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『肉弾』 第二次世界大戦も終わりを迎えた盛夏。魚雷を抱えたドラム缶・番傘付き、が海上をぷかぷかしてた。 乗っているのは「あいつ」。「あいつ」は終戦をまだ…
添乗員時代には、いろんなお客さんに出会う。 アタシは、何千人、いや万の単位になる人々と一緒に旅をした。 そんな中、鹿児島を訪ねる団体ツアーに当時85~86歳くらいのお爺さん(仮名:田中さん)がいた。 このお爺ちゃん、面白い方でアタシにチョイチョイちょっかいを出して、笑わせようとしてくれる、可愛らしい方だった。 そんな田中さんに、こんなエピソードがあった。 バスで移動中、田中さんが「添乗さん!ちょっと止まって!」と騒ぎ出す。 「どっどうしました!?」「入れ歯を窓から落とした」と言うのだ。 周りは驚いたのと、しょーもなさで大爆笑! アタシはバスを降りて、200メートルほど走り、上の顎から外れた総入…
【俺流】にゃんこ大戦争のブランカを評価【対エイリアン特攻キャラ】
にゃんこ大戦争の超激レアである「ブランカ」についてのレビューになります。 移動速度と攻撃頻度が高く、エイリアンに超ダメージで人気の高いストリートファイターコラボキャラであるブランカですが、イマイチわからない方向けに評価していきましょう。
【俺流】にゃんこ大戦争の「ネコエクスプレス」について評価【特攻お金稼ぎキャラ】
にゃんこ大戦争の「ネコエクスプレス」の評価ですが、素早い攻撃で速攻お金稼ぎできる希少なタイプのキャラになります。 金欠ステージの資金稼ぎから周回ステージまで使える出番の多いキャラです。
4月12日 人間爆弾桜花 米駆逐艦マナート・L・エベールを撃沈
【桜花の碑案内板より】 人間爆弾桜花。その桜花が確実に戦果あげたと言えるのが1945年(昭和20年)4月12日の米駆逐艦「マナート・L・エベール」撃沈です。 (4月12日 菊水2号作戦 桜花出撃す) 1945年(昭和20年)4月、沖縄に上陸した米軍に対し日本軍は陸海空で激しい戦闘を行います。 4月12日、日本軍は「菊水2号」作戦を実施し、沖縄本島の読谷飛行場や嘉手納飛行場の奪還をめざし大量の特攻機を送ります。 快晴のこの日、「第721海軍航空隊」の神雷部隊は、鹿児島県の鹿屋基地で出撃命令を受け、一式陸上攻撃機で沖縄沖へと飛び立ちます。一式陸上攻撃機には、“人間爆弾”と呼ばれた特攻機「桜花」が取…
慶応義塾・日吉キャンパスに残る旧日本海軍連合艦隊司令部の地下壕入口 昭和史研究の第一人者、半藤一利(はんどうかずよし)さんが満90歳で亡くなったのは、2021年1月でした。 遺作となった『戦争というもの』(PHP研究所)を読んだところ、戦艦「大和」の沖縄への特攻出撃のことが書かれていました。 戦艦「大和」が属した艦隊の司令長官は、沖縄上陸を始めた米軍の艦船に突っ込んで自滅するというこの作戦に反対で、「大和」が沈没する間際に、自分の判断で「突入作戦中止命令」を出したというんです。 乗組員3000人が「大和」とともに死にました。が、中止命令で200人余りが命拾いをしました。 「大和」に特攻を命じた…
特別攻撃隊~祖国のために自らの命を捧げた先輩方に感謝と追悼~
特別攻撃隊・・・戦争で、私たちの先輩が、自らの命を投げ出し祖国を守りました。その先輩方に感謝と敬意を示し2022年(令和4年)も特攻隊の関連史跡や慰霊祭に参加しました。 わずか20年前後の人生を送り、最後は日本を守るために命を捧げられた先人方。彼らの無念、悔しさ、を忘れてはいけません。 ① 8月7日 体当たり勇士慰霊祭 爆弾を投下し街を火の海にしようとしたB29に体当たりして北九州の空を守った勇士。その勇士に対し地域住民が感謝し毎年、自発的に行っている慰霊祭に参加 (福岡県北九州市) 詳細は下をクリック!! ② 11月14日 人間魚雷回天慰霊祭 生還が望めない人間魚雷・回天。回天烈士及び搭載潜…
知覧町護国神社の御朱印情報|知覧平和公園に鎮座|(鹿児島県南九州市)
所在地鹿児島県南九州市知覧町郡17974祭 神戊辰戦争から太平洋戦争までの知覧町出身の戦没者由 緒知覧町の知覧平和公園の中に鎮座している神社です。1869年、戊辰戦争の戦没者を祀ったのが始りで、後に西南戦争から太平洋戦争までの戦没者を順次合
2022年(令和4年)11月13日(日) 人間魚雷回天の島での追悼式に参加
2022年(令和4年)11月13日(日) 人間魚雷回天の乗組員追悼式に参加しました。 (回天の訓練基地・大津島) 人間魚雷回天の訓練基地は日本各地にありましたが、今回の式典が開かれた山口県周南市大津島は島全体が訓練基地となっていました。 大津島には人間魚雷「回天」の訓練基地が、今も残っていてその姿を見ることができます。 (人間魚雷回天) 回天は太平洋戦争末期に日本海軍が開発した特攻兵器です。イスに座る形で乗組員が操縦して敵艦に体当たりします。 全長は14.75m、胴体の直径は1mで1人乗りで、推進装置には、九三式酸素魚雷のエンジンを使っていました。回天の先端部分には1.55トンの炸薬を装備して…
姫路市に隣接する加西市に海軍の飛行場跡があります。現在、加西市は予算をつけて少しずつ整備を行っています。当時の人達の考えや生き方、日本を思う気持ちを直に…
エッセイ きれぎれ草 100 <似非宗教、精神性、大谷翔平>
人間は、人間以上の存在にも、また、人間より遙かに下のものにも、成り得る、マカ不思議な生き物である。 ○ 共産主義思想とは、科学的思考とやらを標榜し、革命をご本尊とする似非宗教に他ならない。 ○ この似非宗教の厄介なところは、日本に入って来ると、言わば、日...
【鹿児島特攻慰安③】 桜花の碑(海軍神雷部隊寄宿舎および別盃之地)
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは鹿児島県の鹿屋。人間爆弾桜花の神雷特別攻撃隊の宿舎があり隊員たちが出撃の別れの水杯を交わした地です。 (人間爆弾桜花) 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月、鹿児島県の海軍鹿屋飛行場から人間爆弾・桜花の神雷特別攻撃隊が出撃しました。 桜花は、全長6mの胴体に小さな翼をつけた超小型飛行機です。機首部には1.2キロの大型爆弾を搭載しています。この1機で戦艦や空母を撃墜できるとされています。 【桜花の碑案内板より】 桜花は、一式陸上攻撃機…
どうしてもやりたかったことの1つが、鹿児島県に行き、太平洋戦争末期にこの地から出撃した特攻隊の基地を訪れ、祖国を守るために出撃された方々への慰霊の旅でした。それが2022年(令和4年)5月に実現しました。残念ながら鹿児島県内にある全ての特攻基地を訪れることはできませんでしたが、今回訪問できた10カ所をまとめて紹介します。 (特攻隊とは) 特別攻撃隊=特攻隊は、飛行機による突入が知られていますが、それ以外にも色々な形があります。飛行機による本格的な特攻隊は、1944年(昭和19年) 10月 20日,フィリピンにおいて第1航空艦隊の命令により,戦闘機 26機で編成された部隊・神風特別攻撃隊の出撃が…
【鹿児島特攻慰安⑧】 知覧から出撃した特攻隊員の心の寄り所・富屋食堂
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。特攻兵士の面倒をみた食堂が再現されていました。 知覧から出撃した特攻隊員の食事などの世話をした「富屋食堂」がありました。この富屋食堂を営んでいたのが鳥濱トメさんで、特攻隊員から「お母さん」と呼ばれ親しまれていました。その富屋食堂を,当時の場所に忠実に再現した資料館が「ホタル館 富屋食堂」です。 富屋食堂は1929年(昭和4年)トメさんが27歳の時に開業します。当初は、うどんやそばを出すごく普通の食堂でした。 やがて軍の指定食堂になり兵隊さんがたくさん利用するよう…
【鹿児島特攻慰霊⑨】 日本で1番多くの特攻隊員が出撃した海軍鹿屋飛行基地
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは日本で最も多く特攻隊員が飛び立った基地・海軍鹿屋基地です。 戦時中、鹿屋には3つの飛行場(笠野原・鹿屋・串良)がありましたが、なかでも鹿屋飛行場は海軍の主力基地でした。 1936年(昭和11年)4月1日に鹿屋に海軍鹿屋航空隊が開隊しました。 日米開戦の年となる1941年(昭和16年)の2月には、ここで真珠湾攻撃の作成計画が練られた「鹿屋会談」が行われています。 戦局が悪化した1945年(昭和20年)の2月10日には、鹿屋基地に各基地の特別攻…
【鹿児島特攻慰霊⑩】 鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔(小塚公園)
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島の特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは日本で最も多く特攻隊員が飛び立った海軍鹿屋基地の慰霊塔がある鹿屋市小塚公園です。 (鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔) 鹿屋市の小塚公園に立つ鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔。太平洋戦争中に海軍鹿屋基地から出撃し命を落とした特別攻撃隊員908名の御霊を祀るために鹿屋市が1958年(昭和33年)3月20日に建立したものです。塔の高さは11メートル、慰霊塔は攻撃隊が目指した沖縄に向いて立っているそうです。塔の上には南海の空に向かって飛び立とうとして…
【鹿児島特攻慰安④】 海軍第125震洋隊聖ヶ浦基地(鹿児島県南九州市知覧町)
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは鹿児島県の海軍第125震洋隊聖ヶ浦基地です。 (海軍第125震洋隊聖ヶ浦基地) 鹿児島県南九州市知覧町の国道226号線沿いにある海沿いの公園・聖ヶ浦(ひじりがうら)ポケットパーク。 ここは太平洋戦争末期に、海軍第125震洋隊聖ヶ浦基地が置かれていました。 (震洋とは?) 震洋は、木造のボートにトラックのエンジンを装備し、艦首に250キロ爆弾を積んだまま敵艦に体当たりをするモーターボート=特攻兵器です。 震洋のスピードは時速42kmほど。「震洋…
【鹿児島特攻慰霊⑤】 特攻機の敵艦突入無線を受信していた串良地下壕電信司令室
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは鹿児島県の鹿屋にある串良地下壕電信司令室。特攻機が突入時に発信した無線を受信した施設です。 (海軍串良基地) 鹿児島県鹿屋、かつて海軍の鹿屋・笠野原、串良の3つの基地がありました。 その1つ、串良基地では1945年(昭和20年)3月1日から終戦までの間に、第一、第二、第三勤皇白鷺隊(姫路)・第一、第二、第三、第四、第五白菊隊(徳島)などの特別攻撃隊員、合計363名が出撃しています。 【いずれも串良地下壕電信司令室に展示されていた写真より】 …
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは陸軍万世特攻基地です。 (陸軍最後の特攻基地:万世飛行場) 1944年(昭和18年)夏から翌年末にかけて鹿児島県の吹上浜に陸軍最後の特攻基地となる万世(ばんせい)飛行場が建設されました。特攻基地というと知覧を思い浮かべる方も多いと思いますが、万世飛行場はその知覧から西へ15kmの距離です。戦争の激化と戦況の悪化にともない、知覧飛行場だけでは足らないために急遽、突貫工事で飛行場が造られました。急造のためこの飛行場の滑走路は短く、土を固めただけのも…
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ 特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは 鹿児島県の陸軍知覧特攻基地です。 (陸軍の飛行訓練基地から特攻基地へ) 1942年(昭和17年)、陸軍が鹿児島県の知覧に飛行場を建設して運用を開始しします。当初は太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所で、少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らが飛行訓練をする場所でした。1944年(昭和19年)10月、海軍がフィリピンレイテ島沖で神風特別攻撃隊「敷島隊」を出撃させます。それにつづき陸軍も特攻隊を編成し出撃させます。 1945年(昭和20年)に入ると戦…
祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 本土決戦に備え鹿児島県桜島には、上陸する米軍を迎えうつ第五特攻戦隊の司令部がありました。 (沖縄の次は鹿児島か?鹿児島上陸を防ぐために) 太平洋戦争末期、1945年(昭和20年)6月、沖縄が米軍の手に落ち、沖縄と距離的に近い鹿児島では、いよい米軍による上陸が始まるのではないかと危惧し本土決戦に備えます。 実際、アメリカ軍は1945年(昭和20年)11月1日に陸軍の第6軍57万人(戦闘要員34万人と支援要員23万人)が、宮崎県の宮崎海岸、鹿児島県の志布志湾および吹上浜の3地点から…
祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 鹿児島県枕崎市の平和祈念展望台には、戦艦「大和」をはじめ、沖縄海上特別攻撃に向かった第二艦隊の「殉難鎮魂之碑」があります。 (殉職鎮魂の碑)平和祈念展望台には、戦艦大和の沈没50周年にあたる1995年(平成7年)4月に建立された戦艦大和などの殉難鎮魂之碑があります。 碑の前には、東シナ海が広がり、戦艦大和は北緯30度43分、東経128度04分、枕崎市の西南西約200kmの沖合、水深345mの海底で眠っています。 (世界最大の戦艦) 戦艦大和は、直径46センチの巨大主砲を備えた大…
「天を回らし、戦いを好転させる」ー人間魚雷「回天」ー 今回は、山口県熊毛郡平生町にある「人間魚雷回天」の資料が展示してある「阿多田交流館」をお届けします。 太平洋戦争(1941〜1945)の終わり