作左曲輪と本多重次屋敷跡
武田軍との戦いで、徳川家康は本多重次を呼んで、長期戦になった場合の兵糧について相談すると、米を十分に貯蔵しているとの返事が返ってきました。それに喜んだ家康は、米蔵の位置に重次の屋敷を作ることを許し、それが後の浜松城の作左曲輪になったといいます。 作左曲輪 「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」 と長篠の陣中より妻にあてた手紙で有名になった本多作左衛門重次(1529~1596)が住んでいたところです。重...
2023/05/20 03:04
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#作左曲輪
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