メインカテゴリーを選択しなおす
#中国の歴史
INポイントが発生します。あなたのブログに「#中国の歴史」ハッシュタグのバナーを掲載しませんか ハッシュタグのバナーやリンクをINポイントランキングの対象にしたいメンバーの方は、ログインしてからリンクタグを取得してください ・バナーを変更したい場合は、必ず画像に「ハッシュタグ」または「タグ」の文字かバナーロゴを重ねてください
タグをコピーしました
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十五
原泰久氏の漫画、『キングダム』では、昭襄王の時代、白起を含め、秦の「六大将軍」が、存在したとする。 「六大将軍」は、白起、楊摎、王齕、胡昜、司馬錯、王騎の六…
2024/02/18 06:44
中国の歴史
フォローできる上限に達しました。
新規登録/ログインすることでフォロー上限を増やすことができます。
フォローしました
リーダーで読む
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十四
紀元前257年、昭襄王は、趙の邯鄲に援軍を送ったが、勝てないため、王陵を更迭して、王齕に代わらせた。 しかし、邯鄲は、陥落せず、趙の援軍として現れた、魏の信…
2024/02/17 00:03
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十参
趙軍は、秦軍に完全に包囲された、長平城において、46日間も兵糧が届かずに、飢えた、兵士達は、互いに殺し合って、その肉を食らい、飢えを凌ぐ、有様であった。 趙…
2024/02/12 02:00
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十弐
孝成王は、韓の上党の割譲に対し、悩んだ末、平原君の案を採用して、上党に兵を送ると、上党を接収した。 秦の昭襄王は、激怒し、紀元前260年、王齕を将軍とした、…
2024/02/11 05:50
【呉漢】
評価:80点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2017年 『呉漢』は、2017年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
2024/02/10 00:04
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十壱
范雎は、「黄歇は、人臣として、一身を投げ出して主君に殉じました。 仮に、太子完が、楚の王位に即けば、必ず、黄歇を重用します。 今は、黄歇を罰しないで、帰国さ…
2024/02/05 01:36
【歴史小説を描いてみた!?】三国志 第二話② 安喜県の県尉
体はまるで虎、腰は熊のような体格をしたこの漢(おとこ)は、姓名を孫堅、字を文台といい、孫氏の末裔を称している。十七歳の時、商人から金品を強奪した海賊を討伐した功により、校尉に推挙された。その後、許昌という者が陽明皇帝と称して、子の許韶と反乱を起こしたが、孫堅はこれを鎮圧。
2024/02/04 07:37
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百五十
魏冄は、宰相として、内政のみならず、自身、将軍として戦地に赴き、軍事に優れていた。 しかし、魏冄自身の封地、華陽君羋戎、高陵君・涇陽君等を富ませるための戦役…
2024/02/04 05:43
【劉邦】
評価:90点/作者:宮城谷昌光/ジャンル:歴史小説/出版:2015年 『劉邦』は、2015年に出版された、宮城谷昌光氏の中国史小説である。 本書の主人公、…
2024/02/03 00:42
8-10-5 大清帝国の完成
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成5五族の中国秘密主義ときびしい弾圧をもって、皇帝独裁の体制を確立することにっとめた雍正帝は、在位十三年にして、にわかに世を去った。円明園の離宮で、急死した。恐怖の親政体制を樹立した雍正帝の急死は、巷間(こうかん)に帝の暗殺説がみだれとぶ一幕をもくわえたほどである。秘密の恐怖が生んだ謎の死は、帝の最期にふさわしいといえよう。密建の法により帝位についたのは、帝の第四子、そのとき二十五歳の高宗乾隆帝であった。康熈・雍正と二代にわたる基礎がためのあとをうけた、青年皇帝の本領は外征にあった。乾隆帝の在位は、六十年にわたった。帝は、祖父康煕帝の在位をこえてはと、みすがら帝位を嘉慶帝にゆずったのである。しかし上皇として、なお四年にわたり、実権を行使し...8-10-5大清帝国の完成
2024/02/01 15:39
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十九
昭襄王は、それを聞き、范雎を迎え入れて、まず、詫びると、「私は、早くから、先生の教えを乞おうと思っていた。 謹んで、主客対等の礼をもって、お話を賜りたい」と…
2024/01/29 01:48
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十八
楚の春申君は、昭襄王の楚の討伐に対し、上書した。春申君は、現在の天下においては、秦と楚より、強い国はない。 昭襄王は、楚を討とうとしているが、秦と楚の戦いは…
2024/01/28 06:07
8-10-1 北京の激動
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年10大清帝国の完成1北京の激動北京の春は、黄塵とともにおとずれる。遠くモンゴルの砂浜で天空たかく舞いあがった黄塵は、風にのって長城をこえ、黄雲となって北京城の空をおおいつくす。城内はたちまち夕闇と化し、ともすあかりもさだかではない。舞いおりる黄土は道ゆく人びとの衣服をそめ、茶褐色の足あとを地上にのこす。それは砂というより黄粉というにふさわしい。それが春を告げる足音と知りながらも、黄雲におおわれた一瞬、人びとの心のなかには、一沫の不安がよこぎる。北京の春からは、世界一とうたわれる澄みきった秋空は、夢想だにできない。崇禎十七年(一六四四)三月十八日、北京城は、一瞬にして暗い不安につつまれてしまった。春を告げる黄雲が、西北の空から北京をおおったためではない。不...8-10-1北京の激動
2024/01/28 03:37
【小学生でもわかる世界史】感想・レビュー
はじめまして、はるパパです。 さて本日は、コチラの本をご紹介します。 『小学生でもわかる世界史』 中学受験の時事問題、見
2024/01/22 22:15
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十七
楚軍は、秦軍の猛攻に反撃できず、撤退した。 秦軍は、長距離を直行し、迅速に漢水流域の要地鄧城を攻め取った。 白起は、秦軍を率い、楚の別都である、鄢城へ向かっ…
2024/01/22 01:38
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十六
「藺相如殿、この愚か者は、貴方の大きな心を知らずに無礼をしてしまった。 この鞭で、気の済むまで、この身を打って下さい。 しかし、貴方に対し、今まで与えた屈辱…
2024/01/21 06:23
8-9-1 後金から大清ヘ
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年9後金から大清ヘ1女直族(ジョチョク族=北方民族の一派)の怒り第一の恨み、理由もなく、わが父や祖父を殺害したこと。第二の恨み、たがいに国境を越えないと誓いあった約束をやぶったこと。第三の恨み、誓いをやぶった越境者を処刑した報復に、わが使者を殺し、威嚇(いかく)したこと。第四の恨み、われとイェヘ部族の娘との結婚をさまたげ、その娘をモンゴルに与えたこと。第五の恨み、国境ちかくでわが女直の民がつくった穀物をとらせず、追いはらったこと。第六の恨み、悪らつなイェヘ部族を信用して、われらを侮辱したこと。第七の恨み、天の公平な裁きにそむき、悪を善、善を悪とする不公平をおかしたこと。一六一八年の四月十三日、アイシンギーロ(愛新覚羅)・ヌルハチは、この「七大恨」を大書し、...8-9-1後金から大清ヘ
2024/01/21 05:07
8-8-5 和議の決裂と再征
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻5和議の決裂と再征わが慶長元年(一五九六)九月一日、明の暦では万暦二十四年九月二日、秀吉は大坂城において、明朝の勅使を引見した。秀吉をはじめ、いならぶ諸将は、いずれも明の皇帝から贈られた衣冠をつけて、得意の面もちである。秀吉にしてみれば、待ちのぞんでいた明朝の勅使であった。それも、わが要求をみとめてわざわざ派遣されてきたもの、と考えたに違いなかった。勅書の奉呈はぶじに終わった。秀吉はいよいよ満足であった。ただ明使の「楊・沈が関白に見ゆるや、卑屈の状は言うに堪えざるものがあった。これは随行の者が帰ってから、ひそかに人に語ったところである。ゆえに、小人は重用すべからずということを、まさしく知った。」明国の記録(両朝平攘録)は、このように伝えて...8-8-5和議の決裂と再征
2024/01/18 04:11
8-8-2 日本軍の進撃
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻2日本軍の進撃日本軍が海をわたって攻めよせることは、もはや明らかであった。朝鮮は南方の防備をかためて、進攻にそなえた。また李舜臣(りしゅんしん)を登用して、水軍をひきいさせた。しかし朝鮮の官界は、このところ党争にあけくれ、軍備をおろそかにしている。すぐれた将軍がいない。兵員が足りない。しかも将兵をやしなうに足るだけの糧食のそなえがない。よって各地から、あらたに人員や物資の徴発をおこなった。にわかの徴発であったから、人心は動揺した。形だけの軍隊はととのえたものの、訓練もじゅうぶんでなく、役に立つかどうか、あやぶまれた。あけて宣祖の二十五年(一五九二)は、明の万暦二十年、日本の文禄元年にあたる。その四月十三日(明の暦による、日本暦は十二日)、...8-8-2日本軍の進撃
2024/01/16 15:28
8-8-3 日明の和平交渉
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年8日本の朝鮮侵攻3日明の和平交渉朝鮮の敗報は、しきりに明朝に達している。さらに援軍の要請もとどいた。しかし、はじめ明朝では、日本軍の進撃があまりに迅速なので、朝鮮が案内をしているのか、と疑ったほどであった。いかにすべきか。明朝でも議論が百出した。ある者はいう。江南より海軍を発して、日本の虚をつくべし。また、ある者はいう。琉球や暹羅(せんら=シャム)などの国から兵をつのって、日本を征せよ。これらは積極論である。ところが、朝鮮を見すてよ、と主張する者もあった。遼東に兵をだして、かたく国境をまもれ、というわけである。さらには日本と和をむすんで、戦争をさけようという者さえあった。じつは、このとき明朝は、西北辺においてモンゴル人の反乱になやまされていたのである。黄...8-8-3日明の和平交渉
2024/01/16 15:27
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十五
藺相如は、終始、上述の様にして、機転を利かせ、常にやり返したので、最後まで、秦は、趙を格下扱いに出来なかった。 藺相如は、趙へ戻る際も、警戒を怠らなかったの…
2024/01/15 00:45
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十四
藺相如は、胆力と知恵だけを武器にして、強国の秦に対し、一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子を保った、まさしく、「完璧」な対処と言える。 なお、中国語では、「…
2024/01/14 06:20
8-6-5 人民の怒り
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年6銀をめぐる波紋5人民の怒り成化二年(一四六五)三月、いまの湖北省にあたる荊襄(けいじょう)地域で、流民が蜂起した。万貴妃の横暴はなはだしかったころのことである。流民を指揮したのは、河南生まれの劉千斤という人物であった。本名を通というが、その昔、重さ千斤の石を片手で持ち上げたことから千斤と号したという。よほどの力自慢であったにちがいない。日日の生活に苦しむ流民たちは、この劉千斤を首領として蜂起した。ときに、おなじく衆を集めていた石龍も、これに呼応した。四万あまりの流民が、これにしたがったという。劉千斤は、漢王を名のり、徳勝と年号をつけた。政府は、流民が蜂起したとの報に、京師ならびに諸道の軍を動員してこれを攻め、劉千斤らの本拠にせまった。このため劉は、陝西...8-6-5人民の怒り
2024/01/08 07:59
8-7-1 李成桂の登場
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年7李氏朝鮮の建国1李成桂の登場元から明(みん)への交替にあたって、高麗(こうらい)は大きくゆれ動いた。元朝が倒れたといっても、それは中国の支配をうしなったに過ぎない。元朝そのものは、なおモンゴル本土において余勢をたもっている。いったい高麗としては、そのまま元朝に属しているべきか。あたらしく興った明朝に属すべきか。それは高麗にとって、国家の死活に関する大問題であった。十三世紀の後半(一二六〇)から、高麗は元朝の属国となっている。その国王は、モンゴル皇帝の臣下として、その皇女をめとり、その問に生まれた子が、つぎの国王に立った。そして生涯の大半は元の大都(北京)に住み、モンゴル人の服装をして、モンゴル名さえ持っていた。元朝の命ずるままに、廃位されたり、復位した...8-7-1李成桂の登場
2024/01/08 06:01
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十参
繆賢は、藺相如の言が、正しいと考えため、自身の去就に狼狽した。 藺相如は、更に繆賢に対して、自ら、処刑台に乗って、進んで、恵文王に罰を請えば、許されるかもし…
2024/01/08 01:09
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十弐
紀元前285年、昭襄王は、蒙武を登用し、斉に侵攻した。 また、蜀侯の綰に謀反に疑惑が、持ち上がったため、綰を誅殺した。 以降、蜀には、侯を置かず、蜀郡郡守を…
2024/01/07 06:07
『上海セピアモダン―メガロポリスの原画」 森田 靖郎
「上海セピアモダン―メガロポリスの原画」は、「魔都」と呼ばれた怪しくも蠱惑的な都市・上海の魅力に迫る一冊です。 上海の誕生から、戦争中や文革まで、現代史とともにモダンな上海をお楽しみください。 魔都上海の歴史 上海では阿片戦争後、外国の租界
2024/01/05 11:49
【歴史小説を描いてみた!?】三国志 第二話① 黄巾の乱鎮圧
張飛は激高し、刀を振りかざし、董卓に斬りかかろうとしている。この董卓、字は仲頴といい、河東郡の太守である。「あの者は、おかみに仕える役人だ。やめるんだ、翼徳!」「玄徳兄者、あんな奴を生かせておけば、この先、あいつに従わねばならん!俺にはそんなことはできん!兄者たちがここに留まるなら、俺は出て往く!」
2024/01/05 06:24
【歴史小説を描いてみた!?】三国志 第一話⑨ 盧植の代わりの新任董卓
「おぉっ、玄徳・・・。」「盧植先生!これはいったい・・・。」「わしは、張角を取り囲み、追い詰めるところまではいったのだが、どうしても打ち破れずにおったのじゃ。このような大事な時に、朝廷から黄門の左豊が軍事視察に遣わされ、わしに賄賂を求めてきよった!」
2024/01/05 06:23
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十壱
白起は、伊闕の戦勝の功によって、国尉となった。 同年,白起は、韓・魏の伊闕の戦いの惨敗を利用し、兵を率いて、黄河を渡ると、安邑の東側の乾河等の広大な領土を占…
2024/01/01 01:26
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百四十
その後、前述の通り、孟嘗君は、讒言によって、昭襄王に謀殺されそうになったために、紀元前297年、食客の力を借りて、斉に逃亡した。 その時の逸話が、「鶏鳴狗盗…
2023/12/31 06:00
8-5-2 宦官と内閣
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年5暗雲こめる大明2宦官と内閣「永楽年間の宦官は、五府(軍事機関)、六部(りくぶ=行政機関)に派遣されると、府部の役人から一丈はなれてあいさつし、路上で公侯にあえば、下馬して道をさけた。のちの王振、汪直、劉瑾のころには、府部の役人をじぶんの配下の者のように呼びつけ、公侯と路上であえば、公侯らがさけるようになった。まことに主客転倒もはなはだしいというべきか。」洪武帝は創業の功臣を一掃した。永楽帝は一族の諸王を無力化し、宦官を皇帝の耳目や手足とした。こうした皇帝独裁の体制の確立がまねいたものは、宦官の横暴というおきまりのコースである。王振、汪直、劉理らは、これを代表する明代中期の有力な宦官であった。永楽帝をついだ洪煕帝は在位わずか一年で世を去り、子の宣徳帝が五...8-5-2宦官と内閣
2023/12/30 15:15
8-4-2 オイラート
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興2オイラート土木の変の当時、エセンはモンゴル最大の実力者ではあったが、カン(汗)ではなかった。モンゴルの伝統においては、チンギス汗の子孫でなければ、カンとして認められなかったのである。ましてエセンは、モンゴル人ではあったが、そのなかでも傍系と見なされたオイラート部の出身であった。オイラート部というのは、モンゴル高原の西北部を本拠としていた部族である。十三世紀の初め、チンギス汗の配下に入り、モンゴル帝国の一翼をなした。しかも当時から四つの万戸を編成したほどに、有力な部族であり、モンゴル帝室とも婚姻を通じていた。さて元朝が、中国を追われてモンゴル高原にしりぞいた後、順帝(元朝最後の朝帝)の子どもはカラコルムに拠って、なお大元の皇帝を袮していた...8-4-2オイラート
2023/12/23 12:26
8-4-1 モンゴルの復興
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年4モンゴルの復興1捕われた皇帝一四四九年といえば、永楽帝が世を去ってから二十五年、洪煕(こうき)・宣徳(せんとく)の二代をへて、英宗の正統十四年になっている。英宗すなわち正統帝は、まだ二十歳のわかさであり、その側近にあって権力をふるっていたのは、宦官の王振であった。このころ明朝にとって、もっとも大きな問題は北辺にあった。モンゴルに英雄エセンがあらわれて、東は中国の東北地方(満州)から、西はトルキスタンにおよぶ大版図をひらき、しばしば明の辺境にも入冦(にゅうこう=侵入)していた。これに対して明朝は、むしろエセンを挑発する態度をとる。怒ったエセンは、正統十四年の七月、大軍を四手にわけて、明の北境一帯に進攻した。エセンのひきいる本軍は、大同にむかった。大同が侵...8-4-1モンゴルの復興
2023/12/22 06:07
8-3-1 大艦隊の発航
『アジア専制帝国世界の歴史8』社会思想社、1974年3鄭和の南海経略1大艦隊の発航永楽三年(一四〇五)の初冬、福州にほど近い閩江(みんこう)の江口をうずめるように、六十二隻の大艦隊が碇泊した。ひとつひとつの艦が、また巨大なものである。長さは約一四〇メートル、幅は五八メートルもあって、一隻に四百五十人もの人員をのせることができる。乗組の総員は、二万七千八百余という大勢であった。旗艦には、容姿すぐれた武将が坐乗している。司令長官の鄭和(ていわ)である。雲南の出身で、旧姓を馬といい、父祖三代にわたるイスラム教徒であった。永楽帝がまだ燕王であったころから、宦官(かんがん)として仕え、靖難(せいなん=国の危機を救う)の師をおこすのに功労があったところから、宦官の長官たる太監に任ぜられ、鄭の姓をたまわった。しかも、こ...8-3-1大艦隊の発航
2023/12/14 23:55
キングダム 70巻
「キングダム 70巻」いよいよ韓非子登場。個人的に最も好きなストーリー展開かも。最近、韓非子の言葉に割と心酔してたので、凄く面白い。意外だったのは70巻のみで…
2023/11/21 23:24
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十九
甘茂は、斉に出奔する際に、函谷関にて、蘇代に会い、秦に復帰できるように依頼した。 蘇代は、秦に行き、「甘茂は、非凡の士です。 長く、秦に仕えていたために、秦…
2023/11/13 01:05
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十八
燕の昭王は、斉に攻め込む以前に、将軍の秦開を派遣して、北方遊牧民族の東胡を討った。 秦開は、東胡に人質に出されていたが、その元で東胡の信頼を得て、彼等の風俗…
2023/11/06 01:46
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十七
田単は、千頭の牛に続き、後千の兵が、無言のまま、猛攻をかけ、更に民衆に銅鑼や鐘等、天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。 そのため、燕軍は、大…
2023/10/30 01:55
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十六
楽毅によって、斉の国都、臨淄が占領されると、田単は、東の安平へ逃げ込んだ。 しかし、燕の勢いを察知し、一族の者に馬車を補強させた、燕軍により、安平が、陥落す…
2023/10/23 01:47
諸葛孔明はAB型?
また、陳舜臣先生のお話になってしまいますが、先生は中国史の大家でもいらっしゃいますので、定番の三国志ものも書いておられます。 曹操も題材にしていますが、やはり定番は「諸葛孔明」かなと思います。 www.chuko.co.jp いろいろな方が書かれていますので、立派な書評はそちらに譲るとして、私がこれを読んでまず感じたのは、「ここで書かれている孔明はAB型だよなあ」ということでした。あまり深く考えた末の結論ではありません。理知的でいて、かつ、裏に秘められたパッションを持っている。そんな感じでしょうか? そして、なんとなくこれを執筆された陳舜臣先生もAB型なのではと思ったのですが、それはハズレでし…
2023/10/19 07:48
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十五
郭隗が、昭王に自分に宮殿を与え、優遇させたため、有能な人材を集めることに成功した。 有名な「隗より始めよ」の故事成語の由来である。 なお、趙の武霊王は、燕の…
2023/10/16 02:14
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十四
紀元前288年10月、秦の昭襄王が、西帝を自称した。 そして、斉の湣王へ魏冄を派遣し、東帝を称して、共同で、趙を攻めるように要請した。 斉の湣王は、蘇秦に問…
2023/10/09 01:28
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十参
その結果、函谷関は開かれたため、孟嘗君は、関を抜けると、秦を脱出することができた。 昭襄王の追っ手は、夜明け頃に、函谷関へ着いたが、孟嘗君達が、夜中に関を通…
2023/10/02 01:14
三国志とはわかりやすく解説!三国志とは簡単に言うと「激爆おもしろい」三国志あらすじを超わかりやすく解説3
全世界上でもっともハラハラ・ドキドキ・・・そのファンが最も多いと言われている歴史事象「三国志」。 その解説記事最終章です❗ ライバルたちを全て蹴落とし・・・最大の領土と最高の地位を確立し
2023/09/28 09:29
三国志とはわかりやすく解説!三国志とは簡単に言うと「激爆おもしろい」三国志あらすじを超わかりやすく解説!
内容が全くわからない人も多いハズ・・・そんな人たちに向けて超わかりやすく面白く「三国志」の物語を解説していきます。
2023/09/27 22:35
No.004【中国史の運命を決定した、殷周革命と劉邦の即位】百参十弐
宣王は、弟の田嬰を宰相として、重用した。 田嬰は、後世には、靖郭君と呼ばれる。 田嬰の息子が、田文、即ち、中国史上に名高い、孟嘗君である。 田嬰は、薛に領地…
2023/09/25 01:30
『チャイナドレスの文化史』謝黎
ウォン・カーウァイ映画『花様年華』では、美しく、色鮮やかなチャイナドレスがスクリーンを彩っています。そんなチャイナドレスの魅力にひかれ、チャイナドレスについて調べてみることにしました。『チャイナドレスの文化史』は、チャイナドレスを歴史や文化
2023/09/21 17:14
6-10-2 西夏へ、金へ
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年10大モンゴル2西夏へ、金へ「チンギス汗の名声をきいて、我らはおそれていた。いま、威霊(みいつ)ある汝が、みずからここまで来られて、威霊をおそれた。おそれて、我らタングートの民(西夏)は、汝の右の手となって力を添えよう。しかし、我らは動かぬ住地ある(定住の)、築いた城あるものである。伴(とも)となっても、すばやい出征におもむくとき、するどい戦いをたたかうとき、追いつくことはできぬ。たたかうことはできぬ。チンギス汗よ、恩賜あれば、我らタングートの民は、たくさんのラクダを出して、たてまつろう。毛の糸を織りなして、反物(たんもの)としてたてまつろう。鷹(たか)狩りの鷹をならして、あつめて、そのなかの良いものをささげることにしよう。」西夏とて、過去二百年余りも強...6-10-2西夏へ、金へ
2023/09/20 21:03
6-11-1 悲劇の朝鮮半島
『宋朝とモンゴル世界の歴史6』社会思想社、1974年11悲劇の朝鮮半島1太子の入朝第四代大汗モンゲが四川(しせん)の陣中で病死した頃(一二五九年七月)、その本営たる六盤山(ろくばんざん)をめざして、ひたすら道をいそいでいる一行があった。高麗(こうらい)の太子倎(てん)と、その従者たちである。モンゴル兵の一隊が、これを守っていた。太子の一行は、したしくモンゴルの大汗に謁見するために、降衣をささげて、モンゲのもとにおもむこうとしていたのである。太子が六盤山についたのは、九月の初めであった。ついてまもなく、大汗の死を知った。異常な事態にたちいたって、一行はむなしく六盤山をひきあげた。いま来た道を、ひきかえす。国を出てから四ヵ月半、それも服属をちかうために、半島の都から、川をこえ、山野をわたって、はるばる中国の西...6-11-1悲劇の朝鮮半島
次のページへ
ブログ村 151件~200件