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特別攻撃隊~祖国のために自らの命を捧げた先輩方に感謝と追悼~
特別攻撃隊・・・戦争で、私たちの先輩が、自らの命を投げ出し祖国を守りました。その先輩方に感謝と敬意を示し2022年(令和4年)も特攻隊の関連史跡や慰霊祭に参加しました。 わずか20年前後の人生を送り、最後は日本を守るために命を捧げられた先人方。彼らの無念、悔しさ、を忘れてはいけません。 ① 8月7日 体当たり勇士慰霊祭 爆弾を投下し街を火の海にしようとしたB29に体当たりして北九州の空を守った勇士。その勇士に対し地域住民が感謝し毎年、自発的に行っている慰霊祭に参加 (福岡県北九州市) 詳細は下をクリック!! ② 11月14日 人間魚雷回天慰霊祭 生還が望めない人間魚雷・回天。回天烈士及び搭載潜…
【鹿児島特攻慰安③】 桜花の碑(海軍神雷部隊寄宿舎および別盃之地)
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは鹿児島県の鹿屋。人間爆弾桜花の神雷特別攻撃隊の宿舎があり隊員たちが出撃の別れの水杯を交わした地です。 (人間爆弾桜花) 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月、鹿児島県の海軍鹿屋飛行場から人間爆弾・桜花の神雷特別攻撃隊が出撃しました。 桜花は、全長6mの胴体に小さな翼をつけた超小型飛行機です。機首部には1.2キロの大型爆弾を搭載しています。この1機で戦艦や空母を撃墜できるとされています。 【桜花の碑案内板より】 桜花は、一式陸上攻撃機…
どうしてもやりたかったことの1つが、鹿児島県に行き、太平洋戦争末期にこの地から出撃した特攻隊の基地を訪れ、祖国を守るために出撃された方々への慰霊の旅でした。それが2022年(令和4年)5月に実現しました。残念ながら鹿児島県内にある全ての特攻基地を訪れることはできませんでしたが、今回訪問できた10カ所をまとめて紹介します。 (特攻隊とは) 特別攻撃隊=特攻隊は、飛行機による突入が知られていますが、それ以外にも色々な形があります。飛行機による本格的な特攻隊は、1944年(昭和19年) 10月 20日,フィリピンにおいて第1航空艦隊の命令により,戦闘機 26機で編成された部隊・神風特別攻撃隊の出撃が…
【鹿児島特攻慰安⑧】 知覧から出撃した特攻隊員の心の寄り所・富屋食堂
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。特攻兵士の面倒をみた食堂が再現されていました。 知覧から出撃した特攻隊員の食事などの世話をした「富屋食堂」がありました。この富屋食堂を営んでいたのが鳥濱トメさんで、特攻隊員から「お母さん」と呼ばれ親しまれていました。その富屋食堂を,当時の場所に忠実に再現した資料館が「ホタル館 富屋食堂」です。 富屋食堂は1929年(昭和4年)トメさんが27歳の時に開業します。当初は、うどんやそばを出すごく普通の食堂でした。 やがて軍の指定食堂になり兵隊さんがたくさん利用するよう…
【鹿児島特攻慰霊⑨】 日本で1番多くの特攻隊員が出撃した海軍鹿屋飛行基地
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは日本で最も多く特攻隊員が飛び立った基地・海軍鹿屋基地です。 戦時中、鹿屋には3つの飛行場(笠野原・鹿屋・串良)がありましたが、なかでも鹿屋飛行場は海軍の主力基地でした。 1936年(昭和11年)4月1日に鹿屋に海軍鹿屋航空隊が開隊しました。 日米開戦の年となる1941年(昭和16年)の2月には、ここで真珠湾攻撃の作成計画が練られた「鹿屋会談」が行われています。 戦局が悪化した1945年(昭和20年)の2月10日には、鹿屋基地に各基地の特別攻…
【鹿児島特攻慰霊⑩】 鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔(小塚公園)
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島の特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは日本で最も多く特攻隊員が飛び立った海軍鹿屋基地の慰霊塔がある鹿屋市小塚公園です。 (鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔) 鹿屋市の小塚公園に立つ鹿屋航空基地特別攻撃隊戦没者慰霊塔。太平洋戦争中に海軍鹿屋基地から出撃し命を落とした特別攻撃隊員908名の御霊を祀るために鹿屋市が1958年(昭和33年)3月20日に建立したものです。塔の高さは11メートル、慰霊塔は攻撃隊が目指した沖縄に向いて立っているそうです。塔の上には南海の空に向かって飛び立とうとして…
【鹿児島特攻慰霊⑤】 特攻機の敵艦突入無線を受信していた串良地下壕電信司令室
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げられた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは鹿児島県の鹿屋にある串良地下壕電信司令室。特攻機が突入時に発信した無線を受信した施設です。 (海軍串良基地) 鹿児島県鹿屋、かつて海軍の鹿屋・笠野原、串良の3つの基地がありました。 その1つ、串良基地では1945年(昭和20年)3月1日から終戦までの間に、第一、第二、第三勤皇白鷺隊(姫路)・第一、第二、第三、第四、第五白菊隊(徳島)などの特別攻撃隊員、合計363名が出撃しています。 【いずれも串良地下壕電信司令室に展示されていた写真より】 …
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは陸軍万世特攻基地です。 (陸軍最後の特攻基地:万世飛行場) 1944年(昭和18年)夏から翌年末にかけて鹿児島県の吹上浜に陸軍最後の特攻基地となる万世(ばんせい)飛行場が建設されました。特攻基地というと知覧を思い浮かべる方も多いと思いますが、万世飛行場はその知覧から西へ15kmの距離です。戦争の激化と戦況の悪化にともない、知覧飛行場だけでは足らないために急遽、突貫工事で飛行場が造られました。急造のためこの飛行場の滑走路は短く、土を固めただけのも…
特攻基地慰霊の旅・・ 祖国や故郷のために自らの命を捧げた先輩方に対し感謝と追悼の想いを込め、鹿児島をおとずれ 特攻基地に足を運びました。 今回紹介するのは 鹿児島県の陸軍知覧特攻基地です。 (陸軍の飛行訓練基地から特攻基地へ) 1942年(昭和17年)、陸軍が鹿児島県の知覧に飛行場を建設して運用を開始しします。当初は太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所で、少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習仕官らが飛行訓練をする場所でした。1944年(昭和19年)10月、海軍がフィリピンレイテ島沖で神風特別攻撃隊「敷島隊」を出撃させます。それにつづき陸軍も特攻隊を編成し出撃させます。 1945年(昭和20年)に入ると戦…