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『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村3民衆の文化都市に住む民衆は、ギルドの中小商人をみてもわかるように、けっして、かならずしも自由な市民とはいえなかった。しかし唐代とくらべるならば、はるかに解放されていた、といえるであろう。こうして民衆にうけいれられ、民衆とむすびついた都市文化が生みだされ栄えてゆく。勾欄(こうらん)で演ぜられる演芸は、まさに民衆のためのものであった。詞(し)もまた、そうであった。「詞」は曲に合わせてつくられた韻文であり、歌う文学ともいえるものであった。唐の中頃からあらわれ、やがて宋代には、「唐詩」に対して「宋詞」といわれるほど、大いに流行した。豪放(ごうほう)な北派と、婉麗繊細(えんれいせんさい)な南派と、ふたつの系統があった。詞はもともと詩から変化してきたも...6-7-3民衆の文化
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年7都市と農村1都市のすがた中国では、首部はもちろん、だいたい県庁の所在地ほどの都市になると、周囲に城壁をめぐらし、町をすっぽりつつんでいた。わが平城京や平安京の全体が、城壁にかこまれていたと考えればよいであろう。そして大きな都市ともなれば、城壁が二重、ときには三重にもなっていた。城壁の規模もまことに大きい。後周の世宗(柴栄=さいえい)が全中国の中心にしたいとの願いをこめてつくった開封(かいほう)の都は、いちばん外側の城壁の周囲は二○キロあまり、唐の長安城のほぼ三倍の規模であった。五代十国王朝のひとつ、呉越国の都の杭州では、城壁がさらにひとまわり大きく、三〇キロちかくもあった。城壁の高さは二五メートルほどで、溥(かわら)を積みあげてつくった。城壁の上には女...6-7-1都市と農村
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年4宋朝の創業3皇帝の官僚宋の太祖と太宗は、文官をおもく用いて、武人の権力をちぢめ、集権の体制をつくりあげていった。節度使にして、病死したり、老齢になったりして、欠員ができた場合には、できるかぎり文官を後任にあてた。また知州(ちしゅう=州の長官)にしても、同じであった。こうして藩鎮が解体するころ(九七七)には、じつは節度使などの座に文官が大幅に進出していたのである。いまや文官は、まさしく国家権力の担い手になった。しかも太祖は晩年におよんで、科挙(かきょ)の制度に改革をくわえている。科挙こそは、隋代にはじめられて以来、文官となる資格をうるためには、まず突破すべきものであった。これまで科挙といえば、ふたつの関門があった。地方の州で行われる解試と、首都で行われる...6-4-3皇帝の官僚
半年くらい前に週刊新潮で保守派の論客高山正之氏が「大陸から日本への侵攻は元寇が初めてではない。その前の平安時代にも刀伊(とい)が大陸から来て九州に侵攻し、平安貴族制を大いに揺るがした。」と書いていました。私、日本史が好きでなかった、というか高校時代に日本史を教えられた社会科...
【年表を歴史小説でつなぐPJ】楊令伝<十二>九天の章 北方謙三 1130年頃の中国
中原までを領土に加えた金国。 遼と宋の敗退により一気に支配領域が広がったが、その内政は落ち着かず、朝廷内では早くも権力争いが起きていた。 阿骨打(あぐだ)と楊令との間で語られた理想の国家の姿は現実のものとなるのか。 金国内の権力争い 阿骨打亡き後は、弟の...