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千葉神社(→千葉県千葉市中央区院内1丁目)は、古代より「妙見様」として親しまれてきた北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)を主祭神として祭る神社で、全国にある妙見宮の本宮を称しています。北辰妙見尊星王は中国から伝わった蕃神(ばんしん→異国からやってきた神)で、天の中央に位置する北辰(→北極星・北斗七星)が神格化したものです。古代には諸星・方位方角を守護する尊い神であると信じられ、平安時代前期に神仏...
延命山 長松禅寺(いわゆる長松寺→神奈川県川崎市多摩区菅北浦3丁目)は、戦国時代に仙谷山 寿福寺7代目住職の南樹が創建した臨済宗建長寺派寺院です。延命山の山号は、この地が北浦耕地延命場と呼ばれていたことに由来します。南樹は1554(天文23)年4月26日に死去しているので、創建は小田原北条氏の3代目北条氏康の治世に領主佐保田山城守のもとで行われたことが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川...
洞雲山 王林寺(→神奈川県川崎市多摩区菅馬場2丁目)は、僧の蔵雲西庵が開山した臨済宗建長寺派寺院です。蔵雲西庵は江戸時代前期の1619(元和5)年1月22日に死去しているため、創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。王林寺は巨福山 建長興国禅寺(→建長寺、神奈川県鎌倉市山ノ内)と同じく地蔵菩薩を本尊と...
12月中旬、サンシャインシティ文化会館ビル2階の展示ホールで開催された博覧会に行ったので、サンシャインビルに隣接する東池袋中央公園(→東京都豊島区東池袋3丁目)に立ち寄りました。公園の一角に巣鴨プリズン跡慰霊碑「永久平和を願って」という石碑があります。サンシャインシティと東池袋中央公園がある場所は、巣鴨拘置所(→のちに東京拘置所と改称)が置かれていた場所です。戦時下の1944(昭和19)年11月7日には、1941(昭和16)...
金剛山 福昌寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、寺伝によると安土桃山時代前期の1573(天正元)年に僧の恵賢が開山したと伝わる天台宗寺院です。当初は現在の野戸呂稲荷神社(→神奈川県川崎市多摩区菅野戸呂)あたりに建立されたようですが、江戸時代初期に現在地に移転したようです。戦国時代の小沢七村は、小田原北条氏の家臣佐保田河内守某・佐保田山城守政房父子が治めていたため、野戸呂稲荷社あたりへの建立は佐保田氏が行...
菅北浦子之神社(すげきらうらねのじんじゃ→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、創建年代などは不詳ですが、鎌倉時代には前身となる社(やしろ)が稲毛領小沢郷7ヶ村の総鎮守であったと記されています。小沢郷は、旧橘樹郡菅村・細山村・金程村(→現在の川崎市多摩区・麻生区)、旧多磨郡坂浜村(→現在の東京都稲城市)付近にかかる範囲と推定されます。これらには鎌倉時代前期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、...
大谷山 吉祥院 法泉寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)は、この地を治めていた鎌倉時代前期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が、1195(建久6)年7月7日に亡くなった妻の秋楽院妙林大姉のために建立した重成山極楽寺を起源とする天台宗寺院です。1197(建久8)年には源頼朝・北条政子夫妻が参詣して供養料を寄進し、両者の死後、その法要が行われたと記されます。1229(寛喜元)年7月13日には...
横浜高等学校の校歌に「東洋一の商港 横浜」とありますが、港の見える丘公園(→神奈川県横浜市中区山手町)は横浜港を見下ろす小高い丘にある公園で、横浜ベイブリッジを望む絶好のビューポイントとなっています。園内には横浜市イギリス館、イングリッシュローズの庭、フランス山、旧フランス領事館公邸遺構などがあり、異国情緒ゆたかな開港地横浜を感じられる場所の1つといえます。また、港の見える丘公園は、スタジオジブリの映...
宮内春日神社(→神奈川県川崎市中原区宮内4丁目)は、昨日ご紹介した春日山 医王院 常楽寺に隣接する神社です。平安時代後期の1159(平治元)年から1171(承安元)年の頃、現在の川崎市中原区の宮内から井田の地域にかけて「稲毛荘」と呼ばれる荘園が成立し、荘園の鎮守として「春日新宮」が造立されました。これが宮内春日神社の前身です。近年発見された「武蔵国稲毛本荘検注目録」には「平治元年(平安時代後期→1159年)御検注定、春日...
春日山 医王院 常楽寺(→神奈川県川崎市中原区宮内4丁目)は、奈良時代に行基(→東大寺の廬舎那大仏を造立した高僧)が聖武天皇の祈願所として開基したと伝わる真言宗豊山派寺院です。創建寺の宗派は法相宗であったと思われます。境内からは古墳時代の土師器(はじき)のほか、硬玉製の勾玉(まがたま)などが発掘されているので、古代から信仰を集めていたことが窺えます。源頼朝が伊豆に流罪となる平治の乱が起きたの1159(平治元)年には...
小杉神社(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は、創建の詳細は残されていませんが江戸時代後期の記録には鎌倉時代末期の1331(元徳3)年の断碑(→壊れた石碑)があると記されているので、鎌倉時代末期には前身の社(やしろ)があったものと思われます。江戸時代に武蔵国橘樹郡小杉村と呼ばれていたこの周辺には、鎮守三社として小杉社・神明社・総社権現がありました。このうち総社権現は江戸時代前期の正徳年間(→1711年~1716年、6...
龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)は創建の詳細は不詳で様々な俗説が伝わりますが、川崎市教育委員会の調査によると室町時代中期の嘉吉(→1441年~1444年)・文安(→1444年~1449年)年間に川崎市宮前区有馬から現在地に移築されたという真言宗智山派寺院です。寺伝では西福寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼の創建といいますが、真偽の程は定かではありません。ただし、有馬郷は鎌倉時代には鎌倉北条氏の荘園が...
宝林山 運昌院 泉澤寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中7丁目)は、戦国時代前期の1491(延徳3)年に世田谷城主吉良頼高(きらよりたか)が世田谷領烏山(→東京都世田谷区千歳台、旧廻沢町)に開基した自身の菩提寺が前身の浄土宗寺院です。開山は僧の好善と記されます。世田谷吉良氏は武蔵守護扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)の有力国衆でしたが、1546(天文15)年の河越合戦で扇谷上杉氏が北条氏康に滅ぼされると北条氏に従属し、北条氏...
恵日山 成就院(→神奈川県川崎市中原区小杉陣屋町1丁目)は創建の詳細は不明ですが、江戸時代前期に僧の尊秀が創建した真言宗智山派寺院です。尊秀は江戸時代前期の1662(寛文2)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。創建時の本尊は大日如来でしたが、現在は阿弥陀如来となっています。江戸時代には本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺として幕藩体制の一翼...
覚王山 高願寺(→神奈川県川崎市中原区宮内4丁目)は、南北朝時代中期に南朝方の新田・北条軍と北朝方の足利軍との間で鎌倉争奪戦(→武蔵野合戦)がおこり、市内各所でも戦闘が行われました。これらの戦いで死亡した人々を弔うために真言宗寺院の草庵(→後の高元寺)が建てられました。1352(正平7)年に南朝方の新田義興(→新田義貞の次男)・北条時行(→北条高時の次男)らが南朝の征夷大将軍宗良親王(→後醍醐天皇の子)を奉じて鎌倉奪還を目...
上小田中神明神社(→神奈川県川崎市中原区上小田中6丁目)は、神奈川県教育委員会の調査により江戸時代前期の元禄年間(1688年~1704年)から宝永年間(1704年~1711年)に創建されたと推察されます。現在の社殿は明治時代前期の1877(明治10)年に造営、1904(明治37)年に銅板葺屋根へ改修されたもので、神奈川県の有形文化財に登録されています。石造鳥居は太平洋戦争開戦の前年にあたる1940(昭和15)年に建てられました。1877(明治10)年は...
瑠璃光山 薬王院 長福寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中6丁目)は大日如来を本尊とする真言宗智山派寺院です。創建の詳細は不詳ですが、過去帳(→故人の俗名・戒名・死亡年月日などを記した帳簿)に戦国時代中期の1554(天文23)年7月18日に死去した良僅という僧侶の名が記されているため、戦国時代には長福寺、もしくは前身となる寺院が建立されていたことが分かります。1554(天文23)年頃のこの辺りは小田原北条氏(→当主は3代北条氏康)...
長津田宿常夜灯(上宿)は、大石神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)の参道にある、江戸時代後期の1843(天保13)年に秋葉山講中が建立した常夜灯で、高さは240cmあります。長津田宿は江戸時代に江戸城赤坂門から9里(→約36km)ほどの地点にあった宿場町で、大山阿夫利神社へと続く矢倉沢往還(→大山街道とも)沿いにありました。江戸時代後期にはお陰参り(→伊勢神宮への集団参拝)や大山詣(おおやまもうで→大山阿夫利神社への集団参拝)で街...
大石神社(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は創建年代の詳細は不明ですが、人体ほどの石を神体として在原業平(ありわらのなりひら)を祭神として武蔵国と相模国の境界にありました。その後、村民どうしの境界争いの末、現在地に移されたと記されています。神仏習合の頃は「大石権現社」と称していました。在原業平は皇族から臣籍降下した平安時代前期の貴族で、『伊勢物語』の主人公ともいわれています。また、業平は平安時代前期の905...
牛頭天王社(ごずてんのうしゃ→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、長津田村が小田原北条氏の領国であった頃、この地の領主であった引田氏が祇園社(現在の八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請して牛頭天王(ごずてんのう)を祀ったのが始まりです。創建時の牛頭天王社は現在の王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)寄りにあったようですが、江戸時代中期の1796(寛政8)年に現在地に移されたようです。『小田原衆所領役帳』(...
薬王山 医王院 福泉寺(→神奈川県横浜市緑区長津田町)は、寺伝によると室町時代中期の1492(明応元)年3月15日に僧の尊祐が開基した小さな寺院が前身となります。尊祐は熊野山 観音院 玉泉寺(→東京都狛江市東和泉3丁目)を開基したことで以前ご紹介した僧侶です。この小さな寺院は戦国時代に荒廃したようですが、安土桃山時代後期に小田原北条氏の旧臣で北条氏滅亡後に1500石で徳川氏の旗本に取り立てられ長津田村の領主となった岡野房...
王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)は、江戸時代にこの地を治めていた旗本岡本房恒が勧請したと伝わり、神仏習合の頃は「王子権現社」と称していました。岡野房恒は昨日ご紹介した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)を開基した人物でもあります。祭神の速玉男命(はやたまのをのみこと)は熊野権現とも呼ばれているので、熊野信仰の影響が窺えます。江戸時代には同じく岡野房房が開基した高野山真言宗寺院の薬王...
慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)は、安土桃山時代末期に東福山 清源院(→神奈川県厚木市三田)の5代住職麟哲が開山、徳川家臣の岡野房恒(ふさつね)が開基した曹洞宗寺院です。詳しい創建年月日は不明ですが、麟哲は1608(慶長13)年に死去しており、寛政年間(江戸時代中期→1789年~1801年)に開山二百年と鐘楼に彫られたと記されているため、創建は1591(天正19)年~1601(慶長6)年であることが分かります。大林寺を開基し...
弘法松公園(→神奈川県川崎市麻生区百合丘2丁目)は、平安時代前期にこの地を訪れた弘法大師(→真言宗の開祖空海)が、100の谷があれば真言宗寺院を建立しようとしたが、99に止(とど)まったため建断念し、代わりに丘陵の尾根に松を植樹したという伝承をもつ「弘法松」があった場所です。弘法大師(空海)が東国教化と称して門弟5名を伴い関東地方で布教を行ったのは平安時代前期の820(弘仁11)年と記録にあります。なので、弘法大師が松を...
川崎市内には源義経(→源頼朝の異母弟)にまつわる史跡が数多く残されていますが、「弁慶の鍋ころがし」(→神奈川県川崎市麻生区百合丘3丁目)として知られる高台もその1つで、現在は「王禅寺見晴し公園」として整備されています。平安時代末期の1180(治承4)年10月21日に源義経は黄瀬川宿(→静岡県駿東郡清水町八幡)で源頼朝と「涙の対面」を果たし、呉座勇一氏はその際に義経は当時男子のいなかった頼朝の養子となったと指摘しています...
草香山 小沢院 威光寺(→東京都稲城市矢野口)は1643(寛永20)年以前に創建された真言宗豊山派寺院で、1675(延宝3)年に穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)の別当寺となり祭祀を司りました。創建時の本堂は江戸時代中期の火災で焼失し、明治時代初期の1870(明治3)年に改築されました。威光寺は江戸時代の本山・末寺の制により真言宗豊山派寺院の岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。威光寺...
雲騰山 妙覚寺(→東京都稲城市矢野口)は、室町時代に僧の陽雲が創建した臨済宗建長寺派寺院です。寺伝によると室町時代後期に12代将軍足利義晴が開基したとありますが、足利義晴は前将軍足利義稙(よしたね)とその後見人である周防守護大内義興(よしおき)に京都を追われ征夷大将軍を解任され、近江守護の六角高頼を頼って落ち延び、同地で死去した波乱の人生を送った人物です。そのような人物が武蔵国の妙覚寺を開基するはずがなく、...
穴澤天神社(→東京都稲城市矢野口)は、東京神社庁によると紀元前423(孝安天皇4)年の創建としていますが、これは大和地方に大王(→現在の天皇)が王権を確立していない弥生時代中期(→紀元前5世紀)にあたり、もちろん孝安天皇は実在の人物ではないため縁起の信憑性は薄く、創建年代不詳というのが実態です。しかし、穴澤天神社は平安時代前期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている多磨郡8座のうちの1社と比定され...
小沢城(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、鎌倉時代初期の御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が築城し、嫡男の小沢小太郎重政がこの地の支配のために居城していました。鎌倉時代の武士は、所領(→本貫地)となる荘園を名字にしたため、親子兄弟で名字が異なることは珍しいことではありません。稲毛重成の弟は榛谷重朝(はんがやしげとも)・森行重・田奈有朝・小山田重親と全員異なる名字を名...
菅薬師堂(すげやくしどう→神奈川県川崎市多摩区菅北浦4丁目)は、鎌倉時代初期の1187(文治3)年にこの地を治めていた御家人稲毛三郎重成(→小山田有重の子、北条時政の娘婿、畠山重忠の従兄弟)が創建したと伝わる薬師堂です。本尊の薬師如来像は天台宗寺院の大谷山 吉祥院 法泉寺(→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)の鎮守仏で、神仏習合の頃は菅子之神社(すげねのじんじゃ→神奈川県川崎市多摩区菅北浦5丁目)に祀られた根上明神(→根之...
仙谷山 寿福寺(→神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1丁目)は、飛鳥時代前期の598(推古天皇6)年に開基された古寺で、平安時代に天台宗寺院となり、1060(康平3)年には前九年合戦に東国兵を率いて赴く際に源義家(→源頼朝の祖先)がこの地に宿し、寿福寺観音堂に参籠して開運を祈願したといいます。また、鎌倉時代初期の1185(文治元)年に源義経(→源頼朝の異母弟)・武蔵坊弁慶主従が大般若経を奉納し、寺宝として残されているようです。たび重な...
神鳥前川神社(しとどまえかわじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区しらとり台)は由緒によると、鎌倉時代初期の1187(文治3)年5月に武蔵国稲毛荘の御家人稲毛三郎重成(しげなり→北条時政の娘婿、小山田有重の子、畠山重忠の従兄弟)が「霊夢」を受け、日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)を祭神として祀った古社だと伝わります。当初は「白鳥前川社」と称したようですが、いつの頃か白鳥が転じて「神鳥」と書くように...
興栄山 信乗院 万福寺(→神奈川県横浜市青葉区田奈町)は、『新編武蔵風土記稿』には創建年代は不詳とありますが、寺伝によると南北朝時代中期の1369(応安2)年9月に僧の快秀が創建したと伝わる高野山真言宗寺院です。本尊は薬師如来像で、江戸時代には本山・末寺の制により摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の末寺に置かれ幕藩体制の一翼を担いました。万福寺は、江戸時代後期の1830(文政13)年に編纂された『新編武...
摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、平安時代前期の10世紀(→901年~1000年)に延命院という草庵が前身ですが、戦乱や自然災害、恩田郷を治めていた恩田氏(→金沢北条氏の被官)の没落により、延命院は鎌倉時代末期には廃寺寸前となっていました。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が行った建武の新政は一部の例外を除き公家にも武家にも評判が悪く1335(建武2)年には各地で北条氏与党による叛乱(→中先代の乱など)が相次ぎ...
子之辺神社(このべじんじゃ→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、江戸時代後期の1846(弘化3)年に別当寺として祭祀を司った高野山真言宗寺院の摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)の住職空弁が再建したと伝わります。創建年代や祭神は不詳ですが、1955(昭和30)年代に著された『都筑の丘に拾ふ』には「子野辺」と「此野辺」の社号が使われているとあるので、「ねのべ」ではなく「このべ」と読むことが分かります。「野」...
内方姫供養塔(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、恩田川の氾濫で村が水没しかけた時に、自ら川に身を投じて水害から村を守ったとされる鎌倉幕府の御家人恩田氏の娘・内方姫(うちかたひめ)の供養塔と稲荷神社です。4月11日が命日とされ、現在も地元の旧家14軒が「姫宮様講中」(ひめみやさまこうちゅう)を作り、交代で供養祭を行っているそうです。供養塔はかつては山の上にあったようですが、土地区画整理事業の一環で現在地...
上恩田杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、江戸時代に創建された神社で、江戸時代後期の1852(嘉永5)年3月の社屋造営の棟札が現存しているといいます。アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー=カルブレイス=ペリーが「黒船」を率いてい浦賀(→神奈川県横須賀市)に最初に来航するのは、翌年の1853(嘉永6)年6月3日のことです。上恩田杉山神社は、江戸時代には高野山真言宗の摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉...
大龍山 福昌寺(→神奈川県横浜市青葉区恩田町)は、僧の国抽太山が開山したと伝わる曹洞宗寺院です。国抽太山は江戸時代前期の1651(慶安4)年4月15日に死去しているので創建はそれ以前のことと分かります。3代将軍徳川家光が死去するのは国抽太山が死去した5日後の4月20日のことです。 福昌寺は、江戸時代には本山・末寺の制により幕府より15石の寺領を拝領した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)の末寺として幕藩体制の...
九郎明神社(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、鎌倉時代中期の建長年間(→1249年~1256年)に九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(→源頼朝の異母弟)を祭神として祀った社を起源とする、旧古沢村の村社です。ただし、義経は「謀叛人」のため、社伝では「祭神不詳」という扱いになっています。戦国時代には記録から消えますが、江戸時代中期の1711(正徳元)年に「久能社」として再建されたようで、福正寺(→旧古沢村にあった寺)が別当寺とし...
青渭神社(あおいじんじゃ→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、平安時代中期の927(延長5)年に編纂された『延喜式神名帳』(えんぎしき じんみょうちょう)に記された武蔵国多磨郡八座の1つで、創建は900(昌泰3)年以前と言われています。境内掲示によると、この地を開拓した民衆や渡来人が生活に欠かせない水を尊び、祠を建て水神を祀ったのが興りで、祭神は水神の水波能売大神(みずはのめおおかみ)と青渭押比売命(あおいおしひめのみこ...
深大寺は「深大寺そば」がご当地グルメとして有名で、参道や門前には「深大寺そば」を提供する飲食店がずらりと軒を連ねています。江戸時代には深大寺城周辺の農家約300軒のうちほとんどが裏作でそばの実を栽培していたと記されています。深大寺そばの歴史については諸説ありますが、江戸時代に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の庫裏の畑で栽培され、参拝者に蕎麦を供したのが始まりと伝わります。深大寺そば...
浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)は、奈良時代中期の733(天平5)年に虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)を開基した満功(まんく)上人が創建した天台宗寺院です。750(天平勝宝2)年に水神の深沙大王像を安置して淳仁天皇の勅額で「浮岳山 深大寺」と名付けられました。全国的にみても創建時の記録がしっかりと残されている数少ない寺院の1つといえます。創建時は法相宗(ほっそうしゅう→南都六宗の1つ...
一昨日に続き、虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市須佐町2丁目)についてです。祇園寺は寺伝によると、奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功(まんく)上人が創建したと伝わる法相宗(→南都六宗の1つ)寺院で、平安時代に天台宗に改宗され今に至ります。秘仏される鉄造僧形八幡神坐像は鎌倉時代後期に彫られたもので調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・...
医王山 長楽院 常性寺(→東京都調布市国領町1丁目)は、創建年代は不詳ですが鎌倉時代には「常正寺」という名で多摩川沿いに創建されていたと記される真言宗豊山派寺院です。創建時の宗派は不明です。慶長年間(安土桃山時代後期~江戸時代初期→1596年~1615年)に現在地に移転し、僧の祐仙が成田山 新勝寺(→千葉県成田市成田)より成田不動尊を勧請して真言宗豊山派寺院として中興開基しました。江戸時代には本山・末寺の制により「関...
虎柏山 日光院 祇園寺(→東京都調布市佐須町2町目)は、寺伝によると奈良時代中期の750(天平勝宝2)年に浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)を創建した満功上人が創建したと伝わる天台宗寺院です。鎌倉時代後期に彫られた神仏習合の影響が色濃い僧形八幡神坐像は、調布市文化財に指定されています。江戸時代には本山・末寺の制により法縁から深大寺の末寺とされました。ただし『調布市百年史』によると、祇園寺はしば...
国領神社(→東京都調布市国領町1丁目)は、鎌倉時代に多摩川河畔に創建された社殿を、多摩川の洪水が頻発したため現在地に移転したと伝わります。この場所は、江戸時代の古地図で見ると医王山 長楽院 常性寺(→東京都調布市国領町1丁目)の本堂から北に約200ⅿ離れた場所にあたり、同寺の境内社「第六天社」(→のちの八雲社)があった場所になります。神仏習合の頃は、おそらく同寺が別当寺として第六天社の祭祀を司っていたのでしょう。1...
三栄山 大正寺(→東京都調布市調布ヶ丘1丁目)は、安土桃山時代から江戸時代にかけて創建された広福山 栄法寺・紫雲山 宝性寺・三栄山 不動院 寿福寺の3寺院を、大正時代初期の1915(大正4)年に合併して新たに創建された新義真言宗寺院です。3寺とも江戸時代には本山・末寺の制により星宿山 蓮華蔵院 王禅寺(→神奈川県川崎市麻生区王禅寺)として幕藩体制の一翼を担っていました。大正寺として合併されることになった由来は『調布市百...
布田天神社(ふだてんじんしゃ→東京都調布市布ヶ丘1丁目)は、平安時代前期の927(延長5)年に制定された『延喜式』神明帳に名を連ねる武蔵国多磨郡八座の1つに数えられる多摩地方有数の古社です。社伝では11代垂仁天皇(→死亡した西暦70年は弥生時代にあたるため実在性はかなり低い)の時代に創建されたと伝わりますが、木簡などの記録から平安時代前期の900年には少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神とする社(やしろ)が創建されてい...
渓照山 西向院 光岳寺(→東京都調布市富士見町1丁目)は、徳川家康の母・伝通院殿(→於大の方)を埋葬した地に、江戸時代前期の1645(正保元)年に無量山 伝通院 寿経寺(→東京都文京区小石川3丁目)の4代住職の叡誉聞悦(えいよもんえつ)が開山、弟子の成誉廓呑が開基した浄土宗寺院です。寺号は、於大の方の法名「伝通院殿容誉光岳智光大禅定尼」に由来します。江戸時代には本山・末寺の制により無量山 伝通院 寿経寺の末寺に置かれました...
下石原八幡神社(→東京都調布市富士見町2丁目)は、創建年代等は不詳ですが、この地の領主であった小田原北条氏の家臣・太田盛久が「若宮八幡宮」として創建したと伝わります。太田盛久は安土桃山時代前期の1579(天正7)年に死去しているので、創建はそれ以前であることが分かります。「若宮八幡宮」とは国府八幡宮の称号で、創建時の祭神は仁徳天皇でした。仁徳天皇は実在性は不確かながら古墳時代中期の大王(16代天皇)で、中国の歴...