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長慶山 正覚院 大巧寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は日蓮宗を離脱した単立寺院で、ホームページによると、鎌倉時代初期に梶原景時邸に創建された「大行寺」という名の真言宗寺院が前身で、源頼朝の祈願寺となり、頼朝がこの寺で軍評定(いくさひょうじょう→作戦会議)を行った合戦が勝利につながったことから「大巧寺」に改めたと伝わります。その後、1320(元応2)年2月に現在地へ移転し、長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)にい...
稲荷山 超世院 別願寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、創建年代は不詳ですが、「能成寺」という名の真言宗寺院として鎌倉時代前期には創建されていたと伝わります。公忍が住職の時に、踊念仏(おどりねんぶつ)で有名な時宗の開祖一遍に帰依し、1282(弘安5)年に宗派を時宗に改め、寺号を「別願寺」としたと記されます。1282(弘安5)年は2度目の蒙古襲来(→弘安の役)に勝利した翌年にあたり、寺社の恩賞問題は御家人の恩賞と並び幕府の喫...
二・二六事件慰霊像(→東京都渋谷区宇田川町1丁目)は、1936(昭和11)年2月26日~29日に発生した二・二六事件の蹶起(けっき)に失敗し、特設軍法会議の結果銃殺(→罪状は叛乱罪)となった青年将校らを慰霊するため、事件から30年目の節目となる1965(昭和40)年2月26日に遺族会(→仏心会)が設置し、遺族・関係者700人ほどが参加して除幕式が行われました。*********************************〖二・二六事件〗1936(昭和11)年2月26日早暁、陸...
渋谷氷川神社(→東京都渋谷区東2丁目)は、古くは氷川大明神といい旧下渋谷村・豊沢村の総鎮守として崇敬されました。江戸時代初期の1605(慶長10)年に別当寺を務めた恵日山 薬王院 宝泉寺(→東京都渋谷区東2丁目)の100代住職貿園が記した『氷川大明神並(ならびに)宝泉寺縁起』によると、古墳時代前期(→4世紀)の景行天皇の時代、日本武尊(やまとたける)が東征(→東国平定)の際、この地に素戔嗚命(すさのおのみこと)を勧請し、その後、平...
豊栄稲荷神社(とよさかいなりじんじゃ→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、鎌倉時代前期に渋谷高重が創建した田中稲荷社と、江戸時代に但馬豊岡藩(→外様大名京極氏)の下屋敷で祀られた豊沢稲荷社の2社を前身とする神社です。田中稲荷社はもともと現在の渋谷駅(→東京都渋谷区道玄坂1丁目)近くにあり、戦国時代の1524(大永4)年に北条氏綱と扇谷上杉朝興の合戦の際に被害を受け、江戸時代前期の1703(元禄16)年8月に再建されたようです。江戸時...
金王八幡宮(こんのうはちまんぐう→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1092(寛治6)年に渋谷氏の祖・河崎高家によって創建され、高家の子・渋谷重家はここを中心に居館(→「渋谷城」)を築き渋谷荘(しぶやのしょう→荘園)の経営を行いました。以来、金王八幡宮は渋谷氏の氏神として崇敬され、神仏習合の頃は、隣接する渋谷山 親王院 東福寺が別当寺として祭祀を司りました。縁起によると、渋谷重家には嫡子(→家督継承者)がなく金...
渋谷山 新王院 東福寺(→東京都渋谷区渋谷3丁目)は、平安時代後期の1173(承安3)年に源義家(→源頼義の嫡子)が開基、僧の円鎮が開山した天台宗寺院です。創建当初は「新王院」といい、鎌倉時代前期の1202(建仁2)年にこの地の地頭渋谷高重が住職の円証に帰依したことから「渋谷山 常照院 円証寺」と改めたといいます。東福寺と寺号が改められたのは江戸時代に堂宇が再興されてからですが、ここでは全て「東福寺」で表記を統一します。1...
妙厳山 本覚寺(→神奈川県鎌倉市小町1丁目)は、室町時代中期の1436(永享8)年に鎌倉公方足利持氏が開基、僧の日出が開山した日蓮宗寺院です。2代住職の日朝(→のち身延山久遠寺の11代住職)の時代に、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(→山梨県南巨摩郡身延町身延)より日蓮の骨を分けたので、「東身延」(ひがしみのぶ)とも呼ばれています。本覚寺が建つ場所は鎌倉幕府(→頼朝期の大蔵幕府)の裏鬼門にあたり、頼朝が鎮守のため夷堂(えびすどう)...
中座山 大聖院 教恩寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、戦国時代中期に小田原北条氏の北条氏康(→3代目)が開基、僧の知阿が開山した時宗(じしゅう)寺院です。もともとは鎌倉時代前期に天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)北の山際に建てられ、現在地には光明寺の末寺「善昌寺」がありましたが、善昌寺が廃寺になったため、江戸時代前期の1678(延宝6)年に僧の貴誉が現在地へ移転したと記されます。本尊の阿弥陀如来像は...
天輪山 無量院 安養寺(→神奈川県川崎市中原区上新城1丁目)は、戦国時代中期の1567(永禄10)年に僧の宥和が開山したと伝わる真言宗智山派寺院です。1567(永禄10)年は武田勝頼公の嫡子信勝、真田昌幸の次男信繁(→いわゆる幸村)、伊達輝宗の嫡子政宗らが生まれた年でもあります。江戸時代には、本山・末寺の制により龍宿山 金剛院 西明寺(→神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目)の末寺となり幕藩体制の一翼を担い、天満宮(→新城神社の...
大谷山 和光院 宝蔵寺(→神奈川県川崎市中原区上小田中1丁目)は、戦国時代中期の1520(永正17)年に小田原北条氏の有力国衆である吉良氏朝(→世田谷城主)に仕えた原勘解由左衛門勝光(はらかげゆざえもんかつみつ→1606年死去)が開基、僧の法印賢祐(→1533年死去)が開山した真言宗智山派寺院と伝わります。1590(天正18)年の小田原合戦で北条氏に与した吉良氏が滅亡したため、原勝光は上小田中村に移住して帰農し、原氏の祈願所として宝蔵...
新城神社(→神奈川県川崎市中原区新城中町4丁目)は、創建年代の詳細は不明ですが、「元禄七年九月領主中川左平太重興建立」という棟札が残っており、江戸時代前期(→5代将軍徳川綱吉の頃)の1694(元禄7)年9月に創建されたことが分かります。中川重興は正覚山 又玄寺(ゆうげんじ)を開基とした徳川氏の旗本で、1645(寛永21/正保元)年に生まれ、母の実家・吉田流弓術の中川重龍(しげたつ)の養嗣子(→家督相続人の養子)となり、弓術のほか...
正覚山 又玄寺(ゆうげんじ→神奈川県川崎市中原区新城中町1丁目)は、江戸時代中期に旗本で新城村の領主中川重興が開基した臨済宗妙心寺派寺院で、旗本中川氏の菩提寺でした。1590(天正18)年に徳川家康が関東入封したのち、新城村は旗本中川氏の知行地となり幕末までその支配が続きました。中川重興は1645(寛永21/正保元)年の生まれで、母の実家・吉田流弓術の中川重龍(しげたつ)の養嗣子(→家督相続人の養子)となり、弓術のほかにも...
蛇苦止堂(じゃくしどう→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、鎌倉時代中期に北条政村(→北条義時5男、母は伊賀氏、7代執権)が若狭局(わかさのつぼね→源頼家の妻)を供養するために長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)境内に建立して堂宇です。創建は1260(文応元)年と伝わります。若狭局は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で北条氏に滅ぼされた能員の娘で、2代将軍源頼家の側室となり長男一幡(いちまん)を生みますが...
長興山 妙本寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、1203(建仁3)年9月2日の比企能員(ひきよしかず)の乱で滅亡した比企一族の屋敷跡に比企能本(ひきよしもと)が開基し、日蓮が開山した日蓮宗の霊蹟本山寺院です。創建は鎌倉時代中期の1260(文応元)年と伝わります。比企能本(ひきよしもと)は比企能員の乱の前年に生まれた比企能員(ひきよしかず)の末子で、『吾妻鏡』には、比企能員の妻妾と能員の2歳(→数え年)の男子は助命され、和田義盛に...
恵雲山 常栄寺(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、鎌倉時代前期に源頼朝が由比ヶ浜を遠望するための桟敷(さんじき→一段と高く設けた見物席)から始まる日蓮宗寺院で、「ぼたもち寺」とも呼ばれています。「ぼたもち寺」の由来は、鎌倉時代中期の1271(文永8)年9月12日、印東左衛門尉祐信の妻(→桟敷尼)が、内管領平頼綱(→得宗家執事)命令で龍ノ口刑場(→現在の龍口寺)に連行されていく日蓮に牡丹餅(ぼたもち)を捧げたという伝承に基づきま...
八雲神社(→神奈川県鎌倉市大町1丁目)は、神仏習合の頃は「祇園天王社」と称し、平安時代後期、源義義(みなもとのよりよし)の三男・新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が後三年合戦(1083年~1087年)に参陣する際、鎌倉に疫病が流行していたことを知り、祗園社(今の京都八坂神社→京都府京都市東山区祇園町北側)を勧請したのが始まりです。社伝では永保年間(→1081年~1084年)の創建とありますが、新羅三郎義光が鎌倉に入ったのは10...
法久山 大前院 上行寺(→神奈川県鎌倉市大町2丁目)は、鎌倉時代後期の1313(正和2)年に僧の日範が開山した日蓮宗寺院です。境内には、平安時代前期の正暦年間(→990年~995年)に勧請されたと伝わる瘡守(かさもり)稲荷や身代わり鬼子母神(きしぼじん)が祀られ、今日では「癌封じの寺」としても有名です。瘡守(かさもり)には、感染力が強く、古代から近世にかけて「不治の病」と恐れられていた疱瘡(ほうそう→天然痘)から人々を守るとい...
祇園山 安養院 田代寺(→神奈川県鎌倉市大町3丁目)は、鎌倉時代前期の1225(嘉禄元)年に、北条政子が亡夫・源頼朝(→鎌倉幕府初代将軍)の菩提を弔うために僧願行を開山として笹目ヶ谷(ささめがやつ→鎌倉市笹目町)に創建した浄土宗寺院です。創建時は「祇園山 長楽寺」という名前の真言律宗寺院でしたが、同年7月11日に北条政子が死去したため、導師(どうし→葬儀を取り仕切る僧)を務めた願行が、政子の法名「安養院如実妙観大禅尼」か...
妙法華経山 安国論寺(→神奈川県鎌倉市大町4丁目)は、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に安房国の千光山 清澄寺(→千葉県鴨川市清澄)から鎌倉入りした日蓮が、松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん→神奈川県鎌倉市大町名越)を結んだ場所に創建した日蓮宗寺院です。鎌倉市教育委員会の発掘調査により、この場所は比企能員(ひきよしかず)殺害の舞台にもなった北条時政の名越(なごえ)邸跡地ではないかと指摘されています。創建年は日蓮が鎌倉...
石井山 長勝寺(せきせいざん ちょうしょうじ→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に松葉ヶ谷の地頭を務めていたとされる三浦一族の石井藤五郎長勝が日蓮に帰依し、自邸の一部を法華堂として寄進したところから始まる日蓮宗寺院です。創建時の堂宇は南北朝時代の1345(貞和元)年に京都に移り、現在の大光山 本圀寺(→京都府京都市山科区御陵大岩)となりました。移転理由は、この時の長勝寺住職の日静が足利尊...
松光山 啓運寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、室町時代中期の1483(文明15)年に楞巌山 妙法寺(→神奈川県鎌倉市大町4丁目)の9代住職日澄が開山した日蓮宗寺院です。日澄は、法華経を講じ「啓雲抄」「註画讃」「日出台陰記」などを著した学僧としても知られます。日澄死後は無住となり、石井山 長勝寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)の住職が兼務しました。現在も専属の住職はいないようです。江戸時代には本山・末寺の制により日蓮宗...
海潮山 妙長寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、鎌倉時代後期の1299(正安元)年に日蓮の弟子・日実が開山した日蓮宗寺院です。日蓮は人心を惑わす罪人として6代執権赤橋北条長時の命令で1261(弘長元)年5月12日から1263(弘長3)年2月22日まで、伊豆国伊東(→静岡県伊東市)に流刑となりますが、妙長寺は初めは日蓮が流される時に船出した材木座沼浦に建てられました。江戸時代前期の1681(天和元)年の津波で沼浦の堂宇は壊滅し、現在地で...
円龍山 向福寺(→神奈川県鎌倉市材木座2丁目)は、鎌倉時代中期の1282(弘安5)年に天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)を開山した良忠の門弟・一向俊聖(いっこうしゅんしょう)が創建した時宗(じしゅう→開祖は一遍)寺院です。1282(弘安5)年は2度目の蒙古襲来(→元寇)である弘安の役に勝利した翌年にあたり、同年10月13日に病気療養中であった日蓮宗の開祖日蓮が門徒の池上宗仲邸(→現在の池上本門寺)で死去しています。一...
弘延山 実相寺(→神奈川県鎌倉市材木座4丁目)は、日蓮の本弟子で六老僧の第一位・日昭が開山、風間信昭(→南北朝時代に南朝方の越後守として活動)が開基した日蓮宗寺院です。日昭は1323(元亨3)年に死去しているので創建は鎌倉時代後期であることが分かります。1323(元亨3)年の鎌倉幕府は北条高時政権(→14代執権)で、天皇は大覚寺統の後醍醐です。実相寺は、江戸時代には本山・末寺の制により日蓮宗本山の玉澤妙法華寺(→静岡県三島市...
内裏山 霊嶽院 九品寺(くほんじ→神奈川県鎌倉市材木座5丁目)は、1333(元弘3)年5月22日に鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が、敵方であった北条氏の戦死者を供養するために、1336(建武3)年に僧の風航順西を開山として、材木座に建立したと伝わる浄土宗寺院です。山門の「内裏山」、本堂の「九品寺」の文字は新田義貞の筆を写したものと伝わります。寺号にもなっている「九品(くほん)」とは、浄土宗の教えで極楽往生するときの9つの階級(→...
南北朝時代の軍記物『太平記』には、1333(元弘3)年5月19日~5月21日までの鎌倉合戦をほとんど記していないのですが、鎌倉幕府滅亡の日となる5月22日については美談的な創作も含め、それなりに量を割いて記しています。極楽寺切通しを突破した新田義貞の軍勢と極楽寺坂への援軍として派遣された幕府方の長崎思元(ながさきしげん)の軍勢が小町口で遭遇して市街戦が始まったことで、市内は早朝から新田軍による放火・狼藉で混乱の極み...
金龍山 宝戒寺(→神奈川県鎌倉市小町3丁目)は、正式には金龍山 釈満院 円頓宝戒寺という天台宗寺院で、鎌倉時代には得宗家小町亭(とくそうけこまちてい→北条氏の家督である得宗家の邸宅)がありました。「北條執權邸旧蹟」(→北条執権邸旧跡)の石碑が建っているのはそのためです。本尊は地蔵菩薩で、「萩の寺」と形容されるように季節によっては白萩が人の入山を拒むかのように咲き乱れます。宝戒寺の開基は鎌倉幕府の討幕に執念を燃...
2022(令和4)年12月18日 13:00入場池袋・サンシャインシティで行われているガルパン10周年記念の「10th ANNIVERSARY ガールズ&パンツァー博覧会 ~これまでと、これから~」を見てきました。「大洗女子学園」校内をモチーフにした展示空間、主人公・西住みほをはじめとする大洗女子学園の各戦車道チームのコーナーはどれもこれも期待通りでした。あんこうチームとカメさんチームの格好良さは別格として、個人的には日本人ですので...
日蓮辻説法跡・鎌倉日蓮堂(→神奈川県鎌倉市小町2丁目)は、日蓮宗を開き、鎌倉時代中期の1253(建長5)年に、安房国の千光山 清澄寺(→千葉県鴨川市清澄)から鎌倉に入り松葉ヶ谷草庵(まつばがやつそうあん→神奈川県鎌倉市大町名越)を構えた日蓮が、1271(文永8)年の龍ノ口の法難までの約18年間、辻説法(→道が交差した場所に立って道行く人に説法すること)を中心とした布教活動を行ったとされる場所です。日蓮は、この場所で法華経の布教...
南向山 帰命院 補陀洛寺(ふだらくじ→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、平安時代末期の1181(養和元)年に源頼朝の祈願所として、僧の文覚(もんがく)が開山した真言宗大覚寺派寺院です。文覚は俗名を遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、後白河法皇や源頼朝に重用されたもと北面の武士(→院御所を警固する武士)で、1180(治承4)年に平氏打倒を命じた後白河法皇の院宣を頼朝に仲介し挙兵を促したとされる僧侶です。昨年のNHK大河ドラマ「鎌...
天照山 蓮乗院(れんじょういん→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、天照山 蓮華院 光明寺の塔頭(→大寺院の中にある末寺)の浄土宗寺院ですが、創建は光明寺よりも古く、もとは「蓮乗寺」という独立した密教寺院で、鎌倉時代前期の1242(寛元元)年に佐助ヶ谷(さすけがやつ)にあった蓮華寺(れんげじ)が材木座に移され光明寺となったのち、その塔頭になりました。光明寺が移築されている期間、住職の良忠が蓮乗寺に寄留していたことから、以...
天照山 千手院(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、観音堂として創建された天照山 蓮華院 光明寺の塔頭(たっちゅう→本寺の境内にある末寺)の1つで、赤い山門が目印です。光明寺が大檀林(→仏教の最高学府)であった江戸時代には、学僧が修行する僧坊として使われたといいます。創建時の院号は専修院(せんじゅいん)でしたが、戦国時代中期の1532(天文元)年に住職の恢誉(かいよ)が守護仏として持ち込んだ千手観音像立像が鎌倉中で知れ渡っ...
天照山 蓮華院 光明寺(→神奈川県鎌倉市材木座6丁目)は、鎌倉時代前期の1240(仁治元)年に、鎌倉幕府4代執権北条経時(ほうじょうつねとき)が佐助ヶ谷(さすけがやつ→神奈川県鎌倉市佐助1丁目)に良忠院 悟真寺(現在の住吉山 悟真院 正覚寺→神奈川県逗子市小坪5丁目)の僧良忠を招いて開基し、1243(寛元元)年に現在地に移された浄土宗大本山寺院です。創建時は「蓮華寺」といい、移転時に「光明寺」と改めたと記されます。江戸時代には浄...
影顕山 西勝寺(→神奈川県横浜市青葉区新石川1丁目)は、京都の龍谷山 本願寺(いわゆる西本願寺→京都府京都市下京区堀河通花屋町下ル本願寺門前町)に属する浄土真宗本願寺派寺院です。江戸時代中期に僧の順応(誕生年不明~1739年)によって開山されたと伝わりますが、江戸時代後期の1845(弘化2)年に、現在の美しが丘西(→神奈川県横浜市青葉区)で領主の旗本が花火を催した際、火の粉が西勝寺の屋根に落ちて全焼し、創建以来の伽藍が失...
長沢山 秋月院(→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、戦国時代に小田原北条氏の家臣・大木頼母之助(おおきたのものすけ)の子・主馬之助(しゅめのすけ)が、地震で圧死した両親を高野山(→和歌山県伊都郡高野町)に埋葬した後、出家してこの地に庵を創建したところから始まります。1590(天正18)年に小田原北条氏が滅亡すると、北条氏旧臣の片山図書(→法名秋月月心)が夫婦で平村に隠居し、彼らが死去すると遺骸は大木主馬之助が創建した...
清水山 盛源寺(→神奈川県川崎市多摩区長沢1丁目)は、戦国時代末期に夏蒐山 修廣寺(→神奈川県川崎市麻生区片平2丁目)の3代住職・玄頓が開山した曹洞宗寺院です。玄頓は1591(天正19)年に死去しているので創建はそれ以前であることが分かります。江戸時代には本山・末寺の制により修廣寺の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。本堂へ向かう参道の右手には川崎市の重要郷土資料に指定されている「寛文十年霜月」(江戸時代前期→1670...
菅生神社(すがおじんじゃ→神奈川県川崎市宮前区菅生2丁目)は、鎌倉時代前期の1233(貞永2)年に、下菅生郷(しもすがおごう)蔵敷(ぞうしき)の鎮守として白幡八幡大神(→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)の祭神を勧請して創建された神社です。1233(貞永2)年は鎌倉幕府3代執権北条泰時(やすとき)が、最初の武家法である御成敗式目を制定した翌年にあたり、創建当時は若宮八幡大神と称されました。時代が下り江戸時代になると神職の小泉信濃...
法林山 長安寺(→神奈川県川崎市多摩区菅生4丁目)は、京都にある渋谷山仏光寺(→京都府京都市下京区新開町)の末寺に属する浄土真宗仏光派寺院です。創建年代の詳細は不詳ですが、戦国時代に小田原北条氏の家臣・間宮長安が無住となっていた寺を開基したと伝わります。間宮長安は、江戸時代中期の1774(安永3)年に前野良沢とともに最初の翻訳解剖書である『解体新書』を著した杉田玄白の先祖にあたります。開基の頃は浄土真宗大谷派に...
五所塚・権現台遺跡(→神奈川県川崎市宮前区五所塚1丁目)は、五所塚第1公園内に南北に並ぶ直径4ⅿ・高さ2ⅿ前後の5つの塚を中心とした遺跡群です。外観が古墳に似ているところから、江戸時代に編纂された地誌には墳墓と記されています。しかし、川崎市教育委員会の調査により、中世や近世になって尾根筋に築かれた平尾十三塚(→東京都稲城市平尾2丁目と神奈川県川崎市麻生区五カ田の境)と同様な「境信仰」の塚であったと考えられていま...
長尾神社(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は創建年代等の詳細は不明ですが、小高い丘の頂上に位置し、神仏習合の頃は神社の南側に5つの古塚(→五所塚)があることから五所権現社、または五所神社とも呼ばれていました。神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)が旧別当寺で、1868(明治元)年の神仏分離令により別当関係が解消されるまで長らく祭祀を司どってきました。五所神社は明治時代後期の1907(明治40)年に国...
長尾山 勝寿院 妙楽寺(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、平安時代前期の仁寿年間(→851年~854年)に創建された長尾山 威光寺(→別名長尾寺)の跡地に建立された天台宗寺院です。仁寿年間は天台宗寺門派の宗祖となる円珍(智証大師)が新羅商人の船で入唐(にっとう→唐に入国)した時期でもあります。長尾郷は、鎌倉時代前期の頃は関東御領(→鎌倉幕府の経済基盤となった荘園・公領)となるなど、源氏将軍家...
神木天満宮(しぼくてんまんぐう→神奈川県川崎市宮前区神木本町3丁目)は、創建年代等は不詳ですが江戸時代には赤城社と呼ばれ、天台宗寺院の神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)が別当寺として祭祀を司っていました。神仏習合の頃に五所権現社と呼ばれていた長尾神社(→神奈川県川崎市多摩区長尾3丁目)と隔年で例祭を実施していたと記されます。1868(明治元)年に明治政府の神仏分離令により等覚院との別当関係...
神木山 等覚院 長徳寺(→神奈川県川崎市宮前区神木本町1丁目)は、開山開基の詳細は不詳ですが、安土桃山時代初期の1573(元亀4)年に中興された天台宗寺院で、地元では等覚院の名で親しまれています。江戸時代には本山・末寺の制により浮岳山 昌楽院 深大寺(→東京都調布市深大寺元町5丁目)の末寺として幕藩体制の一翼を担いました。現在の本堂は、将軍継嗣問題と通商条約締結に揺れた幕末期の安政年間(→1854年~1860年)に再建され、山...
泰平山 東泉寺(→神奈川県川崎市宮前区平1丁目)は、戦国時代に僧の最初安慶が開山、この地を治めた小田原北条氏の家臣・葛山氏夫妻(→戒名は一翁全閑居士・清室体寒大姉)が菩提寺として開基した曹洞宗寺院です。最初安慶は1584(天正12)年9月27日に死去しているので、創建はそれ以前であることが分かります。北条氏の諸役賦課台帳である「小田原衆所領役帳」によると戦国時代の稲毛領平村は、「葛山殿」が11貫350文で知行していたと記...
白幡八幡大神(しらはたはちまんだいじん→神奈川県川崎市宮前区平4丁目)は、源頼朝にまつわる創建の縁起を持ちますが、その始まりについては2つの異なる説が見られます。1つは、鎌倉時代初期の1189(文治5)年7月に源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)を討伐した際に建てたという『新編武蔵風土記稿』の説で、もう1つは、平安時代中期の1061(康平4)年にこの地に創建された社(やしろ)が鎌倉時代初期の1192(建久3)年に源頼...
平尾杉山神社(→東京都稲城市平尾)は鶴見川流域に72社ある杉山神社のうちの1社で、その中でも最も上流域にあるといわれています。創建年代は不詳ですが、神仏習合の頃の戦国時代前期の1492(延徳4)年に社殿を再建し、神体として「武州児玉郡金屋村住人中村五郎衛門家吉敬白延徳二年五月五日」と刻された不動明王の懸仏(かけぼとけ→鏡面に付けられた神像や仏像)が奉納されました。しかし、この懸仏の神体は江戸時代末期の幕末期に失わ...
岩船山 大智院 高勝寺(→東京都稲城市坂浜)は、胎蔵界大日如来像を本尊とする真言宗豊山派寺院で、南北朝時代後期の1368(応安元)年に僧の鎮海が開山しました。1368(応安元)年は数え年11歳の足利義満(あしかがよしみつ)が室町幕府の3代将軍に就任した年でもあります。江戸時代には本山・末寺の制により真言宗御室派の総本山・大内山 仁和寺(→京都府京都市右京区御室大内)の末寺となり幕藩体制の一翼を担う一方、高勝寺自身も末寺19ヶ...
神王山 北辰妙見尊(→東京都稲城市百村)は、隣接する天台宗寺院の神王山 観音院 妙見寺が別当寺を務める神仏習合の影響が色濃い神社で、妙見寺の山頂(→奥ノ院という)にあります。寺院という扱いなので祭神は本尊と呼ばれ、北辰妙見尊星王(ほくしんみょうけんそんじょうおう)が「妙見菩薩」(→仏像)として祀られています。江戸時代前期の1662(寛文2)年から行われ東京都の無形文化財に指定される「蛇より行事」については、昨日の妙見...
神王山 観音院 妙見寺(→東京都稲城市百村)は、奈良時代後期の760(天平宝字4)年に47代淳仁天皇(→藤原仲麻呂政権)の勅願で創建された妙見宮(→神王山 北辰妙見尊)の祭祀を司る別当寺として、平安時代後期の1112(天永3)年に創建された天台宗寺院です。本尊は阿弥陀如来像です。妙見寺は、現在も境内山頂にある神王山 北辰妙見尊の行事を行うなど神仏習合が色濃く残り、江戸時代前期の1662(寛文2)年から行われている「蛇より...