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瀧泉寺・目黒不動尊の仁王門の前に、平井権八と小紫の悲話伝える比翼塚があります。平井 権八(ひらい ごんぱち、1655年(明暦元年)頃 - 1679年12月5日(延宝7年11月3日))は、江戸時代前期に実在した日本の武士でシリアルキラーである。講談・浄瑠璃・歌舞伎・映画等の世界では、白井 権八(しらい ごんぱち)として知られる。因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(...
吉原遊廓は、江戸幕府によって公認された江戸の遊廓で、当初は現在の日本橋人形町)にありました。明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤(現在の台東区千束)に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼ぶようになりました。元々は、徳川家康終焉の地である駿府城下町(現在の静岡市葵区)にあった二丁町遊廓から一部が移されたのが始まりであるといいます。元吉原のあったエリアを散策してみました。 元吉原 江戸時代の初め、元和3年(16...
奥まで進むと、吉原弁財天があります。吉原弁財天の本宮平成24年に改修工事が行われ、壁一面には東京芸術大学の学生による壁画が描かれました。弁天池敷地には、観音像の他、所狭しと石仏やお地蔵様が祀られています。「この廓や月花雪も三菩薩」浅草出身で大正から昭和にかけて活躍した俳人・作家の久保田万太郎の句碑観世音菩薩像弥勒菩薩遊女の墓阿弥陀如来千手観音にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援...
吉原神社から吉原弁財天本宮へ新吉原花園池(弁天池)跡台東区千束3丁目22番江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊廓が移された。 以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊廓街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。遊廓造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊廓楼...
吉原遊郭の出入口は大門(おおもん)口だけの一方口とし、遊郭の周囲にお歯黒どぶ(御歯黒堀)と呼ばれる総堀をめぐらし、遊女が逃げないために設置されていました。お歯黒どぶという呼称は、遊女がお歯黒の汁を捨てたところからいうとする説や、お歯黒の汁のようにいつも黒く濁っていたからとする説などがあるとのこと。今では埋め立てられてしまいましたが、現在は住宅地の中に石垣跡が残っています。千束四丁目交差点の仲之町通りに...
新吉原は、江戸時代、浅草の北部(東京都台東区千束四丁目)にあった遊郭で、明暦三年(1657)の大火後、日本橋葺屋町にあった吉原遊郭が移転してできました。蔦屋重三郎はこの地で育ち、新吉原に詳しく、彼の作った吉原細見は、従来のものとは異なり、大変評判になりました。吉原大門跡 吉原大門と耕書堂 吉原大門と耕書堂 明暦三年(1657年)の大火後、日本橋にあった吉原遊郭は幕府の命により浅草千束村(現台東区千束)に移され、「...
成田山 久地不動尊 守護尊寺(→神奈川県川崎市高津区久地)は大日如来を本尊とする真言宗山階派寺院で、大正時代までは浅草新吉原(→現在の東京都台東区千束4丁目)に不動尊としてありましたが、1923(大正12)9月1日の関東大震災で堂宇が全焼したため現在地に移転されました。江戸時代には浅草新吉原にあったため『新編武蔵風土記稿』橘樹郡久地村の条には守護尊寺の記事はありませんが、寺の伝承として次のような話があります。「久地...