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西八朔杉山神社(→神奈川県横浜市緑区西八朔町)は、創建年代等は不詳ですが、平安時代前期の927(延長5)年に作成された『延喜式神名帳』(えんぎしきじんみょうちょう→朝廷より官社に指定された全国の神社一覧)に「都筑郡一座杉山名神」と記載され、武蔵国六宮になっていた杉山神社に比定される神社の1つ(→論社)です。現在地には江戸時代前期の延宝年間(→1673年~1681年)に移転したらしく、それ以前は西北300ⅿほどの山麓にあったとい...
十二神社(→神奈川県横浜市緑区北八朔町)は、江戸時代前期の1649(慶安2)年に、この地の領主(分地)であった下総関宿藩主久世広之(くぜひろゆき)が本牧の十二天社(現在の本牧神社→神奈川県横浜市中区本牧和田)を勧請して創建したと伝わる北八朔町の鎮守です。十二神社は第一次世界大戦中の1916(大正5)年5月21日に神饌幣帛料供進神社(しんせんふはくりょうきょうしんじんじゃ)に指定され、祭礼の際に神奈川県知事より幣帛料(→金銭)を賜...
川和八幡神社(→神奈川県横浜市都筑区川和町)は、創建年代等は不詳ですが、社伝に平安時代前期の875(貞観17)年12月5日に「河輪神に従五位下を授けさせ給へり」とあり、1879(明治12)年の『神明社細帳』に、「往昔土地創拓の際、河(→鶴見川)流輪の如く東南に一原あり、名付けて河輪(かわわ)と言い、その中央に一社を経て、河輪神社と称す」とあります。1893(明治26)年9月13日に(川和)八幡神社と改称し、1920(大正9)年に例祭の際に神奈...
二子神社(ふたこじんじゃ→神奈川県川崎市高津区二子1丁目)は、江戸時代前期の1641(寛永18)年に、甲斐武田氏(→1582年3月11日滅亡)の有力国衆であった郡内小山田氏(→1582年3月24日滅亡)の一族で、この地で帰農した小山田兵部(おやまだひょうぶ→名前は不明)が創建したと伝わる神社です。1590(天正18)年7月に小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が関東入封を果たすと甲斐武田氏の一族や旧臣は徳川氏に取りたてられたり、あるいは帰農して名...
王子神社(→神奈川県横浜市緑区長津田7丁目)は、江戸時代にこの地を治めていた旗本岡本房恒が勧請したと伝わり、神仏習合の頃は「王子権現社」と称していました。岡野房恒は昨日ご紹介した慈雲山 大林寺(→神奈川県横浜市緑区長津田6丁目)を開基した人物でもあります。祭神の速玉男命(はやたまのをのみこと)は熊野権現とも呼ばれているので、熊野信仰の影響が窺えます。江戸時代には同じく岡野房房が開基した高野山真言宗寺院の薬王...
上恩田杉山神社(→神奈川県横浜市青葉区あかね台1丁目)は、江戸時代に創建された神社で、江戸時代後期の1852(嘉永5)年3月の社屋造営の棟札が現存しているといいます。アメリカ東インド艦隊司令長官のマシュー=カルブレイス=ペリーが「黒船」を率いてい浦賀(→神奈川県横須賀市)に最初に来航するのは、翌年の1853(嘉永6)年6月3日のことです。上恩田杉山神社は、江戸時代には高野山真言宗の摩尼山 延寿院 徳恩寺(→神奈川県横浜市青葉...
九郎明神社(→神奈川県川崎市麻生区古沢)は、鎌倉時代中期の建長年間(→1249年~1256年)に九郎判官(くろうほうがん)こと源義経(→源頼朝の異母弟)を祭神として祀った社を起源とする、旧古沢村の村社です。ただし、義経は「謀叛人」のため、社伝では「祭神不詳」という扱いになっています。戦国時代には記録から消えますが、江戸時代中期の1711(正徳元)年に「久能社」として再建されたようで、福正寺(→旧古沢村にあった寺)が別当寺とし...
新羽杉山神社(→神奈川県横浜市港北区新羽町)は平安時代の延喜式神明帳に記載されている「武蔵国都筑郡杉山神社」に比定される神社の1つで、創建の詳細は不明ながら、この辺りが「上古根古屋の庄荷場の郷」と呼ばれる水郷だった景行天皇(古墳時代前期→12代天皇)の時代に、日本武尊(やまたとたけるのみこと)がこの地方を通過し、彼が死去したのち、村民がその遺徳を偲んで祠を建てたことが始まりとされます。江戸時代には補陀洛山 安...
汁守神社(→神奈川県川崎市麻生区黒川1丁目)は創建年代は不詳ながら神仏習合時代には不動尊を本地仏(→神の本体)として祀る汁守神明社として崇敬されていました。江戸時代には金剛寺が別当寺として祭祀を司っていたようです。国の一村一社政策により1914(大正3)年に近隣の日枝神社などが合祀され、神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうしんしゃ→勅令に基づき例祭に神奈川県知事から金銭が贈られる神社)に指定されました...
早野子ノ神社(→神奈川県川崎市麻生区早野)は、江戸時代の1703(元禄16)年9月26日に創建された神社で、別当寺を持たず村民が祭祀を司ったと記されます。社殿は1734(享保19)年5月と1928(昭和3)年に再建されたようです。1921(大正10)年に国の一村一社政策を受け近くの稲荷社・浅間社が合祀されました。1928(昭和3)年には神饌幣帛料供進神社(しんせんへいはくりょうきょうじんしゃ)となり、勅令に基づいて神奈川県知事から例祭などの神...