の峠と旧足助街道を見下ろす位置に所在するので両方を見張る城郭だったのではないかとも想像しました。今回の参考資料は(1)「足助の中世城館」足助町教育委員会2001と「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994などです。※黍生城は→こちら田振城城は付近の最高所にある城は周囲の監視には最適の立地で、足助街道や巴川を渡る峠道の監視にはもってこいの場所だったと考えられます。井ノ口城と併せて街道の監視が行われていたと想像しましたがどうでしょう。また北東の黍生城や南西の霧山白山城も見通せるので情報伝達の繋ぎの城として...田振城三河峠道と足助街道を見張る最高所の城郭だったか

  • 佐久間城 遠江 平成になって確認された奥山氏の城 主要な山道を抑える高所に所在

    佐久間城は静岡県浜松市天竜区佐久間町佐久間にあります。平成12年に地元住人の情報により静岡古城研究会によって現地踏査と縄張図の作図が行われ調査結果は「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」に掲載されました。天竜川沿いの佐久間町には昭和36年(1956)に佐久間ダムが完成し、天竜川沿いに在ったいくつかの集落が水没しました。佐久間城は、その集落をつなぐ尾根を通る古くからの主要な道を扼する高所に設けられた奥山氏の城郭だったと思われます。今回の参考資料は「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022です。佐久間城水巻城と東側の主要街道が見えるのろし場も兼ねていた可能性も水巻城の位置は確定していないようですが宥泉寺のある場所だとすると、佐久間城は城域を通る尾根道の抑えだけでは...佐久間城遠江平成になって確認された奥山氏の城主要な山道を抑える高所に所在

  • 形原松平・竹谷松平城址と関連史跡 東海古城研究会の見学会で訪れます

    東海古城研究会の2月見学会の案内ハガキが届きました。令和5年2月19日(日)十四松平のうち形原松平・竹谷松平の関連史跡を訪れます。東海道本線JR三河塩津駅に午後12時集合名鉄電車で移動し、形原古城や竹谷城ほか関連史跡を訪ねます。非会員も参加OK申し込み、問い合わせは東海古城研究会の公式TwitterのDMでどうぞ。当ブログの左下のブックマークからもリンクしています。形原松平・竹谷松平城址と関連史跡東海古城研究会の見学会で訪れます

  • 源太屋敷城 近江 屋敷と呼ばれるが、実は折れを伴う虎口が見どころの本格山城だった

    源太屋敷城は滋賀県甲賀市水口町岩坂にあります。土豪篠原源太の邸址と伝わります。単郭方形の山城ですが南側の尾根には削平された可能性のある広い平場が在り、小土豪の山城以上の存在だった可能性が考えられるとされます。今回の参考資料は「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010などです。源太屋敷城付近の杣川左岸には多数の城跡、屋敷跡がある源太屋敷の名前から、シンプルな平場の跡がありそうなイメージで見学に出かけましたが、本格的な興味深い山城だったのでワクワクでした。直近には平子城や岩坂屋敷が在り何らかの関連が有ったかもしれません。源太屋敷城主郭を取り巻くように後世の林道が敷設され、北側山腹の遺構は改変を受けた城道の入口は不明でしたが、北側山下の小川に橋が架かっていたので、そこから入りました。明確な道は見付...源太屋敷城近江屋敷と呼ばれるが、実は折れを伴う虎口が見どころの本格山城だった

  • 北廻城 伊勢 滝川一益に攻められ籠城するが降伏 養老鉄道で一部が削られたか

    北廻城は三重県桑名市下深谷部にあります。北廻は「きたはざま」と読むようです。築城は近藤家隆とされ、後に滝川一益に攻められたときに籠城し、水が無いため白米を水の如く見せたので白米城ともいわれましたが、地下からトンネルを掘られて入城されて降伏したと伝わります(諸説あり)。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。北廻城の」北側には近藤氏の家臣だった玉井氏の三砂城がありましたが、北廻城が降伏した頃に落城したとされます。※三砂城は→こちら北廻城養老鉄道の敷設工事で城域東側の遺構が削られた可能性あり城は西から延びる尾根がT字型に東西に分かれた尾根上に設けられていました。城道は明確ではないようなので、南の西林寺の墓地から登りました。北廻城東...北廻城伊勢滝川一益に攻められ籠城するが降伏養老鉄道で一部が削られたか

  • 裏山城 美濃 新発見城館!尾根を通る間道を中間点で扼する城郭だったか

    裏山城は岐阜県恵那市上矢作町下にあります。(1)『恵那市の新発見城館跡』恵那市教育委員会2022で報告された7ヶ所の城館の内の一つです。城主や城歴は不明ですが美濃と三河の国境付近の尾根を通る間道を抑える役割があったと推定される城館とされます。今回の資料は上記(1)です。※新発見の城館はこちら→釜屋大洞城飯高城田沢城奈免入城上矢作大平城陣屋敷裏山城美濃と三河の国境近くの尾根道に所在南に三河の大河矢作川が流れる矢作川にそそぐ上村川沿いの尾根筋の間道を扼する位置に所在し、間道の南北両方向に備えた城郭遺構が残っていました。明治の旧地図を見ると尾根筋の西側の上村川沿いと東側の谷間に道がありますが、尾根筋の道は描かれていませんでした。主要な道ではなく、早くに使われなくなったのかもしれません。裏山城墓地から尾根を登る道...裏山城美濃新発見城館!尾根を通る間道を中間点で扼する城郭だったか

  • 西広瀬城 三河 その2 松平元康(後の徳川家康)も攻めたと伝わる佐久間氏の城郭に諸説あり!

    西広瀬城は愛知県豊田市西広瀬町にあります。その1では往時の城道を探りながら主郭Ⅰまで登り、最高所の土塁上に二ホンカモシカ君を見ました。その2では主郭を取り巻く横堀、帯曲輪北西の大きな堀切周辺を見学します。今回の参考資料も(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992と(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「諸国古城之図」広瀬ー(三河加茂)広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブなどです。※西広瀬城その1は→こちら西広瀬城三河の大河矢作川を挟んで対岸の東広瀬城に対峙していた矢作川と飯野川を天然の要害とし、北西側は尾根の自然地形を利用した大堀切で遮断した堅固な備えを持った尾根先端の城郭のようです。西広瀬城後世の耕作地化で改変が見られるが、遺構の残りは良い資料(3)に...西広瀬城三河その2松平元康(後の徳川家康)も攻めたと伝わる佐久間氏の城郭に諸説あり!

  • 西広瀬城 三河 その1 松平元康(後の徳川家康)も攻めたと伝わる佐久間氏の城郭に諸説あり!

    西広瀬城は愛知県豊田市西広瀬町にあります。城主は佐久間氏と伝わりますが信長配下の尾張の佐久間氏ではなく土着の豪族だったともいわれます。佐久間氏配下の岩松弥八は天文十八年(1549)岡崎城の松平広忠(家康の父)を暗殺し(諸説あり)、後に佐久間全孝は松平方の刺客によって暗殺されたとされます。永禄元年(1558)には松平元康が広瀬城を攻めたと伝わります。その後西広瀬城には織田氏の家臣の佐久間信直が入り佐久間氏の同姓により諸説が生じたようです。今回の参考資料は(1)「豊田の中世城館」愛知中世城郭研究会1992と(2)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅲ」愛知県教育委員会1998(3)「諸国古城之図」広瀬一(三河加茂)広島市立中央図書館/広島市立図書館貴重資料アーカイブなどです。西広瀬城矢作川を挟んで東広瀬城があり城主は三...西広瀬城三河その1松平元康(後の徳川家康)も攻めたと伝わる佐久間氏の城郭に諸説あり!

  • 三砂城 伊勢 織田信長の伊勢侵攻で主城の北廻城と共に滅んだ小土豪の詰城か

    三砂(みすな)城は三重県桑名市上深谷部にあります。城主は玉井四郎左衛門尉と伝わり、北迫間城主近藤氏の重臣だったので、北廻城の支城であったと考えられています。付近の山下に三砂屋敷が在り玉井氏の居館とされ三砂城はその詰城となっていた可能性がありそうです。今回の参考資料は(1)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008と(2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976などです。三砂城往時は揖斐川長良川の乱流の自然堤防上に集落があり山裾を美濃街道が通っていたと思われる資料(2)によると、北廻城は滝川一益によって永禄年間(諸説あり)に攻められて降伏したとされ、三砂城の玉井氏もそのころ滅んだと考えられています。現在は田地となっている揖斐川沿岸部も往時は河水が流れていたのではないかと思いますがどうでしょう。三砂城北部を養...三砂城伊勢織田信長の伊勢侵攻で主城の北廻城と共に滅んだ小土豪の詰城か

  • 小川城 遠江 その2 伝承の城郭が静岡古城研究会によって発見された!

    小川城は静岡県浜松市天竜区佐久間町大井字鮎釣にあります。その1では城址を通る道aを想定して見学しましたが、その2では小川城の城郭遺構も見てゆきたいと思います。小川城は地山が石の山で、そのために制約も多かったと思われますが、水窪川に沿った南北の街道や地域を結ぶ東西の道を抑える重要な拠点だったと思われます。その1も参照しながらその2をご覧ください。今回の参考資料は「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)静岡古城研究会2022です。小川城その1は→こちら小川城堀切Aと堀切Bの間が城域か横堀状地形⑧も城域だったか発見された小川城の城域は堀切Aと堀切Bの間ではないかと思いましたが、資料には堀底道⑧にも軍事的な意味合いがあったと記されていました。道aは主郭Ⅰを迂回していますがⅡ郭は地形的に避けて通ることが出...小川城遠江その2伝承の城郭が静岡古城研究会によって発見された!

  • 小川城 遠江 その1 伝承の城郭が静岡古城研究会によって発見された!

    小川城は静岡県浜松市天竜区佐久間町大井字鮎釣にあります。一帯を古くから支配していた奥山氏の一族が築いたと伝承されてきましたが、その所在は確認されていませんでした。2004年に静岡古城研究会の調査により発見され、このほど「静岡県の城跡」に掲載されました。今回の参考資料は(1)『静岡県の中世城館跡』静岡県教育委員会1978と(2)「静岡県の城跡中世城郭縄張図集成(西部・遠江国版)」静岡古城研究会2022などです。小川城信濃との国境に近く水窪川をさかのぼるり北進すると青崩れ峠に至る奥山氏は一族が山深い一帯に割拠し、永禄年間の遠州忩劇の時には同族間での争いがあったとされます。小川城は城域を地域を結ぶ山道が通っていた可能性も探ってみたいと思います。※地域を結ぶ道が城域付近を通っていた例はこちら→田沢城萩野城小川城資...小川城遠江その1伝承の城郭が静岡古城研究会によって発見された!

  • 井口氏城 近江 上馬杉城館群の西北端で主要街道を抑える城館 シンプルだが遺構の残りは良い

    井口氏城は滋賀県甲賀市甲南町上馬杉字西出にあります。上馬杉地区には馬杉本城を中心とした8ケ所、北側の下馬杉地区には3ケ所の城館があり付近一帯を領した馬杉氏が築いた城館と考えられていますがその来歴は定かではないとされます。井口氏城は上馬杉地区の北西部の街道入口に位置し、浅野川対岸の馬杉城とペアで間を通過する主要な街道を守っていたと思われます。今回の参考資料は(1)「甲賀市史第七巻甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010(2)「図解近畿の城郭Ⅳ」城郭談話会編2017などです。※馬杉本城は→こちら井口氏城浅野川対岸の馬杉城とペアで北西の下馬杉方面の街道からの侵入に備えたか馬杉城と井口氏城の間を浅野川が流れ主要な街道が通っていましたので、両城がペアで北西方向からの侵入を抑えていたと思われます。井口氏城旧道が井口氏...井口氏城近江上馬杉城館群の西北端で主要街道を抑える城館シンプルだが遺構の残りは良い

  • 上平野城 伊勢 員弁地区の最北端に位置した住民の逃げ込み城だったか

    上平野城は三重県いなべ市藤原町山口にあります。員弁(いなべ)地区の最北端に位置し近江からの峠越えの道がここへ出ます。現地案内板には梅山氏が居住したとありましたが時代などは不明のようです。今回の参考資料は(1)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976(2)「再発見北伊勢国の城」伊藤徳也著2008などです。上平野城近江からの峠道が下って来た最初の集落に所在し山口城よりも西に位置する遺構の土塁は低く堀は浅いので戦いに備えた城とは考えにくく、小土豪の館城ではなかったかと思いました。織田信長の伊勢侵攻で攻め滅ぼされたと伝わる山口城よりも西に位置し、方形単郭の遺構が残っていました。※山口城は→こちら上平野城両側を川に削られた舌状台地の先端部に所在する集落と員弁川を見下ろす場所に所在し、厳重な守りの城とはいいがたいの...上平野城伊勢員弁地区の最北端に位置した住民の逃げ込み城だったか

  • 真田城(真田山城) 遠江 見学路が水害で失われたが、興味深い遺構がてんこ盛りの山城

    真田城は静岡県周智郡森町一宮にあります。城址名は真田山城、一宮城などが有るようです。最近発刊された『静岡県の城跡』に掲載された縄張図と、以前訪れた時に参考にした「静岡の山城ベスト50を歩く」の縄張図が同一の城址とは思われない程に異なっていましたので、確認のために再度訪れました。真田城新東名の遠州森町SAにETCの出入り口が出来て見学が便利になった真田城は当初は武藤氏によって築かれたといわれますが今川、武田、徳川の勢力が入れ替わり入ったため、今見る真田城の姿はその後の改修を経ているとされます。城址遺構の状況から、武田軍が侵攻し陣した時の遺構の可能性が高いとされているようです。真田城宮川に架かる橋も案内板も無くなっている以前訪れた時に在った宮川に架かる見学ルートの橋と案内板が無くなっていました。森町のHPから...真田城(真田山城)遠江見学路が水害で失われたが、興味深い遺構がてんこ盛りの山城

  • 城ケ平城 美濃(追加) 「上石津の山城を巡る」の見学会に参加し疑問点が解消!

    城ケ平城は岐阜県上石津町の多良地区にあります。以前、新発見の山城ということで見学に訪れ、当ブログにアップしましたが城址東側の平場についての疑問が残りました。今回大垣市主催の「上石津の山城を巡る」ツアーに参加する機会があり地元のガイドさんの説明で疑問が解消しましたので紹介したいと思います。※以前のブログ美濃・城ケ平城は→こちら城ケ平城東側の平場A耕作地?屋敷地?※以前の図に一部加筆してあります。平場Aは現在植林された方形の平坦地で、縁辺部に土塁状の地形がありました。以前見学に訪れた時には山畑跡か?屋敷地跡?か、などと想像しました。城ケ平城平場Aは水田跡だった!※以前の図に一部加筆してあります。今回の見学会は、地元の「多良歴史回廊案内の会」のボランティアガイドさんの案内と解説で行われましたので地元の詳しい情報...城ケ平城美濃(追加)「上石津の山城を巡る」の見学会に参加し疑問点が解消!

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